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◎ 2014年7月8日 (火) スピノザ・デカルト・ヘーゲル・三木・ホッブズ

フランシス・ジャンソン「革命か反抗か」
『へーゲルの弁証法は、「人間の国と神の国が一致する」時期を最高の総合としている。だからスターリンは「ヘーゲルの精神的な子孫」の一人となり、コミュニスムは本質的に、人間と神を等しくさせ、「地球をもって人間が神となる王国」とし、「最後に人間の宗教をつくる」とほうもない企てとなる。またこのことからどれもこれもヘーゲルの罪だ−マルクスの罪である以上に−と結論することもできるだろう。こうやって元をたどってゆけば、最後にはきっと真犯人はつかまるだろう』

スピノザ・・・オランダのユダヤ系哲学者。デカルトの方法をさらに徹底させ純幾何学形式によってその体系を組み上げた。永遠で絶対な自己原因としての神が唯一の実体であり、唯一の存在である(一元論)。すなわち、神即自然(汎神論)。この神の属性中、われわれの認識し得るのは思惟(意識)と延長(拡がり)との二つだけで、世界の万物はこの2属性の諸様態にほかならない。この様態の世界では一切は厳密な必然性に従って生起し、同じく思惟・延長の2様態の合一体としての人間にもまた自由意志というものはあり得ない(決定論)。真の自由は知的観照を通じてこの必然性を「永遠の相の下に」洞察することにあり、これが神に対する知的愛であり、最高の善であるとする。著「エチカ」「知性改善論」「神学政治論」など。(1632〜1677)

延長・・・[哲]物体が、空間の一定部分を占めている性質。デカルトでは物体の本性は延長、精神の本性は意識であり、スピノザでは意識と延長とは唯一の実体の二つの属性である。

自己原因・・・[哲]自らが自己の存在の原因となっているもの。典型的例はスコラ哲学者の神やスピノザの実体(神)で、他者に制約されず自己の本質に基づいて存在している。自因。

決定論・・・[哲]自然的諸現象、歴史的出来事、特に人間の意志は、自然法則・神・運命等によって必然的に規定されており、従って意志の自由や歴史の形成を主張するのは右の決定的原因を十分に知らないためとする立場。

主知主義・・・[哲]道徳的なものを理性から導き出し、行為を理性的洞察によって律しようとする立場(ソクラテス・アリストテレス・トマス=アクィナス・スピノザ・カント・ヘーゲル)。

自愛・・・[哲]人間が自然状態において持つ自己保存の傾向。ホッブズやスピノザは、これを人間の行為や善悪の基礎とする功利主義的な立場をとる。

同一哲学・・・物質と精神、主観と客観とは本質的に異なった実体ではなく、一つの絶対的実体の現れ方の差で、実は同一であるとする哲学。スピノザ・シェリングの哲学。同一説。

スピノザにおける『神』とは、真理の事である。
彼は、人間が認識できるのは、思索(思惟)と観察(延長)によるものだけであり、真理は認識できないとする。
これは、主観的観念論である。
また、彼は、世界に真理が存在する以上、人間は、その真理に従うべきであるとし、人間の自由意志を認めない。
しかし、これは、人間に思索と観察を通して真理が認識できる事が前提になっている。
彼にとっての真理とは、彼の主張である主知主義と自愛から分かるように、自分の命を大切にする人間は他人の命も大切にするという理性である。
この場合の理性とは、思索と観察を通して世界から入手した真理の事である。
彼は、人間の自己保存の性質を真理と考え、それを道徳の基本としているのである。
このように思索と観察を通して真理を追究し、それを人生に反映させる姿勢を彼は知的愛と呼び、最高の善としているのである。
スピノザのこのような考え方は、ほぼ実存主義である。
ただ、人間は思索と観察を通して真理を理解できるとしている点だけが間違いであり、自家撞着している。
これを認めると主観的観念論の反対の客観的観念論になる。
人間に真理が認識できれば、人間は他人にその真理を強制できるようになる。
しかし、その真理を認めない人間は、その真理を受け容れたくない。
キルケゴールは、キリスト教を、カミュは、マルキシズムを否定した。
人間には真理を認識できないとした時にのみ、人間は『真の自由』を入手できるのである。
その場合は、他人への思想強制を可能とする決定論や同一哲学は無効になる。
人間が入手した真理は、その正しさの証明が不可能である事から個人的なものであり、万人に強制できるものではないという意味である。

