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◎ 2014年4月14日 (月) コンパクトシティ

地方都市では単身あるいは二人身の老人の戸建て住宅生活者が増えている。
普段の生活では、大きな家は不要であり、彼らをコンパクトシティに住まわせたら、空いた土地に若い家族を住まわせる事ができる。
しかし、現実は、老人がいなくなっても空き家になるだけで、入居者はいないそうである。
地方には、パート以外の働き口がないからである。




◎ 2014年4月19日 (土) 原発と食糧難

原発事故は、地震による破損ではなく、非常用電源が海水で濡れたためだと言われている。
しかし、当時作業していた原発作業者も地震でパイプが壊れて怪しげな水が噴出していたと証言している。
また、水の注入が無駄だった事もパイプが破損したためだと考えるのが妥当である。
一度事故が発生したら、何年経っても収拾の目処すら立たない。
短期的には稼動を認めても長期的には到底認められるものではない。
国連は、原発を二酸化炭素排出を抑えるために必要な電源だとするが、原発事故は日本社会の存続問題にかかわる。
外国の水没を救うために日本が消滅しなければならないだろうか?

外国の食糧難は、カネがないから食料を買えないのである。
それは、アフリカでも東南アジアでも北朝鮮でも同じである。
食料が足りないから食糧難と一般に言われているのは、学者の垂れ流すデマである。
彼らは外国に製造業を興させたくないから、世間に嘘をついているのである。
世界の食糧難を解消するには、あらゆる国に現金収入が必要である。
現金収入を得るには、経常収支の均衡が取れている必要がある。
経常収支の均衡を取るには、製造業がその国に必要である。
農産物は値段が安く、工業製品は高いからである。
そのため、世界中の総ての国々に製造業を興す事が食糧難解消につながる。
しかし、それでは、作り過ぎで工業製品が余り、企業経営が成り立たなくなるだろう。
しかし、世界に農業立国の数はあまりにも多く、各国に製造業を興すための最大限の努力はどうしても必要である。
貧困国のために募金しろとしょっちゅう新聞に広告が掲載されているが、あれは募金を利用したビジネスに過ぎない。
実際には、何に使われるか分かったものではない。
募金するくらいなら、根本的問題の解決に当たるべきである。




◎ 2014年4月19日 (土) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(13)

カミュ「革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-」 新潮文庫

p.62『インテリはマルキシズムと一致しない哲学を擁護しているにもかかわらず、彼はマルキシストと名乗るブルジョワなのである。そして、この奇妙な論文の筆者が擁護しているのは、彼自身の教理ではなくて、悔い改めたブルジョワの観点であり、その情熱である』

p.67『彼は、人はコミュニストか、ブルジョワにしかなれない、と言っているらしいが、同時に彼は、現代の歴史のすべてを失わないために、その両者であることを選んでいる。彼はコミュニストとして非難するが、ブルジョワとして事実を曲げる。だが、人はブルジョワであることを恥じなければコミュニストになれないか、その逆かである』

p.84(ジャンソンは)『共産党に入るか、君のようにブルジョワになるかである』

p.62 のカミュの言は、あるブルジョワは、マルキシズムではない革命主義者であるにもかかわらず、自分はマルキシストと名乗っている。しかし、この自称マルキシストが主張しているのは、革命主義でもマルキシズムでもなく、ブルジョワによる資本主義批判であるという意味である。
ブルジョワによる資本主義批判とは、プロレタリア文学作家と同様の主張という意味である。
p.67 のカミュの言の意味は、p.84 のサルトルの言と同じである。
確かに、自らのブルジョワの身分を恥じるコミュニストがいてもおかしくはないが、カミュの論文では、この問題に対し、サンディカリスムを代案としている。
コミュニストとは、共産主義者のことで、マルキシストのことでもある。
因みに、コンミューンは、コミューンのことで、パリコミューンのことである。
コミューンは、自由都市という意味であり、共産主義を意味するコミュニズムとは関係がない。

p.90『アメリカの硬化が魔女狩りの流行という形であらわされると、ロシアの硬化はおそらく兵器増産と強制労働者の数の増加であらわされる』
p.95『現在の闘争を、どちらも卑しい二つの怪物の愚かな決闘としか見ることのできない』

サルトルは社会を資本主義と共産主義の対立としてしか認識できないが、カミュはサンディカリスムを推奨する。
ただし、カミュは、実存主義に沿ったイデオロギーを望んでいるのであり、全面的にサンディカリスムを肯定しているわけではない。
彼は、それが近いのではないかと考えているのである。
現在は、労働者側のイデオロギーはマルクスの共産主義しかないが、19世紀にはバクーニンがサンディカリスムを提唱していた。
バクーニンはマルクスに権力闘争で敗れたのである。

p.92『自由があるとしたら、それは因果の法則にしたがわず、それは別の秩序のものだ』
p.93『君自身の思想を築きうる自由を「拘束されない」と勝手に言ったらいい』

自由(実存主義)は、絶対的真実としての因果の法則には従わないが、自分が信じる因果の法則には従う。

p.93『だが、それは食道のない自由とか、塩酸のない自由とか言うのと同じように、無意味だろう』

食道や胃液(塩酸)のないとは、結果に結びつかない(血肉にならない)という意味である。
こうした考え方は、実存主義を究められていない人のものである。
真の実存主義は、普段は個人的に実存主義を全うするだけであり、結果については天(道理)に任せるからである。
実存主義は、自己の利益を追求するのではなく、維持可能な社会を目指した思想である。
その方法として、個人の自律や人権尊重、柔軟性のある問題解決、反論の自由などがある。
これらの方法は、決して権力主義では採る事ができない。
そのため、社会に働きかけて万人に強制しなくても、個人生活を実存主義で過ごすだけで、社会の健全化に役立つ。
もちろん、権力主義者や法律や社会構造が邪魔しなければの話であり、もし彼らが邪魔するのであれば、天罰が彼らに下るだろう。
実存主義者は、彼らがそれ以上天罰を受けないようにするため、実存主義がいかなるものかを教えてやるのが望ましいのだ。

p.93『政治的なものと哲学的なものとを混同』

実存主義は、物事の考え方だから方法である。
政治は、統治の事だから方法よりも結果が求められる。
つまり、政治的なものとは結果重視であり、哲学的なものとは方法重視である。
しかし、カミュはジャンソンへの反論において、哲学だけでなく、サンディカリスムも主張している。
これは、哲学ではなく政治である。

