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◎ 2014年1月10日 (金) ツァラトストラかく語りき(9)

ニーチェ「ツァラトストラかく語りき(下)」新潮文庫

「新旧の表(8)」
状況により対応の変わる実存主義と常に同じ対応をする儒教について書いてある。
太宰治の「燈籠」がその好例である。

「新旧の表(12)」
『なんじらは、なんじらの父達の子であることを、なんじらの子達において償わねばならぬ』
親の道徳の間違いを子において訂正すべきだという意味である。
反保守主義である。

「新旧の表(13)」
ツァラトストラは、仏教の空観を万物は無意義であると解釈したが、実際の意味は、真に必要な物は何もないという意味である。
そのため、この章の内容は彼の誤解である。

「新旧の表(15)」
これは、老子の虚無の学や無為自然、仏教の般若心経について書いてあるものと思われる。
老子は、何もするなとは言うが、理性を否定しているわけではない。
しかし、一般的に老子は理性を否定し、何も考えるなという思想だと勘違いされている。
ツァラトストラも同様に勘違いしている。
般若心経は、何をやっても悪は社会からは無くならないと説いているから、これも無為自然の類だろう。
禅宗の無の境地は何も考えさせないが、臨済宗においては禅問答があるから一概に理性否定とは言い切れない。
老子の無為自然は、天罰とワンセットだが、ツァラトストラにはそういう発想はないようだ。

「新旧の表(19)」
寄生虫とは評論家、批評家の類ではないかと思われる。

「新旧の表(21)」
ツァラトストラは、優れた人物は支配するものだと言う。
権力主義者を実存主義に改心させろという意味である。
この点が、俺や老子とは、考え方の違うところである。
実存主義は、強制や支配を敬遠するものである。
実存主義が絶対的真理でなかったら強制も支配もできないではないか。

「危急の叫び」
ツァラトストラは、老子と般若心経を理性否定の哲学と勘違いした。
そのため、それらは、理性による社会思想変革の可能性を否定していると考えた。
しかし、ツァラトストラは、それは可能であると言う。
この思想変革は、ルソーなどの啓蒙思想とは別物であり、権力主義者を実存主義者にすることである。
啓蒙思想は、絶対的真理を先ず示し、民衆をそれに従わせるが、実存主義は、絶対的真理を否定するという違いがある。
実存主義においては、個人が独自の道徳を有し、全体で同じ道徳を共有しない。
ただし、偶然、全員の道徳が一致した場合は、その限りではない。
般若心経は、社会から悪(権力主義)はなくならないとは言っているが、理性(智慧)は否定していない。
老子は、権力主義は天罰を受けるとしている。
キリストと旧約聖書は、権力主義者はいずれ天罰で全滅するとしている。

「蛭」
『精神の良心ある者』は、ニーチェの分身である。
ツァラトストラ自身がニーチェの分身だから、『精神の良心ある者』はツァラトストラの分身でもある。
『精神の良心ある者』の血を吸う蛭は、新旧の表(19)の寄生虫の事だろう。
ただし、この場合は、評論家ではなく、一般人、つまり権力主義者である。
『精神の良心ある者』は権力主義者に実存主義を教えると同時に権力主義者を研究対象としている。
これまで、ブドウに喩えていたのが、血液になったのである。
『他人の判断に従って賢者となるよりも、むしろ、みずからの拳によって愚人たれ!』
『精神の良心ある者』は、他から多くの知識を得るよりは、自らの経験と思索で得たわずかばかりの知識の方が遥かに尊いと言う。

「極醜の人」
おそらくは、極醜の人は自愛の人である。
ただし、ただの自愛の人ではなく、自愛の人生を送る自分に軽蔑を感じている人である。
彼が自分の人生を軽蔑する理由は、世間から迫害されるからである。
ただ迫害されるだけなら彼は自己を軽蔑しないのだが、敵対する世間に反論できない自分を軽蔑しているのである。
彼が世間に反論できるようになった時、彼は極醜の人を克服し、自愛の人になれるのである。
世間とは、集団を個人よりも優先する権力主義者や集団を自分よりも優先するキリスト教徒の事である。
ただし、キリスト教徒も個人よりも集団を優先するから、キリスト教徒と権力主義者の区別はできない。
自愛は、これらの人々の信条とは正反対だから迫害されるのである。
極醜の人は、彼らは迫害してくるだけでなく、憐憫もかけてくると言う。
おそらくは、極醜の人が自愛を捨てて彼らと同じ思想を持つようにと説得してくる事を憐憫と呼んでいるものと思われる。
キリスト教や仏教の慈愛や憐憫は、布教活動の事だからである。
極醜の人は、自愛を捨てたくないから世間を逃げ出したのである。
小早川隆景の憐憫は、布教活動とは関係ない。
戦国時代だから、冷酷な行動への戒めだろう。
『蛇の死』と呼ばれる谷は、極醜の人のように権力主義者に反論できない人々が彷徨う場所である。
自分の正しさを自分に証明できたとき、彼らは、そこから出られるである。
ニーチェもそこを彷徨っているが、俺はそこにはいない。