デカルト・・・フランスの哲学者。近世哲学の祖、解析幾何学の創始者。「明晰判明」を真理の基準とする。あらゆる知識の絶対確実な基礎を求めて一切を方法的に疑ったのち、疑いえぬ確実な真理として「考える自己」を見出し、そこから神の存在を基礎づけ、外界の存在を証明し、「思惟する精神」と「延長ある物体」とを相互に独立な実体とする二元論の哲学体系を樹立。著「方法序説」「第一哲学についての省察」「哲学原理」「情念論」など。(1596〜1650)

デカルトは、思考する意識と視覚可能な物体が世界を構成していると考えた。
スピノザは、それを発展させて、思索と観察による真理(原理)の追究を提案したのである。

三木清「哲学入門」
『我々の行為はつねに環境における行為であり、環境に適応してゆくことによって我々の生命は維持されるのである。それ故にすべての行為は生命価値をもったものであり、功利的なものである。スピノザのいった如く、すべての個体はその存在において能う限り持続することに努めている』

これは、自愛の事である。

三木清「語られざる哲学」
『カント哲学は、哲学は自己を顧みない論理的遊戯であり、情熱を否定する概念的知識であるところにそれの本質を有すると考えた私の無智な誤解を一掃した。なぜならば、理性とは真の自己そのものであり、無限にして永遠なるものを憧がれ求める情熱の源となるようなものであるから』

これは、哲学と人生の一致を示したものであり、語源的な意味での実存主義である。
更に、実存主義には、いくつかの性質がある。

三木清「認識論」
『真理も第一次的には存在そのものに属し、第二次的に人間の認識の性格であるに過ぎない。そしてスピノザはいう、あたかも光が自己自身と闇とを共に顕わにする如く、真理は自己自身と虚偽との標準である』

『ヘーゲルも同じ思想であったばかりでなく、むしろ彼は人間的理性と神的理性との同一を説くことによつてそれらの諸点を極端にまで押し進めた』

三木は、スピノザを主観的観念論者とみなしている。
『虚偽』とは、人間には真理を認識できないという意味である。
しかし、スピノザの影響を受けたヘーゲルは人間は真理を認識できると考えている。
スピノザの自家撞着がヘーゲルやマルクスのような客観的観念論者を生み出したわけである。
また、一般的にもスピノザは客観的観念論者とみなされている。
三木哲学は、スピノザと西田幾多郎とカントによって構成されていると「語られざる哲学」にある。

二諦(にたい)・・・〔仏〕(諦は真理の意) 究極的真理である真諦(第一義諦)と言語によってそれを表現した俗諦(世俗諦)。特に中観派(ちゅうがんは)によって主張された。

竜樹の二諦説は、真理とその認識は別物だという意味であり、主観的観念論のことである。

ホッブズ【Thomas Hobbes】
イギリスの哲学者。自然主義・唯物論を国家・社会にも適用した。自然状態では人間は万人の万人に対する闘いの状態にあるが、相互の契約によって主権者としての国家を作り、万人がこれに従うことによって平和が確立されることを説く。主著「リヴァイアサン」。(1588〜1679)

ホッブズは、平和のために人間は国家に従うべきだと主張する。
しかし、人間にはどうしても守れない契約もある事を彼は見逃している。
彼自身が掲げる自愛主義に反する契約もあるはずである。
また、誰しも、社会の決まり事の多くは同意した記憶が無いに違いない。