p.94『人間を生きているままで事物の状態にすることはできない。人間が事物であるのは、他の人間にとってである』

これは、人間は存在しているだけでは、意義を持たず、他人にとってその人がどういう利用価値があるかだという意味である。
それは、人間の存在意義は職業にしかない事を意味する。
サルトルにとってあらゆる人間は、職業でしかなく、失業者など人間ではないというわけである。
人間を相対的な存在とするこの考え方は、正に権力主義者のものである。
相対的な存在とは、社会性の動物という意味である。
これは、実存主義者には全く受けいれがたい考え方である。
実存主義者は、人間の持つ社会性を人間の全てとは考えず、一面と考える。
利用されるという事は奴隷になるという事であり、あらゆる人間は奴隷となるために生まれてきたのか?
それはお互いに苦しめ合う関係であり、協力し合い助け合う関係に転換すれば、より人生が生き易くなるはずである。
すなわち、依存し合い強制し合う関係ではなく、自律し助け合う関係ならば、人間関係が疎になり、プライバシーが守り易くなり、ストレスの少ない緩やかな人間関係を築けるというわけである。
我々は、必要以上に苦しむために生まれてきたわけではないのだ。
しかし、これは権力主義の本質ではない。
権力主義というのは、いかに大きな権力を握り、他人を奴隷にするかにある。
例えば、軍事力や財力や人数や団結などが、その要素となる。
そのため、権力主義社会においては、奴隷関係が成立するのである。
人間の存在意義を職業として考えるのは、権力主義としては邪道なのである。
おまけの考え方に過ぎないのである。
単純に現実において権力主義は他の思想を凌ぐ。
現に彼らは常に権力による実力行使である。
それが、多くの人々に支持される理由である。
しかし、それが長続きできない事を実存主義者は知っている。
いずれ、社会の破滅が待つのは歴史が証明している。
だからこそ、実存主義者は権力主義を否定するのである。

p.64『人間をあらゆる拘束から解放しておいて、つぎに、行為の面で、歴史的必然のなかに閉じ込めることは、じじつ、まず人間からたたかう理由を奪い、ついで、効果のみを規則とする政党なら、どれでもおかまいなしに、人間をそのなかに投げこむことになる』

p.94『君は誰の言を信用してか、僕は僕の仲間に、楽園的自由をまずあたえてから、つぎに彼らを牢獄に落としこんだ、と信じてしまった。〜君にも分かるだろうが、僕の同時代人を牢獄に入れるのではなくて、彼らはすでにそのなかにいるのであり、逆に力を合わせてその格子を破ることが問題なのだ』

p.64 のカミュの言は、実存主義を主張し、万人を自由にしておきながら、実際の行動においては、権力主義を強制する事は、権力主義社会との人間の戦いをできなくするものであり、結果だけを求める政党は、人間をそんな状態に陥れるだろうという意味である。
この先に待ち受けるのは、思想と行動の板ばさみになった人々の無気力と暴動、即ち、ニヒリズムというわけである。
しかし、ジャンソンは元々中半者であり、サルトルもこの頃は脱実存主義で中半者になっており、誰も実存主義を主張していない。
しかし、カミュは彼らが自分の思想を持っているから、実存主義を主張していると思いこんでいる。
p.94 のサルトルの言は、自分は実存主義者ではなく、実存主義的自由など主張するつもりはないのであり、権力主義のルールに従って、ブルジョワとプロレタリアの対立において、後者を選んだだけだという意味である。

p.90『こちらのメネジが一回転するごとに、むこうのオネジがくるりと回る。結局、こちらとむこうで、われわれが回すものであり、回されるものだというわけだ。アメリカの硬化が魔女狩りの流行という形であらわされると、ロシアの硬化はおそらく兵器増産と強制労働者数の増加であらわされる』

これは、ロシアの強制収容所は、アメリカのロシアへの圧力が間接的に造りあげた物だという意味である。
権力闘争がエスカレートすると人権侵害もエスカレートするのである。

p.95『もし君が罪人でないとすれば、全世界が罪人になるわけだ。君は君の判決を宣告する。それなのに世界は沈黙している。だが、判決が世界に触れると、君の処罰は無効になってしまう。シーシュポスよ、処罰されるのは、むしろ君自身だ』

権力主義者には論理は通用しない。
彼らは実力行使で反論者に迫るだろうという意味である。

p.104『君の死、生、大地、神、反抗、否、諾、愛などは、王侯貴族の遊びだという者がある』

実存主義は、人間の根本的な人生観の問題であり、誰もこの問題を避けて通る事はできない。
それを『王侯貴族の遊び』とするサルトルには、権力主義と実存主義の違いが理解できていないのが分かる。
サルトルは、権力主義である共産主義を肯定しながら、自分の意志や判断力も持っている。
権力主義は、個人的思想を認めず団結を求めるから、彼は共産主義を支持しながら、共産主義を否定しているのである。
共産主義が権力主義であるのは、共産主義が権力主義を否定していないからである。
既に社会常識となっている思想を否定しない場合は、その思想は必ず受け継がれる事になる。
それは、資本主義においても同じである。

p.104『貧困のどん底で贅沢を発見するのには、安楽ではないにしても、すくなくとも教養という計りがたい、不公平な富が必要なことを人は知っている』

これは、厳密には正しくない。
教養ではなく、実存主義が必要なのである。

p.105『彼の肉体を辱めているのは、大きな貧困に過ぎない』

サルトルは、実存主義では貧困による空腹を満たす事はできないと言う。
しかし、カミュはサンディカリスムを推奨しているから、問題ない。
サンディカリスムは、共産主義の亜種のようなものである。
サルトルは、カミュのサンディカリスムを黙殺しているか、サンディカリスムの概念すら知らないのである。

p.107『君が君自身であることを望むのなら、君が変わらなければいけなかったのだ』

実存主義を捨て去れば、自分の意志も判断も放棄しなくてはならない。
やはり、サルトルには権力主義と実存主義の違いが分かっていない。

p.108『「歴史に意味があるか、ないかだ」』

カミュのこの疑問は、権力主義には必然性があるのかないのかという意味である。
つまり、彼は、権力主義の本質が理解できていないのである。
先に説明したが、権力主義の必然性は現実における他の思想(実存主義や中半)に対する優位性である。
権力主義の優位性とは、権力闘争に最も向いているという意味である。
しかし、この優位性は権力主義者の妄想に過ぎないことも説明済みである。

p.108『人が君につぎのマルクスのことばで答えるとしてみたまえ。「歴史はなにもしない。すべてをなすのは人間であり、現実の生きた人であり、歴史は、固有の目的を追求する人間の活動に過ぎない」と。もしそれが本当なら、歴史からはなれていると思っている者は、同時代人と同じ目的を持たなくなり、ただ人間的混乱の不条理しか感じないだろう』

