◎ 2012年1月15日 (日) 愛
俺が、チベットやウィグルの完全な自治を主張したり、シリアの弾圧を非難したりするのは、それが理性的な意見であると考えているからである。
俺のように集団に属せず、孤立して生きる人間にとって、理性だけが命綱である。
我が身を守るためだけに、理性を主張しているのである。
人間は、結局、自分と同じ境遇の人間の心理しか理解できないのであり、少しでもそれが違うと他人事に感じ、忘れやすいものである。
もし、理性が俺の生きる世界に存在しないなら、この世界は俺にとって全く生きるに値しない。
このように理性を主張していると意外な事に他人から優しい人間だと思われる。
理性とは、無条件に愛と等価なのである。
俺にとって、愛は娯楽という定義づけである。
愛は、人生の潤いであり、それが全く無ければ、人生は無味乾燥なものになってしまうという考え方であり、つまりは、娯楽である。
昔、子供がいたのだが、俺にはちょっと育てられないかもしれないと思い、他人の子供になっても良いと許可を与えたのだが、どこにも行かずについて来た。しばらく一緒に生活をしていたのだが、少し邪魔になってきたので、知人に預ける事にしたのだが、これが実は酷い奴だったらしい。しかし、毎日、会いに行っていた。普通だったら、殺されるか自殺するかしていたに違いないのだが、そのため、生きる事ができていたらしい。その日も、会いに行ったのだが、その日は他に興味があるものがあり、内心、邪魔だと思っていた。こんな奴、死んでしまえば良いと思ったら、あっと言う間に崖から飛び降りて死んでしまった。その時、思ったのが、あいつは愛だけあれば生きていける奴だったんだなという事である。その時まで、そんな考え方をしている人間がいるとは思わなかったし、そんな人生が存在する可能性すら考えた事がなかった。
ZARDの歌詞に、『いつも誰かに気にかけていて欲しい』みたいなのがあって、そんな事は、いまだかつて考えた事もなかったから、そんなものか程度に考えていたのだが、愛とはそういうものらしい。今でもそんなことは思ったことはないが、そういうものだと愛の伝道師が言っていた。
◎ 2012年1月16日 (月) スピリチュアル体験
「2012年1月13日 (金) 実存主義者の選択」に書いた『実存主義者特有のスピリチュアル体験』は、一生誰にも言うつもりは無かったのだが、実は俺もしたことがある。
これは、俺の予想では、世界中の誰も理性を持っていない上に、それが社会の慣習に基づくものである事に気づいたときに受ける衝撃である。
一時的に視覚と平衡感覚を失うほどの現実感のある幻覚症状である。
白昼夢などと違って、そこが幻覚である事は瞬時に気付くから、そこから出ようと思えば、すぐに現実に戻れる。
感覚的に数秒ほど続いたかな。
突然、書く気になったのは、十数年前、次の実存主義の説明を読んだときに、書いてある内容が、さっぱり分からず、けちけちせずに具体的に説明すれば良いのにと思ったからである。
その経験を誰にも言わずにおこうと思った理由は、実際に経験しなくては分からない。
広辞林 三省堂
『実存主義・・・人間が限界(たとえば死)に取り囲まれていることを認めて無に直面し、ひるがえって人間の存在意識を新たにする見地に立つもの』
これが、すなわち、このスピリチュアル体験の事なのである。
キェルケゴールの「死に至る病」であり、カミュの「不条理」であり、ハイデッガーの「不安」の事である。
キェルケゴールの「肉中の棘」が、理性の事であることも、この経験により理解できるようになる。
◎ 2012年1月18日 (水) 大道廃れて仁義あり
老子によれば、現在のように大道が無くなると仁義が現れるはずだが、今後、そんな現象は発生するのだろうか?