もう一つの彼の過ちは、人間は国家がなければ、我欲のままに、他人と闘争するとしている点である。
仏教にも、我欲の根源である煩悩をなくせとある。
東洋と西洋には、人間は我欲のままに生きるから人生に苦しむという発想があるのだ。
しかし、実際には、ほとんどの人々は、団結して生活しており、我欲どころか団結に雁字搦めに縛られて身動きできない状態である。
実質的に我欲など入り込む余地はないのだ。
そのため、国家による法的な個人の拘束などあってもなくても同じである。
それどころか、法律が作り出す既得権によって、集団間の闘争は一段と激しくなるくらいである。
つまり、ホッブズや釈迦は、ただの世間知らずである。
人間の苦悩の根源は、我欲や煩悩などではなく、個人の意見を持てなくする団結である。




◎ 2014年7月14日 (月) 「幸福について 人生論」(1)

ショーペンハウアー「幸福について 人生論」新潮文庫

孤独な生活が幸福だと書いてある。
ショーペンハウアーには、ウパニシャッドや仏教の空観の知識もある。
ニーチェの「ツァラトストラかく語りき」は、ショーペンハウアーの著書を非難の対象としている。
ショーペンハウアーとニーチェの孤独に対する意見の違いは、人生経験の差である。
権力主義者や社会についての知識が不足している人には、ショーペンハウアーの人生観は容認できない。
自らの経験において、それらの知識を身につける事が彼の説を容認できるための前提である。
しかし、彼自身は、それらの知識をあまり持っていない。
実存主義者にとって権力主義者との会話は非常に疲れるものであり、人間とうんざりするほど付き合うと孤独へと向かうことになる。
この本の原題は、「処世訓」であり、人生論ではない。
人間の生き方についての助言や考察である。
彼には、権力主義の知識があまりないから社会認識が間違っているにしても、物事の考え方の勉強にはなるだろう。
彼の主著は、「意志と表象としての世界」であり、この本は、そのおまけだそうだ。




◎ 2014年7月19日 (土) 死に物狂いと命懸けの違い

死に物狂い・・・死んでもかまわないという気持で懸命に物事に当ること。必死。しにぐるい

命懸け・・・生命を失っても構わないというさま。死ぬ覚悟ですること

芥川龍之介は、生活のため、ネタ切れにも拘らず、必死で文章を書き続けた。
日経新聞を読んでいても、某作家や某漫画家が、あるいは生活のため、あるいは何かのために歯軋りしながら、あるいは寝る間も惜しんで執筆していると書いている。
これらの告白が、読者にこうした姿勢で仕事に取り組めという強制の意味を持つとしたら、あるいは、そうしない人々への当て付けや非難であるとするなら、彼らは権力主義者だと言わざるを得ない。
権力主義とは、強制や団結の事だからである。
それに引き替え、反戦論者の態度は、従軍しろという命令に対する抵抗である。
芸術家の態度が死に物狂いであり、反戦論者のそれが命懸けである。
死に物狂いは、必ず何かをしなければならないが、命懸けは何もしなくても成立する。
そのため、実存主義の立場からすると、両者の意味は正反対となる。
死に物狂いに仕事をしている芸術家達は、権力主義者である。
強制する事も強制されて従うのも同じ権力主義だからである。
彼らには、実存主義と権力主義の区別がついていないのである。
もし、権力主義に反発するのであれば、もっと哲学的に研究し、その結果に忠実に行動すべきである。
なぜ強制や団結が悪いのか、その理由をしっかり考えるべきである。
口では実存主義と言いながら、行動では権力主義では情け無い。
殺されてでも反対しろとまでは言わないが、一緒になって強制するようでは行き過ぎだ。

誰も社長の横に座りたがらないのは、遠慮してるからではなく、上座、下座という席順の社会常識があるためだ。
クリエーター発言は、常識外れや的外れで危険だ。




◎ 2014年7月21日 (月) イスラエルとパレスチナ

広辞苑
現代用語の基礎知識2000
日経新聞(7/15,19)