現実そのものは意味も何も持たず、現実を作り変えて意味を与えるのは人間だとするマルクスの考え方は実存主義に反する。
ただし、カミュも、現実は意味も何も持っていないと考えているから、俺の実存主義とは異なる。
もし、現実に本来的に意味があるとしたら、その意味を与えたのは神以外にありえないのだが、カミュは宗教的な神(つまりキリスト)の存在を否定しているのである。
カミュが神に言及しているとしたら、それは権力主義の事である。
そのため、カミュは神に敵対する。
キリストは実存主義を神、権力主義を悪魔と呼んだが、ゲーテは「ファウスト」で実存主義を悪魔と呼び、サリンジャーと三島由紀夫とカミュは、ゲーテに倣ったのだろう。
カミュは、現実には本来的な道理は存在しないとするが、それは彼の勘違いである。
なぜなら、あらゆる思想はそれ自体が神だからである。
そのため、彼の実存主義も神なのである。
現実を支配する道理の捉え方が、思想である。
正しい道理の捉え方は存在しないから、我流になり、人それぞれ思想が違うのである。
人々の思想を合わせるのは危険である。
思想の絶対的正当性を証明する方法がないからである。
マルクスは、そのようには考えず、現実にはいかなる道理も存在しないから、人間が現実に道理を与えてやれば良いと考えている。
つまり、人間が社会のルールを作る全権を保有している神だというわけである。
その場合、どんな悪いルールを作っても許されるという事になるだろう。
なぜなら、全権を持っているから、ルールを作るに当たり、何の制限も受けないからである。
人間が社会のルールを作る全権を保有しているというこの考え方も権力主義である。

p.109『「彼の意志に反して、彼は歴史的連鎖のなかにはいってしまうだろう。なぜなら彼は望まずして、両陣営のうちで思想的守勢に立つ者に、他方を失望させるような論拠を提供するからである。逆に、具体的な人間の目的に執着する者は、友人を選ぶようにしいられるだろう』

権力主義を否定する人は、権力主義者間の思想対立のどちらかに有利な論拠を提供する形で社会に参加する羽目になるだろう。逆に権力主義者は、思想的対立により敵味方にはっきり分かれるだろうと書いてある。
しかし、実存主義者は反動主義ではないから、必ずしも保守の側には付かないし、権力主義者が敵味方に分かれるのは、権力闘争のためであり、決して思想的対立が原因ではない。
権力主義者が集団を形成するのは、力を手に入れるためで、それは、自己の利益のためである。
権力主義者にとって人生とは、力で自己の利益をもぎ取る事であり、社会は権力闘争の場に過ぎない。
彼らには、人生にも社会にも、思想の入り込む余地などないのである。
ブルジョワとプロレタリアの対立は、産業構造に依拠しているから、もし、この社会構造が変化したら、両者の対立は消滅し、別種の集団同士の対立になるだろう。
そのため、権力闘争は常に存在するが、何と何の対立かは、社会構造次第である。
では、ブルジョワでありながらプロレタリアに肩入れするマルクスは何者なのか?
彼は、権力主義に近い側にいる中半者である。
もし、彼が生粋の権力主義者ならブルジョワ側に付いただろう。
また、独自の思想を持っている点でも権力主義者ではない。

p.111『君が僕にとってかつてあったものと、現在あるものとを、僕は語った。それに対して君が語り、なすことがなんであろうと、僕は君と戦うことを拒絶する』

サルトルは、「ペスト」と「反抗的人間」が、カミュが自分に共同戦線を張るように求めた物である事を知っていた。
カミュは、ジャンソンの批評をサルトルの返事と解釈した。




◎ 2014年4月20日 (日) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(14)

カミュ「革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-」 新潮文庫

p.15『あの赤十字のモラルが「量の倫理」からきている事実をここで隠すことはできないであろう』
p.113『つまり赤十字は、人々が自分たちの企画をはじめから失敗だと思い込まないような世界を予想しているように思われる。だから僕が「赤十字のモラル」と呼んだものは、あらゆる企画の有効性をむなしいと考えながらも、やはりこの種の活動を選ぶことを主張する態度にほかならない』

ジャンソンは、赤十字は、戦争を止めさせようとせず、医療活動しか行わないから、焼け石に水で無意味であり、「ペスト」のリウーも正にこれだと指摘する。
この批評は正しいが、これを「反抗的人間」批判にまで持って行けていないのはジャンソンの力不足だろう。
しかし、サンディカリスムを推奨するカミュは、『赤十字のモラル』を捨てたとみなせる。

p.56『徹底的な議論を拒否することと、ただちに真の論争をしなければ表明し得ないような立場をあらわにするむなしい意志を読んだのである』

p.61『とにかく、専制的社会主義は現代の主要な革命的実験である、という意見ならば、専制的社会主義が予想させる恐怖政治と、まさに現在、また現実に即するためには常に、たとえば強制収容所の事実にふれないわけにはいかないと思われる。僕の本についての批評は、賛成の批評でも反対の批評でもすべて、この問題にふれないわけにはいかない』

p.64『歴史は目的を持っていないが、意味を持っている。だが、この意味は歴史に対して超越的ではない、と。この危険な妥協はたぶん可能だろうし、僕はその妥協の説明しか要求しない。だが妥協が成立しない限り、君があの論文があらわしている矛盾を認める限り、君はむなしいと同時に残酷だと思われる諸結果から逃れることはできないだろう』

p.120『僕が君の思想をあばくと言って君は責めるけれど』

p.120『君の立場をあらわにしようとする僕の意志が「むなしい」と君が述べいているのは、いったいどういうつもりなのだろうか』

カミュの言う『立場をあらわにする』の意味をジャンソンは、カミュの思想をあばくことだと誤解した。
しかし、実際は、『ただちに真の論争をしなければ表明し得ないような立場』とは、強制収容所に対する見解を表明しなければならない立場の事であり、この見解が述べられないのは『むなしいと同時に残酷だと思われる』強制収容所の実態『から逃れることはできないだろう』という意味である。
つまり、『立場をあらわに』しているのは、カミュではなく、ジャンソンである。
しかし、この場合、カミュの文章の方に難があるだろう。
この文章の意味の説明は、その後、8ページも続いており、それを全部読まないと理解できないからである。