現在になって大道が無くなったというよりは、元々無かったのが表面化しただけである。
今後、仁義を口にする連中がのさばるかどうかで、老子の正しさの1つが試される事になる。
◎ 2012年1月18日 (水) サイキック青年団
青春ラジメニアの裏番組で、一時期、芸能ネタ目当てで、聴いていたのだが、大して面白いネタはなかった。
この番組は、それ以上に社会ネタに力を入れていて(というより、こちらがメイン)、よく名前が出ていた「小林よしのり」と「ゴーマニズム宣言」は、この番組で知った。
天童荒太の「永遠の仔」という本も、この番組の紹介で知ったのだが、良い本だった。ただ、最初に読んだときは、推理の要素は不要に感じた。
「ゴーマニズム宣言」を読むと分かると思うが、結構過激な思想傾向がある。
ひょっとしたら、この少し過激な傾向を持つ社会ネタが、どこかに引っかかって、この番組が打ち切られたのかもしれない。
少なくとも、「永遠の仔」の紹介は、高く評価したい。
天童荒太とノーベル文学賞の大江健三郎は、愛媛県出身で、愛媛県には作家の人材があるようである。
パーソナリティの北野誠は、この番組の前には、ヤングタウンのパーソナリティもしていて、良く聴いていた。
彼が社会から外されるのは、社会の大きな損失である。
◎ 2012年1月27日 (金) マツダ12人殺傷事件
読売新聞サイト(2012/1/26)
『わしは秋葉原超えた…マツダ12人殺傷の被告
マツダ本社工場(広島市南区など)で2010年6月、従業員12人がはねられた暴走車による殺傷事件で〜検察側は、動機について「同僚の嫌がらせをマツダが容認していると思い込み、秋葉原の無差別殺傷事件のような事件を起こせばマツダの評判が地に落ちると考えた」と指摘。』
これは、サラリーマンなら誰しも持っている意見だろう。
あらゆる企業は、事実、社内の嫌がらせを容認している。
では、対策として、現場監督を置けばどうかと考えるかもしれないが、この現場監督が、嫌がらせに積極的に関わる可能性が極めて高いのである。
しかし、何らかの対策をとる事が可能である事も事実だろう。俺には、何も思いつけないが。
俺の考えでは、労働は、まじめにするものではないし、無理に働く必要もない。
国家は、破産寸前で、大企業でも大幅なリストラが進んでいる。社会は、今後、壊れるものとして認識すべきである。
◎ 2012年2月4日 (土) 都市型と田舎型の権力主義
夏目漱石の「坊ちゃん」は、田舎型権力主義、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」や「フラニー」、芥川龍之介の「父」は、都市型権力主義である。
全く異なるタイプだが、どちらも個人に対し、強制的・強圧的であるところが共通している。
どちらも誰しも経験するところだろう。
俺に対する国家や世間の権力主義は、両者とは全く別物だが、これはこれで、直接的で、えげつないものである。しかし、俺としては、十分対処できているから問題ない。
◎ 2012年2月7日 (火) 変化の可能性
東京タワーから周囲を眺めると街が見渡す限り続いていた。
通天閣から周囲を眺めてもビルの大きさは東京ほどではなかったが同じように広がっていた。
それらを見た後に、神戸市を見ると実に貧相に感じた。
しかし、その神戸市ですら、俺の住んでいる三木市からすると大都市なのである。
つまり、とんでもなく田舎であるわけである。
子供の頃から、この田舎町では、田舎型権力主義的傾向にあったが、最近は更に顕著なようである。
それとは関係ないが、最近、日本国内では、諸外国のように観光に力を入れようとしている部分もある。
以前、「志染の石室」という名所を隣町まで写真を撮りに行ったのだが、近所の住民は感じが悪かった。
観光地の住人は、基本的に愛想が良いものである。
こんな所は、たとえ、東大寺や姫路城があっても観光地にはならんなと思ったものである。
現在、インターネット上では、RPG用のフリー素材が多く配布されている。
以前は、こんな事はなかった。原因は、「RPGつくーる」というRPG製作ソフトが出たせいである。
このソフトが、インターネット上に、このような無料の市場をほぼゼロの状態から作ったわけである。
もちろん、このソフトを使った高品質な有料・無料のゲームが多く出回っている事も要因の1つだろう。
「RPGつくーる」ほどの品質のソフトは、なかなか個人では作れないから、経済社会に市場を作るには企業でなくてはできないと言えるだろう。
しかし、これは、比較的低予算で、そこそこの市場を作り上げた例である。
どんなに大きな予算を使っても新しい市場は作れないものである。これは、かなり運が良かったと考えるべきだろう。
まだ、RPG素材の市場は、無料の段階で、有料市場にするには、ほど遠い状態である。
しかし、初期段階とはいえ、新しい市場を作ることに成功した「RPGつくーる」は、時代のニーズに合えば、ゼロからやり始めても社会を変革できる事を示したと言えるだろう。
つまり、何もしないよりは、何かをやり始めた方が、何かが変わる事もあるという事である。
だからと言って、リスクが大きいため、何かを始めることを他人に薦めるわけではないが、意外と、不向きな素人が観光業を始めたとしても、住人の態度も表向きは、それらしく変わることもあるかもしれんなと思ったわけである。
◎ 2012年2月15日 (水) 人類最高の英知
人間の望みうる最高の英知は、理性無しで社会は維持可能かという問いに対する答えである。
これは、総ての人間に共有できる知識ではなく、そこに到達した個人にしか理解できないものである。
この知識に到達するには、その知識に到達できた個人の全人生を代償とする事になるだろう。