「影」
邯鄲の歩み

「正午」
邯鄲の枕

「挨拶」
『多くの侏儒がなんじらの片隅にうずくまっている』
ツァラトストラは、数人の高人を洞窟に集めたが、彼は彼らが皆、中半者であると言う。

「高人(3)」
『克服せよ〜「最大多数の幸福」を!』
『最大多数の幸福』とは、ベンサムの「最大多数の最大幸福」の事である。
最も多数の人々が最も大きな幸福を手に入れる。
つまり、民主主義である。

「高人(16)」
『彼みずからが充分に愛しなかったのである。しからざるとき、彼は人が彼を愛せざることを、しかく憤りはしなかったのであろう』
「魔術師」に『われはなんじが、「人々が彼を愛すること、少なきに過ぎた。少なきに過ぎた!」と訴うるを聞いた』とあるから高人(16)は魔術師だろう。

「驢馬祭」
高人達は、権力主義を奉じ始める。
ツァラトストラは、完全な実存主義が最も望ましいが、それが叶わないなら、中半であるよりは権力主義になった方が彼らのためだと考える。
新約聖書の黙示録に『おまえは冷たくも熱くもなく温いから、私はおまえを口から吐き出す』とあるらしいが、これも同じ意味だろう。
中半者が、最も人生に苦労するという意味である。
ツァラトストラは、人類を彼の同類と中半者の高人と権力主義者の小児の3つに分類し、高人すらもツァラトストラになれる見込みは無いと考える。
しかし、本人が必要性を感じないなら、無理に実存主義者や権力主義者にならなくても良いのではないか。

「酔歌」
永劫回帰論の肯定

「兆」
永劫回帰論の否定。
ツァラトストラの希望は、超人の出現を待つ事である。
ツァラトストラよりも頭が良い超人なら現状を打開してくれるかもしれないからである。
しかし、永劫回帰論が正しければ、超人にも社会は手に負えないことになる。
そのため、永劫回帰論は、ツァラトストラの絶望である。
ツァラトストラが、永劫回帰論を否定し、向かった先は、超人誕生を哲学的に手助けする旅である。




◎ 2014年1月15日 (水) キリストと老子の違い

キリストは、思想体系を擬人化(擬神化か?)するような空想的詩人である。
権力は確かに、権力を中心とした1つの思想体系を構築できるようなある種の生物的な性質を有している。
特に集団権力の力は大きく、それのもたらす恐怖が大きな影響力を持っている。
その権力主義思想に、人間は他律的であるべきとする思想も含まれている。
それに対し、実存主義は、自律性と人権を中心とした思想体系であり、権力主義と対立する。
そのため、キリストは両者を悪魔と神の化身と見立てたのである。
老子は、そのような擬人化はせず、ただの思想と考えている。
思想を擬人化するキリストを変人扱いにはできない。
なぜならば、そのような性質を持った概念が極めて稀であるのも事実だからである。
キリストは、自分を虐殺する世間の非道を実存主義の神が許さず、世間に天罰を下すのを思いとどまるよう神に祈る。
実存主義者が皆、権力主義者にそのような情けをかけると考えるのは間違いである。
他の実存主義者ならば、逆に「こんな奴らは皆殺しにしてやってくれ」と言うかもしれないからである。
果たして、どちらの実存主義者が正しいか?
答えは、どちらも無意味である。
実存主義の神は、実存主義者の願いなど一切聞き入れないからである。
そのため、どちらの実存主義者もその神への願いがただのパフォーマンスに過ぎないことは重々承知している。
多くの実存主義者は老子型であり、情緒的詩人的なキリスト型は珍しい。
世間に同情的なニーチェはキリストを非難しながらもキリスト型に近い。
しかし、ニーチェは論理的にも勇気的にもキリストにはやや及ばない。
論理的にはニーチェの方が上回っている部分もあるが、それはニーチェがキリストの失敗を知っているからである。
老子はニーチェよりもキリストよりも論理的に優れ、勇気もそれに伴い優れている。
キリストには、裁きのキリストと赦しのキリストがいる。
前者は実存主義者で後者は権力主義者である。
処刑されたのは前者である。
実存主義者は、権力主義者には理性が完全に欠落していることにいつか気付くだろう。
キリストやニーチェや釈迦は、権力主義者は実存主義者になれないから別の方法が必要だと考えた点で一致している。
しかし、キリスト教や浄土宗を見れば分かるように、普通の権力主義者と何も変わらない。
釈迦自身が、法華経は三乗が方便で一乗が真実だと暴露している。
天台宗には、方便を教えた後に真実を教える開権顕実(かいごんけんじつ)という教理がある。
頭ごなしに命令する戒や律も法律と同じで権力主義の考え方である。
彼らの別の方法は、失敗だったのである。
これを反面教師として、たとえ分からなくても嘘を教えるよりは真の実存主義を説明すべきである。
嘘を知るくらいなら何も知らない方がましである。




