◎ 2012年9月29日 (土) 誰のおかげで社会は維持されているか
「2012年9月22日 (土) 不況と芸術と理性の関係」にも書いたが、社会の基本は老子の道理である。
これが廃れると社会は崩壊する。
これは、社会システムよりも重要であり、社会の基本思想が実存主義でなければ、いくら構造改革しても何の成果も出ない。構造改革を含め、何事も社会の基本が実存主義である事が前提になっているのである。
俺は、社会に酷い目に遭わされているから、現在、道理が廃れているのが良く分かる。
だから、本来、この社会は、完全に崩壊していなくてはならないのだが、比較的健闘している。
多分、誰かが俺の知らない所で社会の維持に奔走しているのだろうと思っていたのだが、一人見つけた。
日経新聞に、京セラ創業者の稲盛和夫氏(80)が経営破綻した日本航空の会長を引き受け、再上場させたそうである。彼がKDDIを創業したのは、NTTが市場を独占したのでは日本経済のためにはならないと判断したからだそうである。全日空が市場を独占するのを阻止するために再建を引き受けたのだろう。
他にも政治改革のために代議士に転職した人とかもいるらしい。
リストラの結果、人々が生活できなくなったら社会秩序は崩れる。
実存主義社会建設が急務である。
世界中に実存主義社会ネットワークを構築し、チベット密教やイスラム教もその一部に組み込めば良い。
宗教は、現実社会とは別社会である。
エジプトでは、現在でも旧軍事政権が現イスラム政権と対立して大きな政治力を持っている。
これは、宗教と世俗の対立と見ることが出来る。誰もがイスラム教徒になりたいわけではないのである。
総ての国において、世俗か宗教か、国民一人一人が自分の好きな方を選べるように両方の社会を用意するのが好ましいと俺は考える。
つまり、一国二政権制となるのだが、宗教や実存主義では経済活動は社会の中心とはならないから、経済活動によって大きな利益が発生した場合は、世俗側に税金を支払う仕組みがあっても良い。一方的に支払うだけでは不公平になるから、宗教側は世俗側にも何らかの協力を求める関係になるだろう。実存主義社会はNGOと宗教が合わさったものである。
◎ 2012年10月3日 (水) 他人の業績は自分の業績
大衆は、同郷人が偉業を達成すると、その同郷人の幸福を喜ぶというよりは、さも、自分がその偉業を達成したかのように思い込んで自分の自慢にして喜ぶ。
プロ野球やプロサッカーにしても、ひいきのチームが勝った事を喜ぶというよりは、自分が勝ったと思い込んで喜ぶ。
大衆とは、土地のつながりを根拠に、他人の業績を自分の自慢として取り込んでしまうものである。
裏を返せば、偉業を達成した本人やプロスポーツチームの健闘は、全く認めていない事になる。
これも1つの文化だが、ホームやアウェーなどのスポーツ用語が外国にもあるように、世界共通の文化である。
◎ 2012年10月3日 (水) 都市型と田舎型の権力主義(2)
「2012年2月4日 (土) 都市型と田舎型の権力主義」や「2012年8月13日 (月) 社会の掟」の内容を具体的に書くと、都市型権力主義は、各個人に金の無駄遣いをする事と優れた専門知識や情報を保有し、使える人間である事を強要する。田舎型権力主義は、日常的に質素である事と特売品を買う事と、それと同時に小金が貯まったら、無駄使いをすることを強要する。坊ちゃんの場合は、普段、贅沢をして、たまの無駄使いをしないという一般とは逆の生活をしていたから、嫌がらせを受けたのである。
俺もパンや牛乳を買っていたら、店員や客に毎回邪魔されたものである。毎日、米と味噌汁だけを食えというわけである。
都市と田舎では、社会が個人に強要する生活が違うから、注意が必要である。
都市生活者が田舎で、同じように生活すると、田舎社会から集団リンチを受ける事になる。
田舎では、普段は10円でも安い物を買い、ケチケチしていなければならないし、それでいて、旅行をしたり、金のかかる趣味も持たなくてはならない。
これも、世界共通の文化である。
文化とは、しきたり(掟)の事であり、理由もなく守らされるものである。