p.122『僕が君の主題を論じないと君は責めるが、結局、それらを問題にしないのは君自身ではないかと思うほどである。僕がそれ以外のことをやったろうか?』

カミュは「反抗的人間」の主題はマルクシズム批判だったのだが、ジャンソンは、それに全く触れていないと非難した。

p.122『僕流にしないで、どういうやり方があるというのだろうか?』

ジャンソンは、実存主義も権力主義も概念そのものが分かっていないから、カミュの著作物は何一つ理解できない。
確かに我流の理解以外にジャンソンにはなす術がない。

p.125『「歴史を否定するのではなくて・・・ただ歴史を絶対視しようとする態度を批判するのだ」については、君がこういう結論をだすためにいろいろ苦労したことはお気の毒なほどだ。なぜなら僕の論文も、それには反対していないからである。僕は君の本が歴史を否定していると書いたことはない。僕も君と同様、そんなことは「無意味な」否定だと思う。僕はこう言ったのだ。諸革命の歴史を書き改める際の君の歴史観は、ありのままの(人々によって体験された)歴史を排除して、人間の条件に対する反抗と人間を神格化する「革命的」試みとのあいだの一種形而上的な闘争に置き換えるに至ったこと、君が歴史から離脱しようとしたのはまさしく、歴史のなかにおいてであったこと、歴史に対する君の反対は、さらに正確にいえば歴史の実際的要求に反対して行われていたこと、最後に君が主張している態度は歴史を維持することにあり、つまり歴史の面前でみずからを保ち、それにたいして何も企てないようにすることなどであった。』

カミュの言は、権力主義が絶対的に正しいとする価値観を批判するという意味である。
ジャンソンの『ありのままの(人々によって体験された)歴史』は、経営者に搾取される労働者の現実という意味であり、『歴史から離脱』と『歴史のなか』もカミュの主張は労働者の置かれている現実を避けて通れないという意味であり、『歴史の実際的要求』は、現状打開を求める労働者による要求という意味であり、『歴史を維持』は現状維持という意味である。
カミュの歴史の意味は権力主義社会で、ジャンソンのそれは現実あるいは現状であり、語の解釈が食い違っている事が分かる。
この食い違いは、ジャンソンが社会は権力主義だと思っていないどころか権力主義の概念すら知らない事に起因する。

p.125『僕は君の態度が歴史に対して以上のような影響を及ぼすことを否定しただけである』

これは、否定ではなく、非難である。
つまり、カミュの主張が、現実に対して、そのような影響(反動)をもたらすことを非難したわけである。

p.51『「反抗的人間」の目的は、純粋な反歴史主義は、すくなくとも今日の世界で、純粋な歴史主義と同じように憂うべき問題である、と証明することにある』
p.51『歴史しか信じない者は恐怖政治へと進み、歴史を全然信じない者は恐怖政治を容認する』
p.52『二種の無効性、すなわち無行動による無効性と、破壊による無効性』
p.52『永遠の諸原理、肉体化されない諸価値が疑問視され、また理性がはたらきはじめるときから、ニヒリズムが勝ち誇る』
p.52『僕の本を真剣に読んだ人は誰でもニヒリズムが、僕にとって、肉体化されない形式的な諸価値と同じなのを知っている』
p.52『僕の本では、1789年のブルジョワ的、形式的革命に対する批判が、20世紀のシニックな革命に対する批判と平行しており、どちらの場合も、一方では諸価値が歴史の上に置かれ、他方では諸価値が完全に歴史と同一視されたという、逆な行き過ぎによるのだが、ニヒリズムと恐怖政治とが正当化されている、と説明されている。君の寄稿家は、この二重の批判の一面を、故意に抹殺して、彼の主題を神聖化しているけれど、同時に恥ずかしげもなく、真実を犠牲にしてしまった』

『純粋な歴史主義』は、『歴史しか信じない者は恐怖政治へと進み』と『破壊による無効性』に、『純粋な反歴史主義』は、『歴史を全然信じない者は恐怖政治を容認する』と『無行動による無効性』に対応している。
カミュが否定する『純粋な反歴史主義』は、「ペスト」のパヌルー神父のような天罰主義の事である。
カミュがパヌルーを反動主義者だとみなしている事は既に説明した。
純粋な反権力主義も純粋な権力主義も否定するカミュは、焼け石に水の殺人否定を主張する。
『1789年のブルジョワ的、形式的革命』は、フランス革命の事であり、『20世紀のシニックな革命』は、ロシア革命の事である。
『諸価値が歴史の上に置かれ』は、形而上的哲学が現実化されるという意味であり、『諸価値が完全に歴史と同一視された』は、特定の形而上的哲学(共産主義)がマルクスの唯物史観において絶対的に正しいとされたという意味である。
カミュは、形而上的哲学がそのまま現実化されるのは危険だとし、絶対的真理とされる形而上的哲学が現実化されるのも否定する。
双方が『逆な行き過ぎ』ならば、その中間は、中途半端に正しいと主張される形而上的哲学が現実化する事になるはずだが、そんな間抜けな話はありえない。
カミュは、フランス革命において恐怖政治が、ロシア革命においてニヒリズムが正当化されたのを「反抗的人間」で非難したと指摘する。
『二重の批判』とは、恐怖政治とニヒリズムへの批判の事だが、カミュはジャンソンがカミュはニヒリズムを肯定していると読者に勘違いさせていると指摘する。
確かにジャンソンの『ニヒリズムが登場し、独裁者が勝ち誇る』は、まるで、カミュの言うとおりにするとそうなってしまうかのように読者に勘違いさせやすい。
しかし、実際は、p.25『(カミュが)人間を人間だけの歴史と同一視することへの推移を、恐怖政治とニヒリズムへの推移だとして非難するとき』としているように、ジャンソンは、カミュが恐怖政治とニヒリズムを否定していると理解している。
つまり、ジャンソンの説明の仕方がまずかっただけである。
ロシア革命のニヒリズムを理解するには、貧困により、生活が成り立たなくなった事で、既存の社会構造を信用できなくなった一部の民衆が、無気力化、あるいは法律や文化を無視して暴徒化する状態をニヒリズムと呼び、それがロシア革命の一面であった事を知っておく必要がある。
もう一つのロシア革命の一面として、マルクスの共産主義が大義名分になっていた事もある。
つまり、ニヒリストとマルキシストが合流してロシア革命になったのである。
『シニック』の意味は、ロシア革命のニヒリズムではなく、反動主義である。
つまり、カミュは、ニヒリズムの意味を混同しており、ロシア革命は本当は『シニックな革命』などではない。
ニヒリズムの意味として反動主義は含まれていないのだが、カミュは、ニヒリズムは反動主義だと思いこんでいる。
なぜなら、ニヒリズムのもう一つの意味として老子やシニシズムなどの思想的ニヒリズムがあるからであり、その老子的天罰主義を彼は反動主義とみなしているからである。
貧困的ニヒリズムには、思想性は無く、従来の社会常識を信用できなくなっただけだから、思想的ニヒリズムとは基本的に別物である。
「ペスト」の暴力や死に対する反抗を採り上げるなら、カミュの主張は、労働者の境遇を改善できず、彼の否定する反動主義になってしまうだろう。
しかし、カミュのもう一つの主張であるサンディカリスムを採り上げるなら、マルキシズムの代案となる。
カミュは「反抗的人間」においてマルキシズム批判もしていたから、彼の革命批判は3方向からされていたわけだが、その内の一つだけをジャンソンは採り上げたのである。
この辺でのカミュの『歴史』は、現実を意味するから、他のとは意味が異なっている。
ここだけでジャンソンは、『歴史』の意味をつかんだのだろう。

