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◎ 2013年4月6日 (土) 今後の国家形態(2)

経済対策目標は、3つあり、1つ目は不況下でも持続可能な経済体制の確立、2つ目は国家間競争力格差是正、3つ目は国内企業間競争力格差是正である。

1つ目の「不況下でも持続可能な経済体制の確立」を考える。
政府の量的緩和によって供給された大量の貨幣は、銀行や政府にばかり出回り、国民は政府の公共事業や銀行からの借金以外で、その恩恵に預かることができなかった。そのため、企業や銀行などに貯め込まれるだけで市場に流通しなかった。
その貨幣を公共事業や銀行に回すのではなく、実存社会の構築と運営に全額回す事で、誰もが持続的に一定の所得を得られるという状況から、過度のデフレを回避する。
実存社会はデフレに最適な生活を提供するため、そこへ流入する人数の増減によって景気変動による雇用と生活水準の調整ができる。インフレにおいても実存社会を必要とする人々は一定の割合で存在する。実存社会は公共施設が多いため、人数調整が比較的容易にできる。

2つ目の「国家間競争力格差是正」は、「2013年3月19日 (火) 今後の国家形態」で説明した。

3つ目の「国内企業間競争力格差是正」を考える。
「2013年3月25日 (月) 資源国の産業が育たない理由」で説明したように、経済競争力格差是正は、為替相場で行われるのだが、1国1通貨であるために国内企業間の競争力格差は是正されない。
そこで、同一通貨圏内における通貨を3つに分けることで格差是正を狙う。
具体的には、富裕層通貨と中間層通貨と貧困層通貨を作る。
通貨を変えれば、財政政策も金融政策も分けなければならないから、政府も中央銀行も造幣局もそれぞれに独立して作らなければならない。
つまり、1国3制度になり、首相も中央銀行総裁も3人になる。
それぞれの行政区分は、事業者ごとであり、競争力や資産や売上高などを元に選別される。
為替相場における通貨価値は、市場によって決められている。
そのため、この選別が上手くできていない場合は、通貨価値が明確に分かれなくなり、仕組みが崩壊することになる。
選別が自動的に行われる仕組みがあれば良いが、なければ運営は難しくなるだろう。
1人1人の国民については、どの事業者で働いているかで区分が決まる。
土地に関しては、その土地の所有者によって決まる。
そのため、国境はないが、通貨圏それぞれに領土が発生する事になる。
ある通貨圏の土地が、直接他の通貨圏の通貨で売買されるようであってはならない。
土地も通貨を交換後に購入し、購入後は新しい通貨圏での市場価格になる。
紛争の種になるから、土地の売買は国境を跨げない。
通貨が異なるから国内であっても貿易になる。
富裕層通貨は、高いために輸入品や海外旅行が安くなる。貧困層通貨は、安いために輸入は減少するが、輸出しやすくなる。中間層は、それらの中間である。富裕層の生活は先進国並み、貧困層の生活は発展途上国並みになるのではないか。
この制度を導入すると、同じ地域にあっても1人1人通貨圏が異なるから、市町村は再編が必要だろう。
市になるには現行の地方自治法で最低5万人の人口が必要と決められているが、そこに市役所が3つ入る訳だから単純計算で単位は15万人になるだろう。あるいは、通貨圏ごとに地方自治体の行政区画を設定する事もできるが、その場合、転職で多数の人々の通貨圏が変わったら、再編が必要になる。市町村の区画だけが異なる日本地図も三種類できる。
必ずしも、競争力が高ければ高いほど良いという仕組みではないから、あるいは、誰もが農業をやりたがる可能性もあるが、その場合は、また単一通貨に戻るだけだから、再び苛烈な競争社会になるだろう。
通貨の種類は必ずしも3つでなくても良い。
日本の場合、この制度を導入する前後では、TPP参加後の農業状態が全く異なる。




◎ 2013年4月9日 (火) カリスマと適正国家サイズ

小室直樹「ソビエト帝国の最期」には、ビスマルクやスターリンのようなカリスマ統治者は、自分の優れた才能が最大限発揮できるように統治者の権限を大幅に拡大するが、次代の統治者は、たいした才能を持っていないため、その仕組みが裏目に出るとある。
その場合、カリスマ統治者は、次代以降の凡人統治者のために、徐々に統治者の権限を弱める政治形態にしなくてはならない。
例えば、各派閥の利権調整や根回しが得意な反動的大物統治者であれば、権限は最小限で済むはずである。
カリスマ統治者の次代で失敗するもう1つの理由として、統治者によって統治できる国家サイズが異なるのではないか。
この考えでは、統治者の質によって国家サイズを変更しなければならなくなるが、余った領土は新たに小国家を形成しなくてはならない。
となると、偉大な統治者ではなく、平凡な統治者に合わせて国家サイズは決められるべきだろう。
その場合、昔、元は侵略により広大な領土を手に入れたが、数代で潰えたのは、それだけの国家サイズを治められるだけの力量がなかったという事になるだろう。ジンギスカンやフビライハンは、子孫の統治能力を考えずに侵略を繰り返した結果、失敗したのである。
この事は企業にも当てはめられる。誰でも巨大企業を統治、維持できるとは限らない。
では、統治能力は統治者のみで決まるのかとなると他にもいくつか要素はあるかもしれない。
また、統治能力があれば国家の維持は可能かとなると、腐敗や法律による社会の硬直化によっていずれは崩壊するしかないだろう。
ここで示したのは、末期状態にまでは来ていない国家の適正サイズという観念である。

