◎ 2014年8月8日 (金) 通貨・国際金融の基礎知識
現代用語の基礎知識2000
「累積債務」「構造調整政策(SAP)」「包括的債務救済措置」「テキラーソ」「サパティスタ民族解放軍(EZLN)」「メキシコの金融危機」「メキシコ・ペソ危機の再燃」「アジアの通貨危機」「ロシアの金融危機」「市場介入」「SDR(特別引出権)」「流動性ジレンマ」「通貨バスケット制」「購買力平価説」「円の国際化」
1981年 ポーランド債務返済不能危機
1982年 メキシコ債務返済不能危機(中南米全域に波及)
1994年 NAFTA施行
1994年 テキラーソ(メキシコ通貨危機)
1997年 アジア通貨危機
1998年 ロシア金融危機
1970年代の世界的カネ余り時代に先進国の資金が発展途上国に流れ込み、80年代の発展途上国の債務危機につながった。
1990年代の世界的カネ余り時代も先進国の資金が中南米や東南アジアに流れ込み、発展途上国の通貨危機につながった。
ただし、投資が、中南米は民間消費に向かったのに対し、東南アジアは輸出産業への直接投資に向かった。
投資が消費にのみ向かうと債務危機に陥りやすい。
テキラーソは、メキシコ国内のNAFTA反対運動で外資が流出したのが発端だったが、当時は先進国経済も好調だったためでもあった。
アジア通貨危機は、自国通貨を米ドル(以下ドル)に連動させる固定相場制を東南アジア各国が導入していたため、円がドルに対し、下落した時に、東南アジア各国の国際競争力が日本に対し弱まったのが原因だ。
97年、タイのバーツは、変動相場制に移行した。
この通貨危機は、韓国やロシアにも広がった。
これらの危機への国際社会の対応は、融資や返済期限延長などの飴と構造改革や歳出引き締めなどの鞭を使う構造調整政策が主流となった。
東南アジアや韓国は、危機によって自国通貨が下がったことで、競争力を取り戻して、景気が急回復した。
現在も世界的カネ余り時代だが、そうなる原因は、先進国の経済低迷にある。
米投資家には、米国債金利が低迷すると、より高い利潤を求めて、暴落リスクもあるが、他国に投資する傾向がある。
こういうカネは、投機的で流動性が高く、ちょっとしたニュースで大きく動く。
変動為替相場制における為替相場には、それぞれの通貨の購買力が等しくなるように決まるという購買力平価説がある。
そのため、変動為替相場制とは、世界各国の国際競争力を等しくするための制度であると言える。
しかし、国内の各産業間の競争力差は考慮されていないため、その是正は各国政府の責任となる。
補助金や地方交付税や公共事業が必要となる所以である。
あるいは、各産業の競争力を調整して差を縮める必要がある。
為替相場の運用面では、自国通貨で他国通貨を買うと自国通貨価値が相手国通貨に対し、下がるようになっている。逆に他国通貨で自国通貨を買うと自国通貨価値があがる。
この時、世界各国は必ず、自国通貨でドルとだけ売買する。
そのため、世界中の全ての通貨の価値は、ドルに対する相対価値として決まるため、ドルは基軸通貨と呼ばれる。
世界各国が、ドルとだけ売買をするから、外国為替市場には、常に一定量のドルが必要である。
無ければ、ドルが買えない状況が発生するからである。
外国為替市場に流通するドルのような国際通貨の数量を国際流動性と呼ぶ。
国際流動性を増やしたければ、米国は自国通貨を海外に流出させなくてはならないが、そうするとドルの価値が下がり、信用が弱くなる。
昔から、基軸通貨は世界で最も経済力のある国の暴落の心配の無い信用ある通貨が選ばれてきたから、ドルの信用がなくなるのは問題である。
これを流動性のジレンマと呼ぶ。
この問題を緩和するために、1970年にIMFがSDRという国際通貨を創設し、流動性を増やそうとした。
現在は、中国が、自国との取引には人民元で決済するように外資に呼びかけている。
人民元のように外国や外資の決済通貨や外貨準備になるのを通貨の国際化と呼ぶ。
日本も80年代以降、円の国際化を目指してきた。
SDRや基軸通貨ドル、国際化の進んだユーロや人民元などは、国際通貨と呼ばれる。
7月のBRICS首脳会議は、新開発銀行と緊急時外貨準備金基金の創設で合意し、60年代フランス財務相は、ドルが基軸通貨であることで米国は法外な特権を持っていると言い、ベルギー経済学者は、一国の通貨に依存する国際通貨システムは本質的に不安定だと指摘しているから、IMFの国際通貨SDRを第二の基軸通貨にすべきだと日経新聞(8/4)に米コロンビア大オカンポ教授が寄稿している。
