◎ 2011年8月3日 (水) 奴隷は一家においては金づる
読売新聞サイト(8/3)
『1人死亡火災、高3を逮捕「家族とトラブル」
北海道八雲町の民家が全焼し1人が死亡した火災で、八雲署は3日未明、「火を付けた」と話したこの家に住む高校3年の少年(17)を現住建造物等放火、殺人、殺人未遂容疑で逮捕した。
少年は「家族とトラブルがあった。自分が内向的な性格なのは、家族のせいだ」などと話しているという。
発表では、火災は2日午前5時25分に発生し、家族8人のうち5人が重軽傷を負い、焼け跡から1人の遺体が見つかった。遺体は、行方が分からない高校2年の妹(16)とみて、同署で確認を進めている。
少年と同じ高校の男子生徒(18)によると、少年はアニメが好きで、声優を目指していたが、「親に大学に行けと言われ、声優になるための専門学校行きを反対された」と不満を漏らすこともあったという。
同校の教頭は「成績は優秀で、まじめで良い子。家族トラブルは聞いていない」と驚いていた。』
あらゆる人間は家庭においては金づるである。
自分達の金づるになれないような進路をとられては、残された家族は大変困るのである。
だから、家を放火されても大学に行ってもらわなくてはならないのである。
これが、俗に言う「社会のしがらみ」である。
「ひも」などという語があるが、誰だって「ひも」なのである。
「知恵を出さないやつは助けない」の発言を非難されて復興相を辞任した松本氏は九州出身で、この少年や、ゲームデザイナー志望で公務員を辞めた人は北海道出身で、九州と北海道は、他の日本の地域とは少し毛色が違う印象がある。
九州も悪くないが、特に北海道は自由な気質で印象が良い。アイヌ文化の影響だろうか?
坂上田村麻呂と戦ったアテルイは、自由を守るために戦ったんだろう。
松本前復興相も悪気はなかっただろう。
先日自殺した伊良部氏は、兵庫県尼崎市出身らしい。
生前、「俺はミケランジェロだ」と言った事があるらしい。
尼崎は、子供の頃からガラが悪いという印象があるが、出身者を見ると良い感じである。
放火少年にしても伊良部氏にしても、ミケランジェロの決断は、生死をかけたものである事を世間は理解すべきだろう。
◎ 2011年8月4日 (木) 禅の公案
三島由紀夫 「金閣寺」 新潮文庫
「南泉斬猫」という公案の解釈を二人の登場人物にさせている。
1つは、p.84 の老師によるもので、もう1つは、p.182 の柏木によるものである。
おそらく、作者自身もどちらの解釈も正しいとは思っていないだろう。
俺も、皆目見当が付かない。
こういうのは、考えて理解できるものではないだろう。
経験から、スパッと割り切れるようでなくてはならない。
別の公案に、「趙州狗子」というのがあるそうだ。
犬に仏性があるかないかという議論である。
実存主義としてこれを考えるならば、仏性は、キリスト教における聖霊、すなわち理性となるだろう。
犬は、権力に盲従する生き物だから、理性は権力に排斥されて完全消滅するから、犬には仏性はないという結論になる。
ただし、犬の名誉のために付言すると、総ての犬が権力主義とも言えないから、犬を権力主義の象徴とみなした場合である。
むりやり、「南泉斬猫」を推理してみよう。
「南泉斬猫」
唐の南泉山の禅寺で、ある日、東西両堂の僧達が猫について言い争っていた。
それを見た南泉和尚が、「皆がその言い争っている件で、仏法にかなった結論に達したならば言ってみよ。言えなければ、この猫を殺す。」と言った。
僧達は、何も言えなかったので、和尚は猫を斬り殺した。
日暮れになって高弟の趙州が帰ってきたので、和尚は事の次第を話した。
趙州は、自分が履いている履物を頭の上に載せて立ち去った。
それを見た和尚は、「お前がいてくれたら、猫を殺さずに済んだのに」と嘆息した。
三島は、猫が、寺に迷い込んで来て、もの珍しさから僧達が、自分たちのペットにしようと騒いでいたのだと説明する。
「金閣寺」の老師は、南泉和尚が猫を斬ったのは、争いの根源、すなわち欲望の根源を斬ったのであり、趙州は、泥にまみれた汚い履物を限りない寛容によって頭上に載せ、菩薩堂を実践したのだと説く。
柏木は、あの猫は、とんでもなくベッピンの猫だったのだ。猫を殺しても、猫の美は消えないかもしれない。趙州は、猫を殺しても問題解決にはならない事を示したと言う。