◎ 2014年1月18日 (土) 太平洋戦争

日経新聞(2014/1/12)「熱風の日本史 第二十回 12月8日の青空」
『高村光太郎「世界は一新せられた。(略)私は不覚にも落涙した」(12月8日の記)』
『太宰治「日本も、今朝から、違う日本になったのだ。(略)目色、毛色が違うという事が、これ程までに敵愾心を起こさせるものか。滅茶苦茶に、ぶんなぐりたい」(12月8日)』
『武者小路実篤「真剣になれるのはいい気持ちだ。(略)来るものなら来いという気持ちだ」(一作家の手記)』
『横光利一「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ」』
『小林秀雄「戦争は思想の色々なものを一挙に無くしてくれた」』
『坂口安吾「言葉の要らない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一兵たりとも敵を我が国土に入れてはならぬ」(真珠)』

真珠湾奇襲成功の際、多くの日本人作家が、世界は一新したと喜んだらしい。
一等国アメリカと三等国日本の立場が逆転したと思い込んだのか?
戦争は思想や駆け引きを無効にしたというのは、暴力至上主義、または完全権力主義時代の到来を予感したのだろう。
太宰や坂口などのデカダンは底が浅い事が分かる。
高村は、右翼だろう。

『近衛文麿前首相「えらいことになった。僕は悲惨な敗北を予感する。こんな有様はせいぜい二・三ヶ月だろう」(細川護貞「近衛公の生涯」)』
『松岡洋右元外相「(日独伊)三国同盟の締結は僕の一生の不覚だったことを、今更ながら痛感する。(略)三国同盟は、それによってアメリカの参戦を防ぎ、世界大戦を予防することにあったのだが、ことごとく志と違い、かえって今度の戦争の原因になってしまった」(斉藤良衛「欺かれた歴史」)』

三国同盟がアメリカの参戦を招いたというのは、小室直樹著「日米の悲劇」によると、アメリカはドイツと戦いたかったのだが、ヒトラーに上手くかわされて、それができなかったため、ドイツと同盟関係にある日本を標的にして、それを成し遂げたということらしい。




◎ 2014年1月19日 (日) イデオロギー

イデオロギーを考えるに当たり、先ずすべきは、既存イデオロギーの問題点を列挙する事だろう。

共産主義には、計画経済、中央集権国家、汚職の問題がある。
計画経済では、ニーズが考慮されないから、消費者が必要とする物が不足し、不要な物が余る問題が発生する。
中央集権国家は、国家への不満分子を直ぐに武力鎮圧しようとする人権侵害を引き起こす。
官僚政治は、国家が個人の所有物ではないから誰も国家を維持しようとしない上に個人に大きな特権が与えられるため、汚職が発生しやすい。
国家に株主が存在するなら、株主は国家が維持される事を望むから、汚職は抑制されるだろう。
公共物は、とかく粗雑に扱われるものである。
しかし、君主制が望ましいわけではない。
君主が国家の富を独占できるなら問題ないが、実際は君主すらも一従業員に過ぎないからである。
これでは、君主にとっても国家は公共物に過ぎない。

資本主義の問題点は、最低限の生活が保障されない事である。
多少の貧富の差が発生するのは、各人の社会貢献度を考えると致し方ないのではないか。
行政が、富裕層から税金を取り、貧困層に分配する必要がある。
生活保護には、受給資格の審査があり、誰もが受給できるわけではないから、生活に困窮する人々が出てくる。
また、税金による富の再配分により、誰もが同じ生活ができるなら、富裕層は労働意欲を失うだろう。
中間層が厚いと経済が活性化することが知られている。
資本主義の中央集権国家には、中央官庁が集る首都経済が活性化し、地方経済が低迷する問題もある。
中央集権国家が人権侵害しやすいのも共産主義と同様である。
資本主義は、国家間の経済格差ももたらす。
現在、アフリカでは貧困と公務員の汚職が問題になっている。
20年ほど前までは、東南アジアでも同様の問題があった。
しかし、現在では東南アジアでは貧困も汚職も無くなったから、公務員が給料で生活できないから汚職が発生したと考えられる。
そのため、アフリカの汚職問題も経済が活性化すれば自然に解消されるはずである。

