◎ 2014年1月31日 (金) 領土問題
今年は、尖閣諸島と竹島が学校教科書に日本固有の領土と載ったり、これまで長崎県五島市の××岩となっていた地名を××島と名称変更したりしたそうである。
岩を島とすることで、政府が領海の拡大を狙ったとしたら、けち臭いものだ。
領土問題にしても地名の改名にしても、今でなくても戦後いつでもできたことであり、これらは日本国内の不満を外国へ向けるための策略と考えられるだろう。
領海拡大が国益になるなら、昔からそうしていたはずである。
明治維新以降の日本の対外戦争は、国内不満を外国へ向ける意味もあった。
米国は尖閣諸島問題が近年持ち上がった当初、国家間の領土問題には介入しないと宣言していたが、後でそれを撤回し、尖閣諸島は日米安保条約の対象で米国が守ると言い出した。
米国は、キューバ侵攻を否定した自国の大統領を殺してしまうような反共の国である。
米国が日本と中ソとの戦争を望んでいないとどうして言えようか。
米国も日本同様巨額の財政赤字に悩んでおり、国民不満を外部に向けたがっているに違いない。
◎ 2014年2月1日 (土) FRB量的緩和策の結果検証
日経新聞(1/31)によると、2006年から2014年で米国の失業率は4.8%から6.7%に上昇、物価は3.6%から1.5%に下落、株価は10954ドルから15739ドルに上がったそうである。
これには、企業の預貯金の推移は載っていなかったが、日本同様、それも大幅に増えたはずである。
この数値の意味するところは、FRBによる量的緩和の結果、金持ちや企業の財務体質は健全化され、彼らは余剰資金で資産への投資を始めたが、国内経済は、やや不況になったという事である。
量的緩和で企業や金持ちがカネを手に入れることができたが、中間層や低所得者層の所得は変化しなかったから、このような結果になったと考えられる。
経済は、一部の金持ちが富を独占するよりは、中間層の人数が増える方が活性化する事が知られているから、量的緩和のカネが、金持ちや企業ではなく、低所得者層が中間層になるように仕組まれていたら、株価の伸びは抑えられ、失業率もあまり悪くならず、デフレの進行も抑えられただろう。
これは、国際経済でも同じである。
貧困国が新興国になれば、市場が増えて世界経済は活性化する。
現に日本経済は、中国や東南アジアに支えられている。
そのため、先進国は、貧困国の経済競争力強化に力を貸しても損はない。
リーマンショックで倒産する企業数を抑えることはできたが、その結果、共産主義化も加速されたと言える。
量的緩和で実質国営企業が増えたことで、今後、米国経済は長期低迷が予測される。
もちろん、それは、どこの国でも同じ事である。
しかし、ここで、企業に責めの経営を促しているわけではない。
企業が倒産しても、その代わりの新しい企業が登場すれば良いと言っているだけである。
同じ業種でも、企業によって社風は違うはずである。
経営者が変わるよりも社風が変わった方が変化は大きいのではないか。
長い目で見たら、GMは倒産させた方が良かったのではないか。
既にGMが世界シェアを失いつつある兆候があるようだ。
失業者が出ても対応できるように実存社会を造るべきである。
実存社会なら、一人当たりの生活保護費を減らせるから、企業の最低賃金を上げる必要もなくなる。
自由主義経済においては、賃金も市場原理に委ねられる。
労働力が足りないと企業は賃金を上げて労働者を手に入れようとするからである。
現に被災地の土木業は、他の地域に比べて、1.3倍ほどの賃金水準らしい。
実存社会は、現在の実質共産主義から自由主義への移行を促進してくれるのである。
◎ 2014年2月8日 (土) 遺体焼却場
「ペスト」を読んでて思い出したのだが、災害や戦争で多くの難民が発生した時、困るのが、住居と風呂と遺体焼却である。
住居と風呂は仮設物があるから、あまり問題にならなかったが、遺体焼却は未だに解決方法がない。
実存主義社会を造る時は、遺体焼却場の設置も必要である。
実存主義社会がまだ造られていない場合は、炭竈と石炭で遺体を焼いたらどうか。
竈はレンガを積み上げてその場で造るのである。
使い終わった竈は、壊して土中に埋める。
災害時しか使わない遺体焼却場など造っても蜘蛛の巣が張ったり、ボウフラが涌いたり、さび付いたりして使えないだけである。
◎ 2014年2月9日 (日) 持論論争
「ノアが、もうすぐ大洪水が来るから船を造れと言っています」
「持論だ」
「持論には根拠がないと言われますが、世の中の大半の事柄には根拠なんて無いもんなんですよ」
「持論だ」
「学者の意見だって根拠なんてなくて多数決で決まったことが社会に受け入れられていることも多いんですよ」
「持論だ」
(ああ、本当に洪水が来て皆、水没してしまった)
[教訓]多くの人々に支持されている学説が持論に対して持つ優位性など存在しないということ
◎ 2014年2月10日 (月) 福島県の問題
福島県は元々、過疎地で雇用を生み出すために原発を誘致した。
そのため、原発が無くなっただけでも、地域社会存亡の危機に立たされるのである。
更に原発事故の影響で、旅客も農産物の出荷も減って追い討ちをかける。
政府や専門家やマスコミなどがデタラメな情報を垂れ流した結果、現在の被災地は安全だと言ったところで誰も信用しない。
また、原発稼動に反対する人々は、事故の前後で何事も無く物事が進めば、稼動に歯止めをかけづらくなる。
そうは言っても、そろそろ旅客や農産物の影響は無くなっていく頃である。
放射線量が人体に影響ないくらい低いと言っても期待値に過ぎないのは事実だが、それが低いに越した事はないと言って極度に怖がるのは冷静な判断とはいえない。
しかし、原発が無いことで過疎化が進む問題だけは残る。
この問題を緩和するには、道州制を導入して、東京都の中央官庁を日本中に分散させるしかない。
中央官庁は、それ自体が巨大企業であり、これが存在する地域は、これを中心とした経済を構築できるからである。
例えば、愛知県にはトヨタ自動車があるが、それを中心とした経済ができている。
◎ 2014年2月12日 (水) ペスト(1)
カミュ「ペスト」新潮文庫
p.186『まるで兄弟のような気のする人物』
p.196『カステル老人は、間に合せの機材を用いて現場で血清を製造することに、あらゆる信念と精力を傾け尽していたのであった』
p.407『人間は聖者の徳の近似的なものにしか行き着けないのであろう。そうだとすれば、謙譲にして慈悲深いサタニズムをもって満足するほかあるまい』
医師リウーは、この小説のテーマを最も忠実に体現する中半者の主人公であり、カミュの分身でもある。
パヌルーはカトリックの司祭だが、実存主義者でもあるから異端の神父である。
タルーは、リウーとパヌルーを合体させた人物であり、カミュがこの小説の中では流れとして入れられない事柄や意見を入れるための便利屋のような役目を果たしている。また、彼は、本来リウーやパヌルーが話すべきセリフを話す便利屋でもあるが、リウーとパヌルーには思想に共通点がないから、現実では存在し得ないデタラメな人物になっている。
グランは、大災害の真っ只中でものんきにへぼ小説を書いている心優しい貧乏人の扱いである。
彼の役割は、危機的状況でも心に余裕を持つべきだとするカミュの主張の体現である。
非常事態に笑顔を見せる事は権力主義社会においては許されない行為だから、グランはその点においては「異邦人」のムルソーである。
カミュは、ランベールを典型的なムルソーとして描いているつもりだが、ムルソーの思想を今一つカミュがつかめていないため、やや食い違っている。
ムルソーは、視野が狭いせいで自分の事しか考えられない孤立した存在であるとカミュには解釈されており、それ(実存主義者)がリウーのような中半者になる過程をランベールが演じている。
コタールは、外部に敵を作って皆がそれを攻撃している間は皆は自分に危害を加えないだろうと考えている権力主義者として描かれている。
判事オトンは、タルーの父と同様に人間が人間を裁く権力主義の象徴に思われる。