http://www.y-uruwashi.gr.jp/zen.html など、多くのWEBサイトによれば、僧達が言い争っていたのは、猫の仏性の有無らしい。
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.7.htm には『一体何について言い争っていたのかは、この公案からは何も分かりません。つまり、ここではその争いの内容は問題ではないということです。』とある。
http://blog.nanka.biz/?eid=1082660 には、『少なくとも、弟子の趙州は、師匠の南泉が猫を斬ったことを非難しており、南泉も後悔していることは理解しないといけません。』とある。
南泉和尚のセリフは、2通りに解釈できる。
1つは、禅寺での口論は、総て仏法に関わるものではなくてはならない。猫の奪い合いが仏法に関することなら仏法を説いてみよ。
もう1つは、たとえ仏法問題であっても、ただの権力闘争の肴(さかな)なら討論してはならない。益のある討論なら、結果を見せろ。
最初の解釈は、猫の奪い合いをしていた場合で、次のは、猫の仏性の有無を討論していた場合である。
公案からはどちらであるかは判別できないから、その内容は重要でないというのも、うなずける。
(東西両堂とわざわざ書いてあるから多分権力闘争かなとも思ったが、猫に仏性があるかないかの議論に本物の猫を準備する必要はないからやっぱりペットだろう。それに猫の所有権が争いの元でないなら猫を殺す理由がない。
まとめると、東堂と西堂の権力闘争の一環として猫の所有権争いが行われたのではないか?)
老師の欲望の根源を斬ったという説は、上座部仏教の経典、阿含経にも問題解決にはその根源をつきとめ、排除せよとあるから、最も直接的な解釈に思えるが、それでは、趙州の行動の説明が付かない。
寺の事件や南泉和尚の行動を全く考えないで、趙州の行動のみを取り上げて考えると、先ず思いついたのが、本来、下にあるものを上に置いたのだから、本末転倒であると言いたかったのではないかという事である。
次に考えたのが、履物は足に履くからこそ役に立つのであり、頭の上に載せたのでは何の役にも立たない。無駄な事をしたなと南泉和尚に伝えたという事である。
無駄な事をしたなというのは可能性が高い。というのも手持ちの物ですぐに表現できるからである。
趙州は、南泉和尚とは一言も口をきかず、すぐに立ち去ったから、和尚を非難している事は確かだろう。
また、趙州が去った後で、和尚は反省しているから、自分が非難されている事を理解している事も確かだろう。
基本的に、仏法は肉食を禁じるなど、無益な殺生を禁ずるから、たとえ、争いを収めるためでも、その争いとは罪の点で無関係な猫を殺す事は、ちょっと考えられない。
高僧と言われた南泉和尚もその程度の理性は持っているだろうから、実際は、猫は殺していないのかもしれない。
争いの元を消滅させる事を猫の殺害にたとえたのかもしれない。
これらの俺の推理をむりやり、つなぎ合わせると、南泉和尚は争いの種を消滅させる事を提案したのだが、趙州は、そんな事しても意味ないですよと伝えたという事になるのだが、これでは、あまりにも無意味で浅はかで具体性に乏しい公案になってしまう。また、どうして無意味なのかも分からないのに和尚が納得できるはずがない。
これを東日本大震災に当てはめると、東西両堂が与党と野党、酒の肴が被災者、南泉は民主主義国家においては国民となる。
南泉は、争点である被災者を消滅させろと言い、趙州は、そんなことしても無駄ですよと言うことになる。
これは、確かにそのとおりである。
この公案の教訓は、日本国民は何があっても被災者を見捨てたら駄目だぞという事だろう。
このたとえ国家が滅びようとも少数弱者である被災者を見捨てないという結論から、逆に公案の意味を見つけることができる。
趙州の行動の意味は、「南泉は本来優先順位の低い事柄を優先させている」である。
南泉は、寺の秩序を守るために、何の罪もない猫を殺した。
これは、結果を考えた行動である。
しかし、実存主義は、理性を優先させ、結果を顧(かえり)みない生き方である。
