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◎ 2011年9月11日 (日) 日本の学者がアメリカの対外戦略に持っている不信感

日本のほとんどの学者は、アメリカは、国内世論を戦争の方向へ持って行くために、相手国に先に自分達に攻撃するように仕向けていると考えている。
真珠湾攻撃も予め知っていたがわざと攻撃させたという説もあるし、ベトナム戦争もわざと魚雷を撃たせたという説もあるし、ナチスドイツも攻撃するように煽ったという説もあるし、そうした経緯があるために、なぜ世界最大のスパイ網を誇るCIAは、あれほど大規模な同時多発テロを事前に察知できなかったのかという疑問も当時マスコミから出ていた。
しかも、挑発に乗らなかったナチスに対する以外は、ことごとく戦争に突入しているのである。
アメリカは、こうした外国のアメリカの対外戦略に対しての不信感について、明快な説明をする義務があるだろう。

NATOによるアフガン・イランへの攻撃は、残虐行為であったと多くの人々が指摘しているし、ビン・ラディンの居場所を突き止めるために捕虜に過酷な尋問を加えたとするのは、方法として間違っている。
アメリカは、手段を選ばない国家であると俺は認識している。
実存主義は、結果よりも手段を選ぶから、到底認められない。
政治は、資本家と労働者によって成立している。
求められているのは、そのどちらにも属する事ができない貧困層のための政治である。
貧困層だけは、現代政治は守ってくれないのである。
そのような欠陥のある政治を日本や欧米諸国は諸外国に武力で押し付けているように思える。
日本やイギリスやイギリスの植民地のカナダやオーストラリアのように、無条件に追随してくれる国以外は、アメリカの政策に賛同してくれる国はないだろう。




◎ 2011年9月14日 (水) 哲学と行動

「2011年9月11日 (日) 日本政治に根本的に欠けているもの」に書いたのは、哲学は人間のあらゆる場面における行動と思考を決定するという事である。
もちろん、この哲学とは机上哲学の一般哲学ではなく、実践哲学の実存哲学である。
野田首相は、物事の本質を全く考えず、欧米の尻馬に乗ったから非難したのである。
彼の哲学は、いかなる場合でも大きな権力と行動を共にするというものである。
しかし、毛沢東にしてもレーニンにしてもキム・イルソンにしても、自分の哲学を持っているのであり、また、マルクスも基本的には政治学者でも経済学者でもなく哲学者である。
世界の政治と日本の政治では、本質的に違うという事を説明したわけである。
これは、哺乳類と昆虫ほどの違いである。
これは、政治だけではなく、個人生活でも全く同様である。
俺は、この違いによって自分だけが生き残り、全人類は死に絶えるのではないかとすら思っている。
以前説明したように、実存哲学は、個人的なものであるが、総ての実存主義者に共通した内容である。
そのため、総ての実存主義者は、他の実存主義者の言っていることが良く分かる。
そのため、総ての実存主義者は、いかなる場合でも同じ事を考え行動するのである。
我々は、その意味では、実存主義者であって個性は持っていないとすら言えるのである。
一般人には、老子とイエスが同じ哲学を持っているとは思えないだろうが、実存主義者には全く同じである事が分かる。もちろん、自分自身の哲学と同じだからである。
長年の実存人生によって、経験的に分かる。
昔、理解できなかった数学を分からないままに放置していたら、いつのまにか理解できている事があるが、それに似た感じである。




◎ 2011年9月16日 (金) 実存主義社会の村?

読売新聞サイト(9/15)
『伊の山村独立画策、旧王家にも接触…政府に反発
イタリア中部の山村(フィレティーノ)が、国の緊縮財政策の一環として小村廃止が浮上したことに反発、「独立」と「独自通貨導入」を目指す方針を表明した。』

国家から独立した地方自治体には、パリ・コミューンがあるが、フィレティーノ村の場合は、自分達の社会への自負から独立を目指すという事で、理由が異なる。
これは、この村の社会の居心地が良いからで、実存主義社会も実現すると、こんな感じになると予想している。
そのため、あるいは、この村は実存主義社会に近い可能性もあるだろう。
イタリア政府は、他の自治体への示しをつけるために強権を振り回すのではなく、むしろ、この村の社会を全国に広めるべきだろう。




