◎ 2012年2月22日 (水) マスコミと官僚の過度の揚げ足取り
2月10日の衆院予算委員会で安住財務相が、「75円63銭の時点で介入を指示し、78円28銭のところでやめた」と発言した事で、神戸新聞が財務省の幹部やOBなどの意見を挙げ、『秘中の秘』を言ってしまったと非難しているのだが、どうしても言ってはならない事なら事前に官僚が財務相に口止めしておくべきだし、為替介入は、これまでにも何度も繰り返し行っているのであり、市場関係者なら国の介入の目安など誰でも知っていると考えるのが自然である。現に市場はこの発言に無反応だったらしい。政治家に対する過度の揚げ足取りがマスコミや省庁で横行しているようである。
また、政策に「秘中の秘」など持つべきではない。国家の暗躍や関係者の不正利益につながるからである。
神戸新聞は、政策についての基本姿勢を改めるべきである。悪の片棒を担いでいる。
◎ 2012年2月24日 (金) 名物市長の迷走
2月20日の読売新聞サイトによると名古屋市の河村市長が『父が地元住民にやさしくしてもらったから、南京大虐殺はなかった』と発言したらしいのだが、『戦闘行為があって多くの方は亡くなった』のだから、それだけでも地元住民の彼の父に対する態度は異常と言わざるを得ない。名古屋市長は自分の発言の異常性に気付くべきである。そんな気違いじみた逸話は、何の証言にもならない。何か大問題を起こす前に治療を受ける事を勧めたい。
維新の会の政策方針らしい「船中八策」で最もあほらしいと思ったのが、参議院の廃止である。彼らは、参議院の存在理由を衆議院よりも任期が長いから長期的視点に立った施策が可能だからであると言うのだが、これは間違いである。二院制は、二度合議する事によって、安易な法制化を防ぐためにある。こんな事も知らずに参議院を廃止するのは無謀である。また、理由として参議院が衆議院落選組の受け皿になっており、ねじれ国会ももたらすと言っているのだが、ねじれ国会もまた1つの民意を反映した形態と言え、必ずしも悪い事ではない。与党が国民の支持を得ていない事が政治に反映されるのは悪い事だろうか?
とは言え、あまりにも奇抜な意見だからと言って、頭から否定するのは惜しい意見である。確かに合議が一度きりであれば、スピーディーに国家の仕組みを変えられる。維新の会のようなトップダウン型の政党は、国家の様相を瞬時に変えることが可能である。もちろん2、3人の意見しか取り入れられないため、暴走の危険性も極めて高くなる。学校の教育方針を教育委員会から取り上げたり、国歌斉唱を義務付けたり、以前は大統領制の導入を言っていたのが、WEBで天皇制を否定するのかと書かれて首相公選制に切り替えたりする右翼的国家主義的傾向の強い政党であるため、いつの間にか軍事国家になっていたという可能性も否定できない。
極めて有能な政策集団が、一時の試みとしてこうした仕組みで国家運営をするのは悪くないかもしれないが、一院制になれば、ねじれ国会もなくなるため、民意が政治に反映されにくくなり、一度きりの合議では慎重な法制化もできなくなる問題が残る。しかし、一院制で民意を政治に反映させる事は、ある程度可能である。国会議員の任期を現在の半分にすれば良いのである。それならば、不人気な与党が何年も政権に居座る事がなくなる。半分にする理由は、合議が半分になるからである。しかし、それでも、慎重な法制化を実現する方法はない。しかし、維新の会ではなく、もっと有能な政党であるならば、任期半分の一院制でも賛成しても良い。
任期半分は問題にならない。国民の支持さえあれば、何度でも続けて与党でいられるからである。
しかし、この俺の意見は、ただの頭の体操である。実存主義者は、国家や政治が社会を安定させられるとは思っていない。俺が首相だったら、現代社会と実存主義社会の並立だけを政権公約に掲げる。
◎ 2012年2月25日 (土) ロシアと中国が国連のシリア非難決議案に反対する理由
神戸新聞(2012/2/24)によると、プーチン首相は「われわれは内政干渉を許さない」と集会で発言したそうである。
ロシアには、チェチェンなどの独立運動があったし、中国にもウィグルやチベットなどの独立・完全な自治運動があり、それらの人々に武力弾圧や人権侵害を行っているため、国連に自国の内政干渉をされたくないわけである。
ロシアと中国は、1999年のNATO軍によるユーゴ空爆にも国連許可のない空爆は法律違反だと非難していたし、同軍による昨年のリビア空爆にも反対していた。
しかし、NATO軍もユーゴ空爆の際には、国連決議を待たずに空爆を開始していたのが、シリアに対しては、やけに尻が重いのは、何か訳があって、シリア国民を見殺しにしたい心理が働いているせいだろうか?
