◎ 2013年12月13日 (金) ツァラトストラかく語りき(5)
ニーチェ「ツァラトストラかく語りき(上)」新潮文庫
「三態の変化」
ツァラトストラは、精神は、ラクダ→ライオン→子供と変化すると説く。
社会通念や文化などの外部から与えられた義務を果たすのがラクダであるとする。
社会通念や文化を龍に譬え、龍と戦って、それらからの支配から脱却し自由意志を勝ち取るのがライオンだとする。
社会通念や文化などを忘却し、新しい世界を生きるのが子供だとしている。
ここでは、ラクダは、比較的肯定的な扱われ方をしているが、後の方では、否定的な譬えとして扱われる。
老子ならば、子供は、慣習の忘却や新しい世界の譬えではなく、自己の哲学を咀嚼し、何も考えなくても自然と行動に出てしまうような状態の譬えとして使うだろう。
「道徳の講壇」
人々が、社会通念や文化や国家や世間などに従うのは、平穏な生活をしたいがためであるとツァラトストラは説く。
現実は、そんな甘い物ではない。
人々は、権力さえあれば弱者に対して何をやっても許されるという権力主義の下、国家や世間という巨大権力を死ぬほど恐れているのである。
そのため、彼らは、権力に楯突くぐらいなら殺人でも悪事でも何でも実行する。
彼らの常套句は「なめんなよ」である。
彼の権力主義に対する認識は甘すぎる。
「背世界者」
背世界者が何者かは、ここに書いてある内容からは理解できないのだが、小説全体の印象では、仙人や隠棲者、あるいは仏教徒やキリスト教徒のように社会とは異なるルールの社会を構築し、そこで生活しているような人々、つまり脱社会者を指すらしい。
ツァラトストラは、社会に身を置き、社会と戦いながら生きるべきだと主張する。
つまり、彼は精神面における社会変革主義者である。
しかし、既に説明したように、世界中の人々のほとんどは権力主義者である。
また、各国の慣習や文化も権力主義で塗り固められている上に、一流大学の教授やその卒業生を多く抱える大企業の社員もまたほとんどが権力主義者である。
いくら才能や教養があっても、それは実存主義と権力主義の選択には影響しないのである。
また、権力主義者は子供の頃から周囲の大人のマネをして成長するから、生まれてから死ぬまで常に権力主義者である。
また、権力主義は権力の性質に則っており、集団の力は個人の力よりも大きいという考え方の下、団結を重視する。
現実として、権力のある者は、弱者に対して何をやっても許されるから、権力主義者は国家や世間などの巨大権力を自殺するほど怖がっている。
権力主義は他の思想の存在を許さないから、異端者は彼らに迫害される。
これらの事情から、背世界者達が、社会の外や別の社会で生活しようとするのは、俺には納得できる。
しかし、ツァラトストラは、こういう社会事情を何一つ知らない。
しかし、権力主義には、既に述べたように大きな欠陥がいくつもあり、天罰も受ける。
そこに、権力主義から実存主義に移行する可能性を見出す事はできるが、数百年〜数千年の年月を要する大事業になるだろうというのが俺の見解である。
老子や釈迦やキリストの時代から、既に数千年が経過しているが、その間、社会は何一つ変わっていない。
社会変革にそのくらいの期間を要しても決して長いとは思わない。
こう書くと問題が1つ生じる事に気付くだろう。
果たして我が子は権力主義者にすべきか実存主義者にすべきかという問題である。
これは、実存主義者の長年の懸案であり、仏教やキリスト教は、結婚するなという事で片をつけた。
悪因を消滅させれば悪果も消えるというのが阿含経の教義だから、教義どおりなのである。
「蒼白き犯罪者」
『蒼白き犯罪者』の意味するところがよく分からないのだが、自分の自我を消滅させようとしている人のような事も書いてある。
自我というのは、自分独自の価値観や判断の事である。
この犯罪者が、それを無くそうとするのは、人並みになりたいがためである。
人並みというのは権力主義者の事である。
独自の価値観や判断は一切持たず、属する集団のそれらを自分の物とするのが権力主義者である。
晩年の三島由紀夫が、この蒼白き犯罪者に該当するだろう。
サルトルの場合は、自我を持ったまま権力主義者になろうとしたから、完全に失敗した。