会社経営者などエリートは田舎社会の掟など全く知らないだろうから、いつか地獄を見る前に教えてやろうと思ったわけである。日本は先進国と言えども国土の大半は田舎が占める。誰でも田舎暮らしを経験する可能性はある。
都市型は金持ちやエリートの権力主義、田舎型は庶民の権力主義という感じである。
両者は同じ権力主義でも相容れない。生まれ育った環境と逆の環境にうっかり入ってしまうと予想もしないような大変な目に遭う事もある。
三年前は、徒党を組んで別の集団や個人を攻撃するのが権力主義と言ってなかったけ?という意見もあるかもしれないが、権力主義は、そんな単純な物ではない。こういう集団や社会による個人の意思と行動の束縛も権力主義の性質の1つである。権力主義は複合的で理解が難しい物なのである。そのため、これまで誰もこの事に触れなかったという面もあるだろう。しかし、漱石や芥川やサリンジャーなどの実存主義文学者は部分的に小説の中でそれに触れてきた。
◎ 2012年10月3日 (水) 裁判所全廃
秋葉原連続殺傷事件の控訴審判決が出た。
一審に続き、死刑である。
理由は、遺族の容疑者への処罰感情が峻烈であるからとなっている。
しかし、遺族の処罰感情だけで処罰が決定するのであれば、法律も警察や司法による事件全容解明も不要になる。
それでは、裁判所そのものが不用である事になる。
何人殺したかという事件の規模だけで、判決を下すのであれば、例えば、未成年者によるイジメ自殺も未成年者であるという理由で減刑する事はできなくなる。
未成年者は更正の可能性を見込んで減刑されているからである。
イジメ自殺の場合も同様に、事件の規模だけで判決を下すのであれば、イジメに加わった総ての生徒を無条件に執行猶予なしの懲役刑に処するべきである。
つまり、秋葉原連続殺傷事件による一審・二審判決には、大きな矛盾が存在しているのである。
正当な根拠もなしに感情だけで判決を下す裁判所は、存在そのものが社会の害悪であり、全廃が望ましい。
裁判所や刑罰は何のために存在しているのか、裁判官は、じっくり考えて答えを出す必要がある。
その肝心な部分があいまいになっているとしか思えない。
これは、総ての裁判官が議論し、統一見解を出すべき問題である。
◎ 2012年10月7日 (日) 権力主義者と実存主義者の会話の意味の違い
実存主義者の他者への発言は、相手への忠告だが、権力主義者の場合は、相手を説得、懐柔するための手段である。
そのため、俺の発言も権力主義者は説得手段だと思い込んでいるが、実際は違う。
実存主義者の発言に相手を説得、懐柔する力は一切含まれていない。
そのため、実存主義者の発言を真似しても誰も従ってはくれない。
実存主義者の発言は、何らかの効果を期待するものではない。
こういう事を書くのも、俺の真似をするなと言っているのではなく、権力主義と実存主義の違いを示すためである。
実存主義者を上っ面だけ真似しても意味がない。思想全体を自分の物にし、自らが実存主義者となるべきものである。その気がないなら、真似するのは無駄である。少なくとも実存主義者であるならば、実存主義社会の実現に異は唱えないはずである。
◎ 2012年10月9日 (火) 戦争の歴史
神代においては、大和朝廷が蝦夷征伐などで勢力を拡大し、日本を統一した。
壬申の乱では、大海人皇子が大友皇子を滅ぼした。
保元の乱では、崇徳上皇と後白河天皇が対立し、天皇の権威は失墜し、武家政治のきっかけとなった。
足利尊氏は、後醍醐天皇と対立し、光明天皇を擁立して、室町幕府を開いた。
戦国時代のきっかけとなった応仁の乱は、足利将軍家などの相続問題が原因で起こった。
源頼朝、足利尊氏、徳川家康は、朝廷から征夷大将軍の任命を受けて幕府を開いた。
薩長は、反乱の大義名分として、天皇を擁して江戸幕府と戦った。
明治維新から第二次世界大戦までは、天皇の権威を前面に押し出して対外戦争を繰り返した。
このように、第二次世界大戦までは、戦争をするにも武家政治の権威付けにも天皇が中心的役割を果たしてきた。
中国の三国志においても、皇帝の擁立が大義名分だった。