民主主義の問題点は、経営者や労働者は、団結して組織票を形成できるが、失業者などの貧困層は、それができないために法的に不利になる事である。
また、多数派が正義である事が前提であるため、少数派の問題解決や待遇改善は考慮されず、棄却されるだけである。

法治国家の問題点は、法律によって既得権が発生する事である。
長い年月の間に、既得権をもたらす法律が積もり、経済が低迷し、社会状態が悪化する。
1度作られた法律は、ほとんど見直されないから既得権は減らない。
この問題を解決するために、既得権を持たない国民は無政府状態を構築せざるを得ない。
また、好況の時と不況の時で同じ法律が適用されているのも問題である。
法律は、社会状況に合わせて柔軟に対応できないという欠陥を持つ。

ポル・ポトのような国内産業を農業のみに限定するような政策では、経済が衰退し、国が滅ぶ。
ポル・ポト政権は、多くの知識人を殺害したから、カンボジアでは現在でも識字率が低い。
ポル・ポト経済政策や既得権のように法律が経済を過度に束縛すると経済が低迷する。

以上の問題を総て解決するのが、イデオロギーを考えるという事である。

安倍政権の一期目は、それまでの自民党のように比較的全体のバランスも考慮されていたが、現在の二期目は、自民党支持者を重視する経済政策に移行したようである。
その結果、日銀の量的緩和を原資とする公共事業のみで経済を活性化させる政策をとっている。
現在、景気が回復し、設備投資も増えてきたと新聞に書いてあるが、これは、その結果である。
経済成長が、費用対効果であるとするならば、公共事業による経済成長は、税金の投入額を公共事業によって得られた税収が上回っていなくてはならない。
もし、公共事業の逆鞘(ぎゃくざや)が続くならば、その先に待っているのは財政破綻である。
今回のように公共事業だけで景気を良くし、設備投資まで増えるような場合は珍しいのではないか。
しかし、それだけに財政破綻が急激に近づいているとも考えられるのである。
消費税が今年3%、来年2%上昇するが、導入に当たりその理由とされたのが、社会福祉の維持であるが、新聞では今後、社会福祉額は削減されるような論調である。
社会福祉維持を考えていないなら、でたらめな理由付けはすべきではない。
このように現政権は、増税をしながら力の続く限り公共事業を続けるつもりではないかと思われる。
俺には到底、持続可能な経済政策には思われない。
共産主義において行政は、ニーズ把握やマーケティングが下手である事が明白である。
そのため、公共事業だけで経済成長を目指すのは無理である。

二十年前の欧州は、長期に及ぶ経済低迷に悩んでいた。
現在と同じで南欧は危機的状況にあった。
その上、東欧の資本主義化によって東西の経済格差に不穏な空気があった。
原因は、アメリカや日本、韓国、台湾に経済競争力で劣っていたからだと思われた。
特にアメリカの経済力が大きく、これに欧州は対抗する必要があった。
アメリカと欧州各国の違いは何か?
アメリカには資源があり、欧州にはそれがない。
しかし、資源豊富なアフリカの経済が世界で最も低迷しているのを鑑みるとそれは全く関係ない。
欧州は、擬似的なアメリカを構築するためにEUを設立し、経済を統一することを考えた。
EU内では関税を撤廃し、人の移動も自由とした。
その結果、ドイツやイギリス、北欧諸国は関税に守られた広大な市場を手に入れる事ができて経済競争力を増大する事ができた。
その反面、南欧諸国は、これらの国々から一方的に輸入する羽目になり、経常収支の悪化が財政難を招き、デフォルト危機にまで発展した。
複数国で経済を統合する場合は、各国の経済競争力が均衡している事が望ましいのである。
大きな市場を手に入れるだけでは、欧州はアメリカになれなかった。
アメリカは、言語が統一されているため、二億六千万人の中から優秀な人材を企業は手に入れる事ができたが、欧州は言語がバラバラであるため、自国企業以外には就職できないのである。
そのため、欧州企業はアメリカ企業に人材面で不利だったのである。
それを考慮すると加盟各国の競争力を均一にするため、優秀な人材の移動を制限すべきという発想は間違っている。
むしろ、移動を促進し、個人の能力にふさわしい活躍の場を与える方がアメリカに対抗しやすくなる。
その結果、各国の競争力と経常収支に不均衡が発生する場合は、儲けている国々がそうではない国々に技術的資金的援助を行う事で全体の底上げをすべきだろう。
慢性的な経常収支の赤字を放置すると、ソブリン危機が発生して通常の何倍もの資金援助が必要になり、EU全体の無駄な経済損失になるからである。
小さな国は、国内市場が狭すぎて採算が合わないから、車や電機などの市場規模を必要とする会社を設立できない。
しかし、理論上は、複数国による市場統合で、それらの国々でも会社を興す事が可能になる。
欧州以外でもアフリカや東南アジアなど小さい国が集っている地域は、このグローバル経済ではアメリカに勝てない。
東南アジアも来年、経済統合してAECが発足するらしい。
EUやAECみたいなのを世界中に構築し、それらの間で関税を設ける事で、グローバル経済を消滅させる事ができる。
そうすると理論的には、資本主義によってできる国家間の経済格差を緩和できる。
日本は道州制を導入する事でアメリカ型経済になり、州政府による機動的な経済政策がとれるようになる。