p.53『僕の真の主題、すなわち歴史のための歴史への奉仕はニヒリズムになる、という主題と対決したことだろう』

ここでの『歴史』は、権力主義社会の事である。

p.128『永遠の諸原理が、形式的美徳と同時に疑問視され、いっさいの価値が失墜するときから、理性はひたすら自己の成果のみを考えて、はたらきはじめる。理性はかつてあったものをすべて否定し、将来あるべきものをすべて肯定しながら、支配しようとする。理性が征服するだろう。ロシアのコミュニスムは、いっさいの形式的美徳に猛烈な批判を浴びせて、最高の原理を否定して、19世紀の反抗的業績を完成させる・・・歴史の知性がはじまり、人間はその歴史とだけ一致して、真の反抗にそむき、これ以後、20世紀のニヒリズムの革命に貢献する・・・神に属していたいっさいが、今後は独裁者に還されることになる』

p.24『永遠の諸原理、肉体化されていない諸価値、それと形式的美徳が疑問視され、また理性が「働きはじめ」、純粋抽象ではなくなって征服されてしまうと、ニヒリズムが登場し、独裁者が勝ち誇る』

p.128 が「反抗的人間」の原文で、p.24 がそれをジャンソンが要約したものである。
『永遠の諸原理』は、ロシア正教の教義の事で、『肉体化されていない諸価値』は、形而上的哲学の事で、『形式的美徳』は、資本者階級の偽善の事である。
ジャンソンの要約は間違っており、「貧困が社会通念に疑問を持たせ、一切の価値観が崩壊した状態をニヒリズムと呼び、ニヒリスト達はロシア正教を捨て理性によって自分達の新しい価値観を創出する」と要約すべきである。
この新しい価値観にマルキシズムが入り込んだのである。
ジャンソンの要約では、特に『肉体化されていない諸価値』と『純粋抽象ではなくなって』が余計である。
これらは原文の何処にも書かれていないし、意味としても繋がらないからである。

p.34『「歴史」は「不条理」の一変種であろうか?』
p.129『第一の視点によれば、歴史とは、君が人間の条件と同一視している絶対悪の特殊型にすぎない』

『「不条理」の一変種』と『絶対悪の特殊型』は同じ意味である。
しかし、既に説明したように、実際は、歴史は権力主義社会を意味する。
『不条理』と『人間の条件』と『絶対悪』の意味は、権力主義である。

p.131『無行動』

ジャンソンのカミュ解釈は、ほとんどデタラメである。
カミュの反動否定は、天罰主義に対するものだが、ジャンソンのそれは、革命に対するものである。
この点については、カミュはジャンソンの指摘に全く反論できていない。
なぜなら、これも既に説明したが、労働者には革命を起こさずに死なずに済む方法がないからである。
労働者が殺人を否定して革命を否定するなら、飢え死にするしかない。
これでは、自分達を殺人する事になり、矛盾する。
しかし、別の見解として、革命は武力により政権を剥奪するものだから、革命軍は、その軍事力を使って独裁政権をしくだろう。
事実、発展途上国における革命は、必ずといって良いほど、軍事独裁政権になったし、フランス革命もジャコバン党による独裁、プロレタリア革命も一党独裁になっている。
独裁を否定するなら、武力革命は望ましくない。
しかし、社会は権力主義が基本ルールになっており、権力主義とは権力闘争であり、そのルールに従えば、武力革命以外に政権を変える事はできないのである。
となると独裁を否定するには権力主義を否定するしかない。

p.141『そうなると多数のフランス人を一挙に、一個人の軽蔑に任せることになる』

実存主義は、思想的ニヒリズムであり、文化や常識を否定する。
ここをあいまいにすると実存主義は主張できない。
しかし、カミュは、あいまいに見せかけているため、彼の思想は読者に理解しずらい。
ここでは、つい本音が出たといったところだろう。
カミュは、国家や世間の目を非常に気にしている。
世間からの非難を恐れるジャンソンは、到底、実存主義者にはなれない。
世間を常に肯定せざるを得ないなら、国粋主義者にしかなれない。

p.143『(たとえば、アルジェリア人は、民族運動に結集するか、ひょっとしたら革命家になるかもしれない)だからもっと急激な解決を一挙にねらったほうがいいのだ』

アルジェリア人やスペイン人が開放的な国民性であったとしてもなかったとしてもそれが革命の肯定にはなりえない。
ジャンソンの論理は、あまりにも稚拙である。

p.143『土地と人間性から解放された人間』

土地はその国の文化の事で人間性は権力主義の事であり、それらから解放された人間とは実存主義者の事である。
カミュにとって神や人間らしさは権力主義を意味する。

p.143『「道理」とは「人間のいない自然」を意味する』

道理とは、権力主義者のいない世界を意味するという意味である。

p.144『正義の人、清らかな人間、孤独者・・・要するに、僕の見るところでは、君はこうした人間なのだ。自分だけにとらわれていて、君の威厳、偉大さ、名誉、人物のことばかり狂おしいほど気にしている』

p.144『そしておそらく真理とは、個人的な事柄、個人の高貴と誠実とが決定的な論拠となる名誉の事柄であると考えているために、孤独を選択したのに違いない』

p.145『君の名誉が、最高の裁判官となって裁断を下すということだ。そうなると君こそが真理であり、いつも真の重みにしたがって傾斜する、正確な天秤棒なのだ』

ジャンソンは、カミュの人物評価として、正義、清らか、誠実、孤独などの自分の人格を気にするタイプだとしている。
また、カミュの思想は、高貴や誠実などの個人的な事柄が物事の是非を決める唯一の判断材料なのだとしている。
その結果、カミュ自身が宇宙の真理であり、裁判官になってしまうわけだとする。
実際は、そうではない。
カミュの思想は、実存主義であり、個人が集団の意志に常に左右されるとは限らない権利、常に徒党を組んで他の集団といがみ合う考え方とは異なる考えや行動をとる権利、あらゆる問題解決は権力闘争のみで解決されるという考え方とは別の考え方を持つ権利、社会常識や文化とは異なる意見を持つ権利、属する集団の利害よりも人権を尊重する考え方を持つ権利、集団に依存しないで自律する権利、以上の権利を主張するものである。
これらの権利の体現をカミュは、正義、清らか、誠実、孤独と呼んでいるのである。
これらの権利は、決してカミュのその場の気まぐれで決まるものではなく、彼の生活態度に一貫して表れているものである。
これらの権利を人間から剥奪すれば、むろん、文化や常識などの権力主義になる。

p.150『そして僕の反抗をゆがめているからくりを、君があばいたと思い込んでいるとき、一方、君の反抗の人為的、独断的態度について僕が言いうるいっさいのことを、君のほうでみごとに確証したことになる』