これについて、日経新聞は、SDRは外貨準備の足りない新興国の最後の貸し手になりうるとしている。
彼らの考えは、つまり、IMFや世界銀行を世界の中央銀行とし、SDRをそこが発行する通貨とし、それを基軸通貨にしようというわけである。
そうすると、外貨準備不足に陥った国にカネを刷っていくらでも貸し与えられるというわけである。
IMF債を創設し、SDRは、それと引き換えたり、支援先の資産を買い取ったりすることで流通することになるだろう。
土地は、国よりも外資に保有してもらった方が、固定資産税や法人税を取れるから望ましい。
資産を担保にしても問題ないというわけだ。
自国通貨がドルよりも価値が下がれば、自国産業は輸出品の値段も下がるから国際競争力が高まる。
各国通貨がドルに対し、安くなっていなければ、自国通貨は、それらよりも安くなり、輸出しやすくなるからだ。
そのため、各国の中央銀行は、政府を通して産業界の要請を受け、自国通貨を基軸通貨ドルと交換する。
これを市場介入と呼ぶ。
通常、外国通貨を買う時は、その国に投資するためだが、この場合の目的は投資ではないから、使い道が無い。
そのため、米国内で最も安全な資産だと思われる米国債が買われる事になる。
現金のまま置いておくよりは、利子が付く分、得だからだ。
市場介入によって、断続的にドルが買われるから、ドルは暴落の心配が無い。
そのため、投資以外に資本流入がないから、暴落の可能性のある他国は、基軸通貨の米国を羨ましく感じるのだ。
市場介入によって米国の国債金利が低下し、米国内の資本が増える。
国債金利が低下すると国内投資に魅力がなくなるから、有り余った米国資本は金利が高い発展途上国に向かう。
発展途上国は、資本流入によって自国通貨高に見舞われるから、自国通貨安にするため、ドル買い介入する。
つまり、米国と発展途上国の間で、資本がぐるぐる回るというわけだ。
発展途上国は、米国資本が国内に流入しても、ドル買い介入しないこともあるだろう。
その場合、自国通貨が高くなり、輸入品が安くなるから、物価が安くなり、内需が拡大する。
この時、自国産業も成長できれば良いのだが、なかなかそうはいかない。
その時、紛争などの小さな事件が国内で発生すると、外資は一気に逃げ出し、インフレになり、政府は債務危機に陥る羽目になる。
ドル買い介入していた国は、価値の高いドルを使って輸入品を買うことができるから、ある程度、金融危機を緩和できるが、せずに好景気を享受した国は、その手が使えない。
また、ドル買い介入で、自国産業の競争力を守ろうとした国は、資本流出で自国通貨が下がった時に、巻き返す力も残っているかもしれない。
発展途上国の場合は、資本流入によるインフレ抑制効果によって内需を拡大しつつも、ドル買い介入をして自国通貨暴落に備え、外資を自国産業の技術力向上とインフラ整備に使うのが望ましいのではないか。
高所得国は技術を持ち、低所得国は低賃金を利用して高所得国から工場を誘致できる。
しかし、中所得国は取り得が無いから、国際経済から取り残される。
これを中所得国の罠と呼ぶ。
しかし、米国の余剰資金は、必ずしも工場建設のためだけに使われるわけではなく、中・高所得国の国債や株などにも振り分けられるから、中・高所得国も低所得国と同じ金融政策を採れる。
ドルが基軸通貨なのは、世界で最も信用があるからで、元々、暴落の心配が無いから、羨ましがられる筋合いは無い。
それどころか、溢れる資金に手を焼いて困っているぐらいなのだ。
アジア通貨危機では、ドル連動が災いしたから、変動相場制では、自国通貨を基軸通貨ドルとではなく、輸出先(または輸出競合国)通貨それぞれに個別に連動させる方が良い。
輸出先の場合は輸出量、輸出競合国の場合は国際競争力で、各国通貨にウェート(重要度)を設定する。
市場介入は、ウェートが高く、通貨が最も安い国に対して優先的に行う。
もちろん、外貨準備は、ドルではなく、輸出先通貨になる。
問題点があるとしたら、ドルよりも多少、通貨暴落リスクが高いくらいのものだ。
こうする事で、事実上、基軸通貨は消滅する。
なぜならば、これまでは、為替取引の際には、各国通貨をドルとだけ交換することにより、各国通貨の価値をドルとの相対価値で決めていたが、これからは、ドルとではなく、直接、他国通貨と交換することで、両通貨価値が決まるからだ。
例えば、円の価値は、ドルとの交換によって、円とドルが為替市場にどれだけ流通することになったかによって決まる。
円でドルを買えば、円は、その分、市場での流通量が増え、価値が下がるが、買い取られたドルは、誰かの持ち物になり、その分、市場から減るから価値が上がる。