「たとえそれが猫であっても、道理を優先させるべきであった」と趙州は主張し、南泉は「たかが猫、されど猫であったか」と大いに反省したのである。
実存主義においては、理性は人間の命よりも重いのである。
理性のない人生など生きる価値はないのだ。
これが、この公案の実存主義的解釈の1つだろう。
実に人情味溢れる優れた公案である。
因みに実存主義者が結果を顧みず、過程を重視するのは、実存の神に全面的に人生を委ねているからである。
あらゆる人間に対する裁きは神のみが与えるのである。
◎ 2011年8月6日 (土) 調査捕鯨
現代用語の基礎知識2000
『◆商業捕鯨モラトリアム
国際捕鯨取締条約に基づき設置されている国際捕鯨委員会(IWC International Whaling Commission)は、一九八二年に「母船式は一九八五/八六年漁期から、沿岸捕鯨は一九八六年から、商業捕獲を禁止する。ただし、科学的助言を基礎に、遅くとも一九九〇年までに資源の包括的な評価を行う」という捕鯨モラトリアム(緊急措置としての一時中止)を決定した。日本はこの決定を受け入れ、南氷洋についてはミンククジラの調査捕鯨を行うだけとなった。なお、反捕鯨国が多数を占めるIWCは、この時の決定であるモラトリアムの見直し作業を九〇年には行うという課題を「継続協議」ということで先送りしたままにしている。また九四年の総会では反捕鯨国が「南氷洋サンクチュアリ」(聖域化)の提案を行い反対したのは日本だけであり、可決された。これにより南氷洋捕鯨再開の道は閉ざされた。九九年のIWC会議では日本の調査捕鯨の自粛決議がなされたが、調査捕鯨は条約でも認められているとして日本はこれに従わないことを表明した。また日本から提案したミンククジラ小型捕鯨五〇頭の暫定枠は否決された。日本は現在ミンク以外の沿岸小型捕鯨のみを細々と続けている。
◆原住民生存捕鯨/調査捕鯨
IWC( 別項)の捕鯨全面禁止は商業捕鯨を対象にしている。アラスカおよびロシア・チュクチ地方のエスキモーやグリーンランド人が行う捕鯨は、地域に密着した伝統的で生存に直接必要な捕獲という理由で、存続が認められており、原住民生存捕鯨とよばれる。日本の小型沿岸捕鯨はそれに類似したものであり、存続を認めるべきであるというのが、IWCに対するわが国の主張である。もう一つは、国際捕鯨取締条約第八条に明記されている科学的調査条項を根拠に、資源診断のための捕獲を行おうとするもので、調査捕鯨とよばれる。一九八八年から日本は南氷洋で、アイスランドとノルウェーは大西洋でこれを実施している。しかしこれは形を変えた商業捕鯨だとして環境保護団体等は反対している。』
日本の調査捕鯨は、世界中から非難されている。
俺は、鯨など全く食っていないんだから調査捕鯨はやめろ。
俺は全く食ってないんだから、小型沿岸捕鯨は原住民生存捕鯨ではない。
小型沿岸捕鯨もやめろ。
一部の金持ちのせいで、身に覚えのない事で、世界中から非難を受けるなどお断りだ。
◎ 2011年8月6日 (土) ラブコメ
昔、交際していた女に、他の人だったらいくらでも話ができるのに俺の前では何もしゃべれなくなると言われた事があったが、何の事か分からず、無視していた。
今の女が、ずっと、うつむいていたと思ったら、突然、初対面の男とワイ談を始めた。
馬鹿だと思ってたら、意外と頭良かったんだなと見直すと同時に、それなら別れるしかないなと思ったら目が覚めた。
夢で学習している自分が不思議である。
ただし、学習したところで何も変わらない。何があっても今の自分を選択するからだ。
◎ 2011年8月7日 (日) 芥川龍之介の反権力
芥川龍之介「或阿呆の一生・侏儒の言葉」角川文庫「侏儒の言葉」
p.248 『諸君は青年が芸術のせいで堕落することを恐れている。しかしまず安心したまえ。諸君ほどは容易に堕落しない。又 諸君は芸術が国民を毒することを恐れている。しかしまず安心したまえ。少なくとも諸君を毒することは絶対に芸術には不可能である。二千年来芸術の魅力を理解せぬ諸君を毒することは。』
つまり、芥川は、キリストを人類最初の芸術家とみなしているわけである。
p.249 『彼らの大小を知らんとするものは彼らの成したことに依り、彼らの成さんとしたことを見なければならぬ。』
これは、珍しく肯定的な内容である。