カリスマは一般的に優れた才能を持った統治者を指すから、カリスマ=統治者である。そのため、以降はカリスマ統治者はカリスマと書く。
カリスマは、その才能を全国民に支持されており、彼の言う事の意味が分からなくても国民は全面的に支持する。そのため、彼の発言への検証は全くなされない。
有識者にしてみれば、口出しすればその異論の責任を取らなくてはならないし、黙っていれば、無難に収入は得られるため、大人しくしておこうとなる。
ここで問題になるのが、その政策の意向や欠陥が分からないから、行政段階で問題が発生したときなどに柔軟に対応できないという事である。
柔軟な対応を可能とするのは、いかなる状況においても本質を理解している場合だけである。
そのため、カリスマの指示への検証も必要であり、問題が予期されたり発生したりした場合も、打開策を考えるか、指示そのものを破棄するかなどの議論や独自判断による状況打開も必要ではないか。
旧ソ連においては、闇市場が活発だったらしいが、これは独自判断の成功例だろう。
腐敗政治や景気低迷が長引く状況にカリスマは支持されやすいらしいが、これが時代の変わり目と呼ばれるのだろう。しかし、偉大すぎるカリスマ後の政治は失敗する事がほとんどらしい。しかし、個々に失敗の原因は異なるらしいから、個別の検証も必要だろう。




◎ 2013年4月15日 (月) アホな経済理論

日経新聞(4/10)「大機小機」に「TPPに必要な消費者の視点」としてアホな経済理論が載っていた。
関税をかけるとその分、輸入品の値段が高くなり、輸入量が減るから、輸入品の代金を支払うための輸出量も減らす事ができる。輸出量が減った分、大量の国産品が国内に流通するから国産品の値段が安くなり、消費者が得をする。しかし、需要がない商品を大量に供給しても不況になるだけだから、この考え方は間違っている。輸入を抑えて輸出を拡大すれば、経常収支が黒字になって円高になるから、輸出が減少する事になる。円高を避けながら販売を伸ばすには内需拡大しかない。例えば、関税を無くして輸入を促進すれば、円安になるから輸出が増える。輸出が増えれば、内需が拡大するから新産業が育つ環境ができ、産業構造の転換も容易になる。その結果、新商品も増え、雇用も増加し景気も上向くだろう。

要約すると、以上のような事が書いてあった。
この理論の何が間違っているかを1つずつ検証する。
先ず、輸出を抑えるために輸入を減らすとしておきながら、輸出を抑えると問題が発生するとしている。
モノ不足によるインフレを抑えるために輸出を抑えるのであって、輸出を抑えた結果、モノが余りデフレになるのであれば、最初から輸出を抑えなければ良いのである。つまり、前提からして間違っているのである。どういう状況なら、輸出を抑えなければならないのかを彼は書かなければならない。その条件の下で理論を組み立てろ。
次に、輸入すれば円安になって輸出できるようになり、内需が拡大するとしているのだが、輸出で儲かるのは輸出企業だけであり、輸出できない産業は安い輸入品に潰される事になる。その結果、日本国内は自動車産業だけになってしまうだろう。それで雇用が促進されるのか?その典型が台湾である。台湾は挙国体制で半導体を始めとするIT産業に力を入れた結果、パソコンやスマホが売れる時代には景気が良いが、それ以外は不況にあえぐ国となってしまった。現在の韓国もグローバル経済で生き残れるのがごく一部の財閥だけであり、中小企業や農業は倒産の一途であり、台湾のように産業の種類が減少する過渡期にある。『産業構造の転換』というのは、日本の台湾・韓国化の事を意味しているとしか思えない。確かに、競争力のない産業は消滅させて、競争力のある一部の産業に注力するというのは、台湾・韓国を見れば、グローバル経済における処世術の1つかもしれないが、リスクも大きい。
国民皆でトヨタで働くか?
もう1つの可能性としては(おそらくは彼はこちらを言いたかったに違いないのだが)、工場と農業の国内生産を全面的に廃止して、工場は全面海外移転、農産物は全面輸入する事が考えられる。この場合、国内に雇用の場がほとんどなくなるから、大半の国民は外国で働かざるを得ない。もちろん、国内に流通するのは総て輸入品になるのだが、農産物以外は持株会社が国内にあるため、所得収支の黒字が貿易収支の赤字を上回って経常収支は黒字が予測されるため、円高になる。日本国内は持株会社や研究開発部門勤務の金持ちと生活保護を受ける万年失業者だけの国となるだろう。その場合、経常収支は失業者の数が決める事になる。失業者が国内の需要を一手に引き受けるからである。この場合、法人税と国民所得のバランスが財政健全性を決める事になる。なぜならば、法人税が少ない場合、企業や社員の所得が増え、銀行預金が増大するが、税収が少ないために、多額の生活保護費を国債の発行で賄わなければならなくなるからである。国債は発行数が多いため価格変動が小さく、利子も定額で投資リスクが少ないから、銀行が預金を使って買う事になる。国債は企業も金持ちも失業者も同額負担しなければならないから、特に企業や金持ちは、銀行預金の利子を政府の借金としての国債の利子が上回る場合、その分、損している事になる。そのため、預金が多く法人税が少ない事は企業や金持ちの損である。同じ失業者を養うにしても、法人税と国債では利子の分、金額が異なるし、財政の信用にも関わるというわけである。分かりやすく説明すると、金持ちがいたずらに借金をしているようなものである。ただし、税収が増えると政府も歳出を大判振る舞いするモラルハザードを引き起こし、国債発行をなくすはずの増税が、増税されても国債も発行するという事態を招くから、一概に法人税増を認めるのも問題である。
少し前に、マルゲンという不動産屋の社長が脱税で捕まって、普段から「脱税は企業の義務だ」と言っていたそうだが、そういう事かもしれない。
俺はTPP参加の是非について書いたのではなく、アホな理論の間違いを指摘しただけである。
彼の理論がTPPの理論であるとするのは間違いだろう。彼はTPP反対派かもしれないからである。
競争力のある国なら経常収支が慢性的に赤字にならないから輸入を全面的に抑える必要はない。その事を彼は頭に入れておくべきである。




◎ 2013年4月17日 (水) スペイン・アフリカ

新聞によると、スペインでは不動産バブルがはじけて家を追い出されても借金は減らない法律のせいで自殺者が増えているそうである。
過度に不動産業を保護するから不動産バブルが発生するのである。
これでは、スペインの銀行は、不動産売買には審査無しで容易に融資するに違いない。
スペイン国民は、ダライラマ自伝を読むべし。
自分達が昔のチベットと同じである事に気付くだろう。
これまでユーロ圏は、輸入するだけで好景気を享受できたが、投資家の目が厳しくなったから今後は、こんな事はないだろう。
南欧諸国は、メリットがないと考えるならユーロ離脱も選択肢の1つにできるだろう。
ギリシャソブリン危機を契機に投資家の目が変わったのは、ユーロ圏にとって極めて重要な出来事である。
なぜなら、今後ユーロ圏には滅多なことでは好景気が訪れないことを意味するからである。