喘息病みの爺さんは、時計なしの生活を送る世捨て人であり、自己の哲学を実生活で実践するという意味の実存主義者として描かれているのだろう。
猫に唾を吐きかける小柄な老人は、悪魔主義(サタニズム)の実践者らしいのだが、意味は分からない。
老医カステルは、ペストのワクチンを開発する原因究明者の位置づけだろう。
この小説で因果関係に基づいて問題を解決しようとしているのは、実はカステルだけである。
実は、パヌルーもそうなのだが、中半者のカミュには分からない。
保健隊のメンバーは誰一人、原因究明の意志すら持ち合わせていないのである。
医師は皆、患部を切開するのだが、これには別の意味があり、ペストの根本的解決とは無関係である。
彼らが因果関係を無視するのは、カミュの思想が関係している。
原因を究明せずに彼らがしている事は、ペストを収束させるための努力である。
つまり、カミュの主張はペストを消滅させる事ではなく、消滅させる努力をする事である。
消滅しなくても努力さえすればカミュは読者を赦してくれるのである。
他人への強制を何より優先させるこれは権力主義の考え方である。
以上より、この小説の登場人物は皆、わずかな観念を元に類型的で極端な描かれ方をしているのが分かる。
実在のモデルが存在するのは、おそらくリウーとパヌルーだけである。
リウーがテーマの体現者であるのに対し、パヌルーはその最大の反対者として描かれている。
実存主義や権力主義の性質が複数の人々に分散して存在しているのは、カミュが実存主義と権力主義をまとまった形で理解できていないからである。
まとまった形で(つまり思想体系として)理解できている人であれば、タルーを消去して、パヌルーとグランとランベールと喘息病みの爺さんとカステルを一人にコタールとオトンを一人にまとめ上げることができたはずである。中半者リウーも一人である。
もちろん、その場合は、こんな小説にはなるまい。
この中で病死するのは、タルーとオトンとパヌルーであり、コタールは刑務所行きである。
つまり、カミュの気に入らない人物が殺される仕組みになっているから、善人と悪人の区別が容易につく。
p.4『ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである。 ダニエル・デフォー』
あるものを別のものに置き換えて説明する場合、多く問題のすり替えが発生する。
そのため、同じくらい理にかなわないと解釈することも可能である。
それに対する反省から私小説(自然主義文学)は生まれた。
しかし、私小説にはテーマも筋も存在しないためメリハリがなく、読んでいて退屈である。
この小説の最初の論理的失敗は、疫病ペストの象徴として、実存主義と権力主義の対立がもたらす追放感と第二次世界大戦において国外脱出ができなかった状態と第二次世界大戦の元凶としての天罰の三つを持って来ていることである。
それぞれ性質が全く異なるため、最初からこの目論見は破綻しているのである。
これは後で説明する。
p.375『もうペスト患者にならないように』
p.376『人を死なせたり、死なせることを正当化したりする、いっさいのものを拒否しようと決心したのだ』
ペストが何の象徴(この小説内では象徴と呼ばず抽象と呼んでいる)かが、最後の方で明かされる。
それは、人を死なせる一切のものである。
ペスト患者とは、死刑であれなんであれ、人が殺されるのを是認する人の事である。
実存主義者も権力主義者も皆で協力して人を死なせる一切のものを否定しようというのがこの小説のテーマである。
カミュにしてみたら、戦争であれ天罰であれ、人が死ぬのであれば止めなくてはならないというわけである。
しかし、これはあまりにも単純すぎる考え方である。
その結果、彼は問題解決のために原因を究明する意志を放棄してしまったのである。
とにかく何でも止めればいいわけだから、原因を探って根本的な問題解決などしなくてもいいのである。
だから、彼はあらゆる物事についてその構造を知らないし知ろうともしない。
本質の追究をしない彼は永遠に何も知らない子供のままである。
お釈迦様は、問題解決には因果関係が重要だと言っているのに彼はそれを鼻から無視するのである。
実存主義者は、根本的問題解決をはかるため、常に原因や本質を追究するものである。
ここが、パヌルーとリウーの違いなのである。
p.36『この記録たるや、かまえて些末事ばかりをとりあげる方針に従ったと思われる』
これは、タルーにテーマから外れた事柄を説明する役が与えられていることを示す。
この小説では、テーマ以外にも、実存主義や権力主義の色々な例を紹介しているのである。
p.65『(リウーはグランが)歴史上の大規模なペストの1つの渦中にある姿を想像してみるのであった。「あれこそそういう場合に無事に見逃されるという種類の人間だ」』
p.169『これほどまで善良さの表れている目つきは、常にペストに打ち勝つであろう』
p.70『ペストはわが市民の間には将来性なしと判断したのであった』
p.134『ある人々が抽象を見たところに、ある人々は真理の姿を見ていた』
p.136『皆さん、あなたがたは禍の中にいます。皆さん、それは当然の報いなのであります。』
p.146『すなわち自分たちは何か知らない罪を犯した罰として、想像を絶した監禁状態に服させられているのだという観念』
p.252『病疫は、同時に、伝統的な結合を破壊し、また各個人をめいめいの孤独に追いやっていたのである。市の各門口はまたしても、夜間、何回となく、しかも今度は武装された小集団によって襲撃された。銃火の応酬、負傷者、そして若干の逃亡があった。火災をこうむった、あるいは保健上の理由から閉鎖された家屋が、略奪されたのである』
ここで、まとめたのは、ペストが天罰の比喩として記されている事柄である。
グランは、他人が落としたペンを拾ってあげたり、自殺未遂者の付き添いをしてあげたりする臨時市役所員である。
善良な目つきをしているのは、リウーの母である。
グランとリウーの母は、性格がいいからペストにはかからないとリウーとタルーは言う。
抽象を見た『ある人々』とは、ランベールのようなムルソー型の人間の事である。
抽象に真理の姿を見ていた『ある人々』とは、パヌルーのような天罰主義者の事である。
ランベールは保健隊に加わって天罰と戦うのを拒絶し、パヌルーは天罰が来たから、それを受けないようにするために民衆に実存主義者になれと促す。
『伝統的な結合』とはコミュニティの事である。
コミュニティが破壊され、人々は孤立し、犯罪が横行する状況を説明している。
これは、正に旧約聖書に記されているバベルの塔の状況であり、おそらく、戦争前はそんな状態だったのであろう。
p.102『その道がちょうど、別の時代に、いまいないその人と一緒に歩き回った道だという結果になるのであった』
p.108『市民の中のある連中の場合など、彼らはそこでまた別の奴隷状態に陥り、太陽と雨によって意のままに支配される人間になってしまった』
p.169『災禍の初めとそれが終わったときとには、人々は常に多少の修辞を行うものだ。第一の場合には、習慣がまだ失われてないのであり、第二の場合には、習慣が早くも回復されているのである。』
p.250『ペストは兵士、修道者、あるいは囚人など、すべて集団をなして生活する習慣を身に付けた人々に対して特に猛威をたくましくするように思われた』
p.204『愛するか、あるいはともに死ぬかだ、それ以外に術はないのだ』
p.241『こいつ(ペスト)の正体はしょっちゅう繰り返すってことなんです』
p.269『ペストはすべての者から、恋愛と、さらに友情の能力さえも奪ってしまった。なぜなら、愛は幾らかの未来を要求するものであり、しかもわれわれにとってはもはや刻々の瞬間しか存在しなかったからである』
p.270『今では、反対に彼らは他人が興味をもつことにしか興味をもたず、一般的な考えしかもたなくなり』
p.271『朝になると、彼らは再び天災へ、すなわちおきまりの習慣へもどって行ったのである』