このメカニズムで円のドルに対する相対価値が決まる。
同様に、ウォンとドルのそれぞれの市場流通量を調べれば、ドルに対するウォンの価値も決まる。
ドルの価値は一定だから、円とウォンの価値は、それぞれのドルとの相対価値を比較すれば分かるというのが、これまでの方法だ。
これからは、円とウォンが直接交換されるから、交換後の円とウォンのそれぞれの市場流通量によって、双方の価値が決まる。
これは、円に対するウォンの相対価値でもウォンに対する円の相対価値でもない。
世界中の全ての通貨の市場流通量が把握できているならば、それによってどの通貨も絶対価値が決まるから、基軸通貨ドルに対する相対価値は不要になる。
各々の通貨価値が分かれば、為替相場も簡単に算出できる。
その結果、ドルも他の通貨と全く同じ扱いになるというわけだ。
全ての通貨の市場流通量は、現在でも必ず把握できているはずだ。
そうでなくては、基軸通貨との相対価値も決められないからだ。
このドルに依らない通貨価値決定システムは、既に実用化されている。
人民元の国際化により、人民元は、為替取引所でドルを介さずに直接、他国通貨と交換できる。
利点は、アジア型金融危機リスクが小さくなる事と、国際流動性が高まる事と、米国への資本流入が減る事でヘッジファンドの猛威が小さくなる事と、ドルの国際流動性を減らせる事でドルの価値が安定する事と、基軸通貨の恩恵が他の先進国にも分散される事である。
市場介入により、米国以外の先進国へも資本が流入し、ユーロや元や円の価値がより安定することになる。
輸出先通貨が為替取引対象になるという事は、あらゆる国の通貨が国際通貨になるという事である。
しかし、国際競争力の無い国の通貨は、暴落の可能性があるから、国によっては、そうした国の通貨を外貨準備に入れたくないかもしれない。
また、国際流動性とは、為替取引所の保有する国際通貨量の事だから、為替取引所もそういう通貨は保有したくないかもしれない。(ただし、為替取引所が世界各国に支店を持つ銀行なら話は別である)
すると、市場介入にほとんど使われない通貨も出てくるだろう。
市場介入によって得られた外貨は、主に外貨の国の国債に買い換えられる。
もちろん、国債で買い物はできないが、国債を売れば、直ぐに換金できるから問題ない。
自国通貨暴落の可能性のある国は、リスクに応じて米国債をドルに徐々に換金していくのが良いだろう。
しかし、中国や日本など米国債保有率の高い国が米国債をドルに換金すると米国財政が不安定になる。
このリスクを分散するためにも、基軸通貨から複数の国際通貨への移行は望ましい。
SDRを基軸通貨にするよりも、この方が望ましい。
◎ 2014年8月10日 (日) 新人民主義
現代用語の基礎知識2000
『新自由主義
経済成長を達成するためには、政府による経済主導・規制をなくして、経済活動、とくに貿易・投資を自由に放任すべきだとする論、また、そうする政策。IMF、世界銀行の強い要求で、中南米諸国政府は、この路線をとらざるをえない』
『新人民主義
新自由主義のもとで、生活がますます苦しくなる中間層・貧困層の不満にこたえるようなポーズをとって現れてきている政治潮流・体制。一九九八年五月コロンビアの大統領選挙でのサニン元外相(無所属女性候補)の健闘、一二月のベネズエラ大統領選でのチャベス元陸軍中佐の勝利、元ミスユニバースでチャカオ市長をつとめたサエス女史への支持。いずれも、伝統的な二大政党制の打破をかかげ、貧民の味方として政治舞台に踊り出た』
自由主義経済で政治による富の再配分がなければ、通貨価値の国内における不平等性から、貧富格差が拡大するのは当然だ。
しかし、経営者が支持する保守政党と労働者が支持する革新政党のどちらの政党にも参加できていない貧困層のために二大政党制打破を掲げるのは、自由主義経済とは無関係だ。
失業者は、通貨価値の不平等性には無関係だから、自由主義経済で損害を受けるのは中間層だけだ。
ただし、貧困層も中間層と同様に富の再配分を必要としている。
◎ 2014年8月15日 (金) エジプトに雨を降らせる方法
海の湿った空気を風が運んで、山を上り、上空の冷たい大気に冷やされて雨雲ができるのだが、エジプトには山が無い。
そのため、海からの風が強く吹く方向に人工の滑り台を設置し、風をそれに上らせ、上空に吹きつけさせる。
この滑り台は、風が横から漏れにくい筒状であれば、なお良い。
滑り台の高さは、その場の風速を考慮して、雨雲が作られるように計算すべきだ。
筒の大きさは、上になるほど小さくなる円錐状なら、より望ましい。