中央集権国家は、行政の権限が大きくなるから汚職が増えやすい。
特に中国のように大きな国ほど行政の権限も大きくなる。
同じ中央集権国家でも小さな国は、それほど汚職は増えないのではないか?
米英は、小さな政府を志向する国々であり、アメリカは、州に大きな権限を与えている。
汚職の観点からするとそれは理解できるのではないか。
日本は、国民皆保険だが、それらの基金は何に使われているか分かったものではない。
とにかくカネは集れば何に使っても良い様な風潮である。
すでに元本割れしている基金も多数あるのでは?
基金は、何にでも融通できる貯め池ではあるが、それだけにカネ遣いも荒く、汚職の原資と考える事もできる。

景況を食欲に喩える考え方もあるのではないか?
いつも食事をしたい人もいなければ、いつも何も食べたくない人もいないだろう。
しかも、時間の経過を待たなければ、それは自分の意志ではコントロールできないのである。
しかし、現行の政治は、好況が正常な状態で、不況は異常な状態であると考えている。
なぜならば、不況では税収が減るし、国民も好況を望むからである。
そのため、行政は無理をして好況を作り出そうとするのだが、無理をすればするほど財政が悪化する。
しかも、国民は何も食べたくない時(不況時)にむりやり政府が飯を食わせようとする(景気対策を打つ)から、国民はあまり食べてくれない(景気は良くならない)。
国民は、一定の収入は確保したいが、あまり買い物はしたくないのである。
しかし、行政も国民も働かないと給料はもらうべきではないと考えているから、その望みは叶えられない。
この問題を解決するには、収入は労働の対価であるという社会常識を破棄しなくてはならない。
それができれば、行政による無駄な景気対策を止めて、国民が生活レベルを落とす事で、長期の不況をしのぐことができる。
具体的には、実存主義社会の導入になる。
戦後数年は、日本において銭湯は普通だった。
三度の食事も大衆食堂にすることができる。
町の中心にそれらの公共施設を設置する事で生活費を抑制できる。
集合住宅であれば、トイレすらも各階に1つずつ設置可能である。
この街を使えば、部屋数も容易に増やすことができ、住民数に柔軟に対応しやすい。
生活保護受給者にこの街を利用させれば、受給資格の審査不要で誰でも一定収入が得られるようになる。
一定収入が保証されれば、国民は過度の節約はしないから、デフレも緩和される。
慣例として長期失業者を雇う企業は存在しないから、景気が良くなっても元の職場には戻れない。
転職しやすいように行政が支援する必要がある。
景気次第では長期失業者を雇う企業も出てくるはずである。
空き部屋は、有料多目的ルームとして一時間500円程度で貸し出す事もSOHO支援で電話やネット環境も付けて月々20000円程度で貸し出す事も可能である。
この街の運用を住民に任せれば、スキル対策にもなる。