◎ 2011年10月2日 (日) 視野

神戸新聞の小説の論評というか紹介のようなものに、中学生の主人公が、だらしのない大人に、あるべき姿を期待して、そのギャップに幻滅し、腹を立てるというのがあり、それに論評が共感しているのが気になった。
というのも、あるべき姿というのが、大人は仕事をし、子供は勉強するといった類の単純で杓子定規なものだからである。
人生経験が少ないために、視野が極めて狭い14歳に、大人が共感しているのが、大変危険に感じたのである。
社会や人間のあるべき姿を14歳に求めるのは、あまりにも幼すぎるのではないか?
こんな視野の狭さでは、狂気に走って、何をしだすか分かったものではない。
大人であれば、中学生とは別の「あるべき姿」を自分で模索するものではないのか?
実存主義者達の社会権力についての考え方と比較すると、あまりにも人間や社会について知らな過ぎる人が多いのかもしれない。
彼らと問題意識が、かけ離れ過ぎているのである。
現代人は、もはや、国家が国民に強制する杓子定規な「あるべき姿」などという陳腐な価値観とは全く比較にならないような難局にいるのである。
それは、カミュや芥川などが生きていた世界中が戦争をしていた時代と同じである。
つまり、理性と権力の相克である。
特に大企業で働いてみな。皆で悪い事しているから。一人も共通の悪事に手を染めていない人間はいないから。実のところ、俺は大企業で働く事が多かった。そうした現状を見て、おそらく、誰も彼もが社会の模倣ばかりしている原因について考えることだろう。その原因については、既に説明したとおりである。
実存主義者に、子供みたいな発想をする人間はいない。
社会におびえて、社会から逃げてないで、社会に飛び込み、社会と人間の真実を探れ。
実存主義者は、それらを熟知した一握りの人々である。
ほとんどの人間は、それらを知らないし、何も知らないままに年をとって死んでいく。
とは言っても、それが出来ない人々もいるのかもしれない。
俺は、今でも世間や国家など屁とも思っていないし、やつらに俺が打ち倒される可能性など皆無だと思っている。
俺は、子供の頃から大変な、うぬぼれ屋で、この精神状態から抜け出た事が一度もないのである。
今でも俺は自分の事を世界一の才能の持ち主だと思っている。
俺には、社会に怯えるような弱く、才能も自信もない人間のことなど全く理解できないのである。
徹底的に論理を組み立てれば必ず真相にたどり着くし、それに経験が必要なら10年でも20年でもひたすら待て。




◎ 2011年10月9日 (日) 小沢議員の裁判

小沢議員が、『裁判官が自分の推測と推断で事実を認定し、それに基づいて判決を下すという前代未聞のことで司法の自殺に等しい』(神戸新聞 10/7)と言っている。
確かに、俺もこれまで指摘してきたように、司法は崩壊している。
『裁判でも明確な説明をしなければ、結果がどうあれ、疑念は晴れない。そのことを元代表は自覚すべきである』(神戸新聞 社説 10/7)読売新聞の社説も似たようなものである。裁判の結果がどうであっても、許さないと言っているようなもので、神戸新聞の彼に対する個人的憎しみが全開である。新聞社としての公正さも公平さも理性もへったくれもない。
小沢氏の説明の変遷として、支援者からの寄付金(2007/2)→積み立ててきた個人の資金(2010/1)となったとあるが、これは、判決とは関係がない。つまり、真相に関係しない。
会見では、『刑事責任とは別に道義的責任を問う声もある。議員辞職や離党についてどう考えるか。』『(元代表)が検察とマスコミに狙われるのは、検察人事、記者会見のオープン化、新聞社がテレビ局を持つクロスオーナーシップに踏み込むからと見る向きもあるが。』『今回の裁判では司法の在り方そのものを疑問視する声が非常に多い。この現実の国民や識者の声がある一方で(正反対の)マスメディアの世論があるが。』という質問をマスコミから彼は受けている。
『司法の在り方』というのは、強制起訴のことだろう。
この裁判の事実は、どうあれ、新聞社も司法も警察も全く機能していないのは確かである。
つまり、公正、公平、理性的、論証的ではないという事である。
このような公的機関に何らかの権威を認めるのは危険な事である。
大学教授ですら、全く信用が出来ないのは、原発事故関連の報道で明白である。
検察、弁護士、警察の崩壊は、官僚機構全体の崩壊とも直結している。
国家も信用ならないという事である。