ツァラトストラは、蒼白き犯罪者は救いようがないとする。
思想と行為と行為の表象は別物だとしている。
行為の表象とは、何かをしようと考える事らしい。
例えば、犯罪をしようと考えるのが表象で、それを実行に移してしまうのが行為である。
思想や表象は、必ずしも実行に移されるとは限らないから、これらの間には因果律は発生しないとする。
憲法では、思想・良心の自由、信教の自由、言論の自由を謳っており、それがテロ活動などとして実行されない間は、許される行為である。
「読むことと、書くこと」
作者の血で持って書かれたものは、読者は真剣に読まなくてはならないと書いてあるのだが、俺は賛同できない。
読者は作家の強制は受けない。
『重圧の霊』は、怒りでは殺せないから、皆で笑い殺そうと書いてある。
重圧の霊とは、権力の事である。
「新旧の表(2)」に『すなわち、重圧の霊であり、その創造せる一切のものである。−強制・律法・困厄・結果・目的・意志・さらにまた善と悪である』とあるからである。
これらは、総て人間に強制させるものである。
笑いでは殺せないだろう。
少なくとも、権力や権力主義の害悪が経験的に周知されない内は、それらを消滅させられる可能性はないだろう。
◎ 2013年12月15日 (日) ツァラトストラかく語りき(6)
ニーチェ「ツァラトストラかく語りき(上)」新潮文庫
「戦争と戦士」
ここは、基本的に権力主義者に向けられて書かれている。
ツァラトストラは、『われは誰からも宥恕されたくはない(また、誰に対しても宥恕するな)』と言う。
『宥恕』というのは、後で分かってくるが、相手の人格や存在を認めてやる事である。
権力主義者の行動指針として、集団形成とその集団の団結を高めるというのがある。
自分の仲間に仲間外れにされるといじめに発展する可能性がある。
そのため、仲間に対しては傷つけ合わないように細心の気配りをするのだが、外部の人間に対しては、不要なまでに攻撃的な態度をとるのである。
つまり、相手によって態度が全然違うのである。
それに対し、実存主義者は誰に対しても同じような態度を取る。
そういう仲間同士で赦し合うのは見てて気味が悪いから、ベタベタすんなとツァラトストラは言うのだが、これは、権力主義のルールだから誰も耳を貸すはずがない。
また、集団に従う軍卒ではなく、自分の判断で戦う戦士になれとも言うのだが、これも無理だ。
権力主義者は既に幼少の頃に主体的判断能力は放棄している。
ここには、ツァラトストラから権力主義者へのそういう空しい命令が書かれてある。
「市場の蠅」
小人は、独自の道徳を持つ人間から侮蔑されていると感じて、密かに加害するとある。
これには、やたらと思い当たる事がある。
「友」
『なんじが赤裸々のままを友に与うるを以って、彼の名誉とすべきであるというのか?さあれ、しかする時、友はなんじを悪魔へと呪うであろう!』
これは、困ったものだ。
なぜなら、実存主義者になるには、赤裸々の人生にならなくてはならないからである。
後悔のない人生は必然的に裏表のない人生である。すなわち、赤裸々である。
俺は裏表のある人生が面倒に感じたから裏を消す事にしたのだ。
人生は気楽であればあるほど良い。
子供の頃は友達はあった方が良いが、友達を作るのに必死な人達もいて、友達を奪われるのを恐れていたりするから、無理に作る必要はないかもしれない。
「千及一の目標」
権力主義というのは、集団の意志で持って個人の意志とするものだが、その意志の根底にはその国の文化や社会通念がある。
そのため、それぞれの国は、それらの文化を使って統治されている事になるから、それらには、わずかたりとも変更を加える事はできない。
その結果、国家間に文化摩擦が生まれる。
という内容が、ここと「新しき偶像」に書かれてある。
千の国に千の目標があり、世界全体に統一された目標は存在しないとする。
ここと「蒼白き犯罪者」には、中世においては、権力主義が正しいとされ、実存主義は悪とされたと書かれている。
そのため、ソクラテスとキリストは処刑されたのである。
しかし、現代においてもニーチェ自身が発狂したように、あまり変わっていない。
「隣人の愛」
『なんじらの隣人の愛の犠牲となるのは、より遠き人々である。なんじらが集って五人あるとき、第六の者はつねに死なねばならぬではないか』