これは、ジャンソンがカミュの反抗を歪めているカラクリをカミュが暴いたと思い込んだとき、カミュの反抗が人為的、独断的であるとするジャンソンの指摘の正しさをカミュ自信が証明したのだという意味である。

p.152『君にとって、歴史には意味があるか、意味が全然ないかなのである。だが第三の仮定もある。歴史には、様々の意味がはたらいている。歴史は、人間がその手段に応じて、歴史を方向づける度合において、意味が「ある」のである』

ここでも、ジャンソンは歴史の意味を誤解したままである。
カミュは、権力主義社会に必然性があるかないかについて言及したのだが、ジャンソンは、第三の考え方として、現実に人間が意味を与える方法もあると提案する。
ジャンソンは、歴史の意味を現実社会だと思っているのである。
権力主義社会は、現実社会でもあるが、ジャンソンは、権力主義の概念と社会が権力主義であるという事実を知らないがために、彼は、現実社会=権力主義社会という発想にならないのである。

p.156『僕はついでにつぎのことも明確にしておこう』

ジャンソンは、上の前置きの後、9つの反論を行う。
1.カミュが現在ブルジョワであるという事実が重要なのであって、彼がいつからブルジョワになったかどうかは関係ない。
2.ジャンソンは、ブルジョワはプロレタリアの立場から見解を述べる事はできないというカミュの意見には同意する。。
3.ジャンソンは、プロレタリアに対してブルジョワである事に引け目や自責の念を感じていないが、彼らの境遇に同情しており、状況を打開したいと考えている。
4.5.「反抗的人間」の中の誤謬を発見するために、マルキシズムを利用していないが、反論するためにはその基礎理論を利用した。また、ジャンソンは、マルキシズムは優れた理論であると考えているが、マルキシストであると自称するつもりはない。
6.ジャンソンは、『歴史主義とその矛盾にしたがっている』を『歴史に完全にとらわれている』と解釈したが、カミュは、両者は意味が全然違うと指摘する。しかし、ジャンソンには、何度読み直しても同じ意味としか思えない。ジャンソンは、歴史主義とは歴史への服従の事だと言う。
7.ジャンソンは、スターリン主義が思想的に正しい革命だとは思わないが、最も実現性が高い思想だと考えている。彼は、革命が思想的に正しくても実現性に乏しければ認めないし、スターリン主義で革命を成功させてから、統治の段階で別の思想に置き換える事が可能か、共産主義に強制収容所などの弊害的事業は不可欠かどうかも考える必要があるとする。
8.ジャンソンは、プロレタリアの立場で見解を述べる権利をカミュに否定されても文句を言わないし、彼らの代弁者であろうとも思わないと言う。
9.ジャンソンは、今日の緊急事は、平和のために戦うことだとし、それにもかかわらず、カミュはプロレタリアのために何もしないと言う。

ジャンソンは、マルキシズムの正しさを認めていると言うが、彼の論文では、カミュ批判に使う程度であり、むしろ暴力革命の主張の方が大半を占めている。
マルキシズムを称賛しながら、自分はマルキシストではないと言い、しかも、ほとんど、その理論にも触れないのでは、矛盾する。
カミュの主張では、実存主義は権力主義社会に半分反抗し半分合わせるべきだとなっているから、ジャンソンの実存主義は権力主義社会に完全にとらわれているでは食い違う事になる。
「権力主義とその矛盾に従っている」は、原文では、「現在のところ、権力主義とその矛盾に従っている」であり、実存主義には将来的に権力主義からの離脱志向が見られるが、スターリン主義には、そんな傾向はない。
つまり、カミュは、実存主義とスターリン主義の違いを示したかったのだろう。
歴史主義は、権力主義の事だから、それを現実への服従だと考えるジャンソンは勘違いしている。
ジャンソンは、平和のためと言うが、プロレタリアの境遇を救おうとする事が、必ずしも平和に結びつくとは限らない。
実際、共産主義には、経済構造にも人権的にも汚職防止的にも大きな欠陥があった。
ただし、資本主義国とは一切貿易をしないから、国家間経済競争に巻き込まれず、経常収支の大幅赤字にはならなかった。
カミュの、権力主義社会に半分反抗半分合わせは、老子やキリストの完成された実存主義ではない。
真の実存主義は、権力主義にも権力主義社会にも一切妥協できない。
実際のところ、「ペスト」でも「革命か反抗か」でも、カミュは、半分反抗半分合わせは具体的に提案できていない。
そこで述べられているのは、暴力や死に反対することとサンディカリスムだけである。
つまり、彼は発言とは裏腹に権力主義に対し、全く妥協していないのである。
彼にとって、権力主義社会に半分合わせるというのは、社会に関与するくらいの意味でしかない。
彼にとって、実存主義は、本来、社会に一切関与しないものだったからである。

p.163『歴史に対する君の態度を今日価値ある唯一のものとして提出し、君の論題を現実に最も無関係で、性急な考察をもとにして述べようとしているとき、僕は君の本の持っている野心を異常なものと思い、君が提示する偉大な手本を残念に思うものである』

p.164『彼らが孤独を悲壮化して、美化するだけならば、それも結構である。だが彼らが共存する感じを持つには少なくともこの世界で、なにか共同の仕事を始める事が必要だ。ところで、こうした現象は、彼らに「共通」であるにしても、彼らを共同体に結集することにはならない。なぜなら。君は反抗し、彼らもめいめい君のように反抗する。だが同時にであって、一緒にではなく、共同的でない。この共通の反抗は、君達を結びつけることはなく、並んでいる孤独をしめすだけである。そこで君達はめいめい万人の名において、自分自身に反抗する。「他人のための個人主義」を行ったり、勝手に現実をしりぞけて、現実に身を埋めることをせず、歴史の中にとどまりながら、歴史に反対しようと努力したりする。じじつ、これも良心の貴重な領域だけならば、特に可能だが・・・』