これまた新聞によると、最近中国が資源輸入の見返りにアフリカ各国に何を造って欲しいかを聞いて、道路や学校などを建設しているそうである。ただし、建設を請け負うのは中国企業で資材等も本国から送られてくる。
このようなひも付き援助の仕方は、日本のODAの特徴なのだが、アフリカでは中国に先を越されたようである。
アフリカ各国では好意的に受け止められているらしいのだが、この仕組みは、田中角栄の日本列島改造論に通ずるものがあり、アフリカ各国の政治的腐敗を助長するかもしれない。
アフリカ各国はインフラを外国に造ってもらっても、その修理と運営は自分達でできるように技術力を高めなくてはならない。アフターフォローまでしてもらったのでは、ただの汚職天国である。修理ができるようになれば、自力で建設する事もできる。
日本電産の社長は中学生の時、授業でモーターを上手く作れたから、モーターを作る会社を起こしたそうである。今では、日本電産はモーターの大手企業である。アフリカも学校でこういう授業をできるようにして、簡単な物から着手すれば良いだろう。自国産業草創期には、保護貿易も必要だろう。




◎ 2013年4月20日 (土) 貧富と景気の関係

機械的唯物論・・・生命や人間の意識の世界をも物理的自然界と同質的に取り扱い、力学的方法で説明しようとする唯物論

生産性・・・生産過程に投入された一定の労働力その他の生産要素が生産物の産出に貢献する程度

日経新聞(4/18)に「開国は国益につながるか」というコラムがあって、FTAには貿易を活性化させる効果があり、貿易には企業の生産性を向上させる効果があり、バブル崩壊後の日本経済低迷の原因は経済全体の生産性低下にあるというそれぞれの説を紹介している。
米加FTAによって雇用が5%減少したが、労働生産性は6%向上し、生産性の低い企業が退出し、生産性の高い企業がシェアを拡大したとも書いてあるから、生産性とは、生産コストの事だと分かる。
生産コストが低ければ生産性が高いのである。
具体的には、リストラやFAや合併などによって、人件費が削減される事が生産性向上なのである。
原料費や輸送費などの削減も生産性向上には結びつくが、一般的にはコストの大半は人件費が占めるといわれている。

このコラムに書かれている説は、どれも他人の説の引用であり、出典は書かれているのだが、それらの説がどのように導かれたのかは全く書かれていない。つまり、各自で読めというわけである。
そのため、読んでいない俺としては、これらの説の妥当性について検討できないのだが、関連する意見を以下に書いてみよう。
自然界の物理法則を社会に当てはめる考え方を機械的唯物論という。
あてはまる事もあれば、あてはまらない事もあるかもしれない。
老子にも高所の水が低所に落ちるように人間もより安定した所に向かうものだと書いてある。
経済はコミュニケーションだから、景気が良いという事はコミュニケーションが上手く取れているという事である。
生産性向上によって失業者が増え、貧富格差が拡大するが、貧富格差はエネルギー格差であるといえる。
なぜなら、貧民が、より裕福な生活を望むならば、それはエネルギーと呼べるからである。
貧民が富裕民になるならば、物理法則と同様にエネルギーが高い所から低い所に移って安定するから、スムーズな運動が成立しているといえる。
そのため、短期的に発生する貧富格差は、多少景気上昇に貢献するかもしれないが、固定化された貧富格差は高いエネルギーが維持されている状態だから不満が鬱積、または爆発し、景気の悪化を招くだろう。
そのため、皆が中間層よりは、短期的な貧富格差はあった方が良いという考え方もできる。
もちろん、生産性向上が短期ではなく長期の貧富格差を作るかもしれないという危惧もあるだろう。
そのため、やはり、実存社会は必要になる。

ただ、このコラムは経常収支には触れていない。
FTAによる経常収支の不均衡が長引けば、弱い方の国が財政破綻するかもしれない。
そのため、明治維新において、日本政府は岩倉使節団派遣以降30年間かけて諸外国との関税自主権回復交渉に励んでいたのである。
世界中の国々が財政破綻したら、いよいよ貿易はできなくなるだろう。
現代用語の基礎知識2002「この経済用語で基礎を固める」には、アメリカは日本に多額の貿易赤字を出しているが、日本からアメリカに多額の投資資金が流入しているから、貿易が維持できていると書いてある。
しかし、この関係は、アメリカ以外の国では成立していないのが現状である。
南欧諸国に、この関係が成立していれば、財政危機は発生しなかったに違いない。

「2013年4月15日 (月) アホな経済理論」とこのコラムに書かれている事は、およそ、関税撤廃または低減によって生産性の高い企業の収益が拡大し、その影響で景気が好転する可能性にかけるとまとめられるのではないか。
金融の量的緩和も未知の要素にかける部分があるとされているから、似たようなものではないだろうか。
何もしなけりゃ、じり貧だと考えているのだろう。
確かに池に石を投げ込む事にはなるだろう。
ただ、弱小国の経常収支が気になる。
TPPに参加するなら、無理かもしれないが弱小国は経常収支には注意を払うべきである。
TPPに参加する国の弱小産業は、転職を考えるべきだろう。
転職先の鍵を握るのは、勝ち組企業である。