人間の偉大さは、結果ではなく、何をやろうとしたかであると書いてある。
つまり、結果よりも過程を重視しているのである。
p.249 『理想的兵卒はいやしくも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に批判を加えぬことである。すなわち理想的兵卒はまず理性を失わなければならぬ。』
『理想的兵卒』とは、権力主義者のことであり、理性とは批判する能力、即ち、個人哲学の事であるとしている。
芥川は、反権力主義については何も書かなかったと以前書いたと思うが、ここに遠まわしに書いていた。
芥溜めに鶴・・・ごみために鶴がおりたように、環境と不相応にひとり立ち勝っていることのたとえ。「はきだめに鶴」とも。
芥は、ゴミという意味らしく、ゴミ川の龍とは、この作家にぴったりの名前である。
◎ 2011年8月7日 (日) 竹島問題の動き
読売新聞サイト
韓国大統領、竹島教科書に失望を表明 (4月1日)
「抗議は大変失礼だ」国後島訪問の韓国議員 (5月25日 19:44)
韓国の抗議続々…防衛白書の竹島領有権明記 (8月2日 19:56)
神戸新聞(8/2)
『韓国大使に遺憾表明
松本剛明外相は1日、竹島(韓国名:独島)北西の韓国・ウルルン島視察を目指していた自民党の新藤義孝衆院議員らが入国を拒否されたことを受け、シンカクス駐日韓国大使を外務省に呼び「極めて遺憾だ」と表明した。』
読売新聞サイト(8月2日22時22分)
『衆院の了承得ず訪韓「ゆゆしき事態で遺憾」
民主党は2日の衆院議院運営委員会理事会で、自民党の新藤義孝、稲田朋美両衆院議員が、海外渡航の衆院の了承を得ず韓国領の鬱陵(ウルルン)島視察のため訪韓したとして、批判した。
民主党の山井和則筆頭理事は「衆院の請暇手続きを取らず、承認も得ていなかったのは、極めてゆゆしき事態で遺憾だ。新藤氏は決算行政監視委員長で、責任は重い」と指摘した。自民党の菅義偉筆頭理事は「誠に申し訳なかった」と陳謝した。
議員の海外渡航を巡っては、松本外相と北沢防衛相が6月に衆参両院の了承を得ないまま、日米安全保障協議委員会(2プラス2)出席のため渡米し、野党側の反発を招いていた。』
恐らく、韓国議員のロシア領訪問に異議を唱えたから、新藤議員の韓国領視察も同様の措置として断られたのだろう。
最初は、松本外相は韓国に異議を唱えたが、非が自分達の方にあることを認めて思い直したのだろう。
◎ 2011年8月9日 (火) イデオロギーなき革命
イデオロギーとは、一般的に、保守主義や社会主義などの政治的社会的な思想を指す。
ナポレオンとマルクスは、この語を否定的な意味で使い、レーニンは、肯定的に使ったとされる。
おそらく、ナポレオンとマルクスが否定的に使ったのは、人間は個人哲学を中心に社会生活を送るべきだと考えているからで、レーニンが肯定的に使ったのは、民主主義から社会主義へのイデオロギーの移行というように、社会構造の中で個人は我(理性)を殺して生きるべきだとしたからだろう。
つまり、個人哲学とイデオロギーでは、どちらが優先されるかで意見が分かれているのである。
ナポレオンは、個人主義尊重をナポレオン法典として初めて法制化した人なので、これは納得できるだろう。
ナポレオンは、「これこそ人間だ」とゲーテを称え、ベートーベンはナポレオンに「英雄」という楽曲を送ろうとしたが取り消した。
現在、中東で発生している革命は、民主主義でも社会主義でもなく、イデオロギーの存在しない革命である。
これは、19、20世紀のイデオロギー型革命が終焉を迎え、個人が人間として最低限の生活を送るための個人主義的革命が到来したことを意味するのである。
それは、結局、それ以前の易姓革命に逆戻りした事を意味するのだが、例えば、日本の易姓革命では必ず、神の子孫であり、神から日本の支配権を与えられたとされる天皇が祭り上げられていたのだが、そのような迷信(大義名分)がなくなり、真の目的に即した革命へと進化したと言える。
当然、この先に待ち受けるのは、個人理性による無政府主義社会だろう。
カミュは、暴力革命を否定し、生活が比較的安定している時から徐々に実存的無政府主義社会へと移行する事を提案したのだが、人間は、ぎりぎりまで生活を追い詰められないと動けないようである。