◎ 2014年1月25日 (土) 出兵動機

小室直樹著「日米の悲劇」によれば、第二次世界大戦でルーズベルト大統領はドイツと戦争をしたがっていた。
許しがたいファシズム国家ドイツにイギリスやフランスを上回る勢いがあったように見えたからである。
しかし、直接的には米国には関係なかったから世論は望んでいなかった。
コソボ紛争では、NATOは中ソの反対が予期された国連安保理を通さずに空爆を強行した。
民族浄化による人権侵害を止めるためではなかったか。
多くの米国人が死傷した同時テロの報復としてアルカイダを匿うアフガン空爆は動機があったにしても、その直後、アルカイダとは関係が無いはずのイラクに大量破壊兵器を保有しているという理由で空爆した。
実際には持っていなかったのだが、破壊兵器を持っているという理由だけで空爆されたのは珍しいのではないか。
1998年にも米英は、同じ理由でイラクを攻撃したそうだ。(砂漠の狐作戦)
リビアの革命では、反政府組織は、ほとんどデモもやらずにいきなり武力行使に出たが、人数が少なかったため序盤は劣勢だった。
しかし、NATOが、またもや中ソの反対が予期される国連安保理を通さずに空爆を開始し、反政府軍はほとんど見てるだけで戦争に勝ってしまった。
エジプトの革命でも、もし国軍が政府を裏切らなかったら、NATOは出撃する予定だった。
シリアの革命では、反政府組織はデモを繰り返したが、武力行使には出なかった。
しかし、度重なる国軍によるデモ弾圧によって内戦に突入した。
反政府軍は人数が多いため、戦争は膠着状態にある。
リビアの場合は人数が少なかったし、いきなり武力行使だったから、市民革命かテロか区別がつきにくい感じがするのだが、シリアの場合は、人数も多いし、武力行使に出たのも国軍だから、テロと言うよりは市民革命だろう。
コソボでは人権侵害で出撃し、イラクでは勘違いで出撃し、リビアではテロ支援で出撃し、シリアの民主主義化は傍観するのが、NATOなのか。
主権の問題もあるから、シリアには出撃すべきだとは言わないが、NATOや米国の出兵動機は何に基づいているかが分からない。
むしろ、リビア空爆は止めるべきだったのではないか。
NATOは、これまで相手国の主権を完全に無視してきたが、それが許可されるわけではない。
しかし、外国で人権侵害が発生した場合、主権を盾にそれを放置すれば、世界的に人権侵害が許される行為であると認識されるだろう。
人権問題は、主権侵害よりも国連や民間による支援の方が望ましいに違いないが、程度にもよるのではないか。
シリアは、アサド大統領が少数派のアラウィ派(12%)で、それに反発する多数派のスンニ派(70%)の勢力図になっている。
革命軍は、普通選挙の実施を求めているが、それが宗教対立に基づくのであれば、少数派の宗教は法律や行政において不利な立場になる可能性がある。
それが、再び、内紛の原因になるだろう。
しかし、アサド側には、スンニ派の一部も含まれるから、単純な宗教対立ではない。
リビア内戦は、既得権者を支持層とする政府と非既得権者の反政府組織の対立だったが、シリアも同様である。
現代の革命は、既得権を減らすために普通選挙を求めるものだろう。
しかし、趣旨とは裏腹に普通選挙でアラウィ派が不利益を被る可能性も高い。
シリアの反政府組織は、普通選挙の方法において、試しに国会議員の人数を上院は、宗教(あるいは民族)ごとに同数に設定するよう提案してみたらどうか?
民主主義においては、民族や宗教による紛争は解決し得ないが、これらの紛争は経済状況が悪化すると表面化しやすいようだ。
中近東やアフリカもEUやAECのように経済圏を構築してアジアやアメリカに対抗した方が良いだろう。
経済状況の悪化が既得権をめぐる国内紛争を招くのは、世界的な傾向だろう。
国内紛争を減らすには、既得権の拡大を望まないようにする必要がある。
しかし、日本においては、経済の悪化が既得権の拡大を招いているようだ。
経済が低迷する中で生活レベルの維持を狙うなら、これは世界的な傾向のはずである。
「2014年1月19日 (日) イデオロギー」に書いたように、失業などによる生活不安から国民が極度の節約をしないような政策をとる必要がある。




◎ 2014年1月27日 (月) 資本主義は自動的に共産主義に移行する

日米において、経営が立ち行かなくなった企業や銀行があった場合、その法人の規模が大きすぎて倒産させる事ができないという話を良く聞く。
日経新聞(1/24)には慶大の教授が、中央銀行による量的緩和はリーマンショック後の企業の連鎖倒産を食い止めるために必要で、量的緩和で金持ちが更に資産を増やしたのは中央銀行による資産買取で資産価値が増したからだと言っているが、これは大嘘である。
資産価値が上がったのは、金持ちが余ったカネを資産購入に回した結果、資産バブルが発生したからである。
中央銀行による資産買取の結果なら、中間層の保有する家や土地も値上がりするはずだからである。
近年、東大や京大や早大や慶大などの一流大学経済学部教授が日経新聞であからさまにデタラメな事ばかり言っている。

資本主義が発達すると、M&Aや経営統合などで巨大な企業や金融機関が多数誕生し、これらの法人が経営危機に陥ると経済に対する影響が大きすぎるという理由から、公的資金が大量に注入されて倒産を免れる。
また、中央銀行による量的緩和にまつわる資産買取も公的資金注入よりも悪質な国家介入である。
なぜなら、資産買取なら国家に借りたカネを返済しなくても良いからである。
国家によって経営が守られる有様では、民間企業というよりは、国営企業である。
これでは、倒産させられる企業は、個人事業者に限られる。
自由主義経済においては、企業の淘汰による新陳代謝が、経済に活力を生むのだが、この経済に対する影響が大きいという学説によって、それが妨げられ、共産主義化するのである。
歴史ある企業が、いつまでものさばるのは不健全極まりない。
現時点でも、日欧米は、市場原理が失われ、ほとんど共産主義化している。
むしろ、新しい事業に挑戦する企業が多い中国の方が、自由主義経済に近い。
中国にそれを可能としているのが人件費の安さである。
株主に経営に口出しする権利があるように出資者は経営に参加できる。
この先、国家に資金面で頼る企業に政府が経営干渉する計画経済に移行するだろう。
更にその先には、旧ソ連に見られた経済機能麻痺による国家破産が待っている。