p.377『僕が人を殺すことを断念した瞬間から、決定的な追放に処せられた身となったこと、を知っている。歴史を作るのはほかの連中なのだ。理性的な殺人者というものには、そうなれる一つの特質があって、それが僕には欠けているのだ』
ここで、まとめたのは、ペストによる隔離が権力主義社会から実存主義者が追放された状態の比喩として記されている事柄である。
ここには、おそらく、ニーチェの「ツァラトストラかく語りき」から得られた知識が記されている。
例えば、『別の時代』の誰かと一緒にというのは、永劫回帰の思想の影響だろう。
過去にも実存主義者が何人もいた事は小説などから分かる。
『奴隷状態』や『支配』というのは、権力主義のキーワードの一つである。
変わらぬ『習慣』とは、文化や慣習の事だろう。
『集団をなして生活する習慣を身に付けた人々』は、権力主義者の事である。
『愛するか、あるいはともに死ぬか』は、実存主義か権力主義かの二者択一の事である。
『しょっちゅう繰り返す』も慣習もしくは、永劫回帰だろう。
『刻々の瞬間しか存在しな』いのは、権力主義者に人生を妨害されて、将来設計や目標が描けなくなり、その場その場の対応しかできなくなるからである。
しかし、これは、危機的状況であれば、誰でもそうなってしまうものでもあるだろう。
世の中には『他人が興味をもつ』ものばかりを欲しがったり、それを他人に見せて自慢する事を楽しみにしている人も多いが、他人あっての自分という相対の世界で生きているのだろう。
こういう人々は、自分の周囲に一人も人がいなくなったら、自分の存在意義も見失うに違いない。
実存主義は自律の思想であり、それは「隻手の音声」である。
『歴史を作るのはほかの連中』の『連中』とは権力主義者の事であり、事実、社会の大半は権力主義者であり、文化も慣習もそれが中心になっている。
『理性的な殺人者』とは、他人の命令で殺人が出来る人々の事であり、これも権力主義者である。
リウーは集団に意志・判断を預けていないから、それができないのであり、少なくとも彼が権力主義者でないのは確かだろう。
p.168『今度のペストは観光旅行の破滅であった』
p.350『新聞は当然、何ごとがあろうとも楽観主義をという、常々教えられている禁令に従っていた』
p.288『必需品が大部分の者に欠乏していた反面に、このときほど余計なものが乱費されたことはなかった』
p.360『うまい汁を吸うのはいつもおんなじ連中だし、そんなことを続けていればいつかは運の尽きってことにもなるし、そこで多分−と、爺さんはここでもみ手をした−一騒動あるだろう』
p.285『あるのはただ、特赦のうちでも最も自由裁量的な特赦を待っている受刑者のむれだけであり、しかもそのなかには警官たちも含まれているのである』
ここで、まとめたのは、ペストによる隔離が第二次世界大戦の比喩として記されている事柄である。
当時は食料品はなかったが、軍需産業は活況を呈した。
また、大戦前はバブル経済でも発生していたのだろう。
戦時においては、敵に対する殺人を含むあらゆる犯罪が容認されやすく、警官も例外ではない。
p.202『毎晩、電波に乗ってあるいは新聞紙上で、同情的なあるいは賞賛的な注釈の言葉が、あれ以来孤立しているこの町めがけてとびかかって来た』
p.464『この作品が、こんな爆発的な成功を収めた理由はなんであろうか?』
権力主義者は、社会を維持するための英雄的行為には賞賛を送るものである。
原発事故の際には、世界中から賞賛が消防隊員に送られた。
この小説が世界中から絶賛されたのも同じ理由からである。
原発事故の消防隊とペストの保健隊とはピタリと符合するはずである。
原発や天罰などに異見を持たずに無条件に社会の維持のために命を投げ出す行為が絶賛されたのである。
いつも他人に尻拭いをしてもらえるから国や国民は好き放題できるというわけである。
おかげで政府は反省など一切せずに原発は社会維持に必要な電力源だなどと言っている。
カミュは人間の命を軽んずる事はできないと言いながら、それを軽くしているのである。
原発やペストが無くなれば命も軽くならずに済むのだが、その事に彼は頭が回らない。
原因を追究しないからである。
p.95『ペスト地区たることを宣言し、市を閉鎖せよ』
p.102『ペストがわが市民にもたらした最初のものは、つまり追放の状態であった』
p.96『この瞬間から、ペストはわれわれすべての者の事件となったということができる』
p.194『保健隊に献身的に働いた人々も、事実そうたいして奇特なことをしたわけではなく、つまり彼らはこれこそなすべき唯一のことであるのを知っていたのであって、それを決意しないことのほうが、当時としてはむしろ信じられぬことだったかもしれないのである』
p.235『疫病はみんな一人一人の問題であり、一人一人が自分の義務を果たすべきであること、をいった。奉仕隊はすべての人々に開放されているのだ』
p.457『人々は相変わらず同じようだった。しかし、それが彼らの強味、彼らの罪のなさであり、そしてその点においてこそ、あらゆる苦悩を越えてリウーは自分が彼らと一つになることを感じるのであった』
p.375『誰に対しても不倶戴天の敵にはなるまいと努めているのだ』
p.247『たとえば、ランベールなどは、自分がまだ自由な人間として行動しているのであり、まだ自分で選択することができるものと、思うことにさえ成功していたことがわかる』
ここで、まとめたのは、連帯に関する記述である。
くどいほど、隔離状態を作り上げたり、連帯させたりしている。
「革命か反抗か」の p.17 に『異邦人意識にとらわれた精神の最初の進歩は、この意識を万人と共有していることを認めることだ・・・個人を苦しめた病気が、集団的ペストになる』とあるように、「ペスト」は連帯して逆境に立ち向かうこともテーマにしている。
本来、「異邦人」は、権力主義と実存主義の違いを書いたものなのだが、カミュは、この違いが実存主義者にもたらす社会からの追放感と戦争で国民が国外に出られなくなった状態とを、ペストによって外部から隔離された状態で表現した。
これにより、彼は実存主義者と権力主義者を同じグループに入れる事に成功したのである。
カミュは、両者を同じグループに入れるために、この小説で連帯をテーマとしたのである。
『人々は相変わらず同じようだった』とすることで、この実存主義者と権力主義者の集団は、社会変革を望まないのだと権力主義者に配慮を示している。
つまり、権力主義社会はそのままに、実存主義と権力主義がお互いに妥協しながら上手くやっていこうというのがカミュの狙いだろう。
その妥協というのが、「とにかく、人殺しは止めるのだ」という一点だけを目的にすることである。
一つだけの約束なら誰もが守れるに違いないと彼は踏んだのである。
しかし、この両者を同じグループに入れるための強引な手法は、無理がある。
実存主義者の場合は二律背反であり、戦争の場合は監禁であり、ペストの場合は隔離だからである。
監禁と隔離は似たようなものだが、二律背反は意味が全く違うから一緒に出来ない。
また、権力主義のルールからすると、この約束は一蹴されるだろう。
実存主義のルールが厳密であるように権力主義のルールも厳密であり、一つたりとも例外は許されない。
カミュは権力主義についての知識が皆無に近いから、それが分からないのだろう。
カミュの連帯は団結ではない。
連帯には個人の意思が許されるが団結にはそれが許されないという違いがある。
権力主義者ではないカミュは団結が嫌いなのである。
p.123『ある女と一緒に暮らすために生まれてきたのかもしれないんです』
p.431『ペストとの生のかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。おそらくはこれが、勝負に勝つとタルーの呼んでいたところのものなのだ!』
p.375『心の平和を、あるいはそれがえられなければ恥ずかしからぬ死を』
p.432『希望なくして心の平和はない。そして、何びとたりとも断罪する権利を人間に認めなかったタルー』
p.432『タルーは、分裂と矛盾のなかに生きてきたのであり、希望というものはついに知ることがなかったのである』