隣人愛・・・@キリスト教で、神の子たるべき同類の者への愛。 A身近な人々への愛情。
利己主義(エゴイズム)@自己の利害だけを行為の規準とし、社会一般の利害を念頭に置かない考え方。主我主義。自己主義。[反]利他主義。 A人間の利己心から出発して道徳の原理や観念を説明しようとする倫理学の立場。必ずしも@の意味での利己主義を主張するものではない。
利他主義・・・[哲]他人の福祉の増益を行為の目的とする考え方。例えばキリスト教の隣人愛。[反]利己主義
自愛・・・@自らその身を大切にすること。 A品行を慎むこと。 B[哲]人間が自然状態において持つ自己保存の傾向。ホッブズやスピノザは、これを人間の行為や善悪の基礎とする功利主義的な立場をとる。
我意・・・自分の考えをおし通そうとする気持。わがまま。我。
我儘・・・@自分の思うままにすること。自分の思い通りになること。 A相手や周囲の事情をかえりみず、自分勝手にすること。きまま。ほしいまま。みがって。 B思うままにぜいたくを尽すこと。
最大多数の最大幸福・・・イギリスの功利主義倫理説の主張する道徳的行為の価値の規準。多くの人々に最大の幸福をもたらす行為を善とする。
俺は「2013年4月3日 (水) 唯識派と中観派」において、利他及び利他主義を全体主義だと書いた。
隣人愛は、キリスト教団のために我が身を捨てて奉仕するというものであり、権力主義そのものである。
その結果、キリスト教徒は、他の人々とは敵対関係にならざるを得ない。
実存主義は、隣人愛や利他主義とは考え方が異なる。
また、利己主義@でもない。
実存主義者は、利他主義を個人よりも集団を優先する権力主義だと考えている。
例えば、ある集団が盗賊団であった場合、盗みに反対した個人は悪とみなされ、虐待されることになるだろう。
最大多数は常に盗賊ではないと考えるのは妄想に過ぎない。
また、ニーチェの指摘するように多数派に漏れた人々は、多数派のために過度の冷遇を受けたり、犠牲にさせられるはめになりかねない。
果たして盗賊団から虐待を受ける社会が良い社会と言えるだろうか?
この危険な状態を作り上げないために必要なのが人権尊重である。
しかし、個人よりも集団を優先したのでは、人権は守られない。
そのため、実存主義者は、利他主義を非難するのである。
実存主義者は、集団よりも個人を、すなわち、人権を優先させるのである。
広辞苑には、利己主義と我儘は同義語のように書いてある。
また、我意もそれらと同義語としている。
我意の説明として、『自分の考えをおし通そうとする』とあるが、これは、必ずしも『社会一般の利害』や『周囲の事情』を蔑ろにするものではないにも拘らず、それらと同義語とされているのは広辞苑の錯誤である。
また、広辞苑の説明では、盗賊団の利益や事情のために、個人が反対の意志を表明する事が利己主義や我儘になってしまう事になる。
盗賊団を野放しにする社会が、広辞苑は理想的だと言うのか?
もう1つの考え方として、利己主義は自己の利害だけを考えるとあるが、自己の利害は自己と同じ立場にある他の誰かの利害でもあるため、利己主義は、自分と他者の利益を守る考え方でもある。
利己主義者は他者の利益の代弁者でもあるのだ。
そのため、実存主義者は、我意のみならず、利己主義も我儘も必ずしも否定しない。
実存主義は、いついかなる時も集団よりも個人を尊重するのである。
あらゆる個人の人権が守られる前提があってこそ社会は維持されうるのである。
自分の属する集団とは異なる意見や判断を持ち、それを押し通すのは実存主義においては美徳である。
俺は、この章を「善良なる」が「市民」の枕詞となっているアメリカ歴代大統領と少数民族の人権を侵害する中国政権に送りたい。
◎ 2013年12月17日 (火) ツァラトストラかく語りき(7)
ニーチェ「ツァラトストラかく語りき(上)」新潮文庫
「老いたる女と若き女」
「女はカネである」というのが俺の考えである。
女はカネが欲しくて男に近づき、男は女を贅沢品の1つだと考えているからである。
ツァラトストラは、俺とは考えが違う。
ただし、『女性にとって、男性はひとつの手段である。目的はつねに子である』は、納得できる。
もちろん、これもカネのためである。
