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◎ 2013年5月29日 (水) 餓死

今年は、幼児の餓死が2件あった。
群馬県のフィリピン人の子と大阪府の親子である。
収入がなくても生活できる実存社会を早急に造るべきである。
生活保護は審査があるのが難点である。
同じ事件が相次ぐのは、何の対策も取られていないからである。




◎ 2013年8月24日 (土) 決定論の実存主義的解釈(2)

決定論については、「2010年11月11日 (木) 個人の主体」と「2013年1月29日 (火) 決定論の実存主義的解釈」に書いたのだが、ここで、もう一度、まとめる。

非決定論・・・神の摂理や自然の必然的決定を認めず、偶然による変化を認める説

意志の自由・・・〔哲〕自分の行為を自由に決定できる自発性があること。哲学史上、これを肯定する非決定論と否定する決定論との間で論争がある。意志が因果関係で縛られているとする決定論では道徳が無意味になり、行為の責任を問うことができないというのが、非決定論の主張である。カントは物質的現象世界では決定論を認めたが、行為の世界においては道徳成立の根拠として意志の自由の存立を認め、この問題を解決しようとした。

F・ブラントは、実存主義者は、決定論に反対していると言うのだが、俺の考えでは、実存主義者は非決定論者ではなく、決定論者である。
ただし、ニーチェやカミュなどの欧州の中途半端な実存主義者達は、自分は非決定論者だと思い込んでいる。
真の実存主義は、人間には真理を認識する能力がないと考えているだけであり、生存環境には、人間の意志ではどうする事もできない事もあり、それが、人間の選択の幅を狭めるのである。これが、決定論である。
例えば、鳥のように空を飛べる翼が欲しいという意志は、生物的条件によって否定される事になる。
また、動かしがたい生活条件の中で、その条件に最も適した行動もある程度絞られて来るだろう。
ただし、人生観においては、どんな真理も人間に認識できない以上は、それが真実であるという証拠がなく、他人に命令される筋合いはないとするのが実存主義である。

『決定論では道徳が無意味になり、行為の責任を問うことができない』とあるのだが、この考えでは、道徳とは他人の行動を戒めるものという事になる。
しかし、実存主義の道徳とは、そういうものではなく、最も良い結果をもたらす原因となる行動こそが道徳であり、決して他人を罰するものではない。
他人を罰して、他人の行動を制限させるのは、他人を支配する事であり、これは権力主義である。
ここまで書けば分かると思うが、決定論が実存主義で、非決定論が権力主義である。
では、権力主義が「意志の自由」であり、実存主義は、それを否定しているのか?
権力主義者は、環境による制限がもたらす実存主義の道徳を何一つ知らない。
そのため、彼らは、空飛ぶ翼が欲しいと思えば、いつでも好きな時にそれが可能になると考えている。
つまり、彼らは、人間社会のルール(道徳)は、何物からも何の制約も受けずに何から何まで人間が自由に作って、他人にそれを従わせることが出来ると考えているのである。
彼らにとっては、社会においては人間こそが神なのである。
これが、非決定論であり、「意志の自由」なのである。
それに対し、俺が主張する「自由意思」とは、他人(集団権力など)からの思想的強制からの自由なのである。
そのため、実存主義は、法律や宗教や裁判所などは基本的に必要ないと考える。
それらは、自分自身の中にあるからである。
人間が気ままに作ったルールが現実に反するものであれば、それを守る国は壊滅することになるだろう。
事実、1000年以上続いた国家は、歴史上、世界に1つもないのである。
日本の最長は、平安時代の400年である。しかも、平安時代初期は、まだ全国統一がされていなかった。

F・ブラント「キェルケゴールの生涯と作品」法律文化社
p.191『選択の自由が前提され、受け入れられるが故にこそ、厳しい責任が人間に、彼の行動と彼の関与するものに、重くのしかかるのである。』

これは、世間一般と違う行動を選択したとき、どんな結果になろうとも、誰の責任にもできないという意味であろう。
しかし、世間一般と同じ行動をして、どんな結果になっても、やはり、誰の責任にもできないのである。
自由意志と責任には、特別な因果関係はない。
もし、『彼の関与するもの』が、『彼』の命令によって『彼』と同じ行動を取らされた誰かの事を指すのであれば、その誰かに対して責任がないとは言えないだろう。
ニーチェの「ツァラトストラかく語りき」の「自己克服」にも同様の事が書かれている。
他人の人生に指図すると、言いなりになった相手に対して責任を負うはめになる。
真の実存主義者は、基本的には他人の人生観には干渉しないものであり、ブラントの指摘は間違いである。
ただし、干渉はしなくとも忠告程度は、するだろう。
権力主義者の場合は、忠告ではすまない。違う考え方をしている者に対し、様々な迫害を加え、強制するのである。
しかも、その結果がどうなろうとも、何の責任も感じない。
相手に酷い人生を送らせて平気の平左なのである。
ニーチェの指摘は、権力主義者が他人に命令する時、相手を納得させるために、自分もある程度のリスクを負う場合があるという事である。
しかし、相手と自分のリスクが同程度であるとは限らない。
神風特攻隊を考案した将校は、敗戦後に切腹したらしいのだが、自分も死んだから相手を死なせても許されるという事はない。