ピラミッドを台にしても良い。
その場合、筒は、針金で骨組みしたビニール製でも良い。
ただし、山脈が無いから、雨雲が風に流されて、予定外の場所で雨が降る可能性がある。
ピラミッド建設も雨雲を発生させるための山を造るつもりだったのではないか。
砂漠は、海から吹く塩分を含んだ風が、塩を土壌に散布したため、植物が育たなくなったせいではないか。
だとしたら、海岸沿いに風除けを造り、土壌から塩分を抜き取る必要があるが、風の通らなくなった街が蒸し暑くなったり、滑り台に風が来なくなったりする可能性がある。
◎ 2014年8月17日 (日) 権力主義から戦争へのメカニズム
最近の政府動向は、量的緩和と企業の海外から日本への送金に関税を掛けないことで、貧富格差を拡大したこと、消費増税でそれに追い討ちをかけたこと、太平洋戦争中に外国で死んだ兵隊の遺骨収集を推進したことなどだ。
貧富格差拡大と増税では、既得権を持たない人々の生活は益々苦しくなり、経済が悪化する。
遺骨収集をアピールするのは、日本国民に兵隊として戦死しても、墓を作ったりして、死後も政府が味方につくことを伝え、兵隊志願者を募るためだ。
日経新聞(8/5)にも遺骨収集記事がある。
それに引き換え、戦中、ユダヤ人6000人にビザを無断発給した杉原千畝駐リトアニア副領事は、戦後も国から冷遇された。
まとめると、徹底的に既得権者を保護した挙句に、非既得権者には戦死して来いというわけだ。
普通に考えれば、非既得権者が、こんなものを認めるわけが無い。
しかし、非既得権者は、国家や世間からイジメや嫌がらせを受けるのが怖い。
そのため、搾取された挙句に命まで差し出すのだ。
団結には、憲法も民法も刑法も通用しない。
これでは、国家や世間は、国内政治をやりたい放題できるわけで、すぐに行き詰る。
その結果、日本は、30年ごとに米・露・中の三ヶ国相手に戦争する羽目になるだろう。
それが嫌なら、国家や世間の作る団結に立ち向かう勇気が必要だ。
日経新聞(8/12)には、貧困のあまり、その日の食料に困り、フードバンクと呼ばれるNPOに無料で食料をもらっている人々の記事がある。
その食料は、食品会社からの寄付だ。
生活保護の申請をしても保護費をもらえるのは二週間後だからとあるが、彼らの申請が受理される保証は無い。
その裏では、高額商品が売れているのだ。
司馬遼太郎「人間の集団について」に、ベトミンのゲリラが国内各地の村々を嫌がらせや脅迫で無理矢理、仲間につかせようとする様子が記されているが、今の日本は、正に、これだ。
団結は、日本特有の文化ではないということでもある。
IMFが、日本は、消費税を15%にすべきだと言っているのだが、碌なことをしないIMFは消滅させるべきだ。
少なくとも消費税が8%や10%になった時点で日本経済が低迷するようなら、IMFにはトップ辞任などの責任を取らせるべきだ。
◎ 2014年8月19日 (火) 奄美の自衛隊配備は不要
日経新聞(8/12)に奄美に250人規模の地対空ミサイル部隊を配備する計画の記事がある。
中国による南西諸島占拠に備えるためとある。
中国と国境を明確にし、どの島々がどちらの国に属するのかを話し合えば、自衛隊を配備しなくても済むはずだ。
尖閣諸島は無理だが、それ以外の島々なら、それで対応できる。
両国承認の国境が侵害されたのなら、国際社会にも訴えられるし、正当防衛も成立する。
地対空ミサイルといえば、先日、ウクライナでマレーシア航空機が誤爆されたばかりだ。
徒に不慮の戦争が勃発しないようにすべきだ。
◎ 2014年8月20日 (水) 「幸福について 人生論」(2)
ショーペンハウアー「幸福について 人生論」新潮文庫
p.7〜9
ショーペンハウアーは、幸福論を『生きていないよりは断然ましだと言えるような生活』と定義している。
そのための方策として、彼は、苦痛を減らす事と心の豊かさを挙げている。
心の豊かさは、自分の意見や価値観を保持する事が前提であり、そのために社会から距離を置く事を勧めている。
ただし、彼は、この世は生きるに値しないと考えており、この本に書いてある内容は、彼自身の経験に基づいた見解ではあるが、実生活に適用可能かどうかは定かではないと考えている。
加えて、『愚者すなわち数知れぬ有象無象どもは、いつの時代にも一つのこと、つまりその逆をおこなってきたのだが、こいつは今後といえども変わるまい』としている。
世間は、この幸福論の逆の生き方をしているという意味だ。