◎ 2013年4月26日 (金) シッダールタ

ヘッセ「シッダールタ」新潮文庫

釈迦の出家前の姓はゴータマ、名はシッダールタである。
しかし、本書では、ゴータマとシッダールタは別の人物として、それぞれ登場する。
ゴータマは仏陀とされ、本来の釈迦として扱われているが、シッダールタは、釈迦とは全く異なる境涯と思想の持ち主として登場している。
歴史上の釈迦は、王族で妻子持ちだったのが出家した。
しかし、本書の主人公のシッダールタは、バラモン出身の独身者だったのが出家した事になっている。
シッダールタは、後に放蕩生活を送るのだが、竜樹の伝記に取材したのだろう。
つまり、シッダールタは、ヘッセの創作人物である。
ヘッセ自身、自分の思想と仏教思想は全く異なっている事を認識している。
そのため、シッダールタの名前を借りながらも、釈迦とは別人としなくてはならなかったのである。
ヘッセが少しは仏教を勉強したのは認めるのだが、全くでたらめな解釈をしているのが許せない。
シッダールタが魔術を使えるのは、竜樹の影響だろう。
思想は言葉によって伝えられないとしているのは、竜樹あるいは、拈華微笑や禅宗の影響だろう。
善悪や快苦などは、一切存在しないとしているのは、竜樹あるいは、般若心経の影響だろう。
しかし、ヘッセによる一切皆空の理解は、過去・現在・未来における因果関係が存在しないからだというものであり、本来の意味とは、かけ離れている。
それは、過去の悪行が現在の苦悩につながっているという関係がない以上、あらゆる善悪は決めようがないというものである。
しかし、釈迦は、阿含経において因果を執拗に説いている。
カミュやニーチェなどは、あの世や輪廻の実在を否定しているのであって、現世における過去・現在・未来の因果を否定している訳ではない。
ヘッセは釈迦の哲学は否定していないのだが、全く理解できていない事を自分でも気付いている。
そのため、独自解釈による別人物を創作したのだが、ヘッセが釈迦に不満を持つのが、禅宗において教外別伝・不立文字によって言葉を否定しているにも拘らず、釈迦が哲学を持っている点である。ヘッセにとって思想は言葉がなくては成立せず、言葉がない以上は思想など存在するはずがないのである。
しかし、それだけでなく、言葉で説明できないのは、言葉は表現するには不完全なものであり、上手く伝えられないからだともしている。
つまり、ヘッセは、言葉を否定する事の相反する二つの理由を持っており、思想や哲学を否定する。
もう1つ、彼が不満を持っているのが、仏教が社会と隔絶している点である。
釈迦が、般若心経において、苦悩は決して消えないとしているのは、社会を悪とみなさずに、正しいと受け入れているからだとヘッセは解釈した。
それにも拘らず、釈迦は阿含経において社会から逃げろと教え、事実、仏教徒は社会を離れ、別の社会を形成している。
ヘッセの解釈では、仏教は矛盾だらけなのである。
そのため、彼は、独自解釈の仏教を展開したのである。
彼は、思想の存在と社会からの離脱を否定する。
では、彼が何をシッダールタにやらせたかと言うと、親子愛と無思想である。
何も思想を持たずに、万人、万物を愛し、社会を肯定し、その中で生活せよと読者に訴えているのである。
ゴータマは愛を説くどころか否定しているが、愛の必要性もどこかで認めていたはずだとシッダールタに言わせている。
ヘッセにとって、親子愛は子供時代から死ぬまで一貫したテーマだった。
そのきっかけとなったのが、「車輪の下」で、親子愛の欠乏によって人生を踏み間違えた事である。
彼は、理性のトルストイ型ではなく、愛のツルゲーネフ型の作家である。
ヘッセは統一された世界観を否定するが、それは彼が考えているような言葉による構築ではなく、後悔しなくなった時に自然と出来上がるものである。
俺は、もちろん、ヘッセを悪人とは思わないが、権力主義すら知らない彼を軽蔑せずにはいられない。
大乗仏教には、阿弥陀如来の脇侍として慈悲の象徴である観音菩薩がいるから、仏教は愛を否定していない。ただし、この愛は親子愛などではなく、智慧(ちえ)に基づく愛であり、博愛に近い。そもそも、古代仏教は女人禁制で結婚を認めてなかったから、子供すらいなかった。現実においても、詩人や芸術家でもない限り、あらゆる愛は幻想と認識されているだろう。
俺は、人類が地上に現れて、このかた、恋愛や親子愛などが存在しうる社会であった事はないと考えているだけである。
それらが存在できる環境とは、実存主義者だけが存在する実存社会のみである。
釈迦は、般若心経において、そんな幻想は実現し得ない(苦はなくならない)と説くから、その前提において、恋愛や親子愛などは否定されるのだろう。
恋愛や親子愛は財産欲と同じで争いや執着や依存の元である。
諸行無常でどんな社会でも堕落し得るのであれば、どんな社会でも適応できる思想となると、やはり、俺が間違いで釈迦が正しいのかもしれない。
例えば、社会状況が悪くなったから捨てるというのでは、忍びないだろう。場合によっては、それすらできない可能性もある。
小説等でピエロだの道化だのという表現をよく見かけるのだが、これは、世間の物笑いになっているという意味らしい。権力主義への言及がなければそうなるのだろう。
しかし、本書で示されるカネやステータスを持たない男に興味を示さない女や聖賢になるよりは悪事を重ねたい少年の心理は納得できるものである。




◎ 2013年5月4日 (土) ツァラトストラかく語りき(1)