◎ 2011年10月9日 (日) 共産主義国

読売新聞サイト(10/7)
『中国四川省でチベット族の元僧侶が焼身自殺
 【香港=槙野健】米政府系のラジオ自由アジア(RFA)によると、中国四川省アバチベット族・チャン族自治州アバ県で7日、チベット族の10歳代の元僧侶2人が焼身自殺を図った。うち1人は死亡したとみられる。中国政府の少数民族政策に対する抗議の意思を示すためだったという。同省のチベット族居住区では、今年に入りチベット族僧侶の焼身自殺が相次いでいる。』

中国の温首相は9月に、過度の権力集中を変える必要があると言ったらしいのだが、毛沢東思想の共産党がそんな事をするはずがない。嘘を言ったのだろうと思ったのだが、案の定だ。
中国とロシアは、シリア非難決議案に反対したのだが、これも、独裁政権による国内少数派民族弾圧に外国や国連の介入をさせないためだろう。中国やロシアは、一党独裁、または、それに近いから予防線を張ったのである。

チベット自治区では、焼身自殺が相次いでいるらしいが、内情がさっぱり分からないのが残念である。
元僧侶とあるから、やはり、僧侶の数を減らす政策は継続しているのだろう。
それは、チベット人にとっては、彼らの国の文化の否定と破壊に等しい。

チベット人の焼身自殺が、日本などの近隣諸国に何らかの影響を与える可能性はない。
日本は、中国と同じ権力主義であり、巨大権力は少数派には何をやっても許されるという考え方が定着している。これは日本の文化である。そのため、日本人の多くは、チベット人に全く同情しないだろう。
今後、これらの事件に対する日本の世論や政治の反応を見ていれば、現実にそれが理解できるだろう。
日本人は、中国には、どちらかと言えば友好的ではないが、それは、資本主義と共産主義というイデオロギーの違いだけである。それ以外は、何も不満は持っていないのである。チベット人弾圧も少数派だから当然だと思っているに違いない。
しかし、どんな集団でも皆が同じという事はない。世界各国の少数の人々は、チベット人に同情するだろう。
少数派の人々が生きていられるのは、多数派が、その役立たずの少数派を必要としているからである。
チベット人は、弾圧されながらも中国人から、無意識的に必要とされている。
そのため、未来においては、チベットの復権もありうるだろう。

大国の中国と隣接する朝鮮とベトナムは、歴史的に中国と同じイデオロギーを持つようにして、中国から攻撃を受けないようにして来たらしい。それは、日本も同じである。
今は、欧米の後ろ盾があるから、違うイデオロギーでもやっていける。
俺は、たまたま、日本人に生まれたが、チベットやイスラム教圏に生まれたならば、自爆テロや焼身自殺を否定しないかもしれない。つまり、誰でも、いつでもそうした事ができる心構えを持って生きるべきだろう。
ただし、俺は、集団や他人にそそのかかされて、そのような行為をする事はない。




◎ 2011年10月25日 (火) 信念

信念・・・ある教理や思想などを、かたく信じて動かない心。

一般人と異なる考えかた(思想)を持つ人は、信念を持っていると多くの人々は考えているのではないだろうか?
しかし、俺は、自分が信念を持っていると思ったことはない。
自分の精神活動の中に、信念に該当、あるいは相当するものを見つけることができないのである。
信念を持つという経験がないから、それについて考える事は、当て推量になる。
人間は、信念を全く持つ事なしに、社会とは全く異なる思想を持って生きる事が可能なのである。
当然、俺には、国家や世間からの攻撃が、ひっきりなしにあるのだが、信念があって彼らとは異なる思想を持っているわけでない。
攻撃を受ける事が、思想を変える理由にならないというだけである。
いや、この状況も思想の一環であり、それならば、やはり変える理由など何もない事になる。
すべてが当然のことなのである。
では、信念を持つ人々は、なぜ、それを持っているのか?
信念の概念は、世間一般に考えられているものとは、別物なのかもしれない。
俺の存在そのものが、現実において信念の概念を否定しているからである。
信念なしに社会とかけ離れた思想を持ち続けることなど、信念の概念からすると考えられないことではないか。