彼は、社会において幸福に生きようとすれば、これしかないと考えているが、彼自身の知識不足や世間とは逆の人生観という点において、読者にリスクを意識させているのだ。
p.10〜23
個々の人間の違いは、人格と財産と尊敬で決まるとしている。
幸福は、内心の快不快で決まるため、財産や他者からの尊敬などの外部的要因よりも人格などの内部的要因の方が幸福に寄与するとしている。
幸福は、本人が物事をどう解釈したかで決まるため、財産や尊敬なども解釈次第であり、解釈の仕方が重要だという意味である。
考え方次第で財産や尊敬も無価値になったり、他の何かの方に価値を見出す場合もある。
人格と健康が幸福をもたらすのは明白だが、ほとんどの人々は財産と尊敬にしか興味が無い。
『健康な乞食は病める国王よりも幸福である』
『才知に富む人間ならば、全く独りぼっちになっても、自分のもつ思想や想像にけっこう慰められるが、愚鈍な人間であってみれば、社交よ芝居よ遠足よ娯楽よと、いかに引っきりなしに目先が変わっても、死ぬほどつらい退屈は、どうにも凌ぎがつかない』
『他の二つの財宝(財産と尊敬)とは違って、人柄は運命に隷属したものでなく、したがってわれわれの手から奪い取られることがない』
人間が財産と尊敬を求めるのは、精神の貧困と空虚を埋め合わせるためで、有り余る財産は却って人間を不幸にさせる。
名誉と名声は必要だが、位階は財産よりも不要だとしている。
しかし、名誉と名声は、尊敬の内だろう。
相手が持っていない物を自慢して羨ましがらせるのは、財産があればこそ得られる尊敬だ。
社長の葬儀に参列者が多いのは、故人への尊崇というよりは、会社の威光によるものだ。
ブランド衣料や高級レストラン、スイートルーム、グリーン車、ファーストクラスも他人の目を意識した物であり、女は、ファッションセンスやグルメや快適さよりも男の財力に注目しているのだ。
このように、社交界における尊敬は、財産や権力が元になっている。
彼の説は、尤もだが、世間が他の人生観を選べない理由があるとしたらどうだ。
権力主義という主体性を持てなくする障害に阻まれ、人格者になれず、財産や尊敬の人生しか選べないとしたら、彼の説は、皮相的と言わざるを得ないだろう。
彼の説には、権力主義を乗り越えるという前提があるのだ。
それは、これまで述べてきたように権力主義の欠陥を踏まえれば不可能ではないはずだが、大変な事は事実だ。
彼が、これに触れなかったのは、権力主義を知らなかったか、敢えて無視したかのどちらかだ。
◎ 2014年8月23日 (土) 組織のための自殺
日経新聞(8/22)にCDB笹井副センター長の自殺は、スタップ細胞の真相究明を難しくさせるため、あるいは、予算をとるためにスタップ細胞の存在が否定できなかったためではないかとある。
どちらにしても自分が属する組織を守るためだ。
スタップ細胞疑惑が出た時点で、論文が間違っている可能性について少しでも言及していれば、自殺はなかっただろう。
敢えて背水の陣を敷いたのは、予算がなければCDB存続が危ぶまれていたからか。
CDBのために自殺したとするとCDBがなくなると失職の可能性があったからか、あるいは理研に不利な証言をして理研に睨まれるのが怖かったからか。
どちらにしても失業が、ちらついていたのではないか。
優れた研究者といえども再就職は難しい。
原発事故でもキャベツ業者が自殺していたし、警官の拳銃自殺もたまにある。
民間企業以外の職業は、極端に再就職が難しい。
他の可能性としては、会社役員が警察の事情聴取前に自殺するケースがある。
これは、失業を怖れた余りではなく、組織への忠誠心から来た自殺だ。
この手の忠誠心は、どこからやってくるのか。
他には、健康状態が悪かったとか人間関係とか複合的な理由でというのもありうる。
◎ 2014年8月26日 (火) 「幸福について 人生論」(3)
ショーペンハウアー「幸福について 人生論」新潮文庫
p.25『外部だけから襲ってきた不幸が、みずから招いた不幸よりも、平然と耐えられる』
『外部だけから襲ってきた不幸』とは、災難のことで、『みずから招いた不幸』とは、後悔のことだ。
しかし、権力主義者には後悔という観念そのものがないようだ。
そのため、権力主義者の場合は、後悔よりも災難の方を重視する。
実存主義者と権力主義者では、災難と後悔の優先度が逆になる。
p.25『主観的な財宝、たとえば優れた性格と有能な頭脳と楽天的な気質と明朗な心と健康そのもののような頑丈な体格、要するに健全な身体に宿る健全な精神が、われわれの幸福のためには第一の最も重要な財宝である』
これらの内で最も重要なのが、心の朗らかさだとしている。