◎ 2013年10月7日 (月) 経済関連

大企業は、中小企業よりも業績が安定し、社員の給与も高い。
理由は、いくつかあるかもしれないが、その内の1つに、人件費を低く抑えられるメリットが挙げられるだろう。
例えば、事務処理にしても、社員100人の会社でも社員10人の会社でも1人の事務職を置かなくてはならないとするならば、前者の事務職は、後者の事務職よりも、10倍働いている事になるから、前者の会社は、雇わずに済んだ9人分の給与を事業の安定化や他の社員の給与として分配できる。

新興国は、先ず、国営企業を造り、経営が軌道に乗ったら民間にその企業を売却する手法で、経済競争力を高める事ができる。
経常収支の赤字額を減らすために、赤字の要因となっている物を国内生産できるようにする場合、どんな企業を作れば良いかは予め分かっている。
そのため、輸入品の関税率を高めるなどの法的措置をとれば、いきなり大企業を造っても、需要がないという事態は避けられる。
ただし、輸入品よりも、価格的にも品質的にも劣るため、経済の悪化要因になる恐れがある。
日本の電機メーカーも元は兵器工場が多いし、カネボウやダイワボウなども元は紡績会社だったのが、多角経営に成功したものである。
元国営企業が成功したのと似たようなものである。
他国に追いつくだけなら、国営企業から始める事ができる。
先進国の場合は、他国の真似ができないから、国営企業はリスキーである。

大学教授や医者や弁護士、公務員、教員、農家、漁師などの職業は、スキル不足から他の職種に転職できない。
しかし、これらの職業の離職は、他の職種への転職に等しいため、長期の失業に直結する事になる。
長期間失業した人を雇う企業は存在しないから、再就職は事実上不可能である。
製造業と言えども、それなりに年をとってからでは、これらの職種からの転職は難しいだろう。
営業職や製造業からの転職ならば、他の企業でも似たようなものだから、再就職しやすい。
この問題を社会全体で解消しない事には、自殺者を減らす事はできない。




◎ 2013年11月11日 (月) ベントと爆発の関係

福島原発事故において、ベントが遅れたのは、菅首相がヘリで飛んでいたからだと、関係者らとマスコミが以前、騒いでいたが、「2011年3月29日 (火) 民主党と官僚のクーデター」や「2012年5月18日 (金) 新しい事に取り掛かるときは先ずは全体を把握しろ」に書いたように、視察は2011年3月12日AM7時過ぎから50分、ベントは1号機が、3月12日AM9時過ぎ、2号機が3月15日AM0時であり、爆発が起きたのは、1号機が3月12日昼、2号機が3月15日AM6時14分、3号機が3月14日である。
2号機のベントが遅れたのは、冷却装置が動いているという情報が東電から官邸に入ったからである。
「福島第一原子力発電所事故 wiki」によれば、1号機のベントの遅れは、危機対応やベント手動操作のマニュアルがなかったかららしい。
3・4号機のベントや4号機の爆発時期は、手持ちの資料では分からなかったのだが、こうして、ベントと爆発の時期を並べてみると、1・2号機においては、ベントの数時間後に爆発が発生している事が分かる。
つまり、一般に言われているように、ベントが遅れたから水素爆発が発生したのではなく、ベントの際、大気中の酸素が建屋内に流入して酸素と水素が爆発したか、流入した冷えた水蒸気が膨張して爆発したのではないか?
それを裏付けるような記事も以下にある。

「福島第一原子力発電所事故 wiki」
『大量の放射性物質が大気中に放出され、臨界低減用に充填されている窒素も抜けてしまう恐れは承知のうえで、炉心から大気中への排気(ベント、vent)いわゆるウェットベントが緊急に実行された[52] 。その直後の15時36分に1号機の原子炉建屋は水素爆発を起こした[53]。これはベントにより排出された多量の水素を含む水蒸気が、原子炉建屋のオペレーションフロアに誤って流れ込んだためという見方もある』

読売新聞サイト「1号機格納容器の圧力低下、注水を毎時6トンに」(2011年4月29日)
『圧力が下がると外から酸素が流れ込んで爆発する可能性がある』

「2011年3月30日 (水) いくら汲み出しても水位が下がらないわけ」で、『ベントの必要すらなかった』と書いたのは、当時は、炉内の水素や水蒸気の圧力が高いせいで水が入らないというテレビでの議論があり、そのため、ベントでガス抜きをするつもりだと思っていたからである。
しかし、その後、ベントは、爆発を防ぐためという理由に変わったようだ。