『女と一緒に暮らすため』と言っているのはランベールである。
リウー(カミュ)の求めるものは、恋愛と友情である。
タルー(パヌルー)の求めるものは、心の平和である。
カミュは、タルーのようなタイプの人(つまり実存主義者)は、社会や権力主義、実存主義などの知識や子供の頃の思い出しか手に入れられない寂しい人生を送るしかなく、心の平和の意味など知るものかと考えている。
それに引き換え、恋愛や友情を手に入れようとする人々は現実の人生を有意義に過ごせるのだと考えている。
タルーやパヌルーの言う心の平和とは、自分の行動に後悔しない事である。
自分の行動に後悔しないほどに行動が改まった時、彼らは心の平和を手に入れるのである。
この後悔こそが、キリスト教における聖霊であり、また恩寵である。つまり、理性である。
『何びとたりとも断罪する権利を人間に認めなかった』のは道理(つまり神)に裁判権を委ねるからである。
このセリフはパヌルーでも良かったのである。
例えば、一人対百人の対立で、この一人は百人に対して同じだけの裁き(仕返し)を与えなくては不公平だが、土台無理である。
しかし、道理に任せておけば、全員に適切な量の裁きを与えてくれるのである。
老子の天網恢恢疎にして漏らさずである。
これが、実存主義の無抵抗主義である。
ただし、実存主義の道理に基づいているから、実存主義者ならではの考え方である。
『分裂と矛盾』の意味は、タルーが誰も断罪しないようにしていたのに対し、世間は断罪ばかりしている状態を指している。
しかし、本来、分裂と矛盾というのは自己について使われる語であり、自他の関係に使われるものではない。
タルー自身においては、分裂も矛盾もない。
むしろ、それらを抱えているのはカミュの方である。
『希望』の意味は恋愛と友情である。
p.427『リンパ腺は腫脹がとまっていた。それは相変わらずそのまま雌螺旋のようにかたく関節のくぼみにねじ込まれていて、リウーはそれを切開することは不可能だと判断した』
p.445『これに反して、人間を越えて、自分にも想像さえつかぬような何ものかに目を向けていた人々すべてに対しては、答えはついに来なかった』
タルーのリンパ腺だけはリウーには切開できなかった。
そして、タルーとパヌルーについての答えはリウーには分からなかった。
これらの事から、リンパ腺の切開は、患者の思想を解明する事の比喩である事が分かる。
医師リウーの仕事は、患者の思想を診て、人殺しを止めさせる事である。
p.126『あなたは抽象の世界にいるんです』
p.129『その抽象がこっちを殺しにかかって来たら、抽象だって相手にしなければならぬのだ』
p.133『抽象と戦うためには、多少抽象に似なければならない』
p.128『自分たち二人が合致しうる面があるに違いないのだ』
p.133『リウーもランベールがなるほどある意味においては正しいことを知っていた』
p.187『僕は、そのころ若かったし、自分の嫌悪は世界の秩序そのものに向けられていると思っていました』
p.127『公共の福祉ってものは一人一人の幸福によって作られてるんですからね』
p.133『一人一人の幸福とペストの抽象との陰鬱な戦い』
ここで、まとめたのは、ランベールのようなムルソー型の人々に関する記述である。
「異邦人」においてムルソーに体現されたのは、周囲の慣習や常識を鵜呑みにせず、自分が正しいと思ったことだけを実行する思想である。
彼においては、慣習や常識は彼自身によってその有効性が確認されたものではないため、それらは抽象なのである。
彼は正しい事を自分自身の経験において確認した具体だけを実行するのである。
彼はほんのわずかでも自分が間違った事をするのが許せない人間なのである。
ただし、この間違った事というのも一般常識から見たものではなく、主観的に正しいと考えたものである。
この衝動は、彼の理性がもたらすものである。
これが出来ない間は彼に心の平和はないのである。
努力の結果、心の平和は手に入れられるのか?
実存哲学が完成したら、それは手に入るのである。
老子は、おそらく手に入れている。
カミュもその考え方には共感し、実践もしている。
『自分の嫌悪は世界の秩序そのものに向けられていると思っていた』のは、リウーである。
カミュは世界の秩序という抽象を否定し、命の尊重という具体を取ったのである。
しかし、彼にはムルソーが自分一人の事で帰結してしまっているように感じるのである。
だから、上座部仏教のムルソーを大乗仏教にと考えるならまだましなのだが、そうではなく、大衆が人殺しを止めるように働きかける作業を彼に促しているのである。
その際は当然、ムルソーの思想は大衆に伝達する必要がない。
俺は、上座部仏教は正しいと思っている。
確かに権力主義についての知識は持つべきだが、他人の意思を変えるように強制する権利は誰にもないわけであり、そうなると少なくとも自分がどう生きるべきかは自分の哲学が教えてくれるわけだから、外部の事に干渉する必要はないのである。
しかし、強制(布教)はしなくても、彼の哲学の紹介はすべきである。
どう生きればいいか分からずに困っている人々も大勢いるからである。
世の中に一人でも不幸な人間がいれば、彼の幸福にもいつかは影が差すのである。
公共福祉は、一人一人の幸福によって作られるべきだというカミュの意見は、実存主義である。
社会全体の幸福は、一人一人の人権が守られてこそ成り立つという考え方だからである。
福祉とは、幸福のことである。
誰か一人でも不幸な人間がいれば、それは幸福な社会ではないのである。
なぜなら、その不幸は、いつかは他の誰かの不幸になるからである。
しかし、誰もそうなる事を求めていないし、実際の運用も、そうはなっていない。
利益は権力闘争によって勝ち取るものだとする権力主義のルールに反するからである。
そのため、社会福祉の対象は基本的に労働者になり、生活保護も審査があるし、公園のホームレスの家は撤去されるし、生体移植法も国会で可決される。
p.244『「そうでしょう。そのくせ、あなたがたは一つの観念のためには死ねるんです。ところがです、僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。僕はヒロイズムというものを信用しません。僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです。僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです」
「人間は観念じゃないですよ、ランベール君」
「観念ですよ、しかもまるでちっぽけな観念なんです、人間が愛というものに背を向けたってことになれば。ところでまさに、われわれはもう愛というものをもちこたえられなくなってしまったんです。そう思って、あきらめることですね。いつかは、それができるようになるのを期待するとして、もしいよいよそれが不可能ときまったら、万人必定の解放の日を待つばかりです、ヒーローを気取ったりしないでね」
「今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです」
「知ってますか、リウーの細君は療養所にいるんですよ、ここから何百キロか離れた」
「僕もご一緒に働かせていただけますか」』
観念と抽象は、ここでは同じ意味である。
ここでのヒロイズムはイデオロギーの事だろう。カミュに対しては殺人を止めさせる事である。
ランベールは、恋愛が自分の具体だから、同じ状況にリウーがいると知っただけで、桃太郎の動物のように簡単に家来になったのである。
実は、命の尊重以外にも恋愛と友情もカミュの具体である。
しかし、恋愛と友情は、権力主義にもきまぐれにも簡単に裏切られるものである。
さぞかし、振り回される人生になるだろう。
人生経験豊富な実存主義者には、ありえない選択である。
愛するもののために死ぬというのも相手に騙されて死ぬ可能性について考えるべきである。
例えば、チョウセンに騙された呂布とか。
呂布はチョウセンを愛していたはずだが、呂布はあの世で後悔してないか?