周囲の状況など気にせずに、朗らかさを維持すべきだと彼は言うが、それをすると周囲から非難の嵐で難しい。
周囲の状況を気にせずに自分の価値観を貫き通した「異邦人」のムルソーが、その典型になるだろう。
心の朗らかさには健康が重要だから、屋外で運動しろとある。
p.30『すべて天才は憂鬱だ』
天才は、悲観的で最悪の事態のために対策を考えるから、不幸を回避する能力に長けているとある。
しかし、最悪の事態が現実に起こりやすいとしたら、その対策を考えるのに楽観主義も悲観主義も関係ない。
辞書では、悲観と厭世観が、ほぼ同義語となっているが、ここでもそのような解釈になっている。
しかし、世の中を軽蔑的に見る厭世観も存在するのではないか。
その場合は、厭世観に悲観が入り込むことはないから、天才は厭世主義であっても悲観主義や憂鬱ではない。
自殺についての考察もあるのだが、陰気や悲観が高じて自殺するとあるのは間違いではないか。
憂鬱な天才の自殺を仄めかしているようだが、むしろ、権力主義との関係を疑うべきだ。
p.34『人間の幸福に対する二大敵手が苦痛と退屈である』
苦痛とは貧困層の困窮のことで、退屈とは富裕層の暇から来る退屈のことだ。
貧困層は困窮のため流浪の生活を、富裕層は退屈のため漫遊観光の生活をするそうだ。
貧困層は、困窮のため労働で暇がなくて退屈にならなくて済むが、富裕層は暇ができて内面の空虚から退屈になる。
内面の空虚は、感受性の鈍さから来ており、苦痛や悲しみに鈍感だとある。
人々は、内面の空虚から刺激を求めて、社交、娯楽、賭博、奢侈で浪費し、貧困に陥るとある。
これを防ぐには、内面の富が必要だとしている。
内面の富を持つには、感受性が必要だとしており、方向性としては芸術家タイプになるのではないか。
あるいは、色々と思索するという点からは、哲学や宗教や文学に向かうだろう。
内面の富を持てば、外部からの刺激や幸福に依存せずに済み、社交が不要になるから孤独な生活が可能になる。
それに対し内面の貧困は、一人になるとみすぼらしい自己と対峙するはめになり、それが嫌で社交に向かわざるを得ないとある。
彼のこれらの洞察にも権力主義が欠けている。
内面の富は、独自の意見が持てて初めて成立するのであり、それを全面的に否定する権力主義に立ち向かえなくてはならない。
それができなくては、内面の貧困に甘んじざるを得ない。
独自の意見を持てて初めて、夢や希望や空想が可能になるのだ。
彼は、内面の富は感受性のことだと考えているが、それだけではなく、因果に基づく道理も必要だ。
道理があって初めて社会問題や現在とは別の社会の可能性について考える事が可能になる。
このような思索も退屈しのぎになる。
p.38『この世では孤独と共同生活とのいずれを選ぶかということ意外に格別の生き方もない』
世の中のいくつかの宗教団体は、社会を自分たちの宗教で塗り替えるという野心を持っているようだ。
また、マルクスのような思想家も革命で社会を造り変える野心がある。
しかし、これまでのところ、それらの試みは全て失敗に終わっており、この意見のとおりになっている。
しかし、権力主義の欠陥から他の可能性がないわけではない。
彼は権力主義の超克は不可能だと考えているが、彼の師のゲーテは「ファウスト」においてその可能性を示唆している。
p.40『彼らは取り交わすべき思想の持ち合わせがない』
彼らの思想は、権力主義だ。
権力主義者は、自らの思想を他人に話す事は自らの命にも係わりかねない極めて危険な事だと考えているから、決して他言しない。
持ち合わせがないからではなく、とにかく、何らかの訳があって話さない。
その結果、誰とでも表面的な会話に終始する事になる。
p.40『トランプの札を取り交わし、互いに金をふんだくろうとする』
彼らにとって重要なのは、トランプではなく、ギャンブルの方だ。
彼らにとって金は非常に重要な物であり、そうであればこそ、ギャンブルに興奮できるのだ。
実存主義者は、退屈や人生に刺激は必要としないし、金も刺激の対象にはならない。
この二つの違いにおいて、実存主義者には権力主義者のギャンブル好きが理解できないのだ。
バンジージャンプやロシアンルーレットなどの命懸けの遊戯も刺激を求めた物だ。
当然、実存主義者には気違い沙汰でしかない。
権力主義者にとって、命と金は等価であり、それらを賭ける事は退屈しのぎの刺激として最適なのだ。
「2013年11月26日 (火) 権力主義」にも書いたが、権力主義者のそうした傾向は、権力主義そのものにある。