ヤコブは、夢で天使と戦って、神から「神と争う者」を意味するイスラエルという名を与えられた。
ヤコブの子孫に率いられたイスラエル民族は、当初、パレスチナに住んでいたが、エジプトに移住した。
モーセは、民族を率いてエジプトからパレスチナに戻った。
サウル、ダヴィデ、ソロモンと王家が続いたが、イスラエルとユダに国が分裂し、両国とも滅びた。
イスラエル人は、欧州各地に散らばり、ゲットーで生活していた。
彼らは、ユダヤ教で団結し、キリスト教徒からユダヤ人と呼ばれた。
1917年、イギリスのバルフォア外相は、ユダヤ人のパレスチナ帰還支持を表明する。
第二次世界大戦後、イギリスが撤退したパレスチナにユダヤ人は、イスラエルを建国し、パレスチナ人は周辺国へ離散した。

イスラム教には、9割を占める最大派閥のスンニー派とシーア派で主に構成されている。
スンニーは、慣習を守る人々という意味である。
スンニー派はムハンマドを支持し、シーア派は彼の従弟のアリーを支持している。
ムスリム同胞団は、スンニー派のイスラム原理組織であり、イスラム教国建設を目標としている。
ハマスは、パレスチナのムスリム同胞団過激派であり、イスラエルに対立し、占領地からの撤退を要求している。
イスラエルに対立する他の過激派としては、同じパレスチナのファタハとレバノンのヒズボラがある。
ファタハ出身のアラファトは、イスラエルを国として承認していた。
シリアとイラクを統一し、イスラム国建設を目指している反政府組織(イラク・シリアのイスラム国)もスンニー派である。
イスラム国が建国されるとイスラエルには都合の悪い事になるだろう。
エジプトのムスリム同胞団出身モルシ大統領が失脚したのは、イスラエルに都合が良かった。

第三次中東戦争(1967年)で、占領したヨルダン川西岸(ヨルダン領)、ガザ地区(エジプト領)、シナイ半島(エジプト領)、ゴラン高原(シリア領)の返還に応じない大イスラエル主義も両者の対立を根深くさせている。
パレスチナは、ガザと西岸を領土としており、経済的にはイスラエルに依存している。
西岸はファタハが、ガザはハマスが支配している。
和平の糸口は、イスラエルの占領地撤退とイスラエル、パレスチナ両国を両国と周辺国が国家として承認する事にある。
しかし、両国や周辺国の腹の内は分からない。
イスラエルとしては、占領地を明け渡す事で弱気な姿勢を見せると周辺国が襲い掛かってくる可能性も考慮しなくてはならない。
これは、第一次中東戦争でイスラエル独立と同時に周辺国が襲い掛かってきた事からもありうる事態である。
ファタハは、ハマスよりも穏健的であり、和平の可能性もあるが、ハマスを抑える力はないようだ。

最近の動きとしては、イスラエルによる占領地への入植再開→ハマスによるユダヤ人の若者3人殺害→イスラエルによるパレスチナ人の子供1人殺害→ハマスによるイスラエルへのロケット弾攻撃→イスラエルによるガザ空爆→ガザから地下道を通ってイスラエル領侵入→イスラエルによる地下道破壊のためのガザ侵攻という負の連鎖となっている。
日経新聞(7/19)によれば、ハマスはイスラエルとエジプトから経済封鎖され、イスラエルに停戦の条件として封鎖緩和を求めているそうだ。
周辺諸国は、これらの動きが中東戦争に発展しないように自粛しなければならない。
イスラエルは、中東戦争のたびに領土を拡大してきたからだ。