とかくカミュは浅慮である。
『人間は観念じゃないですよ』は、「人間の命は観念じゃないですよ」という意味だろう。
しかし、原因追究を止めた時、命の尊重すらも具体になりえず抽象に堕するのは既に説明した。
「俺はペストじゃないのに何で出て行っちゃ行かんのだ?」というランベールの意見は実存主義として正しいから、仮に彼が最後まで彼の意志を貫き通したとしても上手く行く。
彼の意志を強固に貫くとしたら、先ず、医師が診察してペストにかかっていない人々を別の隔離された場所で共同生活させる。
一ヶ月間、メンバーが誰一人、発病しなかったのが確認されたら、自由を与えるという方法である。
これなら、患者数を大幅に削減できる。
ランベールのように万人が反対しても自らが正しいことを貫く意志がなければ、このような建設的な解決策は出てこない。
リウーのように「自分ひとりだけが助かりたいだと?貴様それでも人間か?」と言ってしまうと、永遠にこの発想は出てこない。
この発想は、ランベールの意見の延長上にあり、リウーの意見の延長上にはないからである。
仲間を見捨てるという発想ができないリウーの意見では誰も町から出る事が許されず、真っ先に棄却されることになる。
真に正しい意見であれば、打開策は必ず存在するものである。
逆に間違っていれば、絶対に打開策は存在しないものである。
意見が百あれば、その内、真に正しい意見は一つくらいしかない。
その百に一つの正解を導き出すために作られたのが実存哲学である。
そうであればこそ、実存主義者は実存主義を強く推奨するのである。
ただし、実存哲学は方法論ではなく人生論だから権力主義者には使えない。
もちろん、新しい解決策が出てきた時点で、この小説は前提からして破綻する。
こういう論理的な小説は、テーマよりも例外の方が優先されるから、一つでも例外が存在するなら小説として成立しない。
論理的小説でテーマが例外よりも優先されるなら、夢想に過ぎないから嘲笑の対象にしかならないからである。
◎ 2014年2月13日 (木) ペスト(2)
カミュ「ペスト」新潮文庫
p.183『「私はあんまり病院のなかでばかり暮らしてきたので、集団的懲罰などという観念は好きになれませんね。しかし、なにしろ、キリスト教徒っていうのは時々あんなふうなことをいうものです、実際には決してそう思ってもいないで。」』
p.183『「そのくせ、あなたもやっぱりパヌルーのように考えているんでしょう、ペストにもいい効能がある、人の眼を開かせ、考えざるをえなくなる、っていうふうに?」
医師はいらだたしげに頭を振った。
「それは、この世のあらゆる病気がそうだという意味でね。しかし、この世の不幸というものに関して事実であることは、ペストの場合にも事実です。それはある人々を大ならしめるために役立つことがあります。しかしながら、それがもたらす悲惨と苦痛を見たら、それこそ気違いか、盲人か、卑怯者でない限り、ペストに対して諦めるなどということはできないはずです」』
p.184『「神を信じていますか、あなたは?」
質問はまた自然な調子でなされた。しかし、今度はリウーはちょっとためらった。
「信じていません。しかし、それは一体どういうことか。私は暗夜のなかにいる。そうしてそのなかでなんとかしてはっきり見きわめようと努めているのです。もうとっくの昔に、私はそんなことを別に変わったことだとは思わなくなっていたのですがね」
「つまりそこじゃありませんか、あなたとパヌルーとの違いは?」
「そうは思いませんね。パヌルーは書斎の人間です。人の死ぬところを十分見たことがないんです。だから、真理の名において語ったりするんですよ。しかし、どんなつまらない田舎の牧師でも、ちゃんと教区の人々に接触して、臨終の人間の息の音を聞いたことのあるものなら、私と同じように考えますよ。その悲惨のすぐれたゆえんを証明しようとしたりする前に、まずその手当てをするでしょう」』
p.185『もし自分が全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて、そんな心配はそうなれば神に任せてしまうだろう、といった。しかし、世に何びとも、たといそれを信じていると信じているパヌルーといえども、かかる種類の神を信じてはいないのであって、その証拠には何びとも完全に自分をうち任せてしまうということはしないし、そして少なくともこの点においては、彼リウーも、あるがままの被造世界と戦うことによって、真理への路上にあると信じているのだ』
p.188『「これは、あなたのような人には理解できることではないかと思うのですがね、とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです、神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」
「なるほど」と、タルーはうなずいた。「いわれる意味はわかります。しかし、あなたの勝利は常に一時的なものですね。ただそれだけですよ」
リウーは暗い気持ちになったようであった。
「常にね、それは知っています。それだからって戦いをやめる理由にはなりません」』
p.195『新たな道学者が当時は大勢市内に横行し、何ものもなんの役にも立たないし、ひざまずくよりしかたがないとふれ歩いていた。そしてタルーも、リウーも、彼らの友だちも〜結論はいつも〜戦うべきでひざまずいてはならぬということであった』
p.197『現にペストってものがあるんですから、とにかく防がなきゃなりません。これはわかりきったことです』
p.377『この地上には天災と犠牲者というものがあるということ、そうして、できうるかぎり天災に与することを拒否しなければならぬということだ』
p.334『子供の苦しみは、われわれの苦きパンであるが、しかしこのパンなくしては、われわれの魂はその精神的な飢えのために死滅するであろう』
p.448『あの男の唯一のほんとうの罪は、子供たちや人々を死なせたところのものを、心のなかで是認していたことだ』
p.223『「彼があの説教よりはましな人間だとわかっただけでもうれしいね」』
p.322『「それがわれわれの尺度を越えたことだからです。しかし、おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」
「そんなことはありません。僕は愛というものをもっと違ったふうに考えています。そうして、子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯じえません」
「私には今やっとわかりました、恩寵といわれているのはどういうことか」
「それは僕にはないものです、確かに。しかし、僕はそんなことをあなたと議論したいとは思いません。われわれは一緒に働いているんです。冒涜や祈祷を越えてわれわれを結びつける何ものかのために」』
p.473『彼が死の直前に呟く「悪霊」のキリロフの言葉−「すべてはいいのだ!」は、リウーの断じて容認しえぬものである』
p.331『皆さん。そのときは来ました。すべてを信ずるか、さもなければすべてを否定するかであります』
p.331『神父は異端すれすれのところまで行っている』
p.332『ある涜神的な著者が、最近の世紀に、教会の秘密を暴くと称して、煉獄なるものは存在しないと断言したことがある。その著者がそういう言い方で言外ににおわせようとしたことは、中途半端な度合いというものは存在しないということ、天国と地獄だけしか存在しないということ、そして人は自ら選んだところに従って救われるか、あるいはおとされるかする以外にはありえないということであった、これはパヌルーのいうところを信ずるならば、放縦な魂のなかにしか生れえない類の異端である。なぜなら、煉獄というものはやはり存在するからである』