実存主義が、観念の世界だけに留まり、現実に対して何も影響を与えようとしなければ、ジャンソンはカミュに反論しようとは思わなかったと言う。
あるいは、カミュが集団を形成し、団結を主張したなら、社会参加も可能だとする。
しかし、カミュは、団結を否定し、一人一人の意志を尊重し、個々に反抗しようとする。
権力主義社会のルールは、権力闘争であり、それに人間が合わせようと思えば、集団が団結しなければ勝ち目がないとジャンソンは言っているのであり、そう考えているが故に、ジャンソンの目にはカミュの主張が『異常なもの』に見えるのである。
読者が、こういう感想を持つならば、カミュの実存主義は正しく伝わっていると言える。
正に、真の実存主義とは、こういうものだからである。
『他人のための個人主義』となるのは、権力主義が権力主義者と権力主義社会に天罰をもたらすからであり、それから、逃れるための実存主義である。
万人が天罰から逃れるには、万人が実存主義者にならなければならない。
そのためには、実存主義者は万人に実存主義がいかなるものか教える必要がある。
『君の態度を今日価値ある唯一のもの』とするのは、社会にイデオロギーを主張する人なら必ず持っている傾向であり、ジャンソン自身にも完全に当てはまる。

p.165『彼らがどこまで反抗すべきであるかを君だけが承知している』

カミュに追随する反抗者達は、実存主義の理解に乏しいから、どう反抗したら分からないが、カミュだけはそれを知っている。その結果、カミュが追随者達の行動を調節することになるとジャンソンは言う。
実存主義は、一つの完成された思想体系であり、それ故に理論上は、頂点まで上り詰めれば、だれもが同じ思想を持つに至る。
先ずは、各自がこれを目指さなくてはならない。
権力主義には、自律するという発想がないから、互いに依存し合う。
その結果、互いが支えきれなくなって生活が破綻する。
少しは自律や自立しようとする意志を持てば、他人や社会に与える負担も軽減される。
しかし、実際には、自律や自立は権力主義者によって妨害され、誰もが、そうできなくされている。
しかし、互いが一切干渉しないとしたら、競争社会では、弱者は生活が成立しない。
自律や自立は、一切の依存を断ち切るという意味ではない。
何をするにしても、何故そうするのかを知らなければ、悪にもなる。
理由を考えて行動するのが実存主義である。
権力主義者は理由を考えず、法律や決まり事に沿って行動するだけである。
その結果、法律に依存する事になり、法律を悪用され、社会に不正が蔓延する。




◎ 2014年5月7日 (水) 卑劣なIMF

日経新聞(5/1夕刊)
『国際通貨基金(IMF)は30日の理事会で、経済危機に直面するウクライナに、2年間で171億ドル(約1兆7000億円)の融資枠を設定することを正式に承認した。うち32億ドルを資金繰り支援のために即時提供する』

ウクライナで親欧米派反政府組織が革命を起こしたのは、ロシアが天然ガスの代金返済を滞納するウクライナにガス供給差し止めを通告したからである。
その時に、IMFがウクライナ政府に資金供与をしていれば、そもそも革命そのものが発生しなかった。
革命後に親欧米派の新政権が発足し、親露派の反政府組織が独立紛争を起こしている最中にそれを行うのは、欧米の対露政策に加担するものであり、卑劣この上ない。
これでは、ウクライナ政府に、このカネを使って戦争しろと言っている様なものである。
国連専門機関であるにも拘らず、一部の国々にだけ利便を図る不公平なIMFは、即刻解散すべきである。
世界中で紛争やテロが頻発しているにも拘らず何も出来ない国連と汚職をしているも同然のIMFなど国際機関は機能不全に陥っている。
もうすぐ、あらゆる国際機関は、組織そのものが解体されることになるだろう。

日経新聞(2014/10/17)に、昨年4月、ウクライナが多額の経常赤字を抱えていたため、IMFが150億ドルの融資を提案したが、ヤヌコビッチ大統領(当時)は断り、国債発行で凌ごうとしたのだが、米国量的緩和出口戦略の話が出て、国債が売れなくなって、プーチン露大統領に支援を求め、ウクライナのEU連合協定が消滅したのを怒った親EU派が反政府デモを開始したとある。
という事は、IMFが革命前に資金援助しなかったのは、ウクライナ側が断ったからだ。
すると、なぜ、ヤヌコビッチ大統領は、デモを抑えるためにIMFに資金援助を申請しなかったのか?
10/18には、ロシアとウクライナが、ガス供給再開で合意したから、両国の国交正常化は近いだろう。




◎ 2014年5月11日 (日) 携帯電話の井戸端会議

日経新聞に最近の小中学校では、生徒は、常に携帯電話でクラスのSNSに繋がっていて、すぐに返事しないといじめに遭うとあった。
歩行中も食事中も風呂場まで持ち込むらしい。
地域社会でも、井戸端会議で自分の悪口が言われていないかと首を突っ込んだり、自治会の会議に出席しなかったら欠席裁判で役職に就けられてしまったりするらしいのだが、これらの延長だろう。
なんらかの会合には、参加しないと悪口を言われてしまうという恐怖心が世間にはあるのである。
しかし、これらの精神消耗戦も日本国内、またはその集団でしか通用しないのであり、外国に転勤したり、学校を卒業したりすれば、全て無駄になる。
日本文化は日本国内でしか通用しないし、ローカルの取り決めもローカルでしか通用しない。




◎ 2014年5月11日 (日) 天罰

俺は、特に大人になってから国家や世間に集団リンチのような目に遭わされているが、これは、俺が小学生、あるいはそれ以前から彼らによって取り決められていた事である。
元々、憲法で決められているはずのプライバシー保護すら全くなくて、裁判もなければ、憲法も刑法も民法もない。
原因は、ほとんど、俺の才能にある。
これを奪い取るために彼らは襲いかかってくるのである。
しかも、奪い取るだけで、俺には日本一最低な人生を送らせる腹積もりなのである。
こうした彼らの考え方の根本には権力主義がある。
大きな集団は、小さな集団、あるいは個人に対し、何をやっても許されるという考え方である。
その時は、国家ぐるみで憲法も刑法も民法も無視して良いのである。
これは、無法者国家と呼ぶにふさわしい。
もちろん、無法者国家に社会統治能力などないのであり、日本社会が悪化し続けるのも当然なのである。
一度でも殺人を犯した人間は、殺人に対する罪の意識は薄れるのではないだろうか?
そうすると、俺に対する非道は、万人に向けられる非道でもあるわけである。
その意味で、日本は、既に殺人国家でもある。
権力主義は、権力や集団の性質のみで形成されるのではなく、その国の文化も大きく影響する。
国ごとに、人間はこうやって生きていかなくてはならないというルールが暗黙裡かつ厳密に決められているのである。
このルールは、どこの国でも集団や権力の性質に沿っているのだが、国ごとに具体的な内容が全く異なる。
そのため、多かれ少なかれ、どこの国でも無法者国家兼殺人国家である。
こういう社会通念を全く知らずに生きている人々も少なからずいるのだが、彼らは皆、生きるのに苦労している。
もちろん、そんな彼らに俺は、ここでそれとそれの先に待ち受ける末路を教えてやっているわけである。
それらの知識を持っているのと持っていないのでは、人生の難しさが格段に違う。
社会や自分の人生の将来が先読みできるからである。
誰でも実存主義でも権力主義でもその中半でも選んで良いが、どれを選ぶにしても覚悟は必要である。