しかし、それでも、その個人以外の何者にもその知識は、一切得られないのである。
知識の中には、他人と共有できないものもある。
もし、理性無しでの社会の維持が不可能である場合は、個人の人権を軽視する国家は、あらゆる再建策が失敗し、消滅する事になるはずである。俺は、世界中の総ての国家が消滅すれば良いと考えているが、この先どうなるかは、未来の現実を見るまでは分からない事である。
国家と社会は、必ずしも同一ではないと考えている人もいるかもしれないが、太古から続く人間社会の構成要素が総て権力主義で埋め尽くされている現実においては、国家と社会は全く同一である。
もし、国家が消滅するならば、社会も同時に完全に消滅せざるを得ないのである。当然、時間の経過と共に、あらゆる企業が倒産する事になるし、世間も消滅する。
国家(つまり巨大権力)が社会の基盤となるのが権力主義である。こういう事も実存主義者にしか分かるまい。
リスク管理(つまり、リスクの分散)の観点から人間社会を評価するならば、全く何もなされていないわけである。
◎ 2012年2月16日 (木) 人材不足
神戸新聞(2012/2/15 社説)
『一審尊重
刑事裁判に参加したかいがあった。そう思わせる最高裁の決定だ。
一審で無罪となりながら、二審で逆転有罪となった覚せい剤密輸事件の被告の上告審判決で、第一小法廷は裁判員裁判の判決を尊重する初の判断を下した。
〜最高裁は、二審が一審と同じ立場で事実認定したことを問題視した。
一例は覚せい剤入りの缶を持って空港に着いた被告が、検査で不審な影を指摘されたときの反応だ。平然としていたことについて、一審は薬物を認定していたとは言えない、と判断。二審は逆に認識がないのなら驚きの反応を見せるのが自然だとし、有罪の根拠の一つにした。
同じ事実から異なる解釈が安易に行われると、裁判員の感覚を反映した判断より、裁判官だけの判断を優先させることになる。それでは市民参加の意味が薄れる。補足意見で白木勇裁判官は「裁判員の視点を反映させた判断をある程度許容すべき」と踏み込んだ。同感である。
〜刑事事件の二審は一審のように証人尋問などを行わないのが原則で、一審の事実認定や法令解釈に誤りがないかを審査する。ところが最近は二審でも一審と同じように事実を審査する続審的傾向が強まっているとの指摘があった。
〜小法廷は言及しなかったが、高裁が一審判決を覆すことに慎重になり過ぎると誤判を増やすことにならないか。
〜判決は裁判員裁判に参加するわたしたちの背中を押すものだ。当事者の自覚をさらに深めなくてはならない。』
この記事について人材不足を感じたのは、2点である。
1つは、最高裁の裁判官、もう1つは、神戸新聞の社説記者である。
普通、こういう記事は、読者投稿欄やコラムに書くものである。昨今の社会の荒廃を考えれば、社説ネタはいくらでもありそうに思われるが、実際は逆らしい。
近年の控訴審で一から慎重に捜査が行われるようになったのは、近年、数十年に及ぶ死刑判決の最高裁判決で逆転無罪が続いたためである。
その事を、裁判官も裁判員を務めた記者も全く触れていない。これらの事件は、社会的にも大きな話題になったものであり、司法事件に関する勉強不足の感は否めない。
被告の態度で、有罪・無罪が決まってしまうのもどうかと思うが、裁判官の裁判員の判断を取り入れるためだけに二審では別の事実認定をしてはならないという判決も問題である。裁判所は、裁判員の遊び場ではない。
無理に裁判員の判断を取り入れる根拠を裁判官は説明する義務があるが全くしていない。
記者は記者で、この意見に『同感である』と言っておきながら、後で『誤判を増やすことにならないか』と書き、最後に『判決は裁判員裁判に参加するわたしたちの背中を押すものだ』と書くのはどういうつもりだ。
全くの支離滅裂で、何が言いたいのか読者には、さっぱり分からない。
昨今の司法弱体化を示す一つの例として今回取り上げた。
◎ 2012年2月16日 (木) 革命と独立の発生原因
誰でも知っていることを書くのが当サイトの目的であり、以下に書くことも周知の事実である。
旧ソ連が、ロシアに移行する際、多くの共和国の住民が蜂起し、ロシアから独立した。
その理由は、旧ソ連の国力が低下したのを見て取った各共和国が、今なら独立できるかもしれないと反旗を翻したためである。
チェチェンもその1つなのだが、この国が独立することだけは、ロシアは許さなかった。
資源の問題か、国防上の問題か、あるいは別にあるのか、それは分からない。
中東でデモ(革命)が多発したのも同じ理由である。
チュニジアでデモによる政権打倒が成功したのを見たエジプト国民が、中東全体の国力低下を見て取って、エジプトでも可能かもしれないと踏んだせいである。
リビア・シリア・イエメンなども同じ理由なのだが、中東全体の国家の国力や支配力が低下したとはいえ、それでも各国の国力にはバラツキがあり、リビアやシリアなどは、まだ国力が温存されていたのである。
そのため、チュニジアやエジプトやイエメンのようには、あっさり落ちなかったのである。
中国において、チベットやウイグルの自治区で独立運動や人権保護のデモなどが発生しているのは、全く別である。中国は、旧ソ連や中東各国と違って、現在比較的国力に勢いがある状態にあり、そのような行動が成功する可能性は低い。あまりの横暴に耐えかねて、そのような行動に至ったのであり、一般的な事例とは全く切り離して考えるべきである。
社会運動は、総て権力と権力のぶつかり合いだけで成立するのである。
これが、人間社会の常識。
人間社会に、話し合いだの理性だのが入り込む余地は、どこにも無いのである。