今年は、相次いで天皇家が、自らの葬儀の簡素化を表明した。古来、墳墓の規模が権力の大きさを示してきた事を考えれば、これは、天皇家が、政治の権威付けや対外戦争や内乱の大義名分に利用される事に反対するという意思表明だろう。
中国でもロシアでもフランスでも今では皇帝は存在しない。
これらの国では、皇帝が戦争の大義名分になる事はない。
天皇は、現在では、戦争の大義名分に利用される可能性以外では、国内外の親善大使のような役回りでしかない。
権力を持たない天皇家の親善大使に、どれほどの意義があるかは、この先も曖昧である。
それでも、武家政治の頃に比べると、親善大使という役回りがあるだけ、ましではある。
天皇家が消滅する事を望んでいるわけではないが、消滅する可能性も考えられるだろう。
1904年 日露戦争勃発
1917年 ロシアの二月革命でロマノフ王朝が滅亡
1939年 第二次世界大戦勃発
1947年 インド独立
1948年 朝鮮民主主義人民共和国樹立
1949年 中華人民共和国樹立
以上の年表から、結果的に、日本は、旧ソ連、北朝鮮、中国の共産主義政権樹立に大きな役割を果たしたのではないか。
旧日本軍がインドの反政府ゲリラを支援したのが、インド独立にも役立ったという説もある。
戦争賛美のつもりは全くないが、日本は戦争の意図に反した結果を世界にもたらしたのかもしれない。
◎ 2012年10月18日 (木) 一般常識
芥川龍之介「侏儒の言葉」の「鼻」に『我々の自己欺瞞は一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。』とある。恋人に何か欠点を見つけても、自分に都合の良いように解釈してしまうという事である。40歳になって、恋愛は、現実には存在しないのではないかと思っている。女はカネを持っている男にしか興味がないことが経験的にはっきりするからである。芥川もそれが言いたかったのだろう。ゲーテも「ファウスト」で、女に騙されている間は恋愛を楽しめるとメフィストフェレスに言わせている。女の本音が見えてしまうと恋愛は興ざめになるのである。
ヘッセ「車輪の下」の解説に『詩人であることは名誉とされ、教科書で賛美されたが、詩人になろうとする者は、うさんくさいものと軽蔑された』とある。
文学は、国語の授業でも採り上げられるし、大学の学部もあるし、ノーベル文学賞を受賞したなどと報道されると日本中が祝福してくれるが、現実には、芸術や文学などは娯楽と同じように社会の害悪、あるいは軽蔑の対象となっている。では、なぜ、ノーベル文学賞やカンヌ国際映画祭などの受賞が、国を挙げて歓迎されるかと言えば、それが国際的に栄誉とされているからである。以前に書いたように、多くの人々は、自分と同じ国や土地の人間の栄誉は自分の栄誉だと思い込む。多くの人々は、他人から尊敬されたり、世間から一目置かれたりすることを人生の意義だと考えている。俺から見れば、そんなものはただの他人との比較でしかないのだが、その比較こそが、多くの人々にとっては、極めて重要な問題なのである。そのため、芸術や文学で表彰されても、彼らは、その意味も知らず、表彰されて世界から自国(自分)が尊敬されているという事実だけを喜んでいるのである。たとえ、世界一馬鹿大賞を受賞しても、真に世界から尊敬されているのであれば、国民は心から歓迎するだろう。そのため、学校が教えたり、受賞を国民が歓迎しているからといって、文学や芸術が国民に受け入れられていると考えるのは、大変な誤解である。それが理解できないと、「侏儒の言葉」の『諸君は芸術の国民を毒することを恐れている』や「車輪の下」の解説は理解できない。
文学や芸術や娯楽が否定される理由は、既に述べたとおり、権力主義社会に異議を唱えているからである。
もちろん、文学や芸術にも娯楽同様に色々な種類があり、総てではない。ギャンブルに実存主義を見出す人は一人もいないだろう。
既に説明したように、国家主義は権力の法則に沿っているし、国家主義は戦争の準備段階である。
権力主義を受け入れる事は、戦争を受け入れるのと同義である。