権力主義が、個人からやりたい事を剥奪し、やってはならない事とやらなくてはならない事を押し付けた事で、思考と行動の自由度が損なわれた結果だ。
p.41『自由な余暇があってこそ、人間はおのれの自己というものを把持していられる』
ソクラテス以前のギリシャでは、富裕層は奴隷に仕事をやらせて、余暇こそが人間にとって崇高な物だと考えていた。
ショーペンハウアーのこの意見は、それと同じだ。
「働かざる者食うべからず」「爪の垢を煎じて飲ます」これらの一般常識からすると怒られてしまうような意見だ。
ただし、彼も奴隷にだけ働かせて自分だけ余暇を楽しもうとは思っていないだろう。
彼は、困窮のため常に働かざるを得ない境遇を苦痛とし、幸福の対極に置いた。
そのため、退屈でない余暇は、彼にとって幸福だ。
余暇があればこそ、生活を余裕を持って眺める事ができ、社会問題について考える事も可能になるからだ。
また、個人が自由を有していても、時間がなければ、その自由を活かす事はできない。
また、芸術や文学などにも時間が割け、心の余裕も持てるようになる。
p.58では、これを『哲学的な生き方』と呼んでいる。
日常生活で人間らしい振る舞いをするには、心の余裕は必須だ。
もし、社会において誰も人間らしい振る舞いができないとしたら、その社会は崩壊するだろう。
現代は、奴隷がいなくても、洗濯機、炊飯器、冷蔵庫、湯沸かし器、上下水道、ガス、交通機関、流通網などで誰でも余暇が取れるようになった。
しかし、誰もが余暇を退屈と感じ、その恩恵に全く預かれていないのは権力主義のせいだ。
p.41『輸入の必要のほとんどあるいは全然ない国がいちばん幸福な国である』
p.42『幸福はみずから足れりとする人のものである』
東南アジアの某国首脳は、日本を「夢の国」と呼んだが、慢性的な経常収支黒字の事だろう。
ショーペンハウアーも、誰の力も必要としない人間が最も幸せだと言う。
外部の力は、個人では動かしがたいからだ。
今は手の内にある幸福も状況次第では人々が遠ざけてしまう。
だからといって、個人は人々の言いなりになるわけにはいかない。
そうしたが最後、その人は、永久に奴隷になり、幸福も何も全て失うだけでなく、善悪の区別も付かなくなる。
また、既得権がかかっているため権力主義者も権力主義を守るのに命懸けだが、既得権も持たずに権力主義に服従するなら、悪事を働き続けながらも搾取され続け、窮地に陥っても誰も助けてくれないため、その人の人生は必ず自殺で終わるだろう。
この場合の既得権は、法律によるものとは限らず、その主従関係によるものである可能性もある。
それは、文化や慣習に根付いたものかもしれないが、現代社会に適応していないかもしれない。
もし、適応してなかったら、社会は維持できないだろう。
p.60には、自ら充足する人は、他人を必要としないから、他人から遠ざかるようになるとある。
◎ 2014年8月31日 (日) 国家の産業構造
どの国家でも、あらゆる産業を網羅するのが望ましい。
例えば、自動車や電機だけでなく、その部品や素材も作れるようにすべきだ。
しかし、低予算や低技術で参入しやすい産業は、過当競争で利益が出ないため、誰もしたがらない。
しかし、経済が低迷すると、あらゆる産業が過当競争になるため、どの産業が儲かるかは、分からないものだ。
そのため、後からいつでも参入できるようにその産業の知識だけは継承されるべきだ。
では、産業界ではないなら、どこが、その技術を継承するのか。
専修学校や大学などの学校だ。
特に発展途上国には、ほとんどの産業が存在しない。
せいぜい、外資の最終工程の組み立て工場がいくつかある程度だ
発展途上国は、直ぐに起業できる実践的知識を学校教育で継承すべきだ。
具体的には、特許切れ知識教育が簡単だ。
特許切れ知識は、競争力がある上に、誰でも使えるため有用だが、どの大学も目をつけていない。
研究書が足りないなら、翻訳を推奨すべきで、それが面倒なら、自国語を英語に替えるべきだ。
その国が有する企業は、その国の主権の源だ。
経済的自立が果たせてこそ、主権国家と呼べるからだ。
外国からの融資が欲しくて、言いたいことも言えないような国は主権国家ではない。
◎ 2014年9月1日 (月) 「幸福について 人生論」(4)
ショーペンハウアー「幸福について 人生論」新潮文庫
加島祥造「タオ 老子」筑摩書房
p.42『輸入国を従属的な地位に立たせ、危険をもたらし、不満を生じ、しかも結局は自国の土地でできた生産物の埋め合わせにはろくすっぽならない』
「2014年6月28日 (土) 国ごとの通貨の意味」に説明した事と同じだ。