◎ 2013年11月26日 (火) 権力主義

人は誰しも種種の集団に属している。家族、地域社会、世間、国家、企業などである。
権力主義者は、それぞれの集団に対し、服従しているものであり、自分自身の判断基準や思想を持たず、自分の属する集団の判断や考え方をそのまま自分の物とし、集団の意向を実行するものである。
そのため、悪事や残虐行為も平気で行えるのである。
権力主義者にそういう考え方や行動をさせるのは、集団による迫害などによって与えられる恐怖である。
権力主義者は権力主義者以外の人間を許さない。権力主義は、人数を必要とするからである。集団でなければ権力主義は成立しない。
それぞれの集団において考え方や利益に矛盾が生じる場合は、どうするのか?
その場合は、最も権力のある集団が優先される。権力主義は、最も大きな恐怖が与えられる存在が最も偉いのである。
社会において最も大きな集団は、国家と世間である。この二つが優先され、その後に地域社会や企業、一族、家族などの順となる。世界が最も人数が多い集団ではないかと思われるかもしれないが、現実として、世界の優先度は、低い位置に置かれる。恐らく考え方が各国で一致しないからである。
そのため、戦争が始まれば、家族は進んで兵士を国家に送り出す事になる。
それぞれの集団の考え方に共通点はないのか?
共通点は、その国に古来から伝わる文化、慣習、常識などである。これらが、あらゆる集団の根幹になくては権力主義者は認めない。そのため、あらゆる保守主義者は権力主義者である。
イエスやニーチェが言うように、大人になるに従って権力主義者になるのか?
子供は、両親や周囲の大人の真似をして成長するから、子供の頃から完全に権力主義者である。
イエスとニーチェの見解は間違っている。
社会は、国家、世間(地域社会も含む)、企業社会の三大集団によって構成されているが、これらは強力なタッグを組んで、社会の権力主義を保持している。そのため、権力主義者以外の個人に居場所はない。
森鴎外の「山椒大夫」を読めば、昔の寺院には、治外法権が認められており、権力主義社会とは異なる社会を運営することができたのが分かるが、現在は完全に取り込まれてしまっている。
しかし、現実として、権力主義者以外の人間が生きていけないというわけではないし、人類史が示すように権力主義の歴史は戦争の歴史であり、いつかは必ず社会が崩壊する。
権力主義者は社会が崩壊する事態を想定していないから、そうなると取り乱す事になる。
国である以上は、必ず権力主義であるが、国によって文化や慣習や常識が異なる。
しかし、どれほど小さな事であっても、その国にとっては欠かす事のできないものであり、その結果、諸外国との間に文化摩擦が発生し、争いの元になる。
現に、第二次世界大戦において、日本は占領国の文化を日本文化に置き換えようとしていた。
東南アジアでは日本語を教え、韓国では、姓名を日本人と同じにするように強制した。
そうした現実や恐怖によって、権力主義者は存在するのであるが、社会全体を俯瞰で捉えたり、状況に応じて適切な判断や問題解決をする権限を完全に集団に明け渡してしまった結果、権力主義者は、自身の日々の生活の事以外は考えられない。そのため、カネ、ギャンブル、タバコ、酒、女、権力以外の事が考えられないのである。
ヤクザやギャングや山賊や海賊が、属する集団のために命を懸ける代わりに、普段はそうした生活を送っているのと全く同じである。

日経新聞(10/26)
『「ハンナ・アーレント」という映画である。ユダヤ人女性哲学者ハンナ・アーレントがナチスドイツの大物アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、記録を発表する。〜記録「イェルサレムのアイヒマン−悪の陳腐さについての報告」に一文がある。「自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ」』

自分の個人的な事柄しか考えられないアイヒマンは、正に権力主義者の典型と言えるだろう。
ナチズムは、恐怖政治だったが、恐怖社会が恐怖政治に移行するのは、非常に簡単な事だったに違いない。
それは、日本やイタリアなども同様である。




◎ 2013年12月3日 (火) 日本古代史

「広辞苑」

 57年 倭の奴国(なのくに)が、後漢の光武帝に使者を送る
107年 邪馬台国の卑弥呼が、後漢の安帝に使者を送り、奴隷160人を献上する
239年 邪馬台国の壱与(いよ)が、魏の明帝に使者を送る(約30ヶ国が邪馬台国の統治下にあった)
538年 百済の聖明王が大和朝廷に仏教を伝える
562年 任那(みまな)の金官国にあった日本府が新羅(しらぎ)に滅ぼされる
643年 聖徳太子の子、山背大兄王が蘇我入鹿に攻め滅ぼされる
645年 大化の改新
672年 壬申の乱(大海人皇子の反乱)
710年 平城京遷都(奈良時代)
753年 鑑真来日
794年 平安京遷都(平安時代)
802年 坂上田村麻呂が蝦夷を征討

冠位十二階
冠位の最初のもの。603年に聖徳太子・蘇我馬子らが制定した冠による位階。冠名は儒教の徳目を参考にして徳・仁・礼・信・義・智とし、おのおのを大・小に分けて12階とした。各冠は色(紫・青・赤・黄・白・黒)とその濃淡で区別、功労によって昇進。蘇我氏は皇室と共に授ける側にあった。

奴国は、今の福岡県にあった弥生時代の小国で、邪馬台国もおよそ同時期にあった倭の超大国。
倭は、日本の古称。
卑弥呼の死後、男王が立ったが国中服せず、壱与が後を継ぐ。
邪馬台国は、中国の後漢書と魏志に記録されている。
邪馬台国から大和朝廷まで300年ほど開いており、両者の関係は分からない。
大和朝廷の命で編纂された古事記や日本書紀には、邪馬台国の記述はない。
冠位十二階は、儒教の影響を受けているから、仏教と儒教は同時期に日本に伝来したのだろう。