イスラエルは、欧州にいた頃は、エルサレムに巡礼に行けたが、移住後はエルサレムを占領するまで行けなくなった。
イスラエルがパレスチナ以外の場所に移住できるのであれば、戦争もなくなり、エルサレム巡礼も可能になるのではないか。
アラブ諸国は、イスラエルの移転地提供を検討すべきではないか。
あるいは、エジプトとサウジが支援しているファタハが、ハマスとその支援国(イラン・レバノン・シリア・カタール・トルコ)を抑え、共存の道を探る事もできる。
いずれにせよ、ムスリム同胞団やハマスやイスラム国の台頭は望ましくない。
彼らは、イスラエルを中東から追い出すつもりでいるからだ。
現在、イスラエルは、レバノン、シリア、エジプト、ヨルダン、サウジと接しているが、その内、エジプト、ヨルダン、サウジとは仲が悪くない。
特にヨルダンは、旧パレスチナがイスラエルと分割されてできた国だから、国境線制定の歴史が浅い。
例えば、ヨルダンとイスラエルの国境線を現在の南北から東西に変更したら、イスラエルは、仲の悪いレバノン、シリアと接せずに済む。
パレスチナは、ヨルダンに吸収されたら良い。
イスラエルは、それを近隣諸国に和平の条件として容認してもらい、国交を樹立する。
国連にこの取引の証人になってもらえば、後で問題が発生しても、絡まりあった問題の切り離しが容易になる。
イスラエルを中心に西アジアで経済圏を構築したら、EUからの投資が増えて経済が活性化するだろう。




◎ 2014年7月22日 (火) 説得と学問

日経新聞(7/19)
『アーレントは討議の大切さを説いた。討議では自分の考えを訴えつつも相手に説得されてもよいという態度を持つことが重要だ』

学問では、相手に説得されてやる必要は無い。
討議で常に学説が一つに絞られるのであれば、いくつもの学説が存在するはずがない。
相手に説得されることを認めよとするのは学者の意見ではない。
相手の説に妥当性がなければ、受け容れないのが学者の態度である。
自説よりも相手の説の方が正しいと思うなら、受け容れれば良い。
しかし、昨今は、多くの学者が真理の追究を全く放棄している。
時代の変化に合わせて、学者はいくらでも嘘をつく。




◎ 2014年7月26日 (土) 世界政治の現状

現代用語の基礎知識2002「新型戦争と世界システム」

世界は三つの圏域、新中世圏、近代圏、混沌圏に分けられる。
これらは、先進国、新興国、発展途上国とほぼ同義である。
新中世圏では、調整型政治になっている。
調整とは、利益分配の調整の事である。
国内の各種団体が国益分配を受けるコーポラティズムの事である。
これは、国内に限らず、新中世圏内の国家間でも成立している。
日本においては、田中角栄などの経世会が調整型政治家の典型になる。
しかし、これには、政治献金ができない人々には、国益分配権がないため、所得格差拡大を招くという問題がある。
それと同様の事が国家間でも起こり、新中世圏の豊富な資金が、混沌圏に回らずに、混沌圏の国内政治と経済が行き詰まり、内紛やテロが頻発する状況になっている。
内紛やテロにより、混沌圏は、ますます経済が疲弊する。
混沌圏の内紛は、主に独立を目指すものだから、ロシアや中国などの近代圏の国々は、飛び火して自国の自治政府が独立運動を起こさないように、それらの動きを警戒している。
近代圏もテロや内紛が起こると混沌圏に転落しかねない。
近代圏では、近代化のためには国民統合が必要だと鼓吹されるが、中国においては、逆にそれが少数民族の反発を招いている。
調整型では、資本は新中世圏の中でしか循環しないから、世界市場の拡大が見込めないため、世界経済が早期に行き詰まる原因になる。
中央集権は、税金を一箇所に集める事である。
経済圏は、一定規模の市場を形成する事である。
この二つにより、国内インフラ整備が可能となり、発展途上国は新興国に、新興国は先進国になる。
近代化に国民統合は不要である。
ただし、先進国や新興国においては、中央集権が、国内の所得格差拡大を招き、社会問題化している。
調整型では、特定の団体を保護するための法律が容易に作られるが、逆に減らそうとするとそれら団体から猛反発され、できない。
そのため、これら既得権は、国家形成と同時に増え続けることになるが、それが経済の自由度と発展の妨げになり、財政出動を余儀なくされる。
そのため、歴史ある国ほど、経済と財政が行き詰りやすくなる。