この事は理論のみならず、現実において証明されつつある。
芥川龍之介「闇中問答」に『ある声 将来の読者はパンをくれるか 僕 現世の読者さえろくにくれない。僕の最高の原稿料は一枚十円に限っていた。』『ある声 しかし、お前は安心しろ。お前の読者は絶えないだろう。 僕 それは著作権のなくなったのちだ。』とある。
これは、優れた文学は、大衆受けしないが、百年後には名作として著者と作品の知名度が上がると言っているのである。それは、文学好きの人や文学を正当に評価できる人は少ないが、その絶対数は時代を経ても変わらないことを示している。優れた文学を残したとされる人々が生前に困窮していたのは事実である。文学で金持ちになる事は無いが、後世において名誉が残るし、出版社が儲かる。
同じく「闇中問答」『俺は世界の夜明けにヤコブと力を争った天使だ』『お前は犬だ。昔あのファウストの部屋へ犬になってはいって行った。悪魔だ。』『しかし他人の言葉を借りれば、お前は僕らを超えた力だ。僕らを支配するデーモンだ』
「西方の人」『悪魔 〜ヤコブの天使と組み合ったのもおそらくはこういう決闘だったであろう』
『他人』は、キリストの事である。
芥川の悪魔は、メフィストフェレスであり、『支配』とあるように、色々な性質を持った権力である。となると、メフィストフェレスは権力の象徴と芥川に理解されていた事になるが、メフィストフェレスが何の象徴かは、読者によってまちまちである。
◎ 2012年10月28日 (日) ロシア経済政策
日経新聞(10/23)に、プーチン大統領と石油大手の国営ロスネフチの関係が書いてある。
ロスネフチのセチン社長は、大統領の20年前の部下で「副官」と呼ばれていて、欧米への身売り話があった大手石油ユーコスのホドルコフスキーを逮捕し、それを取り込みロスネフチは国内最大手になった。
また、英国BPとロシアAARが出資する国内3位のTNK−BPの株式を両社から買い上げるために、セチン社長は、国内銀行にAARには買収資金を融資しないようにと働きかけたとある。BPは、TNK−BPの株式をロスネフチに売却しても、ロシア事業から撤退する意思はないらしい。
大統領は直接関与していないが、「副官」を使って、国内資源運用の権限を強権的に強化するのに成功した。
世界では企業統合は、市場原理に基づいているが、ロシアには全くそれがない。
もちろん、金融界では、世界の中央銀行が市場介入して統制を行っているから、国家が市場介入する事は、必ずしも特別な事ではない。事実としてカルテル禁止は有名無実化している。
しかし、経営面では、旧ソ連の国営農業や中国の大躍進などに逆戻りしている。ロシア経済の将来への懸念材料となるだろう。
しかし、日経新聞には書いてなかったが、TNK−BPもユーコスも外資、あるいは外資への売却だから、国内資源の国内経営が真の目的かもしれない。
今年は輸入車にはリサイクル税をかけるなど、ロシアには保護貿易傾向があるから、その一環かもしれない。
しかし、やり方が邪道だから、いずれ裏目に出て、ロシア資源外資防衛政策は失敗に終わるだろう。
中国は、レアアースの輸出を禁止して、WTOから勧告を受け、採掘そのものを中止したが、中国国内のレアアース関連会社は業績不振に陥っているらしい。しかし、輸出と採掘を禁止した理由は、採掘によって国土が放射能で汚染されるからというものであり、尤もな理由である。放射能に汚染された土地は、半永久的に浄化できない。日本では、原発事故で除染をしているが、その方法は、汚染された地面の表面の土だけを回収し、代わりに汚染されていない土をかぶせるというものである。かなりの除染効果はあるらしいが、その大量に回収された土をどこへ持って行くつもりだか。
「2011年4月28日 (木) ダライ・ラマ自伝」の最後に中国政府によるチベットの樹木伐採について書いたが、案の定、現在、中国はアラブ諸国のように海水淡水化装置を輸入するほどの水不足である。中国によるチベット開発は、深刻な悪影響を中国国内にも及ぼしている。
◎ 2012年10月30日 (火) 論理的思考の反対は?