ニーチェ「ツァラトストラかく語りき(上)」新潮文庫

権力主義者は、集団があっての個人と考え、実存主義者は、実存主義的道理があっての個人と考える。
実存主義は人権尊重の哲学だから、道理は人権とみなしていい。
これは、両者にとって、絶対に譲れない最後の一線だから、断絶である。
そのため、ニーチェは「夜の歌」において、両者の架橋がないことを嘆くのである。
権力主義は、権力の性質に則った考え方であるため、悪行と極めて相性がいい。
しかし、例えば、キリスト教徒の中には、善人でありながら権力主義の人々がいる。
キリスト教には、裁きのキリストと慈愛のキリストがいて、裁きの方は実存主義者だが、慈愛の方は権力主義者である。
大乗仏教にも、釈迦や阿弥陀如来などの仏には脇侍と呼ばれる助手が二人ずついて、1人は智慧を、もう一人は慈悲を司り、慈悲というのは、仏の教えを布教することで、大衆を苦厄から救うことである。
そのため、慈愛のキリストは布教活動を行うが、裁きのキリストには、あまり、その意志がない。
キリスト教は、権力主義の宗教だから、慈愛のキリストを支持しているが、裁きのキリストには全く理解を示す事ができない。
そのため、善人の権力主義者がキリスト教に集まるのだが、権力主義は悪行に向いているため、善人の権力主義者が、どんなに頑張っても、悪の権力主義には、かなわないから、相手にされないし、一方的に酷い目に遭う。
しかし、善の権力主義者は、集団あっての個人と考えるから、執拗に説得する事しかできない。
そのため、一生、何もできずに、ひたすら、やられるだけで人生が終わるのである。
グノーシス派やキェルケゴールなどのように実存主義者のキリスト教徒もいるのだが、彼らは、ファウストや魔女達のように異端者とみなされ、キリスト教から迫害される事になる。
善人の権力主義者も実存主義者を敵視する。
そのため、実存主義者にとっても権力主義者は善悪に関係なく敵である。
ニーチェが「祭司たち」で勇者と呼ぶのは、おそらく、善の権力主義者を指すのだろう。
実存主義者は、説得も布教もしない。実存主義の紹介だけを行う。
そして、我々は、権力主義者からの迫害への復讐をせずに、あらゆる裁きを実存主義の神(道理)に委ねる。
それは、旧約聖書の「ノアの洪水」や「ソドムの町への裁き」である。
カミュとニーチェは神はいないと言うが、それは嘘である。
何らかの思想を持つ人は、その思想が神であり、カミュとニーチェの神は実存主義である。
善の権力主義者について書いたが、現実に善の権力主義者に出会った事はない。
そのため、彼に敵視された経験もない。
もし、そんな人がいたら、実存主義者は軽蔑されるだろうと予測しただけである。
キリスト教にも特に悪感情は持っていない。
ただし、自分の哲学が既に確立されているから入信する気はない。
昔、キリスト教徒の友人がいたが、特に変わったところはなかった。
寄せ集めの知識からキリスト教を否定しているに過ぎない。
キリスト教徒に何かされた経験もない。しつこい布教活動をされたこともない。

福島原発事故のとき、消防隊が決死の覚悟で水を空中散布したとき、世界中のマスコミと政府が隊員達を英雄視し、絶賛した。
原発がなければ、事故も発生せずに、悲壮な任務もしなくて済んだにも拘らず、彼らは原発も必要だ犠牲も必要だと言ったのである。
これが、個人を集団に隷属させる権力主義である。
集団があっての個人である。
他人の命は名誉(口先)で償うが、極めて軽いのである。
個人の命は集団が握っており、人権が存在しないのである。
これが、俺が、映画「ディープインパクト」を気に入らない所である。
隊員達は出動しなかったら、世間からどんな目に遭わされるか分かったものではないから、断れない。
しかし、原発がなければ断る必要もないのである。
いくらカネを貰っても失った命と健康は帰ってこないのである。




◎ 2013年5月5日 (日) ツァラトストラかく語りき(2)

ニーチェ「ツァラトストラかく語りき(上)」新潮文庫

現在、上巻の「墓の歌」まで読んだのだが、実のところ、内容が抽象的でほとんど理解できない。
それでも、理解できる所もあるのだが、特に関心が持てたのが、「創造者の道」である。
『なんじの自我への路を求めんとするのか』とあるのは、主体性を持って生きるという意味だろう。即ち、実存主義者の事である。権力主義者は集団の意思を自分の意思とするから主体性を持たない。更に踏み込んで、自己の哲学や世界観の追究と解釈する事もできるだろう。
『「求むる者は迷うであろう。孤立してあることは罪過である」−かく群集は言う』とあるのは、ファウストを指すのだろう。
ファウストは、真理を探究し、権力主義から離れ、キリスト教は、彼は悪魔の誘惑を受けたのだと説明した。
『荒涼たる空間の中に、また氷のごとき孤独の気息の中に、1つの星が投げ出される』とあるのは、「2012年1月16日(月)スピリチュアル体験」で書いた死に至る病としてのあの幻覚を指すのだろう。
カミュも「シーシュポスの神話」で、『あの荒涼とした場所』と書いている。
『いつの日か、なんじは叫ぶであろう「自分は寂しい!」と』とあるのだが、今までのところ、寂しいと感じた事は一度もない。
『善き者、正しき者』とあるのは、いわずと知れた権力主義者の事である。
権力主義社会においては、権力主義こそが良識とされるからである。
『びっこ』とあるのは、「ファウスト」で説明される悪魔の事であるのは言うまでもない。
「夜の歌」に『多くの太陽が荒涼たる空間を運行する』とあるのも実存主義者を指すのだろう。
実存主義は、他人から与えられるものではなく、自らの力で自らの世界観を構築するものである。
そのため、教える事も教えられる事もない。実存主義は経験であり、経験は他人に教える事はできない。この点で、ニーチェは間違っている。
「肉体の侮蔑者」も実存主義者の事を指しているように思われるのだが、ニーチェは、本能の思想に対する優位を説く。
本能や肉体なしでの人生は考えられないが、もし、人間が肉体や本能の指示にだけ従うならば、人間は常に他人からの暴力や自己の欲望に屈し、いかなる抵抗もできなくなるだろう。
他人に自由に操られ、自己の欲望の赴くままに犯罪を繰り返すなら、社会で生きる事は先ずできない。
スーパーエゴは欲望を規制し、思考能力は他人からの支配を防ぐ。思想はそれらの役割を更に高度に包括的に実現しようとするものである。
ニーチェは、生きるための思想が、生きる事を否定するのでは本末転倒と言う。
しかし、俺は、老子や釈迦やサリンジャーのように社会が実存主義を否定するなら、社会で生きる意義を見出さないとする人々の方が正しいと考える。
生きる上での最低条件は存在すると考えるからである。そのため、デカダンや隠者には理解を示せる。
ただし、彼らにしても肉体や本能を軽視しているわけではなく、宗教者や精神論者や儒学者に比べると全くの肉体論者である。
キリストが人間はパンだけで生きるにあらずと言ったように、苦しみだけの人生を肯定しないのである。
ニーチェは引きこもらずに社会に実存主義者の居場所を作れと言うのだが、現実は口で言うほど簡単ではない。