煉獄・・・カトリック教で、死者が天国に入る前に、その霊が火によって罪を浄化されると信じられている場所。天国と地獄との間。
p.333『全的な受容という徳−これは屈従であるが、しかし屈従する者が自ら同意している屈従である』
p.337『神への愛は困難な愛であります。それは自我の全面的放棄と、わが身の蔑視を前提としております』
p.342『神父がその診察を拒むのは、つまりそれが彼の主義と一致しないからだ』
p.334『キリスト教徒の保健班に自分たちの衣類を投げつけながら、神のつかわされた災いに抗おうとするこの不信者たちにペストをお送りくださるよう、声に出して天に祈願したあのペルシャのペスト患者たちを見習おうなどとは考えることさえすべきではない。しかし、逆にまた、前世紀の疫病の際に、病毒が宿っていることのありうる湿潤温暖な口との接触を避けるために、ピンセットで聖体のパンをつまみながら聖体拝領をさせていた、カイロの修道士たちもやはりまねるべきではない』
p.339『「パヌルーの考えは正しいね」と、タルーはいった。「罪なき者が目をつぶされるとなれば、キリスト教徒は、信仰を失うか、さもなければ目をつぶされることを受けいれるかだ。パヌルーは、信仰を失いたくない。とことんまで行くつもりなのだ」』
p.470『カミュがこの作品を、彼の書いた最も反キリスト教的な作品と称している』
p.336『ここで、パヌルー神父は、マルセイユのペストの際のベンザンス司教という格式高い人物の姿をもち出した。彼が指摘するには、疫病の終わりの頃、司教はなすべきことをすべてし尽くしたあげく、もう手段はないものと信じ、食料を蓄えて家に閉じこもり、その家には塀をめぐらした。それまで、彼を偶像と崇めていた町の住民たちは、極度の悲しみの際によく見られるような、感情的な反動で、司教に対して憤慨し、その家の周囲に死体を積み上げて感染させようとし、もっと確実に死なしてやろうとして、塀のなかへ死体を投げ込んだりまでした。そんなわけで、司教は最後の心弱さから、死の世界のなかでひとり孤立することができたように思っていたのであるが、死者たちは空から彼の頭上に降って来たのであった。われわれの場合もまたそれと同様であり、ペストのなかに離れ島はないことを、しっかり心に言い聞かせておかねばならぬ』
p.307『しかし、自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです』
p.374『一度譲歩してしまったら、もう途中で立ち止まる理由はないのだ』
p.222『「僕は自分が卑怯者ではないと信じています。ただ、僕にはどうしても堪えられない考えってものがあるんです」』
p.243『僕はスペインの戦争もやりましたからね』
p.243『負けたほうの側です』
ネルソン・・・イギリスの提督。1793年以降フランス軍と各地に転戦して右眼・右腕を失い、98年ナイル河口アブキール湾でフランス艦隊を撃滅、1805年フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー沖に撃滅し、自らも戦死。(1758〜1805)
ここで、まとめたのは、パヌルーに関する記述である。
リウーはパヌルーが、ペストは天罰で、それによる『悲惨のすぐれたゆえんを証明しようとしたりする』だけで、『その手当て』をしない人間だと思っている。
リウーは、神が人々に天罰を与える理由を『天上の世界』と呼ばれる理想社会をこの世に実現するためだと考えており、『この世の秩序が死の掟に支配されている』ことを受容し、神の要求する理想社会の実現などは無視し、天罰と戦うべきだと訴える。
このパヌルーが曲者で、実存主義者っぽいキリスト教徒の上に、カミュはパヌルーのモデルになった人の考え方が分かっていないから、出来損ないのキャラクターであり、考察の対象にするのは難しい。
パヌルーは抜きにして、実存主義における天罰について説明すると、実存主義者は自分の哲学を構築するに当たり、最も理想的な人生や社会はいかなるものかについて考えるのである。
それは、空想によるものではなく、この物質世界において最適化されたものという意味である。
最適化された人生や社会というものが存在するならば、その形態から外れれば外れるほど社会が維持不可能になるのは当然である。
これが、天罰である。
その最適化された人生や社会の基盤となっているのが実存主義の道理である。
よって道理から外れたら、外れた社会と人々は天罰を受ける事になる。
こういう仕組みだから、本来、神は存在しない。
あるのは道理だけである。
キリストの思想は、本来こういうものであり、神とは道理を擬人化したものである。
もちろん、最適化と言っても、実存主義者がそう思っているだけなのだが、本人の人生経験において確認されているのである。
こういう背景があるから、実存主義者は、社会や権力主義者が天罰を受ける理由を知っている。
つまり、どうやったら、天罰を受けずに済むかを知っているのである。
それは、実存主義を社会と万人が受けいれることである。
しかし、カミュは『死の掟』と呼ばれる権力主義を受けいれ、実存主義は無視すると主張する。
人々がカミュのように権力主義を受けいれる限りは、決して天罰が止むことはないのである。
カミュは、天罰の根本原因には手をつけないと宣言した上で、皆で天罰を撲滅しようと訴える。
パヌルーは、リウーの予想に反して、保健隊に加入する。
実は、パヌルーも天罰を歓迎しているわけではないからである。
ただ、パヌルーはリウーと違って、この天罰が根本原因を除去しない限り、永遠に終わらないことを知っている。
だから、パヌルーは保健隊の仕事よりも根本原因除去を訴えるのである。
この構図は、現実においてもよく見かける。
既に説明した原発事故の消防隊以外にも、太平洋戦争の特攻隊、シリア内戦の国連などがある。
どれも根本原因には一切手をつけず、カミュの主張するように死人や怪我人の世話などに終始している。
天罰そのものが除去されないならカミュの主張は焼け石に水である。
例えば、医師は、ネルソン提督を死なせるために治したのか。
タルーがリウーに『あなたの勝利は常に一時的』と言うのは、そういう意味である。
天罰そのものが消滅しない限りは、世界に平和はない。
リウーが『私は暗夜のなかにいる』と言うのは事実だが、『そのなかでなんとかしてはっきり見きわめようと努めている』のは嘘である。
彼は、問題の根本原因の追究と解決を放棄している。
彼が『子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯じえません』と言うのは『死の掟』を受容する前言に矛盾する。
パヌルーが加入を決めたのは、『冒涜や祈祷を越えてわれわれを結びつける何ものかのため』ではなく、彼の信仰(哲学)が、それに則しているからである。
実存主義者は『われわれの尺度を越えたこと』にあらゆる裁きを委ねる。
一人の人間に出来る事は、ほとんどないに等しいし、敵対する人々の数は膨大だからである。
実存主義者には、現実世界の道理という味方があるから、それが可能になる。
そのため、優れた実存主義者は基本的に無抵抗主義者である。
それをパヌルーは『屈従』あるいは『自我の全面的放棄』、『わが身の蔑視』と呼ぶが、これはキリスト教の教義であって、実存主義とは正反対である。
実存主義者なら、「自律」、「自我の全面的保持」、「尊厳」と呼ぶのである。
タルーが死の直前に呟く『「すべてはいいのだ!」』は、タルーがキリロフと同じタイプの人間である事を示す。
カミュは、ドストエフスキーやディックと同じようにこの小説で実存主義者を非難しているのである。
ただし、カミュは、ドストエフスキーやディックのようなキリスト教徒ではない。
「シーシュポスの神話」ではカミュは、キリロフに賛同していたから、この「ペスト」において実存主義から反実存主義へと宗旨替えしたのである。