天地開闢のとき、先ず、造化の三神(天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)が現れた。
神々は、高天原と呼ばれる天界に住んでいた。
いざなぎ、いざなみという夫婦の神々が他の神に命じられて日本の国土を造った。
この夫婦には、天照大神と素戔嗚尊という子供がいた。
素戔嗚尊の粗暴な行動に怒って天照大神は天の岩屋戸に隠れた。
天照大神は岩屋戸から出てきたが、素戔嗚尊は高天原から追放され、出雲に降りた。
素戔嗚尊はヤマタノオロチを退治して、奇稲田姫と結婚し、須勢理毘売が生まれる。
須勢理毘売は、大国主命と結婚する。
大国主命は出雲国の神で、素戔嗚尊の子とも6世の孫とも言われている。
高天原の神々は天つ神と呼ばれ、大国主命のような土着の神々は国つ神と呼ばれる。
大国主命には、湍津姫命との間に、事代主神という子がいる。
湍津姫命は、宗像三女神の1人で天照大神と素戔嗚尊の子である。
天照大神と素戔嗚尊には、天忍穂耳尊という子がいて、更にその子に瓊瓊杵尊がいる。
高皇産霊神と天照大神の命令で、瓊瓊杵尊は、日本を統治するために、高天原から日向国の高千穂に降りる。
この時、天の岩屋戸で踊ったりしていた神々(五伴緒神)も一緒に降りる。
大国主命は、事代主神の意見もあって、日本の統治権を瓊瓊杵尊に譲って隠遁する。
瓊瓊杵尊の三代後の子孫が大和朝廷初代天皇の神武である。
大和朝廷では、臣(おみ)や連(むらじ)などの姓(かばね)が身分が高く、大臣には代々、蘇我氏が、大連には代々、物部氏や大伴氏がなった。
物部氏の先祖は、天皇に帰順した饒速日命で、大伴氏の先祖は、五伴緒神の1人の天忍日命である。
大化の改新の藤原鎌足の先祖は、五伴緒神の1人の天児屋根命である。
蘇我氏の先祖の武内宿禰は、孝元天皇の曾孫である。
物部守屋は仏教に反対し、587年、蘇我、皇族の連合軍に敗れる。
蘇我入鹿は、大化の改新で殺される。
大和朝廷に隷属する身分として品部(しなべ)があり、朝廷に毎年、農産物や海産物、漆器、玉、鏡、織物などを納めたり、神事や出納、調理、警察、裁判、記録などを行っていた。
大化の改新以降は、役所勤めになったため、品部は徐々に廃止になった。

姓は、称号の事であり、世襲されていたが、推古朝前後から本家を意味する氏(うじ)よりも血縁を意味する家(いえ)方が政治的権力を持つようになった。しかし、大化改新後の律令制度においては、氏や家よりも個人の能力を尊重する建前となり、氏姓制度は崩壊した。

大和朝廷
日本最初の統一政権。大和を中心とする畿内地方の諸豪族が連合して皇室から出る君主を大王、後に天皇として擁立し、4〜5世紀までに東北地方以遠を除く日本本土の大半を統一した。統一時代の君主は軍事的英雄であったと見る説もあるが、6世紀には世襲的王制が確立し、諸豪族は臣・連などの姓によって階層的に秩序づけられて、氏姓制度が成立した。飛鳥時代から氏姓より個人の才能・努力を重んずる官司制度が発達し、7世紀半ばの大化改新後、律令制の朝廷に変質した。大和政権。

蝦夷(えぞ)
古代の奥羽から北海道にかけて住み、言語や風俗を異にして大和朝廷に服従しなかった人びと。えみし。

隼人(はやひと)
古代の九州南部に住み、風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した人々。のち服属し、一部は宮門の守護や歌舞の演奏にあたった。はいと。はやと。

土蜘蛛(つちぐも)
神話伝説で、大和朝廷に服従しなかったという辺境の民の蔑称。

熊襲(くまそ)
記紀伝説に見える九州南部の地名、またそこに居住した種族。肥後の球磨(くま)と大隅の贈於(そお)か。日本武尊の征討伝説で著名。

粛慎(しゅくしん)
中国の古書にみえる中国東北地方の民族。後漢の 婁、隋・唐の勿吉・靺鞨はその後身というが確かでない。日本書紀には、欽明天皇の時に佐渡に来り、斉明天皇の時に阿倍比羅夫が征したと記す。みしはせ。

狗奴国(くなのくに)
弥生時代の倭の強国。邪馬台国の南にあって男王が支配し、女王をいただく邪馬台国と対立していた。くぬこく。くなこく。




◎ 2013年12月3日 (火) 神道

「広辞苑」

神道(しんとう)
(もと、自然の理法、神のはたらきの意) わが国に発生した民族信仰。祖先神や自然神への尊崇を中心とする古来の民間信仰が、外来思想である仏教・儒教などの影響を受けつつ理論化されたもの。平安時代には神仏習合・本地垂迹(ほんじすいじゃく)があらわれ、両部神道・山王一実神道が成立、中世には伊勢神道・吉田神道、江戸時代には垂加神道・吉川神道などが流行した。明治以降は神社神道と教派神道(神道十三派)とに分れ、前者は太平洋戦争終了まで政府の大きな保護を受けた。かんながらの道。