恋愛または親孝行とは、良く稼ぎ良く貢ぐ事である。
カネとは何か?他人を自在に使役する物である。
そのため、女は皆、権力主義者である。
権力主義者は、カネを奪い、守る事だけに命を懸ける。
それ以外の事で命を懸けることはない。
革命も支配者層から既得権を奪うためである。
権力主義者が実存主義者に命懸けで襲いかかるのもカネが懸かっているからである。
権力主義者が命懸けで何かをしている時は、裏で大金が動いていると思って間違いない。
実存主義者や中途半端な人々は妄想の中で生きており、世俗の物にはあまり関心がない。
例えば、中途半端な人々は皇国主義だの武士道だの妄想の世界に入り込んでいる。
ここに記されているツァラトストラの女観も妄想である。
女は、そんな連中(実存主義者や中半者)には興味がない。
政治家は、贅沢品に税金を掛けるのが自分たちの仕事だと思っているから、女が贅沢品だと聞けば、「税を掛けろ」と言い出すだろう。
政治家は「贅沢」という語に異常に敏感な人種である。
「蝮の咬毒」
ここには、復讐について書かれてあるそうだ。
ツァラトストラは、キリストが「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」と言うのを、痛々しいだけだと反対し、むしろ、小さな仕返しを五つやれとか、その悪行は実は善行なのだと解釈するか、場合によっては、自分の非を少しくらいは認めても良いとしている。
ここが、ニーチェが老子やキリストとは異なるところである。
老子は、天網は小さな不正は見逃す事があるが、大きな不正は決して見逃さないとしている。
そのため、権力主義者が実存主義者に悪事を働くなら、もっとやらせて更に大きな天罰を受けさせてやれというのが、「左の頬も差し出せ」の真意である。
権力主義者が異なる思想を持つという意味で実存主義者を攻撃するなら、それは個人の行為であっても社会全体の行為であり、巨悪であるから天網は決して逃さない。
神は、当人だけでなく社会全体にも罰を与える。
これが、無抵抗の哲学としての天罰の哲学である。
強盗に襲われたら警察に通報し、チンピラに喧嘩を吹っかけられたらやりかえしても良い。
老子やキリストは、そんな小事までは無抵抗を貫けとは言わないだろう。
ただし、それも思想が関係していたら話は別である。
だから、自分が実存主義者である事が社会に知れ渡っていたら、何でも無抵抗で対応すべきである。
人間が仕返しをするより、天罰の方が公正だからである。
権力主義者が実存主義者を攻撃するのは避けられないが、神は実存主義者には加護を権力主義者には天罰を与えるのである。
こういう事は、完璧な実存哲学を身に付けた上で、数年の人生経験を積めば分かる事である。
ニーチェのような未熟な実存主義者には分からない事である。
「自由なる死」
ツァラトストラは、キリストが社会を憎んだのは誤りだったと言う。
しかし、ツァラトストラもキリスト同様、実存哲学の布教活動をしているから、社会を肯定しているわけではない。
ツァラトストラは、後に永劫回帰の思想に落ち着き、社会変革を諦めるのだが、土壇場でその思想を撤回し、再び社会変革に復帰して物語は終わる。
やはり、二人は全く同じである。
ただし、もし、ニーチェがこの本の続きを書けば、変革と諦めが延々と繰り返されるのは確実である。
もし、ツァラトストラの言が天罰の否定を意味しているなら、無意味である。
天罰は、社会や人間への神の裁きであって、憎しみではなく中立であり、人間とは無関係だからである。
ツァラトストラは全く実存主義が理解できていない。
もし、現実に天罰が存在しないなら、存在しない理由と無かったら社会はどうなるのかを確認するために生きるべきである。
「与うる徳(2)」
『偶然』という語が出てくるが、これは無意義を意味するらしい。
俺ならば、この語は、人生が偶然に支配されるという意味として使う。
権力主義者は、集団の意志に支配されているから、集団に死ねと言われたら死なねばならない。
この集団の意志が、もし誤ったものであるなら、権力主義者の命運は偶然だけが握っている事になるからである。
命令に根拠がないとしたら、その命令が、いつ下されても不思議はないという意味である。
「タランテラ」