『煉獄』は、中半者を実存主義者にするための試練のようなものらしい。
パヌルーが保健隊に加入しないで神の裁きにすべてを委ねるのであれば、パヌルーの病気も神が治してくれるはずだから、彼は医者にかかる必要がないとカミュは考える。
だから、カミュはパヌルーを医者にかかれないようにした。
しかし、パヌルーは保健隊に加入したのであり、カミュのこの論理は成立しない。
そもそも神は天罰は与えるが治療は行わないのである。
道理に外れている人間には天罰を与えるが、道理に沿っている人間には何もしないだけである。
カミュは神を何でもしてくれる便利な存在だと勘違いしている。
実存主義者が神に任せるのは、人生や社会の成り行き、即ち運命である。
他の事までは任せない。
神が飯を用意してくれるわけでも歯を磨いてくれるわけでもない。
パヌルーは、『ペルシャのペスト患者たち』を非難しているように、天罰を望んでいるわけではない。
『カイロの修道士たち』が間違っているかどうかは別にして、天災や事故等への過度の拒絶反応は避けたほうが良いに違いない。
『罪なき者が目をつぶされるとなれば、キリスト教徒は、信仰を失うか、さもなければ目をつぶされることを受けいれるかだ』というのは、世界に道理(神)が存在しないなら、実存主義者は権力主義に宗旨替えするか道理がなくても実存主義を続けるだろうという意味である。
カミュが、このタルーの発言の意味を理解できていたとは思えないから、受け売りだろう。
この小説は『反キリスト教的な作品』ではなく反実存主義的な作品である。
『ベンザンス司教』も、ペストが天罰である事を知っており、保健隊のような仕事にも従事していたのだが、根本原因が除去できない限りは手の打ちようがないと断念したのである。
そのため、彼の引きこもりは妥当な態度であり、非難の対象にはならない。
国家や世間による彼への暴力や嫌がらせを恐れて、彼らの言いなりになるなら、今後の彼の人生は間違いなく彼らの奴隷である。
権力主義は個人を集団のために使役させることをルールの一つとしているからである。
『ベンザンス司教』の事件をカミュはパヌルーに語らせ、『離れ島はない』と結論しているが、これは、むしろ、リウーのセリフである。
これにより、カミュが『死の掟』の社会を容認した真相が分かる。
国家や世間から迫害されるのが彼は怖かったのである。
それだけが彼が権力主義社会を受けいれてしまう理由だったのである。
その結果、彼はペストを根本的に解決するための意志を放棄してしまったのである。
ランベールが『自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです』と言う時も、一人だけ脱出した自分を彼女は責めないだろうか、裏切らないだろうかと危惧した結果である。
これも、世間体が気になったのである。
世間に合わせて彼女が自我を放棄したら、恋愛至上主義の彼も自我を放棄せざるを得ず、実際放棄したのである。
カミュは『一度譲歩してしまったら、もう途中で立ち止まる理由はないのだ』などと言っておきながら、国家や世間が怖くて、根本原因追究の必然性を譲歩してしまったのである。
カミュは、アルジェリアでレジスタンス、つまり『負けたほうの側』に加入した自分の勇気を誇示するのだが、権力主義者は自殺するほど国家や世間を恐れるのであって、こんなものは『卑怯者』ではないにしても臆病者でない証明にはならない。
つまり、この恐怖こそが、カミュを実存主義者ではなく、中半者に引き止めていた要因かもしれない。
しかし、カミュに権力主義や実存主義の知識が俺に比べて圧倒的に不足しているのも事実だろう。
しかし、重要な知識は自分の命を危険にさらさないと決して手に入らないものである。
この小説全体に、ドストエフスキーやディック同様、カミュの実存主義者に対するすさまじい悪意を感じる。
それだけに、カミュの精神は、彼らと同様に、ほとんど狂いかけていたと思われる。
カミュは結婚していたから、国家や世間に人質でも取られていた格好だったのかもしれないが、ディックは離婚していたから、あまり関係ないかもしれない。
権力主義には恋愛や友情、人間関係を破壊する力があるから、権力主義社会においては、それらは期待できない。
皆、上手くやっているように見えるかもしれないが、その実体は恐怖で結びついた冷め切ったものであり、無いに等しい。
p.281『彼らは彼を、また全人類を、彼らと一緒に死のなかへ引きずり込みたかったことであろう。まったく、それは確かに事実であった−人間は人間の仲間なしではいられないのであり、彼もそれらの不運な人々と同じくらいすべてを奪われていた』
戦争で家族を失った人々が報復の自爆テロをする事件は近年にもあった。
p.286『世間みんなを自分の仲間に引き入れようと、誰も彼もが試みている努力』
権力の性質として、大きな集団ほど大きな権力を手に入れられるのである。
p.285『彼の欲しない唯一のことは、つまりほかの人々から引き離されることである。彼としては、みんなと一緒に襲われているほうが、一人ぽっちで囚われの身となっているよりましなのだ』
p.285『私が、ほかの人々から引き離されないようにする唯一の方法は、結局、正しい良心をもつことだと、いくらいってやっても、彼は嘲るように私の顔を見て、こういうのであった−《連中を一緒にならせる唯一のやり方は、やっぱりペストを差し向けることですよ》』
p.290『その恐怖も、彼がたった一人でそれに耐えている場合ほどには重荷でないように、彼には思われるのである。この点が彼の誤っているところであり、ほかの人々よりも理解しにくいところである』
ここで、まとめたのは、コタールに関する記述である。
コタールがペストを望むのは、皆が共通の敵を持っている間は、自分が皆から攻撃されないからである。
イジメが発生するのも、集団の外に共通の敵を作ることで自分が攻撃されないようにするためだと言われている。
権力主義者の処世術みたいなものだろう。
カミュは権力主義や世間について何も知らないから見当違いの事を書いている。
権力主義社会で『正しい良心』を持つ事は、むしろ、孤立する羽目になるが、神が味方についているから大丈夫だ。
『正しい良心』を持つ方が、その人の人生においても長い目で見れば得策のはずである。
平家物語にも『おごれる人も久しからず』とあるように歴史が証明しているからである。
p.190『「もう一言いわせてください、滑稽に見えるかもしれないが−あなたの考えは完全に正しいですよ」』
タルーのリウーへのセリフだが、タルーはリウーの半身だから、確かに滑稽である。
p.190『「僕には、これ以上知らなければならぬことなんて、まずありませんね」
「人生について、もうすっかり知っていると、あなたは思っているんですか?」
「そうです」』
p.376『僕は人生についてすべてを知り尽くしている』
パヌルーやタルーは実存主義者だから、権力主義や実存主義に詳しい。
p.192『筆者はむしろ、美しい行為に課題の重要さを認めることは、結局、間接の力強い賛辞を悪に捧げることになると、信じたいのである。世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる』
p.193『最も救いようのない悪徳とは、自らすべてを知っていると信じ、そこで自ら人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである』
絶対主義の否定である。
絶対に正しいことが分からないなら、間違った事をやり過ぎないように中庸を守るべきだという意味である。
しかし、根本原因の追究を怠ったカミュは、小さな殺人を防いで大きな殺人を見逃している。
それは、中庸ではなく、中途半端である。