経済を質に取られ、主権を保てない国は、実質的に従属国だ。
p.43『大抵は邪悪が人間世界の支配権を握り、愚昧が大きな発言権をもっている』
社会は、権力主義で満たされているという意味だ。
p.44『それに必要な条件は独立と余暇とである』
他者によらず、自分自身で充足できるためには、独立と余暇が必要としている。
独立とは、主体性の事だ。
つまり、実存主義の事だ。
p.45『対外的な利益を得るために体内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、すっかりとまではいかなくてもその大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。けれどもあえてこれをなしたのはゲーテであった。私個人は、自分の本性のままに断固として別の道をとってきたつもりである』
ショーペンハウアーは、ゲーテは主体性をわざと失い、権力主義者になったと言う。
しかし、「ファウスト」を読む限りでは、実存主義の未来を信じるとまではいかなくても、可能性はあると考えていたようだ。
ショーペンハウアー自身は、この幸福論に沿って生きてきたと自負している。
安静とは心の余裕、余暇とは主体性実現のためのプライベート時間の事だ。
人間が主体性を失くすのは、団結に対する恐怖心からであり、カネや名誉のためではない。
p.45『人間の幸福は自己の優れた能力を自由自在に発揮するにある』
「史記」の「老子伝」には、「良賈は深く蔵して虚しきがごとし」とあり、優れた商人が万引き防止に商品を店の奥に置くように賢者は自己の能力を隠すものだとある。
不用意に自己の能力や所有物などを他人に見せると何もかも万引きされるという意味だ。
そのため、自己の能力を発揮すると世の中は盗賊だらけになる。
世の中が盗賊だらけになれば、盗賊こそが正しい生き方だと世間に認識される。
しかも、この盗賊団は、力ずくで奪おうとする強盗団だ。
万引きされた品は、その後、富者の既得権や富となり、生活困窮者を虐げる道具となる。
「老子」の「第59章 何にでも負けなくなる」にも、『社会や国が、君のエナジーを要求しはじめる!早く、もっと使えとそそのかして止まない。もし君が、途中で気付いて君のエナジーを乱費しなくなったら、君はすぐ、復活する』とある。
ここでのエナジーとは、能力や才能の事だ。
「第38章 徳−大きな愛」の徳(テー)は、物事の流れの事だ。
道理が、一定の方向性を持った思想体系であり、それが現実に合致している場合には、現実にも川の流れのような法則が存在するはずである。
この流れに逆行するような生き方をすると大変な人生になるというのが、老子の要諦だ。
分かりやすく説明すると、万有引力の法則が道(タオ)で、実際に物体が地面に落下する現象が徳だ。
重力に逆らって立つよりも寝ている方が楽となる。
訳書では、道がエナジー、徳がパワーと訳されている。
直訳すると、エナジーは力の源、パワーは力だ。
エナジーは、章によっては、意味が異なる。
訳書では、エナジーには生命力や気力などの意味も込められている。
ニュートンが観察によって万有引力を発見したように老子も観察と思索と経験によって社会法則を発見したのだ。
権力主義は、社会法則ではなく、人間が作った社会通念だ。
権力主義が人間の生き方に向いているなら、権力主義に反対する人はいないはずだ。
老子には、思想や雑多な知識が書いてあり、般若心経のごとく、文学的要素よりも論理的要素の方が大きい。
名の無い領域や才能などの記述は雑学であり、老子の中では重要ではない。
名の無い領域と般若心経の空は、全く同じものだ。
「第77章 能力や才能を見せつけない」には、『道の深い大きな働きはいつも、ありあまる所から取り去り、足りない所にくばるのだ。ところがどうも、人間のすることは違うんだ。世の中、足りない所はますます足りなくなり、余っている所には益々溜まる』
所有権を主張し、分け合わないのは、愚かしい場合もある。
例えば、図書館は、所有権を放棄し、市民に分配しているが、誰も損していない。
正当な報酬を支払う事と分け合う事とどちらが正しいかは、ケース・バイ・ケースだ。
その場その場で一人一人や全体の損得や事情を考慮して決めるのだ。
しかし、世の中は、それが分からない人だらけだ。
所有権を主張することしか知らない人々とは、早々に絶交する事を勧める。
p.46『能力の元来の使命は、周囲から迫ってくる困難と闘うにある』
能力とは、身を守る術というわけだ。
p.47『不名誉きわまる罪悪たる大掛かりな運勝負』
ギャンブルの事だ。