◎ 2011年10月25日 (火) カダフィ大佐銃殺

リビアの統治者だったカダフィ大佐が、反乱軍に捕まって銃殺されたらしい。
側近の話では、逃亡中は、コーランを読んでいたらしい。
一万回近い NATO 軍の空爆によって実質的にやられたようなもので、民意を無視した政権打倒と言えるだろう。
NATO には日本も参加しており、空爆にも賛成していた。実質的には同罪である。
リビアは、『教育と医療は無料。各種手当ても完備。ただし、拷問などの人権侵害が多数報告されている。イスラムの教義で、禁酒、女性の社会からの隔絶は徹底されている。』(現代用語の基礎知識2000)という国らしい。何のための拷問かは、分からないが、何の真相も究明せずに、裁判もなしに、その場で銃殺される場面だろうか?
リビアがどんな国かを知っている人は少ないにも拘らず、カダフィ政権打倒には喜んでいる人が多い。
世の中は、何も知らない何も考えられない馬鹿ばかりである。

20世紀から始まったイスラム原理主義に代表される宗教回帰の傾向は、西洋型資本主義社会への反発からだろう。
巨大資本を持つ国に搾取される国では、基本的人権が守られた生活をすることは不可能である。
その結果、モラルも生活も荒廃した社会を捨てて、昔の生活に戻りたいという希望が、そうなったのだろう。
中国やソ連などでは、それが共産主義となったが、イスラム教圏では宗教回帰となったのである。
アラブや中国、ロシアに共通しているのは、農業に適した肥沃な土地が少ないということである。
貧しい国は、貧しいなりの社会を持つべきだというのが、彼らの主張に思われる。
彼らは、本当は、共産主義や宗教回帰でなくても良いのである。資本主義国に搾取される事により、国内が荒れ果てなければ、それで良いのである。
貧しい国は、豊かな国と同じ土俵に立てないのであるから、異なる社会であっても認めるべきだろう。
NATO の目的は、資本主義国を増やす事だが、それは、このような理由から不可能なのである。




◎ 2011年10月30日 (日) 理性が無いと言う事

シリア治安部隊発砲、反政府デモ40人死亡 (10月29日 読売サイト)

シリアでは、デモに対する弾圧で、多くの人々が亡くなりつつあるのに、世界は何も対処をしない。
それでいて、自国内の社会の安寧は、口にするのである。
しかし、どんな国でも、世界の一部であって、世界の影響を受けずにいられる国は存在しないのである。
それは、つまり、自国の安寧を求めるのであれば、世界の問題をおざなりにしていては、その希望はかなえられない事を意味するのである。
これは、我々実存主義者にとっては、分かりきった事なのだが、世界中の人々にとっては、常識はずれな考えらしい。
だからこそ、俺は、権力主義者には、理性が無いと断言できるのである。
物事の優先順位を口にするのであれば、国内問題よりもシリア問題を先に解決すべきだろう。
デモは、基本的に戦争ではなく、意思表明なのである。
そのただの意思表明が弾圧されているのである。これは、全人類にとって、由々しき人権侵害である。
世界中の人間が、このおそらく現在世界で最も重大な問題をおざなりにするのであれば、世界各国の混迷は、最大限に深まる事になるだろう。




◎ 2011年11月1日 (火) 真の実存主義者と中途半端な実存主義者の違い

真の実存主義者は、世界中に一人でも不幸な人間がいれば、世界中の誰一人幸せにはなれないだろうと言う。
しかし、中途半端な実存主義者は、それだけではなく、世界中のすべての人間が、自分と同じ考え方をしなければ、誰も幸せにはなれないと言う。
真の実存主義者は、少なくとも自分は、この人生で納得できるのだから、他人がどんな人生を選択しようとも、それは自分の人生には何の影響も与えないし、勝手にすれば良いと考える。
中途半端な実存主義者は、世間と違う考え方をすると自分は世間から攻撃を受ける事になるから、世間全体が自分と同じ考え方になってもらわなくては困ると考えるのである。
しかし、真の実存主義者は、世間から、どんなに攻撃を受けたとしても、それは自分の人生に何の苦痛としても感じないから、そんな事はどうでも良いのである。
集団を恐れるか恐れないか、それが真の実存主義者と偽の実存主義者の違いである。
芸術家や宗教家の多くは、偽の実存主義者である。
だから、彼らの人生は、権力主義者や実存主義者よりも苦痛に満ちているのである。
思想は、国家や世間に受け入れてもらうものではなく、個人の生き方なのだ。
もし、対立するなら(真の実存主義者なら必ず対立することになる)、全人類を敵に回せ。
「世界中に一人でも権力に虐げられる人がいるなら」と「世界中が自分と同じ考え方をしなければならない」とは、全く相互関係の無い別々の考え方である。