◎ 2014年1月28日 (火) 自分の考えは総て失敗した後で

学者の説や政治家の政策は、失敗するまで正しいか間違っているか判断が付かないから、自分の説は、それらの失敗を見届けた後に発表される。
物事は、常に失敗を経て進展する。
逆に失敗なくして進展なし。
それだけに、学者や政治家の説を真に受けない事が肝心だ。




◎ 2014年1月29日 (水) 黄色い人(2)

遠藤周作「白い人・黄色い人」新潮文庫

舞台は、第二次世界大戦中の日本である。
主人公は、元カトリック教徒だが、信仰を失い、親友の婚約者である主人公の従妹を姦淫する。
従妹も主人公との関係を受け入れており、婚約者の事は義務の対象くらいにしか考えていない。
主人公は、大病を患って余命も限られているため、自分の人生も諦めており、自分のことすらどうでも良いのに他人の人生の幸福など願えるものかと考えている。
もう一人の主人公と言うべきカトリック教会の元司祭は、妻帯が禁じられているにも拘らず、結婚してしまい、破門される。
元司祭が、彼を養ってくれている司祭を裏切って官憲に売り渡そうと計画していたのを、元教徒は知り、司祭にその事を教えるべきだと思いながら気が進まず、結局、司祭は検挙されてしまう。
主人公が二人いるようにテーマも二つである。
1つは、白人キリシタンのような罪悪感を持たない日本人キリシタンの心理と行動で、もう1つは、キリスト教から見捨てられた人の境遇である。
しかし、テーマとは裏腹に、自分の未来に期待を持てない人の倫理観の方に興味がある。
浄土教は、念仏を唱えたら死後に天国に行けるとする教義だが、カトリックも死後に天国に行くために現世で善行を積めとする教義である。
そのため、双方とも、現世での人生はどれほど悲惨であってもかまわないのである。
だから、キリスト教は、自分の事は顧みず、他人や社会に奉仕しろと言う。
これが隣人愛である。
しかし、元教徒は、自分の人生が酷い有様なのに他人の幸福など願えないと考えている。
つまり、彼は隣人愛の教義を全面的に否定しているのである。
彼の従妹もカトリック系の学生だが、彼と同じように自分の未来に希望が持てず、総てどうでも良いと考えている。
ここで彼らの罪について考える。
元教徒の罪は二つだろう。
一つは、親友を裏切った事であり、もう一つは、他人の婚約者を奪った事である。
しかし、彼が親友を裏切った時点で既に彼にとって相手は親友ではなくなっているのである。
だから、これは罪ではない。
もう1つの婚約だが、これは、法律に基づくものであり、実は法律を破ったに過ぎない。
となると彼には実質的な罪は一つもなくなるのだが、親友の信用を裏切ったという罪だけは残るだろう。
しかし、信用が相手への一方的な義務の押し付けという我儘であると考えるなら、もはや、無罪になってしまうのである。
彼の従妹についても同様だろう。
しかし、真相を知れば、彼の親友は怒るに違いない。
となると、この怒りを買う事が彼らの罪であり、それによって彼らにもたらされる災いが彼らの罰となるだろう。
しかし、それすらも彼らが受け入れる覚悟があるならば、罰によって贖罪は終わり、罪を探す事はできなくなる。
元司祭も自分の人生が保障されない身分(あるいは、善行を積んでも地獄にしか行けない身分かもしれないが)になってから、神を呪うようになったから、彼らと同じである。
この三人には、隣人愛の否定という共通点があるのである。
自己の人生が踏みにじられるという事は、社会によって人権が侵害されているという事である。
人権侵害が許容される社会の存続が認められるのかという点において、彼らの言い分は実存主義としては間違っているとは言い切れない。
実存主義にとっては社会の存続よりも存続に値する社会である事の方が重要なのである。
ただし、元教徒の場合は、社会のせいというよりは、運が悪くて病気になっただけという側面もあるから、正しいとも言えないだろう。
しかし、先に検証したように、彼は特別悪いことはしていないのである。
だから、正しくも悪くも無いとする方が適切ではないか。
権力主義者は、勝手な思い込みで、ありもしない罪を創り上げているのである。
親友にしても、「信用を裏切った親友と婚約者か、俺にはそんなクズどもはいらん」と考えられるような知能があれば、怒る気も失せるだろう。
未練が残るようなら同類である。
自分が優れた人間だという自負を持つなら、クズどもを自ら捨て、絶縁をもって最大の仕打ちとすべきである。
偉大な自分と赤の他人になるなど、彼らにとってこれほどの仕打ちは存在しないはずである。
二人が絶縁されて喜んでいるようなら、そんなクズどもは、ますます偉大な彼にはふさわしくないはずである。
元司祭の罪は、恩人に濡れ衣を被せようとした事と罪の無い妻を殴る事だろう。
これらの罪には弁解の余地もないのだが、キリスト教の教義と司祭という社会から存在を保障された立場だけが彼を人格者たらしめていたという事実がここに明白になったのである。
元司祭は、元教徒とその従妹よりも積極的に悪に踏み込んだのだろう。
しかし、人間や神や社会への不信がそれらの悪の行動につながり、それによって、社会はどんなに欠陥があろうとも常に絶対的に正しいとする権力主義者やキリスト教の考え方から抜け出せたのも事実である。
実存主義は、集団や社会は個人よりも常に尊重されるべきだとは考えない。
もちろん、俺の考えが一般良識に全く違反しているのは間違いない。
権力主義者なら、法律に違反した時点で、犯罪だとまくし立てるだろう。
また、所有権を主張し、財産を守り抜く事が生きるという事だと権力主義者は考えているから、女も所有物と考え、約束を守らなかった二人を泥棒と罵るだろう。
権力主義者にしてみたら、羽の生えた紙幣が財布から飛んで行ったようなものなのである。
また、儒教支持者なら親友への裏切りは人道に反すると言うだろう。
実存主義と権力主義は違うのだ。
「いいや、そんなのは屁理屈だ。現にキリストも釈迦も戒律で盗みと姦淫を戒めている」と権力主義者は言うかもしれないが、「2014年1月15日 (水) キリストと老子の違い」に書いたように彼らは実存主義と権力主義で別々の規範を適用している。
実際は、自分用(実存主義者)と司祭用(中半者)と信者用(権力主義者)の三重規範が適用されている。
キリストや釈迦も俺と同意見のはずである。
このように、この本には、作者が意図したテーマとは別に隣人愛の否定というテーマが存在するのである。
キリスト教側から見ると、隣人愛に躓いてキリスト教を否定した人々の話である。