「革命か反抗か」の p.25 にジャンソンがカミュに『不正と戦いながら、もっと大きな不正をひき起こすことをおそれるのは、彼自身大きな不正とたたかっていないためであることを白状する必要がある』と言うのも、原典の「反抗的人間」を読んでいないから断言はできないが、そういうことではないか。
p.194『二たす二は四になることを証明するほうを選んだ』
p.195『歴史においては、二たす二は四になることをあえていうものが死をもって罰せられるという時が、必ず来るものである』
p.195『問題は、二たす二が果たして四になるか否かを知ることである。市民のなかでそのとき生命の危険を冒した人々の場合も、彼らの決すべきことは、自分たちが果たしてペストのなかにいるか否か、そしてそれに対して戦うべきか否か、ということであった』
『二たす二は四』という数式には意味がなく、真理という意味である。
「シーシュポスの神話」で、カミュは、自分の命が惜しくてカトリック教会に自説の否定をしたガリレオを嗤った。
『二たす二が果たして四になるか否かを知ること』とは、真理は、それが正しいことが、その真理の実行者自身によって確認されなくてはならないという意味である。
p.204『自分の目で見ることのできぬ苦痛はどんな人間でも本当に分かち合うことはできないという、恐るべき無力さを証明するのであった』
これは誰しも経験があるだろう。
◎ 2014年2月13日 (木) 大乗仏教
大乗仏教・・・紀元前後頃からインドに起った改革派の仏教。従来の部派仏教が出家者中心・自利中心であったのを小乗仏教として批判し、それに対し、自分たちを菩薩と呼び利他中心の立場をとった。東アジアやチベットなどの北伝仏教はいずれも大乗仏教の流れを受けている。
大乗仏教は、布教活動を行う事を特色としているらしいのだが、教義としては、空と中庸の中観派と主観的観念論の唯識派の二大系統になるらしい。
これらの教義は、布教活動とは直接には関係ないみたいだから、上座部仏教に導入しても問題ないだろう。
◎ 2014年2月15日 (土) 固定資産税の正しい課税方法
現行の固定資産税算出方法は、土地と家が別々である。
しかし、通常、消費者が家を購入する場合、土地と家は、同時に算出する。
例えば、阿蘇山の頂上に豪邸を新築しても誰も買わない。
その場合、新築豪邸の値段は、実質0円であるにも拘らず、多額の税金が課せられるのは不公平である。
よって、固定資産税の算出も土地と家を合わせるべきである。
この世の中に時価でないものは、法律で決められているもの以外には存在しないのであり、時価で税金も算出されるべきである。
◎ 2014年2月21日 (金) 仕事の仕方
大学を卒業してOA機器販売会社入社一年目、新人研修で電話応対や名刺交換の仕方を教わった後、ウィンドウズ研修という事で得意先の営業本部に二年ほどの予定で出向した。
研修といっても、時々ウィンドウズなどの講習を受ける程度で、やる事がなく、暇だから勝手に電話をとったりしていた。
三ヶ月ほど経って、営業職の人に付いてローラーという飛び込み営業をやれと課長に言われた。
どこを回るかは、その先輩が決めて、先方と名刺交換して横で話を聞いていた。
営業本部というのは、地方拠点の営業後方支援が仕事だと聞いていたのだが、そんな事をやっている人々もいた。
拠点支援の場合は基本的に大型システム案件なのだが、ローラーはパソコン単体を売っていたようである。
そこは五ヶ月ほどで終わって、元の会社に戻ったのだが、二ヶ月ほど見積書などを書いて辞めた。
日経新聞の「私の履歴書」にも誰かが、入社しても誰も何も教えてくれなくて一ヶ月ほど経ってから、ようやく、一人で誰にも何も教わらずに飛び込み営業を開始したと書いていた。
つまり、営業職というのは、一人で勝手に飛び込み営業を始めるものである。
営業には、本部だの拠点だのというのは関係ないのである。
その後は、工場や運送会社でフリーターとして職を転々とした。
小中学校の情報処理活用支援をしたのだが、何校か回って、ネットワーク技術がどうやら必須であることが判明したから、すぐに辞めた。
中古車販売会社にもホームページ製作者として入ったのだが、経験もなくデザインも得意ではなかったから、社長がホームページを外注してしまった。
そこも営業本部で、ただし飛び込みは誰もしてなくて、店内で客の応対をしたり、チェーン店の問い合わせに答えたり、車をガリバーなどから調達していたようである。
先輩と車を磨いたりしていたのだが、そこも社長がLANの技術者をやれと言ったのだが、全く実務知識がなかったし、営業するにしても車種が分からなかったから辞めた。
つまり、最近は、パソコンで仕事をしようと思えば、ネットワーク技術は必須ということである。
神戸市がLAN技術者養成講座をしていたから、二ヶ月間受講した。
そこで、機器やサーバーの設定の仕方を身につけた。
ただし、基本的なことは対象外だったから、後で入門書を買って知識を補った。
そこが、ソフトハウスを紹介してくれたから入社した。
飛び込み営業兼ネットワーク技術者ということだったのだが、一般家庭のインターネット接続や顧客からの受注や設定などの仕事とかもあった。
飛び込み営業も一人でやった事は一度もなかったのだが、若い頃の知識がちょっとあったから助かった。
新人研修で、アポの取り方も教えるべきではないだろうか。
やり方が分からなかったからアポなし営業だけやった。
アポなしは、時間の制約がないから、気楽にたくさん回れるメリットもあるが、大きな会社はアポなしでは受け付けてくれない場合もある。
どうやら、情報処理システムの営業は、先方の経営者に会う必要があるらしいことが分かったのだが、辞めた。
ここは、これまでのとは逆で社員に飛び込み営業以外は何もさせない会社だった。
飛込みをする時は、どの程度まで値引きが出来るか上司に聞いておけば良かった。
一度、高いと言われて諦めたことがあったからである。
その場で携帯電話とかで問い合わせる事もできたのだった。
工場勤務は、同僚から仕事の妨害を受けるようである。
機械が勝手に故障したり、器物が劇薬で破損したりするのである。
そういうわけで、機械の調整の仕方も覚える必要があるし、監視する必要もあるかもしれないが、やったことはない。
一年ほど働いた後で先輩社員が異動になり、一人だけになったのだが、仕事に支障が出たせいか、しばらくして、俺も異動になった。
異動先の先輩がガラの悪い奴だったから、辞めたら、そいつも同じ日に辞めていた。
派遣会社で情報系の仕事を希望したら、社内SEの仕事をくれた。
ここも営業本部で苦情応対のコールセンターだったようだ。
飛び込み営業や顧客回りもしていたようだが、まさか畑違いの医療関係商品の営業などするわけにもいかない。
そこは結構、営業にもシステムを駆使していたようであるが、景気はあまり良くなさそうだった。
俺はLANの技術は十分持っているから、ITの仕事ならどこでもそつなくやっていける。
データベースの基礎知識もあった方が融通が利く。
俺の経験によれば、営業本部はどこも暇だから、勝手に好きな事をやれる場所である。
要は営業が仕事なわけだから、拠点の後方支援だの技術支援だのにこだわらなくても良いのである。
仕事がなければ勝手に飛び込みでもしてれば良いのである。
「私の履歴書」に前のとは別の人が、入社したものの営業部には、戦略性が欠片もなかったと書いていた。
それは、企業の大小に拘らず、どこも同じだという事を俺の経験が裏付けている。
だからこそ、勝手な飛び込みも許されるのだろう。
しかも、営業社員や販売員は自分の売る商品の知識すら持っていないのである。
これも日経新聞に記事が載っていたし、どこもそうだった。
営業とはそういうものである。つまり、現場任せの人海戦術である。
起業するなら中古車販売は比較的簡単にできるかもしれない。
オークションで中古車を競り落として、それを売るだけみたいだからである。
しかし、最も簡単なのはIT企業だろう。元手が要らない。
ただし、どちらも成功するとは限らない。