論理的思考の反対は、慣習的判断である。
思考とは、論理的なものであり、論理的でないという事は、思考ではない。
親や世間などに教えてもらった通りに判断し、行動するのが、慣習的判断である。
そこに思考の入り込む余地は、ほとんどない。
文化とは、慣習的判断の事である。
子供に慣習的判断を植えつける行為を躾けと呼ぶ。
基本的に躾けとは、暴力的行為によって恐怖心を植えつける事である。
ファウストは、慣習的判断を否定し、論理的思考を選んだ人間である。
既に述べたが、慣習的判断(権力主義)は、権力の性質に基づくが、人間が社会生活を営む上で致命的な弊害を持つ。
論理的思考とは、具体的には、阿含経で釈迦が説くように物事の因果を考えたり、論理の妥当性を検証する事である。
世間一般には、論理は他人や世間を説得する道具だが、実存主義においては、天罰にも通ずる道理の検証であり、それ以外の何物でもない。そのため、実存主義者は論理を用いて誰も説得しない。根本的に実存主義者と権力主義者は思考が異なるのである。
◎ 2012年10月31日 (水) 欧米型と三島型の人生哲学
実存哲学は、結果よりも過程重視であり、その過程は、実存哲学に沿ったものでなくてはならない。
どんな結果になろうとも、それが、その人にとって最も有意義な人生なのである。
他人と自分を単純に比較すると損しているように思うことがあっても、他人の実情など誰にも分からないのである。
欧米哲学は、個人(集団)と個人(集団)との同意、つまりコンセンサス重視であり、その方法は相手の説得である。これは、つまり、権力主義である。残念ながら、イエス・キリスト自身も、これを実行していたのであり、キリスト教においては、正しいのである。しかし、もちろん、実存哲学からすれば、キリストの過ちであり、キリストは、できそこないの実存主義者である。しかし、キリストを全体として見た場合は、そこそこ優れた実存主義者である。コンセンサス重視の人生哲学は、権力主義だから、権力主義の欠点を(利点も)総て有している。
日米安保条約を否定した三島由紀夫の哲学は、実存哲学を集団に適用し、各集団の自立を主張する。
彼の場合は、いきなり、主張だけして自殺してしまったから、時間を掛けてコンセンサスを得るという欧米スタイルではなかったが、一度だけとはいえ、説得はしているから一応、コンセンサス型である。
彼の哲学は、あらゆる国々は、その国の文化の独自性を発揮し、他国文化に飲み込まれないように護らなくてはならないというものである。そのため、自国で軍隊を有し、核武装もしなくてはならないというものである。石原都知事が、どうやら、このタイプらしく、そうすると、このタイプは、領土問題でも先鋭的なのだろう。維新の会の橋下代表も、このタイプに似ているのだが、なにか違っていて、哲学につかみどころがない。千坂恭二氏がブログで、彼が所属した無政府主義運動において、内部に世代間ギャップがあって、年長世代には、大杉栄的無政府主義理論のような高尚な思想があったが、若い世代には、それがなく、ニヒリズムが中心だったとあるが、橋下代表が石原都知事とは、考え方に世代間ギャップがあると言っているのも、それに近いのかもしれない。もちろん、橋下代表がニヒリストだと言っているわけではない。そもそも、実存哲学と三島哲学は異なる。
大杉栄哲学が、どんなものか知らないから、それが、実存哲学だとも言い切れない。
俺は、研究者ではないから、今の所、調べるつもりは毛頭ない。
俺に対し、一切説得も交渉もしないで、ひたすら暴力に徹する国家や世間を見れば分かるように、日本文化はコンセンサス型ではない単純権力主義である。