中村孝俊「日本の巨大企業」岩波新書
『朝日新聞では長期企画「家族」の第七部として「企業のはざまで」というシリーズを1983年7月から8月にかけて掲載した。ことの起こりは、東京郊外に住む主婦ユキエさんの家の郵便受けに、青い二通の封筒が、82年11月のある日届けられたことにあった。夫はある会社の管理職。5年前、妻の知らないうちに、夫ばかりでなく妻も、会社命令で自民党員にされ、家計の中から党費を払い続けてきた。ところが、その封筒に入った同党総裁予備選の投票用紙は、家族の分も白紙で会社に提出するようお達しがあったという。ユキエさんは、提出しなかったところ、夫が出勤するなり、上司に呼ばれ、おだやかに詰問された上、転勤の話をやんわり切り出されたという』

これが、固定票の実態であり、財界は、カネと票を政治家に渡し、族議員と官僚は、財界に共同開発や合併などの指示や助成金や公共事業や既得権などを与える。
このようにして、調整型政治が回っている。
この例では、個人の意思が集団の意思に取って代わる団結の仕組みも不十分ではあるが見る事ができる。

現代用語の基礎知識2000
『アジア型発展モデル
一九九七年から九八年にかけて起こったアジア諸国の経済危機を通じて、いわゆる日本型モデルと共通するアジア型発展モデルの危機が顕在化した。アジア型発展モデルとは、九三年に公にされた世界銀行の「東アジアの奇蹟」報告が、アジアの高成長の原因を次のように分析したのに発する。つまり、国家が積極的に発展を主導し、健全なマクロ経済政策運営の下で市場を活用した輸出を促進した、また成長の果実が公正に国民に分配され、政府の基礎を固めた ―― この良循環が東アジアの奇蹟的発展を導いたとする。ところが数年後には市場経済化、グローバル化の波の中で、国家主導型経済の不透明性、汚職腐敗、赤字・不良資産累積によって、アジア型発展モデルこそが危機の原因であるとされ、このモデルの終焉が云々されるようになった。実際のアジア諸国家はおそらくこの両極端のモデルの中間のどこかに位置し、民主主義がどの程度保障されているかによって、両極端への振れが決まってくるだろう。』

これは、国家主導型経済と調整型政治がもたらす弊害について述べた物である。

『護送船団方式
第二次世界大戦中に海外の占領地に物資を輸送する船団を海軍が護衛して航海させた方式をもじったもの。わが国の産業政策の特徴を揶揄的に表現した用語。特定の産業を監督官庁が保護して、他の産業からの参入や外国企業の進出を抑制し、安定した産業秩序を確保したうえで、産業全体の競争力と収益力を高める産業政策。官民一体になった産業育成策は、戦後の復興期、高度成長期には大きな効果を発揮した。とくに国内市場を安定的に確保しえた日本企業は、海外市場の確保に集中することができた。しかしこの政策に対し、海外からの国内企業保護政策への不満は当然として、国内からも批判が出てきた。企業間の戦略も多様化し、業界としての意思統一がとりにくくなった。弱小企業の保護を最優先しているうちにトップ企業も国際競争力を喪失してしまっている例が出てきた。規制緩和が進行するなかで、官民の新しい役割分担による産業政策の展開が求められている。』

アジア型発展モデルには、護送船団方式も含まれる。




◎ 2014年7月26日 (土) 宗教は文化

現代用語の基礎知識2002「宗教、その現代への挑戦」

1979年のイラン革命、アメリカ80年代以降のキリスト教右派による共和党支持、インド80年代以降のヒンズーナショナリズム、ラテンアメリカ70年代の「解放の神学」など20世紀後半から、世界的に宗教回帰の傾向がある。
その背景には、近代化によって都市化が進み、地方文化によって保護されていた慣習的生活ができなくなった事と第三世界の近代化が失敗し、腐敗や圧政という結果に終わった失望感がある。
特に中東でイスラムが発達したのは、イスラムには圧政に抗する機能が期待されているからである。
先進国との経済競争に敗れたアラブ諸国は、先進国に搾取されていると考えている。
また、失業がもたらす麻薬や家族崩壊も危惧している。
イスラムとは、近代化を諦め、昔の慣習的生活に戻ろうとする運動の事だろう。
そのため、市場開放を求めるアメリカと敵対するのである。