プーチン首相は、この集会で「われわれは人口を増やしたい」と発言していたそうである。政府に楯突く人々は殺して、死んだ分は産んで増やせという事らしい。この辺りの政策は、日本に限らず、どこの国でも同じらしい。日本も自殺者数は長年高止まりしたままだが、政府は産めよ殖やせよである。人間はどこに行っても奴隷でしかない。
アサド大統領は、反政府組織を鎮圧してしまえば諸外国の介入は受けずに済むと考えている。
中国もウィグルとチベットに対して同様である。
そして、実際、鎮圧してしまえばチェチェン同様、我々は忘れてしまうだろう。
アサド大統領にしても、弾圧を止める訳にはいかない。多くの人々を殺してしまった以上、権力の座を降りれば、自分が死刑にされる事は確実だからである。
国連によってアサド大統領と一族の身柄の保証をした上で、政権から降りて亡命してもらうのがベストだろう。
◎ 2012年2月25日 (土) 守秘義務に関する正義
神戸新聞(2012/2/16)に、医者の息子が自宅を放火した事件を担当した精神鑑定医がジャーナリストに知り得た情報を漏らした事件が最高裁で有罪とされたとある。被告は自分は有罪とはなったが、間違った事はしていないと言っているらしい。
国家は権力でむりやり個人からプライバシーに関する情報を聞き出したのだが、それは裁判で必要だからである。
そのやむを得ないプライバシーをジャーナリストに話してしまうのは、やはりプライバシーの侵害に当たるだろう。そもそも国家が個人のプライバシーを侵害した時点で、既に悪事だからである。
では、鑑定医が守秘義務を破った正義は、どこにあるだろうか?
それは、多くの日本国民が事件の真相を知りたがっているからではない。
おそらく、国家だけが知識を独占する事に危機感を持ったせいではないだろうか?
俺としては、この程度の知識なら、別に知らなくても良いと思うのだが。
しかし、塵も積もればと被告が考えたとしても不思議はない。
この問題は、個々に正義があっても良いように思われる。
この問題を解決する方法がなかった訳ではないかもしれない。
ジャーナリストが出版する前に、放火犯に出版許可を取れば良かったのである。
おそらく、許可されなかったに違いないが、無理にでも出版する権利も必要性もあるまい。
となると、やはり、「知る権利」の問題に逆戻りするのである。
そういう訳で、意見の分かれるところだろう。
知る権利・・・ 国民が国の政治や行政に関する公的な情報を知る権利。民主主義国家における言論報道の自由や情報公開制度の正当化のための現代的な憲法原理。
◎ 2012年2月29日 (水) 場の空気の害
以前、『2010年12月25日 (土) 紛争地域での個人活動について』に書いたのだが、旅行者は場の空気、つまり、権力の動向を読むことによって、国民全体に虚偽を話す事になった。
日経新聞(2012/2/20)のコラムで、旧日債銀の頭取だった東郷氏が、粉飾決算の嫌疑をかけられ、12年に及ぶ裁判の末に無罪判決になった件について、彼は、『判決後、当時捜査にかかわった元検察幹部が「巨額の公的資金が投入された以上、世の中の雰囲気として立件しないという選択肢はとてもなかった」とコメントしていました。〜日本には周りの空気によって物事が決められることが多いですが・・・』と書いている。
「場の空気を読め」と言う人は多いが、その結果、その集団には事実と真相が遠ざけられ、虚偽を信じることになる。
権力主義者に事実は不要という訳だが、それによって個人の人生は甚大な被害を受けることになるし、事実に基づいた適切な判断も不可能になる。
◎ 2012年3月7日 (水) 宗教的な成長段階
「2009年2月24日 (火) 自慢」にも書いたのだが、自慢をすると一般的に他人はそれを奪い取ったり、二度と手に入れられなくしたり、嫌がらせをしたりするものである。
また、自慢された側も腹が立つだけであり、こいつは嫌われたいのか、どういうつもりなのかと思うだろう。
そのため、基本的には無意味に自慢はしない方が良いと俺は考えているのだが、現在の俺の宗教段階について書いてみようと思う。
宗教段階というのは、人生観・人生論としての成長段階という意味である。
仏は、穏やかな顔つきをしているが、その眷属の天や仁王は、怒りの相をしている事が多い。
昔は、穏やかな方が偉くて怒りの方はまだその段階まで達していないのだと考えていたのだが、実際、仏は天よりも偉いらしい。
しかし、同じ対象でも、見る人によっては、穏やかそうに見えたり、怒っているように見えたりするものである。そのように仏を見るのであれば、ただの仏像であっても、奥深いものがあるかもしれない。相応の段階に達した人が、経験的に知る事により、このような考え方ができるのである。