死に至る病の幻覚が示すのは、社会が権力主義で埋め尽くされている事の認識である。
幻覚そのものは、真実と虚偽はいかにして判別できるのかが示されれば、解決される。
ただし、それによって実存主義と権力主義間の断絶の問題が解決されるわけではない。
実存主義は、万人に紹介されるべきである。
それによって、実存主義者になりたい人々に人生の進む方向を示せるからである。
しかし、たとえどうなろうとも権力主義者として生きると決めている人々に強制するのは、却って本人にとって不幸になるかもしれない。
実存主義は、主体的に考える人生哲学である。そのため、考える事ができる。権力主義者は、既存の考え方を自分の物とする人生哲学である。そのため、自分では何も考えられない。そのため、実存主義者には問題解決能力があるが、権力主義者にはないのである。
既存のやり方に固執する権力主義者は、歴史の失敗の繰り返しから抜け出す事が永久にできない。
戦争の歴史から逃れられないのである。
権力主義では個人は集団に隷属し、集団と集団は権力闘争する。
そのため、権力主義と戦争は、切り離せないのである。
戦争の歴史から逃れるには少なくとも実存主義でなくてはならない。




◎ 2013年5月8日 (水) 真の実存主義

権力主義は、集団あっての個人であり、個人は判断能力を持たず、集団の判断が個人の判断となる。
個人は集団の命令や意思には決して逆らえず、あいつを殺せと言われれば躊躇なく殺すし、死ねと言われれば自殺する。
もちろん、死にたくて死ぬわけではないから、集団に言われたように、これまで生きてきたのに、死ぬ羽目になったと集団を呪いながら死ぬ事になる。
実存主義者は、自分自身に判断能力があるから、自分の判断で行動する。
そのため、どんな結果になろうとも他人のせいにはできず、たとえ死ぬ事になっても誰も恨む事はない。
実存主義者の判断能力の源泉となるのは、個人的に有している道理である。
道理は実存主義者として長年生活しているうちに身に付けるものである。
生活をしている中では、こういう状況ではどうすれば良いかと考える事もある。また、他人から非難される事もある。
そうした時に、自分の考えが正しいか間違っているかを徹底的に熟慮する事で身に付けるのである。
その時には、決して他人の意見は採り入れない。他人の意見が間違っている可能性があるからである。
そのため、熟慮するのである。他人の意見を聞くのであれば、熟慮する必要がない。
自分だけで得られた結論であればこそ、どんな結果になろうとも誰のせいにもできず、納得ができるのである。
集団の判断の源泉は、太古から社会に伝わる伝統や文化や慣習や常識などである。
こうしたものが総て権力主義で構成されており、それを世間や両親が子に教えるから、子は世間や両親同様に権力主義者になる。
ただし、それだけではなく、権力主義は権力の性質にも基づいている。
そうであればこそ、社会全体が権力主義で埋め尽くされたのだろう。
権力主義者の命は集団が握っているから、彼らには、いつ死が訪れるか分からない。一瞬先は闇なのである。
集団のきまぐれやわがままで殺される可能性も否定できない。
彼らの命はヘリウムよりも軽く、人権も存在しないのである。
しかも、道理に反した行動により、ノアの洪水のような天罰を受け、国家ごと滅亡してしまうのである。
例えば、世界大戦もその1つに数えられるだろう。
彼らは、権力主義という確固とした生き方があるから、人生には迷わない。
しかし、迷わないだけで、極めて悲惨な人生である事には変わりがない。
自分の意思も持っているが、集団の意思や考え方も採り入れるという実存主義と権力主義の中間の人々も存在する。
しかし、権力主義者は、完全な権力主義ではない人々を総て攻撃するから、この中間派の人々も攻撃対象になる。
中間派の人々は、自分の意思と集団の意思の板ばさみに苦しみ、大変な人生を送る羽目になる。
実存主義者も権力主義者の攻撃を受けるが、自分の意思のみを保持するから、板ばさみになる事はない。
そのため、権力主義に対抗しうるのは、実存主義のみである。
ピカソのような芸術家タイプもいる。
彼らは、実存主義も権力主義もその構図も理解していない人々で、どうやって生きて行けば良いか分からないで悩んでいる。
しかし、権力主義者も悲惨なら、実存主義者や中間派も圧倒的多数の権力主義者達から迫害を受けるから、良い人生とは言えない。
そのため、どんな人生も悲惨であり、悩むのは当然なのである。
しかし、権力主義に対抗できるのは実存主義だけである以上、人間の生き方は、どちらかに絞られるはずだというのが俺の意見である。

権力主義者は、権力の性質に則して行動するが、属する集団の命令に従うことが多い。
実存主義者は、常に自己の道理に則して行動する。
どんな道理であれ、その真偽は、判別ができないから、道理を他人に薦めたり、説得したり、強制したりするのは間違いである。間違った道理を薦めているかもしれないからである。
真偽の判別ができない根拠は、般若心経と無知の知である。
こういう考え方を持っていれば、自分の思想を他人に薦める事はない。
しかし、こういう考え方を持たずに、他人に自分の思想を薦めるなと命令された場合は、その場は薦めなくても、明日になれば薦めるかもしれない。
道理を保有しているかしていないかで、行動が全く異なるのである。
一度も他人に自分の思想を薦めなかった人と一日だけ薦めなかった人では、その後の人生に大きな違いが出るのは言うまでもない。
そのため、個人で道理は保有しなくてはならないのである。
皆で道理を持ち寄って検討し、同じ道理を共有してもならない。
検討の結果、間違った道理を皆で共有する羽目になるかもしれないからである。
誰もが異なる道理を保有しているという認識があれば、少々気に入らない事があっても、許容範囲が広がるに違いない。
法律も真偽の判断はできないから、法律も撤廃し、個人の道理で代用すべきである。
法律がなければ国家も必要ないから、実存主義者による無政府主義社会となる。