『タランテラ』は、キリスト教における平等主義の事らしい。
ツァラトストラは、人間は平等ではないと言う。
実存主義は、平等主義ではなく、人権主義である。
平等は現実として不可能な場合も出てくるが、人権は守られるべきである。
人間として最低限の生活は保障されるべきであり、生活保護に受給資格は設けるべきではない。
実存主義社会なら、受給資格撤廃は可能である。
◎ 2013年12月18日 (水) 愛とは
マザーテレサは、「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」と言ったそうである。
愛が冷めた状態が無関心であるなら、確かにそのとおりだと思った。
しかし、愛は冷めるだけでなく、裏切られたり、失ったり、しっぺ返しを喰う事もある。
となると、裏切りや紛失や悪意も愛の反対になる。
それはつまり、愛には、信用や所有や善意も含まれるという事である。
また、愛が冷める条件に軽蔑が含まれていたり、冷められてしまった時に罪悪感を感じたならば、愛には、尊敬や容認も含まれる事になる。
◎ 2014年1月1日 (水) 「日本米州論」
日経新聞(2013/12/29)
『作家・久米正雄の「日本米州論」(昭和二十五年)だ。久米は「日本は講和などして独立を望むよりは、合衆国に併合されてアメリカの第四十九州となる方が本当の幸福」と書いた』
国語が英語になれば活躍の場が世界に広がるし、無茶な侵略戦争を繰り返した日本を危なっかしいと考えたのだろう。
久米は芥川の大学時代からの友人である。
芥川はこの本の二十三年前に死去している。
良い話だ。
◎ 2014年1月2日 (木) 本願誇り
本願・・・〔仏〕仏・菩薩が過去世において立てた衆生救済の誓い
本願誇り・・・どんなに悪いことをしても、阿弥陀仏の本願の絶対的な力によって許されるとする浄土真宗の異端の一
「親鸞 完結篇」五木寛之 神戸新聞(2014/1/1)
『本願ぼこりとは、〜いかなる人でも必ず平等に迎え入れるという仏の慈悲の心に甘えて、自分が念仏者であることを誇り、他の人々を嘲り、おとしめたりすることだ』
『仏の本願という心強い後ろ盾を知って、狂喜し、それを誇らぬわけがあろうか』
意味が小説と広辞苑では異なっている。
もし、辞書の意味ならば、本願誇りの問題点は、悪事によって行為者への本願が消え失せることだろう。
だとしたら、法然の『本願誇り』に対する解釈自体が、見当違いになる。
浄土宗や浄土真宗は、念仏さえ唱えれば極楽へ行けると説く。
そのため、どんな悪事をしても阿弥陀仏に赦されると解釈されても致し方ないと考える事ならできる。
これらの宗教は、宗旨からして間違っているのである。
◎ 2014年1月4日 (土) 建国記念の日
紀元節・・・四大節の一。1872年(明治5)、神武天皇即位の日を設定して祝日としたもので、2月11日。第二次大戦後廃止されたが、1966年、「建国記念の日」という名で復活し、翌年より実施。
神武天皇・・・記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦。伝承では、高天原から降臨した瓊瓊杵尊の曾孫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦らを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵はその陵墓とする。
佐藤栄作・・・政治家。山口県出身。岸信介の弟。東大卒。吉田茂政権のもとで各省大臣を歴任。1964〜72年、3次にわたり自民党内閣を組織。在任中に沖縄返還が実現。ノーベル賞。(1901〜1975)
天皇家は14代目の仲哀(ちゅうあい)天皇までは、記紀伝承上の人物とされており、歴史上には存在しないとされている。
昭和天皇の天皇人間宣言で、天皇は神ではなく人間になったのだが、佐藤栄作首相によって神武天皇の即位を祝う建国記念の日が制定された事により、再び、天皇家は神になってしまった。
佐藤の兄の岸信介首相は、新日米安保条約批准を強行した事で知られている。
小渕首相没後は、森、小泉、安倍、福田と自民党岸派の首相が続き、靖国神社参拝で騒動を起こしている。