理由は、はっきりしていて、権力が恐ろしいために権力に執着するからである。
しかし、権力主義が破滅的なのは、既に述べたとおりである。
日本政府とマスコミは、この内圧を外国へ向けたいようだが、もし、侵略戦争、または内乱になったら、自分はどうするのかを予め決めておくべきだろう。
映画「タイタニック」は、非常時に自分はどうするのかを考えさせた点において認めるべき作品だろう。
◎ 2011年8月10日 (水) 無我
我(が)・・・(1)われ。おのれ。自分自身。「彼我・没我・我田引水」
(2)思う所に凝り固まって、人の言に従わないこと。ひとりよがり。「―が強い」「我流」
(3)自我の根底にある実体的・霊魂的存在。アートマン。また、一般的に事物の根底にある永遠不変の実体。仏教ではこのような我を否定し、無我を主張した。
アートマン・・・(「我(が)」と漢訳) インド哲学の根本原理の一。もと呼吸・生命原理を意味し、のちに個人の心身の活動の基礎原理、すなわち自我の本質・霊魂を意味するようになった。ウパニシャッドの哲学では、このアートマンがブラフマン(宇宙の根本原理)と同一であることが究極の真理と考えられた。
我を殺す・・・自己主張をおさえて他人に従う。
一般的な意味の「我」は、仏教用語のそれとは全く意味が異なる。
一般的な意味での「我」は、主に(2)が使われるが、これは、「我を殺す」で示されるように自分の意見の事である。
他人の意見に従わず、ひとりよがりと書かれているが、個人の意見が大多数の意見より劣っているとなぜ言えるのか?
しかし、現実として、これが多くの人々の考え方なのである。正に、現実は迷信である。
仏教では、阿含経で釈迦が論じているように、物事を追究する事、即ち個人哲学を持つ事が推奨されている。
これは、一般的な意味での我を推奨しているのと同じ事である。
仏教では無我を主張するが、一般的な意味では有我なのである。
では、仏教的な我とは何かを考えると、人間の精神的な本質とされているのだが、これが宇宙の真理と合致させるというのが、古代ヒンズー教の考え方らしい。
しかし、自己と真理の合一は、人間が真理を認識できないとできたかどうか判断できない。
キェルケゴールやカミュなど、多くの実存主義者は、人間は真理を認識できないとする。
そのため、仏教も同様に、人間は真理を認識できないという意味で無我を主張しているものと思われる。
◎ 2011年8月12日 (金) 金閣寺(2)
三島由紀夫 「金閣寺」 新潮文庫
p.368 『「金閣寺」が三島氏の青春の決算であり、また戦後というひとつの時代の記念碑であることはたしかですが、作者がここで試みて成功した「偽者の告白」あるいは自我の社会化が、日本の小説の方法の上でひとつのすぐれた達成であることは、まだ充分に理解されていません。』(「金閣寺」について 中村光夫)
p.159 『そのとき金閣が現れたのである。〜それは私をかこむ世界の隅々までも埋め、この世界の寸法をきっちりと充たすものになった。〜時にはあれほど私を疎外し、私の外に屹立(きつりつ)しているように思われた金閣が、今完全に私を包み、その構造の内部に私の位置を許していた。』
俺の推測では、『偽者の告白』と『自我の社会化』に当たるがこの部分である。
金閣が世界の総てを埋め尽くすというのは、理性が世界観の総てとなることを示している。
つまり、ここでの金閣は理性の事である。
個人哲学が世界観を満たすのが『自我の社会化』を意味するのだろう。
それが、これまで自分を疎外していたというのは、実存主義が自分には理解できなかったと言っているのだろう。
それが、ある瞬間に自分を受け入れてくれたと書くのだが、実存主義はそんな都合の良いものではない。
ただの妄想にしか思えない。これが真の実存主義者になれない『偽者の告白』だろう。
ただし、サリンジャーの「ナインストーリーズ」に「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」という短編があり、そこに太陽が鼻にぶつかったという描写があったと思うのだが、その手のスピリチュアル体験なら俺にはお手上げである。その場合は、おそらく、サリンジャーと似たような体験ができて、実存主義者の仲間入りができた程度の事だろう。