文化や慣習などには、社会には巨大権力が必要とする考え方が根本にある。あらゆる個人は国家や世間などの巨大権力に畏怖し、服従しなくてはならないから、国家や世間は無駄に民衆を虐待しなくてはならないなどの権力至上主義で成立している。
例えば、東日本大震災で義援金が、家電製品の購入に充てられたり、個人に配られた義援金が貰った当人の手によって自治体に上納されたり、消防隊や自衛隊が命懸けの任務を遂行するのが当然だと考えられたり、ホームレスなどの弱者への虐待が社会によって暗黙に了解されていたり、あらゆる問題が誰が味方で誰が敵かという事だけで解決されたり、国家の理不尽な要求も他の事で不利な事をされないようにするために快諾したり、量的緩和のカネが銀行と企業に貯め込まれ、市場に流通しないで日銀経営と財政の不健全性だけが増すのに他に何も出来なかったり、あらゆる問題において原因の究明が全く行われないままに悪と決めつれられたりする事などである。
これらのように、権力主義のがんじがらめの規定が何よりも優先されるため、状況に応じた適切な判断が出来ず、異様な結論になる。
その点、個人が有する道理は、規定が少ないから、適切な処置を講じる事が可能である。
実存主義者は、集団に属しないから敵味方の観念が薄い。そのため、万人に平等に接する傾向がある。
社会を計るには、正確な定規が必要だが、そんな物は存在しない。
そのため、実存主義者は自己の哲学と言動を完璧な物に改造し、それを定規とするのである。
社会を計るとは、善悪の判断の事である。
自己の完璧を目指せば、いつか自己が完璧になった事に自分で気付く日がやって来るだろう。
その時、実存主義者は第二ステージのスタートラインに着くのである。
自己を完璧にするには、自己の判断に後悔しないように改善して行けば良い。

以上から、実存主義とは、人権尊重と合理性に基づいた適切な状況判断能力の保有と実行を目指した思想である。
この考え方は、釈迦、裁きのキリスト、老荘思想、ソクラテス、キェルケゴール、カミュなどに共通している。
人生論を書く場合は、権力主義と実存主義についての見解を述べられないなら、机上の空論になる。
実存主義が、第二次世界大戦後に世界中に広まったのは、権力主義者は戦争のような危機的状況において、その本性を現わすからである。
この時に、おそらく、多くの実存主義者は例の幻覚を見たのだろう。




◎ 2013年5月8日 (水) ツァラトストラかく語りき(3)

ニーチェ「ツァラトストラかく語りき(上)」新潮文庫

「自己克服」には、以下のような事が書いてある。
賢者の万物に対する究明は万物への支配欲で、民衆にその価値判断を強制するのも民衆への支配欲である。
これらは権力の意志であり、創造しようとする生命の意志である。
社会全般においても、人々は皆、何物かに服従している。
自己に服従しない者は、(権力主義者のように)他人に服従しているものである。
また、命令者は、服従者に対する命令の責任を負い、彼自身もその責任を取らされて死ぬ事もある。
自分に命令する時もその責任は負わなくてはならない。
なぜ、人は命令と服従の関係にあるのか?
社会で生活する人々には、必ず権力への意志が見受けられた。
しかし、服従者にも支配者になろうとする意志があった。
弱者が強者に服従するのは、その集団の力を借りて、より弱い他者を支配するためである。
同様に偉大な人間も権力を所有するために命を賭ける。
冒険、危険、生死を賭けたギャンブル。これが偉大な人間の捨て身である。
服従者は、隙があらば、支配者の座を奪おうと狙っている。
創造による自己克服、つまり、自己の成長もこれらと同じ権力の意志である。
われは、この権力の意志を持たないくらいなら死んだ方がましである。
社会に生きる人々は皆、権力のために自己を犠牲にする。
賢者達よ、われは、そうやって君達の思想の謎を解くだろう。
不朽不滅の善悪は存在しない。善悪は、各個人によって創造され、その人自身に適用され、成長しなければならない。
賢者達は、彼らの創造した善悪の基準を民衆に適用する。
その新しい基準によって既成の価値観は取って代わられる。
善悪の創造者は、先ず、破壊者であるべきである。

以上のように書いてあるのだが、ニーチェの言う『生命』とは、社会で生活する意欲の事である。
それに対し、社会から隠遁して生活する人々やその思想の事は、『青白き人』や『幽霊』などと呼んでいる。
ニーチェは元々隠遁者だったのだが、社会で生活する意志を持っている。
そのため、彼は一般人を研究し、一般人と隠遁者の違いは、『権力への意志』であると悟った。
実存主義者の自己成長の意志も彼らと同じ権力への意志だと彼は主張するのだが・・・。
実存主義は反権力主義であり、権力とは正反対の物である。
この章に書かれている権力主義者の生態は正しいが、それと実存主義者が同じだという主張は間違いである。
賢者(研究者)の知識欲も権力意志ではないが、その知識を他人にも信じ込ませようとするのは権力意志である。
ニーチェは社会での生活を望むあまり、こじつけの論理になっている。

「教養の国」
一般人は、皆、自己の哲学を全く有しておらず、文化や慣習だけを身に付けてご満悦である。
われは、こんな連中と一緒に社会で生活するくらいなら、以前のように隠遁生活している方がましである。
われは、希望溢れる未来社会を構築するために、自己克服に邁進する。
ここには、以上のような抱負が書かれてある。

「純粋なる認識」
詩人達は、空想の中で美を構築するが、彼らの本能は淫欲を欲している。
われは、こんなむっつりスケベどもとは性が合わない。
われは、こんな連中とはおさらばして、社会に出て、われの思想を社会生活者達に分け与えてやるのである。
と書いてある。
『海』は思想、『昼』は社会、『太陽』や『犬』は社会生活者、『月』や『猫』は隠遁者、『夜』は隠遁者の生活の場である。
ニーチェは本当に無邪気だな。