岸派については、日米安保、建国記念の日、靖国神社参拝を並べて考えるべきだろう。
◎ 2014年1月5日 (日) 南北朝
1331年 元弘の乱(後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企てたが露見し島流し)
1333年 建武の新政(後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒し、天皇直接統治に移行)
1336年 後醍醐天皇の南朝と後醍醐天皇を裏切った足利尊氏が立てた光明天皇による北朝の南北朝時代が始まる
1339年 「神皇正統記」(北畠親房著。南朝正統論を主張)
1350年 観応の擾乱(尊氏の弟の直義が兄を裏切り南朝に寝返るが毒殺される)
1392年 南北朝が統一され室町幕府が始まる
1426年 本朝皇胤紹運録(洞院満季編。皇室系図。南朝は除く)
1867年 明治維新
1906年 「大日本史」(徳川光圀の撰。南朝正統論を主張)
1911年 南北朝正閏問題(国会の南朝正統論によって教科書の南北朝並記が非難される)
1935年 国体明徴問題(軍部や右翼が天皇機関説を非難)
後醍醐天皇の南朝と足利尊氏の北朝による両頭政治が56年続いたが、最後は北朝が南朝を吸収合併することになる。
南朝が正統である事が明治維新の革命や戦争の時期において重要な意味を持つことになる。
実際には、北朝が天皇家を継いでいるのだが、広辞苑の歴代天皇表では、南朝が正統として記述されている。
おそらく、「神皇正統記」と「大日本史」に右翼や岸派の掲げる国体論や戦争論、革命論が記述されている。
ただし、俺の予想では、岸派は皇道派ではなく統制派の右翼である。
理由の1つは、官僚や財界とも仲の良い自民党だからである。
それは、千坂恭二氏のブログにある「災害ユートピアもしくは天皇と革命」に記されている革命的右翼とは毛色が違うのではないか。
本来の右翼は、明治維新や昭和維新のように革命のはずだが、革命の後、明治政府は侵略戦争にも天皇を利用した。
この時、革命的右翼から統制派右翼(戦争的右翼)に変質したのである。
既に権力を握っている統制派には革命は起こしえない。
現代においては、革命や戦争に天皇は必要ない。
世界を見渡せば、そんな物は無くても、どちらも頻発しているからである。
仕事も無いのに役職だけ与えられている天皇は窓際族に過ぎない。
国家ぐるみで窓際族を作ったり、週刊誌で叩くのは人権侵害である。
天皇制は廃止して問題ない。
◎ 2014年1月6日 (月) ツァラトストラかく語りき(8)
ニーチェ「ツァラトストラかく語りき(下)」新潮文庫
「幻影と謎」
ツァラトストラにとっての悪魔であり宿敵である『重圧の霊』が、侏儒の姿で現れる幻影とある牧人が黒蛇に喉を塞がれている幻影で構成されている。
最初の幻影では、実存主義と権力主義の二つの生き方があり、双方は同時に成立しない事が記されている。
実存主義者が権力主義と相対するとき、「これが人生なのか。さぁ、もう一度!」と言う瞬間があるとする。
人類の長い歴史の前には、新しい発見などあるはずもなく、どのような思想も誰かが既に考え付いているものだとある。
二つ目の幻影の黒蛇は、黒はタランチュラの三角模様などで見られるように不吉の象徴であり、蛇は智慧の象徴である。
牧人は蛇を噛み切って復活する。
「快癒者」に、『かの予言者が「すべては同じことだ。何事をなすも報いるところがない。知識はわれをくびる」と予言したことは、わが喉に這い入り、わが呼吸を塞いだ』とある。
これは、「予言者」と「新旧の表(13)(15)(16)」、「危急の叫び」に説明している。
「意にもとる幸福」
意にもとる幸福とは、不本意な幸福という意味である。
本来、ツァラトストラは普通に就職して結婚する生活を望んでいたのだが、それを諦め、超人を育てる夢を新たな幸福とした。
彼には『深遠の思想』という物があり、これは、「幻影と謎」では実存主義を権力主義よりも優位たらしめる物だと説明されている。
また、二つ目の幻影において登場した牧人は、ツァラトストラ自身であり、その口から入り込んでいた黒く重い蛇は深遠の思想だった事が明かされる。
この蛇は、入り込んだのではなく、むしろ出掛かっていたのではないか?