「2012年1月16日 (月) スピリチュアル体験」に書いた幻覚体験も実は同様の経験である。
「キェルケゴールの生涯と作品」において、著者の F・ブラント は、キェルケゴールは、この経験をした事に優越感を感じていると指摘していたと思うが、おそらく、実存主義者は皆、この経験に対し誇りを持っている。この経験は、自分の人生観・世界観の完成度の高さを証明するものだからである。
以前、カミュとカフカは、あるいは実存主義者ではなく、その振りをしているだけかもしれないと書いたが、あれは取り消す。
というのも、「2009年2月23日 (月) シーシュポスの神話(1)」に書いたのだが、『精神の第一歩は真であるものを偽りであるものから区別することだ。しかし、論理的にそれらを区別することはできない』とカミュは、著書の最初に書いているからである。俺とカミュが、これを最初に採り上げ、殊の外、詳しく説明したのは、これがこの経験の中核だからである。ここにソクラテスの名前が登場したから、俺はソクラテスもこの経験をしたのだと気付いたのである。
カフカの「変身」もこの経験を元に書かれたものである。ただし、この経験の中核ではなく、副産物である。
つまり、この小説のモチーフは、意味が無いものである。
これらの事から、例の経験をした人々は、例外なく、その経験のメカニズムと意味を正確に把握しているし、皆、ほぼ同じ事を考える事が分かるのである。
このように、宗教的な段階は、経験によって本人に把握されるのである。
タリバンが以前、呪物崇拝だとして、仏教遺跡を破壊した事件があったが、人によっては、仏像はそれなりの意味があったのかもしれない。
◎ 2012年3月16日 (金) 官僚とマスコミによる実存主義の全面否定
俺が、ここに実存主義の紹介をして以来、新聞を通した官僚とマスコミによる実存主義の全面否定が明らかになった。
法律が人間の総てであるとする彼らの主張と実存主義を消滅させるための国民に対する洗脳は、非人道的行為である。
結果として、この先、世界中の国家の暴走が顕著になるだろう。
◎ 2012年3月26日 (月) 他の本では
太宰治 「晩年」
森鴎外 「雁」
川端康成 「むすめごころ」
が良かった。
◎ 2012年3月29日 (木) 恐怖政治
恐怖政治は、第二次世界大戦のナチスが有名だが、最近の社会状況もそんな感じになって来ているようである。
これは、国家単独のものではなく、国家と世間に発生しているものである。
恐怖政治やファシズムと言われても、具体的に想像する事ができない人もいるかもしれないが、「BAD BOY
S」という漫画を読めば、原理を理解できるだろう。
「寒椿」という題名の映画だったと思うが、戦前の日本が舞台で、不況で日本女性が海外に売り飛ばされるという内容だったと思うのだが、こういう他人の弱みにつけこむような行為は、理性的とは言えないだろう。
こういう事が、日本が外国に攻め込む理由の1つになったとしたら、諸外国にも問題の一端を認める事ができるのではないだろうか?
以前にも書いたが、チベットが中国に侵略されたのも、宗教国でありながら日本の悪行に目をつぶったからではないかというのと同じ事である。
つまり、理性的な行動を保持できなかったために、招いた惨禍と言えるかもしれないのである。
現在も国家や世間による恐怖政治が台頭し、誰もが権力に流され、非理性的な行動をとっている状況だが、もし、そうした状況に迷いを感じている人がいるなら、将来、自分自身が後悔しないために、理性的行動を最後まで諦めないつもりでいた方が良いだろう。
俺は、自分では誰よりも社会について詳しいと思っているし、既に俺に喧嘩を売っているような馬鹿どもには何を言っても死ぬまで理解できない事は分かっているのだが、理性が社会から消滅しつつある現状に簡単に大勢に流されようとしている人々に、将来、社会がと言うよりは、その人自身が後悔しないように忠告してやろうと思ったわけである。
恐らく、洪水前のノアも、このような状況下で俺と同じような事を言っていたのではないかと思われる。
社会について何でも知っている我々が、何も知らない人々に忠告の1つもしてやるのは、我々にとって当然の行為である。
◎ 2012年3月30日 (金) 死刑と私刑
三人の死刑が執行されたそうで、残念な事である。
俺は、大学で死刑が、いかに非人間的であるかの講義を受けた事があり、その講義に納得できたから死刑に反対しているわけである。
悔い改めた犯罪者に対する死刑や死刑直前の死刑囚の様子などを実に上手く説明していた。
法相は、国民が死刑を決めるのであり、裁判員が死刑を支持したから執行したと言ったそうである。
俺などは、国家や国民に死刑ならぬ私刑を執行されている有様で、こんな連中にどんな法的判断力があるか甚だ疑問である。