真の実存主義者になれないというのは、カフカの「城」と同じテーマである。「城」と「金閣」は、同じ扱われ方をしているのである。
理性で世界観を満たすには、既に説明したように、自分の行動を反省する事がないように修正する事である。
p.160 『一方の手の指で永遠に触れ、一方の指で人生に触れることは不可能である。』
実存主義と権力主義の両立は不可能であるという意味である。
p.160 『人生において、永遠に化身した瞬間は、われわれを酔わせるが、それはこのときの金閣のように、瞬間に化身した永遠の姿に比べれば、物の数でもないことを金閣は知悉していた。美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである。生がわれわれに垣間(かいま)見せる瞬間的な美は、こうした毒の前にはひとたまりもない。』
芥川龍之介 「羅生門・鼻・芋粥」 角川文庫 「解説」
p.190 『芥川龍之介は、明治開花期ものの名作「舞踏会」の中で、フランスの海軍将校をして「私は花火のことを考えていたのです。我々の生のような花火のことを」といわせている。またキリシタン物の傑作「奉教人の死」のなかでは、「なべて人の世の尊さは、何ものにも換え難い、刹那の感動に極まるものじゃ・・・」と説いている。』
花火のような人生と一瞬の感動は別物である。
しかし、一瞬の感動を尊重する花火のような人生はありうるだろう。
誰しも「一瞬の感動」の意味を理解する瞬間はあるだろう。
せいぜい数秒しか持続しない感動の事である。
『永遠に化身した瞬間』は、芥川の「一瞬の感動」の事で、『瞬間に化身した永遠』は、理性に統制された人生の事だろう。
しかし、「一瞬の感動」と理性は対立するものではなく、共存可能である。
むしろ、権力に対立するものとして、「一瞬の感動」と理性は並べられるものだろう。
現に芥川は両立したし、トルストイもツルゲーネフと絶交したわけではない。
三島は、トルストイとツルゲーネフは対立していると勘違いしたのではないか?
◎ 2011年8月12日 (金) 世界の暴動
ジャスミン革命は、一人の露天商の自殺がきっかけだった。
低所得者によるロンドンの暴動は、一人の黒人が警官に射殺されたのがきっかけだった。
共に経済的に生活が追い詰められていた背景もあるのだろう。
どちらも似たようなものだが、結果は全国的な数万人デモと全国的ではあるが数百人規模の暴動と全然違った。
革命成功の鍵は、国民性だろうか?
日本においては、江戸時代には農民救済に立ち上がった大塩平八郎の乱や島原の乱などがあるが、共に失敗している。
中東だけが、大規模な運動になる。
先進国は、国民全体が貧困層に冷たいのだろう。
日本においても自分の臓器を売る事件が発生したように、貧困層は生活が困窮し、そこにつけこむように生体移植法が成立した。
普通に考えれば、日本でも暴動が起きても不思議はないのだが、これも国民性か?
しかし、江戸幕府は、飢饉のたびに暴動が発生して、存亡の危機にさらされたそうである。
しかし、政権が何度危機にさらされても倒れないのは、やはり国民性だろう。
中国においては、黄巾の乱があるが、これも失敗しているが、戦国時代の幕開けになった。
貧困層が立ち上がって政権を揺るがす事ができるのは、どうやら中東だけらしい。
これは、理性がある証拠だから誇っても良いだろう。
俺の推測では、貧困層は政権を奪う意志がないからだろう。
大衆は、世間知を使うために国家による権力支配を必要とする。
しかし、貧困層の蜂起は自分達の命を守るためであり、自ら権力者に成り代わろうという意志がない。
そこが、権力主義者達の協力を得られない理由ではないだろうか?
俺には、大塩平八郎や天草四郎に権力統治の意志があったとは思えない。
貧困層が、自らの命を守るためには、そのための独自の社会が必要である。
それは、追い詰められてから反乱を起こしても、いきなり実現できないだろうし、反乱に対する権力主義者の支持も得られないだろう。
実存主義社会は、追い詰められる前から、国家の弾圧を撥ね返して形成すべきものだろう。
俺はチベットが必ずしも完璧な社会だとは思っていないが、人間社会に貧困層のための一国二制度は必要と考える。