教派神道
戦前に国家の祭祀とされた神社神道(国家神道)に対し、宗教としての神道の教派の総称で、14教(のち13教)あり、教派神道十三派と呼ばれた。すなわち神道大教・黒住教・神道修成派・大社教・扶桑教・実行教・神道大成教・神習教・御岳教・禊教・神理教・金光教・天理教・神宮教で、神宮教は1899年(明治32)解散し、神宮奉斎会となった。

神道修成派
教派神道の一。古事記の「修理固成」と日本書紀の「光華明彩」に則り、八百万神を祀って、人は神から受けた心魂を愛養し、忠孝の道に励むべきものとする。教義には儒教色が濃く、富士・木曾御岳の山岳信仰の講を主な基盤とした。1876年(明治9)新田邦光が創始。

国家神道
明治維新後、神道国教化政策により、神社神道を皇室神道の下に再編成してつくられた国家宗教。軍国主義・国家主義と結びついて推進され、天皇を現人神(あらひとがみ)とし、天皇制支配の思想的支柱となった。第二次大戦後、神道指令によって解体された。[対]教派神道。

国学
古事記・日本書紀・万葉集などの古典の、主として文献学的研究に基づいて、特に儒教・仏教渡来以前における日本固有の文化および精神を明らかにしようとする学問。近世学術の発達と国家意識の勃興に伴って起り、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤(国学の四大人)とその門流によって確立された。古学。皇学。くにつまなび。

復古神道
日本の古典に立脚し、儒仏の説をまじえない神道説。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤らの国学者が唱道した。古道または惟神(かんながら)の道ともいい、古史の伝えるところを忠実に信じ、天皇の徳化に浴せしめることを理想とする。

尊王論
天皇の権威を強調する思想。江戸中期以降、主に水戸学や国学者・神道家により唱えられた。初めは身分秩序の頂点である天皇の権威を高めることで幕藩体制の安定をはかる意味があったが、幕末には幕政批判の思想的根拠として機能するようになった。

荷田春満(かだのあずままろ)
江戸中期の国学者・歌人。羽倉氏。伏見稲荷社の祠官。古典・国史を研究して復古神道を唱道、また、子弟を教育。弟子賀茂真淵は万葉研究を、甥荷田在満は有職故実研究を継承。著「春葉集」「万葉集僻案抄」「万葉集訓釈」「創学校啓」「日本書紀訓釈」「出雲風土記考」など。(1669〜1736)

創学校啓(そうがっこうけい)
荷田春満が、1728年(享保13)昌平黌以下諸藩校が儒学教育を施しているのを嘆き、国学を主とする学校の創設を幕府に進言した文書。創造国学校啓。

賀茂真淵(かものまぶち)
江戸中期の国学者・歌人。岡部氏。号は県居。遠江岡部郷の人。荷田春満に学び、江戸に出て諸生を教授。古典の研究、古道の復興、古代歌調の復活に没頭。田安宗武に仕えて国学の師。本居宣長・荒木田久老・加藤千蔭・村田春海・楫取魚彦らはその門人。著「万葉集考」「歌意考」「冠辞考」「国歌論臆説」「語意考」「国意考」「古今和歌集打聴」など。(1697〜1769)

国意考
国学書。賀茂真淵著。1冊。1806年(文化3)刊。日本固有の精神を宣揚するため、儒教の非を論じ、歌道の経世上の価値を説く。

本居宣長
江戸中期の国学者。国学四大人の一。号は鈴屋など。小津定利の子。伊勢松坂の人。京に上って医学修業のかたわら源氏物語などを研究。賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。儒仏を排して古道に帰るべきを説き、また、「もののあはれ」の文学評論を展開、「てにをは」・活用などの研究において一時期を画した。著「源氏物語玉の小櫛」「古今集遠鏡」「てにをは紐鏡」「詞の玉緒」「石上私淑言」「直毘霊」「玉勝間」「うひ山ぶみ」「馭戎慨言」「玉くしげ」など。(1730〜1801)

馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)
国学書。本居宣長著。2巻。1778年(安永7)成る。儒学者の中国崇拝を批判し、古道説を述べる。からおさめのうれたみごと。

平田篤胤(ひらたあつたね)
江戸後期の国学者。国学の四大人の一。はじめ大和田氏。号、気吹舎・真菅乃屋。秋田の人。本居宣長没後の門人として古道の学に志し、復古神道を体系化。草莽の国学として尊王運動に影響大。著「古史徴」「古道大意」「霊能真柱」など。(1776〜1843)

徳治(とくち)主義
道徳または仁に基づいて政治を行う考え方。有徳の君主・為政者が徳をもって人民を教化し、仁政を施すべきであるとする。孔子に始まり、儒教の基本思想となる。