「学者」
実存主義は人生哲学で万人向けの学問ではない。
学問領域に思想が入り込むのは、大学が国家や世間の非難の対象になる恐れがあるから、大学や教授たちにしても敬遠したいところである。
しかし、キェルケゴールやカミュやニーチェにしてみたら、人生哲学のみが関心を持てる研究対象であり、そのため、ニーチェは学者を辞めたのである。

「詩人」
実存主義者の結論に根拠を求められても説明は出来ない。
なぜなら、それは、長年の自己克服のによる人生経験に基づくものであり、膨大な人生経験は他人に説明できないからであると書いてある。

「大いなる事件」
注釈によるとこの章は、革命家について書いてあるらしい。
『時は来た!時は迫った!』とあるのは、ニーチェの革命の時を知らせるものらしい。
宗教は国家の一種であると書いてある。
宗旨に当たるのが、文化や慣習だろう。

「予言者」
『1つの教義が現れた。1つの信仰がこれと並んで広まった。「一切は空である。一切は同じことだ。一切は過ぎ去った!」と。』
『1つの教義』とは般若心経で、『1つの信仰』とは仏教である。
般若心経には、真理は存在しないし、悪もなくならず、より良い社会を構築するのは不可能だから諦めろとある。
そのため、予言者とニーチェは落胆する。
般若心経は、社会の変革は否定しても、個人が悟りを開く事で、その人が幸福になれるとしている。
幸福な社会や集団は存在しないが、幸福な人生は存在すると解釈できる。
しかし、予言者とニーチェが望んでいるのは幸福な人生ではなく、幸福な社会である。
なぜなら、幸福な人生は社会を捨てなくてはならないからである。
黒い棺の中から小児と天使と痴呆とふくろうと蛾が哄笑しながら飛び出してくるのだが、ふくろうと蛾は夜の象徴だから、社会生活に憧れるニーチェを何者かが以前の隠居生活に連れ戻しに来たという暗示だろう。
つまり、ニーチェは社会生活に失敗したのである。
小児は、場合により、実存主義または権力主義の象徴として使われている。
痴呆は、「救済」に出てくる『痴人』の事だろう。
無力感に囚われて社会変革を諦めてしまった人である。

下巻の「三つの悪」に『夜の蛾の智慧があり、つねに「一切は空虚である!」と嘆息する』とある。
注釈には、ふくろうは、ミネルヴァの連れている梟で、知恵の象徴とある。
注釈には、この空観が永劫回帰の思想を生み出す根拠となったとあるが、そのとおりだろう。

「救済」
この章は難解である。以下は注釈中心の解釈とする。
社会変革の意欲は希望であり、希望があれば、絶望から解放される。
社会変革の意欲がある者を『意志』と呼ぶ。
『意志』は、歴史に裏づけされた事実は動かせないとなると無力感に囚われる。
この過去の事実が、現状を決定しているから、現状も変えられないからである。
『意志』は、この過去の事実が原因で現在人々が苦しんでいるのであり、苦しみは必然であると言う。
また、これは、必然の因果応報だから運命であり、その苦しみは刑罰であるとも言う。
よって、全人類は死に絶える。全人類が死に絶えるのは当然だ。
どんな犯罪行為もその行為がなかった事にはできないし、罪も同様に取り消せないし、それに伴う刑罰もなくならない。
犯罪の原因が永遠に存在するから、人類は犯罪行為と受刑を永久に繰り返すだけである。
これが、生存するという刑罰が永遠に続く根拠である。
もし、『意志』が原因を除去できなければ、『意志』が社会変革を断念しなければ。
ニーチェによれば、以上の思想が、狂気でデタラメな詩だそうである。
『創造的意志』は、この動かしがたい事実を動かして、現状を変革するのだと言う。
これこそが救済だと彼は主張する。

俺が「2013年5月8日(水)真の実存主義」に書いた『天罰』が正に、この「狂気でデタラメな詩」である事に気付いたら正解である。ニーチェの言によれば、俺は『意志』であり、ニーチェは『創造的意志』である。
ニーチェは、全人類を権力主義から実存主義に改心させてやると、この時、心に誓ったのであった。
そうしなければ、人類は全滅するからだ。
しかし、現状を見る限りでは、彼は全面的に失敗したようだ。
「狂気でデタラメな詩」は、注釈によるとキリスト教や仏教における原罪思想であるとする。
すると、原罪は、人間が道理を持たない事、あるいは、権力主義である事になる。
もし、権力主義者だから道理を持てないのであれば、権力主義が根本的な原罪になる。
旧約聖書で、アダムとイヴが、蛇に騙されて知恵を身に付けた事が原罪とされるから、この知恵は権力主義だったのだろう。
実存主義者は、自分が例の幻覚を経験した原因を、歴史に裏づけされた事実にあると考える。
真偽の判別方法について考える事で、この歴史に裏づけされた事実を乗り越える。
その結果、実存主義者は、妙な体験をしたなと思いつつも、これまで通りの実存主義者を続けて行くのである。
俺は、ニーチェのように権力主義者をむりやり実存主義者にしたいとは考えていない。
権力主義者が、たとえ我々は全滅しても権力主義を貫くと考えるならば、彼らにとっては、それが幸せと考えるからである。
ニーチェと俺は考え方が非常に似ているが、この一点だけは、決定的に違うのである。
真の実存主義者は、思想を他人に押し付けないのである。紹介までにとどめる。
よって、ニーチェのように布教活動をしないのであれば、歴史に裏づけされた事実は完全に解決済みの問題である。
人類の全滅に巻き込まれて死ぬなら、権力主義者でなくても諦めるしかない。
人間の命には、運次第の面もある。
目だけや耳だけの人がいるという記述もあるが、専門分野には、やたらと詳しいが、そういう人々は他の事は何も知らないという意味だろう。

「対人的狡知」
ニーチェの悪知恵
@騙されないように気をつけない
A虚栄心には寛大に接する
B臆病な悪を恐れない
C世間同様に自分も虚栄心を装う

騙されないように気をつけないのは、ニーチェは、啓蒙家であり、子供でも知恵遅れでも超人になれるように、自分自身が子供や知恵遅れレベルに身を落としているからである。他は分からん。
超人は世間から悪魔と呼ばれるだろうと書いてある。