「予言者」において棺の中から色々と飛び出して来たのは、彼が深遠の思想を誰にも言えないのを嘲笑した物であり、一連の予兆は総て、超人(つまり他人)などに頼らずに、深遠の思想を武器にツァラトストラ自らが権力主義と戦う時が来た!という呼びかけだった事も明かされる。
しかし、彼自身はまだ自らの哲学が完成していないと考えており、それができない。
深遠の思想でもってしてもそれだけでは勝てる自信がなかったのである。
解説では『深遠の思想』=「永劫回帰の思想」とされているが、断定は出来ない。
イコールでない場合は、それが具体的にどんなものかは全編を通じて明かされていない。
「日の出前」
ここには、人間には絶対的真理は認識できないと書かれている。
『無計画』は、目的や結果を求めずに、自己の哲学に沿って日々の生活上の諸判断を行うことと解釈すべきである。
完成された実存哲学は、無計画に日々の生活を送っているだけで上手く生きられるように設計されている。
『叡智が万物の中に混入されたる』というのは、ヒンズー教や真言宗の教義に見られる汎神論である。
「小ならしむる徳(2)」
権力主義者は、自己の哲学に忠実ではないとツァラトストラは言う。
『われ仕う。なんじ仕う。われら仕う。』とは、誰も彼も慣習や社会常識に隷従するのだという意味である。
権力主義者は、自らが傷つけられないようにするため、仲間も傷つけないように細心の注意を払うが、これは彼らの処世術であるとツァラトストラは言う。
権力主義者は決して仲間の意見に異を唱えないとも言う。
「小ならしむる徳(3)」
「権力主義者よ、自己の哲学に忠実であれ、しかし、その前に自己の哲学を持て」とツァラトストラは言う。
相手の意見に同調し反論しない事を宥恕とツァラトストラは呼んでいる。
しかし、宥恕し合い、譲り合う事が権力主義者達自身を滅亡に向かわせていると彼は言う。
「帰郷」
ツァラトストラは、1人でいるのが孤独で、社会からの拒絶は孤独ではなく棄却だと言う。
要は自分のそういう境遇を嘆いているのである。
彼は、社会を貫く思想、すなわち権力主義がどんなものかを知りたがっている。
権力主義は、思想というよりは、他人の考え方のマネをする事である。
マネをするうちに、それが権力や支配を中心とした考え方である事に気付くのである。
言い換えると、権力主義とは昔から社会に伝わっている他人を操るためのいくつかの手段の事である。
しかし、それらは決して理論化されたものではなく、でたらめである。
支配される人間が支配する人間よりも少なくとも良い立場になれるはずがない。
どんな形態の支配であれ、万人にとって都合の良い支配などありえない。
そのため、社会には常に多くの欠陥があり、解決された試しは無い。
この欠陥ある伝統を保持しようとするのが保守主義である。
ツァラトストラは、自分の思想と豊かさを世間から隠し、世間の硬直を賢明と呼び、墓堀人を探求者または吟味者と呼んだと言う。
『かれらは何よりも宥恕さるるを欲する』とある。
芥川龍之介著角川文庫刊「或阿呆の一生・侏儒の言葉」の解説に「3人の死その他」田中純として『キリストは、自己告白が、どれほど人の苦患を和らげてくれるかを知っていた、すぐれた心理学者の1人だった。私は、中世紀の懺悔所が、当時の善男善女の渇仰を集め得たゆえんを思い〜』とあるが、これは、神に自分が宥恕されたいという願望だろう。
また、遠藤周作著「白い人・黄色い人」の解説にも『人間は悪にまみれた姿のままでその手に救われるという浄土教思想』とあるのも、阿弥陀仏に自分が宥恕されたいという願望だろう。
ありのままの自分を正しいと認めてもらいたいという人間の願望を汲み取った宗教がキリスト教と浄土教である。
実は、天台宗や日蓮宗も浄土教と同じで、念仏や題目を唱えたら成仏できる宗教である。
日本の仏教の中で最も信者数が多いのが、これら、浄土真宗や日蓮宗である。
去年の12月の日経新聞文化面には、あるパンクバンドのボーカルが、昔は社会を非難する歌を歌ってもさっぱり売れなかったが、近年は逆に中年の応援歌を歌い始めると大勢客が入るようになって武道館ライブが実現したと書いていた。
また、近年の日経新聞の広告には、韓国や中国の歴史認識や文化や人間性の悪口を書き、逆に日本の文化や人間性を誉める本が目立つようになった。
つまり、そういうのが売れているということである。
これは、他人に自分の生き方が正しい事を証明してもらいたい願望が人々にあるということである。