神道と国学には、それぞれ二系統あるようだ。
神道の場合は、国家神道と教派神道であり、国学の場合は、賀茂真淵と本居宣長である。
二系統と言っても、方向性に大きな違いがあるわけではない。
国家神道が、天皇崇拝を全面に押し出すのに対し、教派神道は、仏教や儒教の影響を受けた教義の方を重視するのである。
国学の創始者的な荷田春満は、反儒教としての復古神道を主張し、弟子の賀茂真淵もその系統である。
賀茂真淵や弟子達の多くは、和歌を主としているが、本居宣長は違って、排外的な国学社会の実現を主としている。
本居門下の平田篤胤になると、尊王運動に影響を与えるまでになっている。
本居の主張は、切腹が命じられたり、厳しい身分制度があるような社会を廃して、万葉集や源氏物語のような情緒的で心優しい文学の世界を現実に構築する事であり、浮世離れしている。
彼は、日本のツルゲーネフであり、つまり、感傷主義者である。
その空想的な国学が、幕末においては、主張とは程遠い殺戮の革命思想になったのである。
幕末の流れとして、吉田松陰門下がある。
高杉晋作は、上海視察時に欧米列強に蹂躙される清の惨状を見て、攘夷論者になる。
これに尊王論の国学者が合流して討幕運動に発展したのである。
国学は元は儒教批判だったのが、幕末には尊王論になり、公武合体や倒幕の論拠となった。
国学の方向性がころころ変わったのは、元々浮世離れしていたからである。
神道も国学も全体としては天皇崇拝と天皇による徳治主義で一致している。
国学は、儒教を否定するが、彼らが主張する徳治主義は、儒教の考え方である。
神道も国学も矛盾を抱えたでたらめな思想である。
老子も君子による徳治を推奨しているが、基本的に実存主義は、国家や世間などの大きな権力の存在を認めていないから、老子のその部分の記載は間違いだと俺は考える。
老子は無政府主義寄りなのである。




◎ 2013年12月4日 (水) 本居宣長

「広辞苑」

本居宣長「玉くしげ」
『まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくただ一すぢなり。然るに此道、ひとり皇国(みくに)にのみ正しく伝はりて、外国にはみな、上古より既にその伝来を失へり。それ故に異国には、又別にさまざまの道を説て、おのおの其道を正道のやうに申せども、異国の道は、皆末々の枝道にして、本のまことの正道にはあらず。』

本居宣長「玉勝間」
『がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬほどは、いかに古書をよみても考へても、古(いにしえ)の意はしりがたく、古のこころをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける、そもそも道は、もと学問をして知ることにはあらず、生れながらの真心なるぞ、道には有ける、真心とは、よくもあしくも、うまれつきたるままの心をいふ、然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、真心をばうしなひはてたれば、今は学問せざれば、道をえしらざるにこそあれ』

皇国(こうこく)
天皇の統治する国の意。すめらみくに。

物の哀れ
@平安時代の文学およびそれを生んだ貴族生活の中心をなす理念。本居宣長が「源氏物語」を通して指摘。「もの」すなわち対象客観と、「あはれ」すなわち感情主観の一致する所に生ずる調和的情趣の世界。優美・繊細・沈静・観照的の理念。
A人生の機微やはかなさなどに触れた時に感ずる、しみじみとした情趣。「―を解する」

大和心(やまとごころ)
@大和魂@に同じ。[対]漢心。
A日本人の持つ、やさしく、やわらいだ心情。石上稿(本居宣長)「しきしまの―を人問はば朝日に匂ふ山桜花」

漢心・漢意(からごころ)
漢籍を学んで中国の国風に心酔、感化された心。近世の国学者が用いた語。[対]大和心

大和魂(やまとだましい)
@漢才すなわち学問(漢学)上の知識に対して、実生活上の知恵・才能。和魂(わこん)。
A日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる。

漢才(かんざい)
中国の学問。漢学。また、それにくわしいこと。からざえ。

「玉くしげ」には、世界中どこでも真理は1つだが、日本だけがそれを継承していて外国のは亜流で間違っていると書いてある。本居の排外主義がうかがえる。因みに彼の言う世界の真理とは、高皇産霊神と神皇産霊神の『産霊(むすび)のみたま』だそうである。これから真理や人間を含む万物万事が生まれたのだと説く。
「玉勝間」では、勉強して道義を知ろうと思えば、先ず中国への崇敬を完全に除去すべきであり、そうしなければ古人の言う意味は分からない。そもそも道義とは、勉強して知る事ではなく、生まれながらにして持っている裸の心だと説く。
物の哀れや大和心は、万葉集や源氏物語などの文学的な感傷主義と考えて良いだろう。
「玉くしげ」と「玉勝間」では、言っている事が食い違っているし、「玉勝間」単体でも矛盾がある。
要は、彼は儒教が嫌いで、何とかしてそれを日本国内から払拭したかったのである。
老荘思想家も儒教嫌いなのだが、彼の論理はそれには、まだまだ程遠い。
国学の系譜は、和歌研究から脱儒教社会へと動き始めた本居宣長から尊王論に傾き始めているのが分かる。




◎ 2013年12月6日 (金) 広辞苑の内容は嘘で塗り固められている

「広辞苑」

実存
@現実に存在すること。実在。
A〔哲〕(existence) 
(ア)現実的な存在。普遍的な本質ではなく時間・空間内にある個体的存在。スコラ哲学以来、本質に対比して用いられ、可能的な本質が現実化されたもの。
(イ)特に人間的実存を意味し、自己の存在に関心をもつ主体的な存在、絶えざる自己超克を強いられている脱自的存在をいう。自覚存在。