◎ 2014年5月16日 (金) 実存主義の性質の一つ

既に述べたように、実存主義には、柱となる考え方がいくつかある。
実存主義には、ある考えがその柱の一つと合致する場合、他の柱とも合致することが多いという性質がある。
そのため、新しい考えが、正しいかどうか(他の柱と整合が取れているか)厳密に検討する必要がない。




◎ 2014年5月17日 (土) 既得権と戦争

もし、国民が統治者を過度に支持していなかったら、国民の3割が反政府デモを起こしただけでも、国民全体が統治者に対し、統治能力無しの判断を下すだろう。
しかし、シリアやリビアのように政府支持者と反政府組織の間で戦争が繰り広げられ、最後の一人まで戦いかねないのが現実である。
そうした状況で政府を命懸けで守ろうとするのは、民主主義的にも権力主義的にもありえない話である。
この謎を解き明かすのが、既得権である。
人間は、既得権を失うくらいなら、自分や他人の命を失ったり、国家や社会が崩壊したりする方がましだと考えているのである。
国家や大企業の予算取りも戦争さながらという話である。
財産の魅力は、多くの人々にとって何物にも代え難いのである。
自分や家族の命と財産ではどちらを優先するかの問いに財産と答えるのが人間である。
日本においても、近年、君が代斉唱問題や靖国神社参拝問題や尖閣諸島問題や改憲問題などの戦争に向けた種々の問題が噴出しているが、その根底にあるのも既得権保護である。
内戦が出来ない国は、三割の既得権者のために七割の非既得権者も侵略戦争に駆り出されるはめになる。
戦争が起こる最大の要因は既得権である。
しかし、既得権を守ったのでは、国家や社会が維持できないのは周知の事実である。
そのため、人間は、国家を滅亡させざるを得ない宿命を持っているといえる。

既得権を命懸けで守ろうとする原因を探るには、彼らの共通点を見つける必要がある。
農林水産業、医者、弁護士、公務員、教師、金融業、建設業、運送業、電力業、ガス業、通信業などに共通するのは、他の職種への転職が難しいという事である。
彼らは、特定分野の知識や技能を使って仕事をするため、他の職種に転職できないのである。
工員や営業は、ある程度、どこでも仕事の仕方は同じだから潰しが利きやすい。
しかし、工員や営業といえども少々かじったくらいでは仕事は出来ない。
十代、二十代の頃から、失敗を重ねて一人前になるのである。
そのため、専門知識で仕事をする人々は、現在の仕事にあぶれたら、実質的に転職は不可能になる。
長年の実務によるノウハウの蓄積が必要なため、職業訓練などは何の役にも立たない。
そうすると、必然的に長期失業にならざるをえない。
現在、飲食業や小売業、建設業において人手不足だと言われているが、労働環境の劣悪さなどを考慮すると眉唾物としか思えない。
介護業に人を移すべきだとの意見もあるが、医者が余っているのに介護がそれほど人手不足になるだろうか?
そもそも、全体的な雇用市場が縮小しているのだから、必ず、あぶれる人々は出てくる。
これらの問題を解決するには、少なくとも社会構造の見直しが必要である。
現行の社会構造では、長期失業者を抱えきれないからである。
そうすると、考えられる仕組みとしては、実存主義社会か企業による社会統治のどちらか、あるいは両方ではないか?
企業による社会統治とは、政府に代わって企業が社会を統治する仕組みである。
企業通貨をベースに学校や警察署や消防署や福祉などの社会インフラの経営を企業にさせるわけである。
企業は国家に縛られないから、国家や国境は消滅する。
人々は、複数企業の通貨やインフラを利用するから、どこのグループに自分が所属するか明確ではなくなる。
土地や資源の所有権は国家の物ではなくなり、誰の物でもなくなる。
企業は、土地や資源を国に代わって人類全体から借りる事になり、税金を人類全体に支払う事になる。
この税金は、あらゆる人々が最低限の生活を保障されるための資金とされるべきである。
この人類全体とは世界統一国家の事ではなく、国家の代わりに企業や自治体の代表者で構成される議会制にしてはどうか。
自治体とは、企業統治からあぶれ、税金で生活する人々の事である。
彼らは永久に失業するわけではなく、起業しても就職しても良いわけである。




◎ 2014年5月20日 (火) 携帯電話の電波割り当て

日経新聞(5/16)に「携帯電波 グループで利用」という題の記事がある。
例えば、ソフトバンクにはグループ会社にイーアクセスがあるが、イーアクセスの余った電波をソフトバンクでも使えるようにする仕組みの法制化が年内に行われる予定だそうである。
ソフトバンクにはグループ内に電波を持つ会社が4社あり、KDDIは2社、NTTドコモは1社しかないから、不公平になるという理由で、電波共同利用の解禁に併せて電波の割り当てルールも会社ごとではなく、グループごとに変える検討もするらしい。
共同利用は来年から、グループごとの電波の割り当ては年内から実施するとある。
ソフトバンクグループの電波を持つ会社の一つは、PHSで空き電波を携帯電話では使えない。
また、一社でたくさん電波の周波数帯を持つ方が、複数社で所有するよりも使い勝手が良いため、ソフトバンクが、4社を売却したとき、周波数帯を後から増やしてもらう事は可能なのか?
また、ソフトバンクが4社を周波数帯を目的に買収したとしたら、この法改正で、経営に誤算が生じる事になる。
総務省が、ソフトバンクに買収間もない4社を売却させるために、このような法改正をしたとしたら、国家権力による営業妨害になる。
こうなる事が予め分かっていたら、ソフトバンクは4社を買収しなかっただろう。
総務省によるソフトバンク潰しだと言われても仕方がない処置である。
空き電波は、共同利用するのではなく、MVNOに回した方が良い。
そうすれば、グループごとの電波割り当てもしなくて済む。
ドコモとソフトバンクとKDDIが電波を全てMVNOに貸し出すなら、その時は、グループごとの電波割り当ての検討に入れる。
今回の法改正をそのまま実行すると、ただでさえ借金だらけのソフトバンクが倒産する恐れがある。
法改正で倒産した武富士の二の舞である。