イランは現在もイスラム教国家であり、核濃縮が危惧されている。
イランや北朝鮮などの宗教的哲学的な国は、他国の意図に左右されない独自意見を貫くためには軍事力が必要と考えているのである。
アメリカ共和党は、現在もティーパーティの支持を得ている。
インドのヒンズーナショナリズムも健在で、女子医大生がバスで暴行死させられている。

現代用語の基礎知識2000
『(サウジアラビア第3代国王ファイサルは)イスラム教徒の最大の敵をシオニズム(イスラエル独立に繋がったユダヤ民族主義)、共産主義、帝国主義の3つとし、ジハードの対象とした』

帝国主義とはアメリカ、共産主義とはソ連の事である。
つまり、昔のサウジは、世界中をイスラム教で統一するつもりだったのである。

『姦通に対する死刑や窃盗に対する手足の切断刑などの厳しい刑罰で知られるイスラム刑法』

昔は、刑務所がなかったからかもしれないが、江戸時代の切腹に通ずるような厳しさである。
生活に密着した宗教がない日本だが、地方文化は存在する。
慣習を強制する共同体という意味ではイスラム教と同じシステムである。
慣習に理論的な裏づけがないのも同じである。
この強制には団結が使われる。
個人には自分の判断がなく、いじめや嫌がらせの恐怖が集団の判断を個人の判断に取り替わらせる。
これが団結である。
この慣習的生活強制を嫌って日本の若者は都市へ移住する。
しかし、近年は、地方文化に代わってナショナリズムが台頭し、若者もそれに同調している。
もはや、逃げ場がないからだろう。
ナショナリズムは、地方文化の国家版である。
国内で団結し、近隣国が仮想敵となる。
この傾向は、今や日本のみならず、世界中で見られる。
ヒンズーナショナリズムやイスラムも同様のシステムである。
このように宗教は文化なのである。
無宗教に思われている日本も実質的には慣習の宗教国家なのである。
先進国においては貧富格差が、発展途上国においては、近代化失敗がナショナリズム台頭を招いている。
中世においては、FAがなく、せいぜい家内制手工業程度だった。
また、代替りしても身分制度がついて回ったため、失業する事がなかった。
イスラムは、失業対策として、その頃に戻ろうとしているのだが、グローバル社会では、軍備が必須である。
しかし、経済力がないと軍備は整わない。
また、慣習が絶対視されるなら、永久に社会改善はできなくなり、反動主義となる。
イスラム教徒は、団結に怯えながら、理由も分からず、死ぬまで慣習に従わなくてはならなくなる。
挙句の果ては、原理主義と呼ばれるイスラムナショナリズムの台頭が待っている。
無論、これは、イスラムに限らず、世界中の国々に当てはまる。

『「神様しだい」、「明日」、「しょうがない」、これが何度も繰り返され、アラブ人は仕事が嫌い、約束が守れない、責任感がない、といった短絡的なアラブ人観が日本人社会に広がり』

北米の黒人社会でも、手抜き仕事は正義だと考えられていると新聞に書いてあった。
労働者は、搾取されていると思ったら、ストや団体交渉以外にも手抜きという選択肢がある。
待遇に見合った仕事をするという点において、裁量ストと言えるだろう。