実存主義
人間の本質ではなく個的実存を哲学の中心におく哲学的立場の総称。ドイツでは実存哲学と呼ばれる。科学的な方法によらず、人間を主体的にとらえようとし、人間の自由と責任とを強調し、悟性的認識には不信をもち、実存は孤独・不安・絶望につきまとわれていると考えるのがその一般的特色。その源はキルケゴール、後期シェリング、さらにパスカルにまでさかのぼるが、20世紀、特に第二次大戦後、世界的に広がった。その代表者はドイツのヤスパース・ハイデッガー、フランスのサルトル・マルセル・レヴィナスら。サルトル・カミュ・ムージルらは実存を文学・芸術によってとらえようとする。

不条理
実存主義の用語で、人生に意義を見出す望みがないことをいい、絶望的な状況、限界状況を指す。特にフランスの作家カミュの不条理の哲学によって知られる。

死に至る病
新約聖書ヨハネ福音書(11章)から出た言葉。絶望を意味する。特にキルケゴールがこれを重視し、同名の著がある。

哲学史上、最初に「実存」という語を使い始めたキェルケゴールによれば、「実存」とは、自己の人生哲学が、自分の実生活に一致している状態の事を指す。
ある人が提唱する哲学や教義が彼の実生活と一致していない場合は、「実存」ではないという事である。
キェルケゴールにおいては、「実存」に他の意味はない。

実存主義者の誰も『実存は孤独・不安・絶望につきまとわれている』とは考えていない。
人間は誰しも『孤独・不安・絶望につきまとわれている』と言っていたのだ。
これまでの実存主義者は、実存主義をあらゆる人間に当てはまるものと考えていたからである。
『人間の本質ではなく個的実存を哲学の中心におく哲学的立場』や『科学的な方法によらず、人間を主体的にとらえようとし』というのも間違っている。
俺がこれまで説明してきたように、そもそも人生哲学においては、絶対的な真理の証明は不可能であり、それゆえに、実存主義は絶対的真理は人間には認識し得ないという立場を取るのである。
実存主義においては、主体的認識および思考による人生哲学の構築が、最も科学的な手法なのである。
その結果、自己の哲学と自己の人生が合致する。これが実存哲学である。
実存哲学は自己の人生経験によって正しさが証明されるのである。

『不条理』は、『人生に意義を見出す望みがないこと』とはどの実存主義者も言っていない。
そもそも、『人生に意義を見出す望みがないこと』と『絶望的な状況、限界状況』では意味が食い違っている。
カミュは「シーシュポスの神話」において、『不条理』をキェルケゴールの言う「死に至る病」の事だとし、空漠な場所の事だと言っている。
キェルケゴールもイエスは「死に至る病」を経験したと言っている。
これは、空漠な場所の経験なのである。
広辞苑の内容はデタラメである。




◎ 2013年12月11日 (水) ツァラトストラかく語りき(4)

ニーチェ「ツァラトストラかく語りき(上)(下)」新潮文庫

ニーチェの結論は、社会全体に説明しても無駄だから、理解できる人々だけに超人思想を説明し、未来において超人の出現を待つ。
小乗仏教や老子のような社会を捨てて隠棲しているような背世界者は認めない。
永劫回帰の思想というのがあって、実存主義(高人や超人の思想)も権力主義(小人の思想)も永久に社会に存続するとしている。
「新旧の表(11)」では、絶対的真理を認めないのと同時に、誰もが支持する信頼性の高い意見よりは、信頼性の低い多くの意見がある方を支持するとしている。
「三つの悪」では、淫欲はバイタリティだ、支配欲は社会を変革しようとする高貴な意志だ、我欲は主体性のことだと言って、これら三悪を肯定する。
集団とは異なる意見や判断を否定する事は、より良い問題解決策出現の芽を摘むことになるとする。
これらの結論には矛盾があり、つなぎ合わせても完成図が想像できない。
仏教や老子やキリストについては全く誤解している。
権力主義の知識が全く不足している。
欠陥だらけだが、俺と酷似している箇所もいくつかある。
俺の結論は、老子やキリストのような天罰の哲学だから、ニーチェとは全く違う。
多分、俺がニーチェの超人だろう。しかし、俺の哲学はニーチェの影響を全く受けていない。
ニーチェは色々と権力主義批判を試みるのだが、どれも今ひとつで決定打がない。
芥川龍之介の遺作を読むと彼の影響をもろに受けている事が分かる。
実存主義は、個々の人間が最高の人生哲学を模索するものであり、社会が1つである以上、最高の哲学は1つのはずだが、それは人間には分からない。
そのため、あらゆる実存主義者の哲学の説明は、読者自身の人生経験によって理解されなくてはならない。
ニーチェの『中半者』とは、俺の『中途半端な実存主義者』の事である。
「2010年12月2日 (木) 分類」にその例を幾つか示した。