がっちり既得権を作った後で、消費税を増税して国家を維持すべきだと主張する大学教授は、教養なしの権力主義者である。
これでは、既得権を持たない人々には圧倒的に不利だからである。
日本にも毎年餓死者が出ている現状をどう考えているのか。
まして日本一のホームレス数を誇る大阪を拠点とする阪大教授が増税を主張するなどありえようか。
人権侵害の社会を維持する事は認めないから筋の通らない増税は認めないとするのが実存主義である。
増税しないと国家(社会)が持たないとするのが権力主義である。




◎ 2014年1月30日 (木) 南スーダン

民族紛争中の南スーダンには、PKOで日本や韓国も出兵しているらしいのだが、銃弾を使い果たした韓国軍に日本の自衛隊が先月、銃弾を貸与したそうだ。
戦争したのではPKOではないだろう。

現在、アフリカでは、ソマリア、中央アフリカ、南スーダンで内戦が起きているらしい。
内戦は、経済問題に端を発した民族紛争だろう。
アフリカも経済圏を構築して世界に対抗すべきである。
日本や中国は、この経済圏構築の手助けを目的にインフラ整備を行うべきである。
そのためには、アフリカ各国は、どんな経済圏を構築するのか会議すべきである。
例えば、アフリカの各主要都市をつなぐ道路と鉄道が必要だろう。
インフラ整備は、開発計画に沿って行われるべきである。
次に、インドネシアのように原料を一次加工して輸出すれば、そのまま輸出するよりも利益率は高まる。
アフリカは暑いから、太陽光発電が向いているはずである。
一気にインフラ整備や製鉄所やコンビナートの建設を行うために、加盟各国がカネを出し合って基金を設立するといい。
他の新興国と同じようにそれらを合弁会社にして国内産業を近代化するといい。
それらの企業は軌道に乗り始めたら民営化すべきである。
他国に追いつくだけなら中央集権制度で間に合う。




◎ 2014年1月30日 (木) 正論論争

「正論とは道理にかなった議論の事だそうですから、正論は行動に移されるべきです」
「正論だ」
「しかし、道理にかなっている根拠を誰が示せるのですか。正論を行動に移すのは危険ではありませんか」
「正論だ」
「どちらも正論なんですか。正論がいくつもあるなら、正論について考えること自体がナンセンスじゃありませんか。もう正論なんて語は今後使わないようにしませんか」
「正論だ」
「ところでスリランカは昔何と呼ばれていたかご存知ですか」
「セイロンだ」
「こんな議論は馬鹿馬鹿しいから、もう止めにします」
「正論だ」

[教訓]正論には有効性がないこと。最後の五行はナンセンスなおまけだから省略可。