◎ 2014年7月30日 (水) 右翼団体の正体

最近、カンボジアの若者と僧侶が、ベトナム大使館前で領土問題の抗議活動をしているらしい。
世俗を離れた僧侶と社会意識に乏しい若者が、領土問題に口を挟むのは、理解しがたい。
社会を理解するために、この現象は、しっかりと研究すべきである。
このようなナショナリズムは現在、世界的な動きであり、珍しくない。
僧侶と若者が、ナショナリズムの中心になっているのが不自然なのである。
司馬遼太郎「人間の集団について」に、ベトナム人の青年が窃盗団を形成し、外国人客から金品を盗んでいるのだが、ベトナムの大人達は、それを容認しているとある。
このベトナム文化とカンボジアのナショナリズムは共通しているのではないか。
若者や僧侶は、失業に最も近い位置にいる社会的弱者、社会のゴミである。
その弱者が、世論の代弁者として、国内に自分の居場所を確立したと考えたらどうか。
つまり、国内の大人達に暗に圧力を受けてやらされているわけである。
そう考えると、右翼団体も世間に外国批判をやらされている弱者ということになる。
最近の右翼団体は、寄付金が増えて金回りが良いらしい。
ナショナリストは皆、実質的に代議士である。
国際的に冷たい目で見られる損な役回りの代議士である。
その裏には、多くの覆面支持者がいるのだ。
日本の場合は、国会議員にもナショナリストが増えている。
国会議員の立場が社会的弱者並みに低下しているという事だろう。
社会的弱者は、世間から嫌がらせやいじめを受けて、誰もやりたがらない恥ずかしく損な役回りを押し付けられる。
世間は、やらせておいて、我、関せずと涼しい顔だ。
これを、ガキの使いと言う。
集団によるイジメや嫌がらせに、ことのほか弱い人は一生、社会の底辺を彷徨う事になるだろう。
男なら浮浪者か右翼、女なら売春婦である。
逆らえないなら、言いなりになるか、搾取されるかのいずれかだからだ。
集団に立ち向かう個人のために神(道理)は存在する。
集団の側に立ち、イジメや嫌がらせをする人は、国家と共に滅びるだろう。
これが、天罰である。
イジメや嫌がらせをし続けなくてはならない人々に社会生活は不可能だ。
集団に属しながら、イジメも嫌がらせもしない人は、集団から排除され、孤立するだろう。
権力主義は完成した思想であり、一切、融通は利かないからだ。
陰口やイジメや嫌がらせは、団結には不可欠という事だ。
この世には、実存主義と権力主義しか存在しないため、その中間は、ありえない。
俺が、こういう事を書くのは、生きるすべを知らぬ人々に、社会で生き抜くための知識と考え方を教えてやるためだ。




◎ 2014年7月31日 (木) 右翼思想

「吉田 松陰の名言」(http://www.earth-words.net/human/yoshida-syouinn.html)

『君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する』
『「国家とともに」という志がないならば、人ではないのである 』

国家を思想の中心に置く松蔭は、国家主義者である。
しかし、道理を重視するのは、権力主義ではない。
本居宣長も道理尊重の尊王主義者だった。
三島由紀夫も国家の主体性を重視する国家主義者だった。
右翼と関係の深いヤクザも権力主義に儒教が混じった物である。
右翼は、中半者というわけである。
彼らは、国家主義によって団結し、我が身を守るのである。
ヤクザや右翼は、基本的に元失業者であり、孤立を恐れ、団結しようとする。
彼らの団結は、権力主義者が、他人のちょっとした言動の違いを攻撃の標的にして団結するのとは異なる。
言動の違いとは、例えば、自分の意見を持って、慣習や団結に従わないことである。
他人より少し贅沢な生活をしても、才能が優れて妬まれても、失業しても標的になる。
常に団結に意見を合わせて、他人と境遇や言動を合わせなくては標的になるという事だ。
江戸時代の五人組や太平洋戦争の隣組みたいなものである。
これでは、問題解決方法を考える事すらできない。
この全く融通の利かない慣習が、世界各国で全く異なるから、戦争になる。
問題解決の最善策を考えるのが道理であり、これは団結とは矛盾するため、団結は道理を歪ませる。
そのため、中半者の道理は、いびつである。




◎ 2014年8月6日 (水) 権力主義は主従制度

権力主義は、人の言動や思想を制御する。
制御するからには、そこには主従関係がある。
もちろん、主人は、従者に対し、常に特権を持つ。
社会に受け継がれる特権は、生まれながらにして持つものである。
権力主義者は、この既得権を守るために命懸けで非権力主義者を攻撃するのである。
これが、社会の仕組みである。
権力主義に平等、公平という観念は無い。
権力主義社会が人々の生活に合わなければ、その社会は破綻するだろう。