「ツァラトストラの序説」
ツァラトストラは、世間に超人思想を授けるために一身を投げ打つ事にした。
これを彼は『没落』と呼ぶ。一種の自己犠牲である。
超人とは、完璧な実存哲学を持つ人間の事である。
しかし、世間は、独自の思想と行動規範を持つ人間を敵視するとある。
ツァラトストラは、『神は死んだ』と言うが死んだのはキリスト教の神だけである。
なぜならば、『自分の道徳』と『自分の神』を死んだ神の代わりに立てているからである。
道徳は神と同義語である。
どちらも行動規範や、その元となる思想の事だからである。
『自分の道徳』が自分が作った物であるのに対し、キリスト教的道徳や社会通念などは、他人から与えられた物であるという違いがある。
独自の思想を持つ者を『超人』と呼ぶのに対し、他人から与えられた思想を持つ者を『末人』と呼んでいる。
末人は皆、昔から存在している思想を共有しているから、自らにも社会にも変化や進化をもたらす事がないと彼は言う。
末人は、現代用語では、保守主義者や反動主義者を指す。
星(変化や進化)をもたらす可能性の事を彼は『混沌』と呼び、世間の人々や末人を『人間』『善き者と義しき者』『正しき信条の徒』と呼ぶ。
その『人間』は、克服されて『超人』になるべき物だと言う。克服とは進化の事である。
彼は、この時はまだ、世間は、まだ末人にはなっていないと思い込んでいた。
しかし、多くの実存主義者は、世間は完全な末人である事を知っている。
すなわち、世間は、理性を全く所有していない事を知っている。
ここで彼の誤解を解いておくと、社会には、権力主義者、実存主義者、両者の中間者の三種類の人間しかいない。
資本主義に対立するものとして社会主義があるが、両者は権力主義である。
これは、権力主義者の支配者層と被支配者層の対立に過ぎない。
権力主義者の視点では、一方は保守主義で、もう一方は革新主義だが、実存主義者の視点では、両者は共に保守主義で反動主義である。
権力主義の性質として、あらゆる人間が彼らと同じ思想の所有者でないことが許せない。
そのため、権力主義者は、実力行使で他の思想を攻撃し、仲間(むしろ奴隷、なぜなら、新参者は組織の最下層に入るのが権力主義の慣わしだからである)にするか絶滅させようとする。
社会が以上の仕組みになっているのを彼は知らない。
広義においては、社会と世間は同義語である。
しかし、権力主義者が「世間が許さない」と言う場合は、世間は権力主義者の集団を指す。
社会の圧倒的多数が権力主義者である点と社会通念や文化が権力主義である点を考慮すれば、権力主義者の世間観は、間違いとは言えないだろう。
ツァラトストラは、人生は未熟な現在から超人へと向かう一本の橋であると言う。
超人へと向かう橋は危険を伴い、橋と言うよりは綱といった方が近いとも言う。
ここで事件が起きる。
綱渡りを始めた綱渡り人(超人を目指す未熟な中半者)の後ろから道化役者(綱渡り人よりは優れているが超人への途上のツァラトストラ)が追い抜いた瞬間、前者が転落して死亡したのである。
この話は、他の章でも幾度か出てくるが、権力主義者は実存主義者になれる見込みがないと暗に示しているのではないか。
根拠として、「新旧の表(4)」に『克服には多くの道があり法がある。之を心せよ!「人間も跳び越されうる」と考うるは、ただ道化役者のみにすぎない』、「覚醒(1)」に『かれらの胃を説得せんがためには別に法があるべし』とある。
実存主義を理解するためには、理性(道理を理解する能力)が必要だが、権力主義者には完全に欠落しているからである。
あるいは、多少の理性はあっても、それが権力主義と相反するため、実際の行動では完全に棄却されるのである。
この綱渡り人は、見込みのない賭けをして失敗したから、その勇気だけはツァラトストラは評価した。
これを機にツァラトストラは高人にのみ彼の思想を話すようになる。
しかし、ニーチェは、第一次世界大戦が始まる少し前に死亡してしまったから、悲惨なドイツを知らない。
もし、権力主義者が実存主義か全滅かの選択が迫られる状況になれば、どうなるかは分からない。
ただ、この解釈では、落ちた時期が、追い抜いた瞬間である必然性が無いのが引っかかる。
宗教には一神教、多神教、汎神論とがある。
ツァラトストラは、「離反者」において、西洋は昔、ギリシャ神話の多神教だったが、キリスト教の一神教に取って代わった。しかし、「新旧の表(11)」では、そのキリストの神は死んだから、人間の数だけ神々が存在する多神教に戻ったのだと言う。
彼は、思想数も小説の解釈数もたくさんあった方が良いとする。
学問は、多数派意見が少数派意見を棄却するが、それを認めないのである。
キリストは、自分の哲学が正確に解釈されるだけでなく、それが万人に受け入れられるべきだと考えたが、キリストの臨終の発言が、酷い解釈をされているように、うがった見方はいくらでもできる。
宗教や思想だけでなく、憲法解釈も同様である。
人間の数だけ哲学は存在すべきだとするニーチェの考え方は、キリストよりも実存主義として正しい。
自分の書いた小説は、多種多様な解釈をしてもらいたいとする作家は多いが、彼らはニーチェと同じ意見なのだろう。
しかし、俺は俺の哲学が多種多様に解釈されるのは、全く望んでいない。
社会全体の幸福を考えるなら、俺の哲学は万人に受け入れられるべきだとも考えるが、実存哲学の性質や1人1人の価値観や能力の違いも考慮すれば、社会全体よりも個人の方が優先されるべきである。