宗教や商売として成功するなら、それが悪いとは言わないが、大衆に迎合すると本旨に外れるのではないか。
キリストやニーチェが世界を敵に回して戦えるのは、誰の宥恕も必要としていないからである。
完成度の高い実存主義者は、誰の宥恕も必要としなくなる。
カトリック作家の遠藤周作は、キリスト教を止揚した真実の探求をテーマにしていたようだが、パスカルやモーリアックの影響らしい。
遠藤もキェルケゴールと同じで、キリスト教的実存主義の一つだろう。
「三つの悪(1)」
ツァラトストラは、社会においては人数は支配であり、人数が多いほど権力も増すと言う。
「重圧の霊(2)」
キリスト教の『隣人の愛』を廃し、『自愛』を持てと言う。
自分も他者も同じ人間である以上、自己の人権を尊重できない人間は他者の人権も尊重できない。
自分が属する組織のためには自己の命すら捧げろとする利他主義では、誰の人権も尊重できない。
『われは「われ」と「しかり」と「いな」とを言うを知るところの頑なにして選択多き舌と胃を尊敬する。〜つねに「しかり」というは、ただ驢馬とその精神をもつ者のみが学んだところである!』
自分の意見を持たず、仲間の意見には反対しない権力主義者を非難しているのである。
「王たちとの会話」と「晩餐」、「覚醒」に「しかーり」といななく驢馬が登場する。
『われにむかって「路を問う」者に、われは常にかく答える。路そのものは−存在せぬ!』
思想は個々の人間が独自に創り上げるものであり、最初から存在する思想は存在しないという意味である。
絶対的真理の否定である。
◎ 2014年1月9日 (木) 実存社会の実現方法
実存社会の実現にあたり、先ず、重要となるのが貧困層の政治参加である。
貧困層のための実存社会だからである。
インターネット上に選挙団体のホームページを作成し、実存社会実現をマニフェストにして会員を募集する。
会員には皆、このホームページが支持する候補者に投票する事を義務付ける。
ホームページは、マニフェストを遂行してくれる候補者を募集するか探し出す。
これまで、貧困層は組織票を作ることができなかったため、実質的な政治参加ができなかったが、この方法ならば、貧困層の票がばらけることなく、特定の人物に集める事が可能となる。
家にインターネット環境が無ければ公民館のパソコンを使えば良い。
日銀の量的緩和が国内に貧富の差を作り出した。
量的緩和は、世界各国で行われ、現在それらの国では貧富の差が社会問題となっている。
例えば、日本、アメリカ、欧州、中国、ロシアなどである。
多くの知識人が、共産主義崩壊後のグローバル経済が、貧富の差を作り出したと主張するが、俺はそうではなく、量的緩和が原因だと考えている。
量的緩和とは中央銀行が民間銀行から資産を買い上げることである。
中央銀行は銀行としか取引が出来ないと法律で規定されているからである。
中央銀行による国債買い上げで得られた資金は、政府によって公共事業やエコポイントに使われ、デフレ下で多くの企業が仕事を得られない中、一部の企業だけが優先的に持続的に業績を上げる事ができた。
消費税増税の影響を軽減するため、政府は5兆円の公共事業を実施すると言うが、それも一部の人々だけが所得を増やすだけであり、その他大勢の人々の生活は苦しくなるだけである。
この公共事業は、消費税増税の税金を先取りして回したに過ぎない。
もう1つのトリックは、中央銀行は民間銀行からしか資産買取ができないという制度にある。
民間銀行は、自分たちの仲間の金持ちや企業から不良債権を買い取り、中央銀行に売りつける。
その結果、金持ちや企業は市場では売れなかった資産を中央銀行に高値で買ってもらえたのである。
こうして金持ちと企業と金融機関は、バブル崩壊の付けを払い財務体質を健全化した。
民間銀行と特別な関係に無い人々は蚊帳の外である。
例えば、自宅を売りたくても売れない人々は世の中には大勢いる。
これが、もう1つの量的緩和による貧富の差の発生メカニズムである。
この国家ぐるみの詐欺が世界中で行われたのである。
富裕層や企業を主な顧客とする米ヘッジファンドがFRBが量的緩和を縮小しようとする度に世界各国の株価を下げさせ妨害したのは、そういう裏がある。
中央銀行が、民間銀行を通さず、民間人から直接、家屋や土地を買えば、この不公平は無くす事ができる。
例えば、ある駅周辺の土地をまとめて中央銀行が買い取る。
その駅を中心として実存社会を建設すれば、量的緩和で実存社会を実現できる。
神戸電鉄の敷地も日銀に買い取ってもらえば良い。