◎ 2011年7月22日 (金) ヒステリーと中東のテロやデモのメカニズム
フロイトの「精神分析入門」によると、ヒステリーは、深層心理における無意識の欲求(ido)が、社会との調停役である超自我(super ego)に抑制されて、行き場を失った無意識の欲求が、無意識に奇声になったり、自律神経失調症などになったりするものである。
このような事態になるのは、超自我による抑制が無意識に行われるためで、自分では気付かないからである。
ありえないような極端な例を挙げると、呼吸をしたいという無意識の欲求があるのだが、世界中で地球温暖化対策が叫ばれ、二酸化炭素排出を抑えるために呼吸するのもはばかられる。しかし、呼吸をしなければ人間は死んでしまう。このジレンマが無意識に行われるために、欲求に対処できずに外部に異常として現れるのである。
ヒステリーは女に多いとされるが、このようなメカニズムであるため、男でも十分にありうる。
女は権力欲や支配欲が強く、それが超自我に規制されるからではないだろうか?
あるいは、男よりも精神的我慢を強いられるケースが多いのかもしれないが、それは男にもありうることである。
このメカニズムを世界規模に拡大してみると、社会の不正や歪みや暴力などは、権力のルールとして、先ず、最も弱いところに向かう。
それが、中東地域だったのではないだろうか?
世界全体の攻撃に耐えられなくなった中東地域が現在、自らの命を守るために無意識に大暴れしていると考えられるのである。
当然これは、いずれ、世界規模に拡大されるはずである。
世界各国にも弱者は、多数存在するからである。
ヒステリーを考えると、二酸化炭素排出を制限しろだの電力不足だから電力使用量を減らせだのと言うのは、良識として悪い事である。そんなことを言う連中は、心身の事を全く知らないのである。
人間が、社会生活は心であると理解し、実行すれば、地球上から電力を消滅させる事も可能である。
それには、大きな熱量を蓄える都市での生活やコンクリートに囲まれた生活は不可能である。
そういう場所でクーラーがなければ、人間は、ゆでダコにならざるを得ない。
◎ 2011年7月23日 (土) ノルウェーのテロ
ノルウェーでは、先日の首相府ビルでの爆破テロに引き続き、80人が殺される銃乱射事件が発生した。
犯人は、極右らしいのだが、昨日書いたヒステリーの世界版が現実のものとなったと考える事もできる。
ノルウェーと言えば、世界でも珍しく成功した高福祉国家として有名だが、俺は、高福祉国家で汚職にまみれないなどありえないと考えていたから、それを裏付ける事件として捉えている。
と言うのも、高福祉政策は、国家に大きな権力がなければ実現不可能だからである。
大きな権力に汚職は、つき物である。
では、それほどには、福祉が充実していない日本では、大丈夫かと言えば、そうでもない。
社会システムとしては、ノルウェーは日本と同じ、立憲君主制で議院内閣制である。
教育も、6・3・3制で義務教育は9年である。
また、長期間、自民党が政権を担っていたし、他の政党も顔ぶれはほとんど変わっていない。
誰もが、政治家や官僚のコネを欲しがっているし、官僚の天下りは、どんなに政治家や世論が非難しても、全く減る気配がない。
これは、国家に巨大権力が存在している何よりの証拠である。
政府は、このテロに対し、非難の声明を出しているが、それが現実に何の効果を持つだろうか?
国家は、存在そのものが悪であり、それは、いずれこのような結末を迎える事になるのである。
日本政府は、瓦礫撤去よりは仮設住宅を優先したりと、地震対策は比較的上手くやっているようだが、根本的な社会の破綻については、打つ手はないだろう。
俺が、福祉に反対しているかと言えば、そうではない。
例えば、国家や地方自治体が、ホームレスの家を強制撤去したり、ホームレスへの暴力や殺人を刑法として大目に見たり、地方自治体や日本赤十字社が、避難所生活している人々に厳しい措置を取ったり、必要もない警報装置をむりやり買わせたり、学校での国歌斉唱を義務付けたりしているのは、福祉政策と言うよりは、反福祉政策を取っているように俺には見える。
殊のほか、弱者に厳しいこのような社会は、テロに打ってつけである。
◎ 2011年7月24日 (日) 悪法 = 守秘義務違反
神戸新聞(7/27)
『守秘義務違反
国家公務員法と地方公務員法に規定され、公務員が職務上知り得た秘密を漏らした場合、1年以下の懲役または50万円以下の罰金が科せられる。退職後にも同じ義務を負う。1977年の最高裁決定は、国家公務員法で保持すべき秘密を「非公知の事実で実質的にもそれを秘密として保護するに値するもの」と定義。公務員に漏洩をそそのかした者も罰せられる。』
「品川美容外科事件」に関連して、書かれていた守秘義務違反の説明である。
この守秘義務違反は、俺は本来、家族構成や職業、収入などを知りうる地方公務員などが、個人情報を他人に漏らさないようにするため、あるいは、前もって経済関係の法律の実施を知りうる経済産業省職員による株式投資を防ぐため、あるいは、このように捜査状況を知りうる警察が、容疑者に漏らすなど、国民が損失を被る場合にのみ適用されるのだと考えいていたのである。
しかし、以前、官邸関係者によって、内閣官房参与を辞任した小佐古教授が守秘義務があると脅された件では、内閣の一方的な利益のみを守る法律として使われているのである。
もし、警察や政府や官公庁が、悪だくみをしても、それも、この法律で守られるのである。
これでは、悪徳政治家・官僚が繁栄するための法律という事になる。
俺は、これを知ったとき、今まで、国家に騙され続けてきたと思った。
法律は、このように一方では上手くいっているように見えても、他方では、とんでもない悪法である事もある。
その見極めは、誰にもできないのである。
現に今まで、これを指摘した人は一人もいない。
もし、多くの法律がこのような二面性を持っているとしたら、悪人天国の社会になるのは当然だろう。
官邸関係者による脅迫事件といい、閣僚がウィキリークスを非難した事といい、後ろ暗い政策をとっているとしか思えないため、そろそろ首相は責任をとって辞任した方がいいだろう。
国歌斉唱問題での最高裁の判決でも分かるように、日本の司法も完全に崩壊した。
国歌斉唱を止めるように言うぐらいは、表現の自由である。
国歌斉唱反対の本を出版したら、それも違法になるのか?
両者には何も違いはない。
最高裁の裁判官が、そんな事も分からないような馬鹿ということもないだろう。
最高裁の判決は、憲法に定める表現の自由にも信教の自由にも違反しているのである。
周知のとおり、憲法は、日本のいかなる法律よりも優先される法律である。
法律は、作成も実行も崩壊しているのである。
◎ 2011年7月25日 (月) 経済産業省原子力安全・保安院が原発推進派である理由
原子力安全・保安院が、原発事故に関して、虚偽報告すれすれに情報を隠匿するのは、原発がなくなると、彼らの仕事が消滅するからである。
核兵器を持たない日本においては、原子力の知識は、原発以外では使い道がない。
ただでさえ、公務員は、使い回しが利かないのに、専門知識まで使えないとなると、再就職は極めて困難である。
彼らが、必死こいて原発を守り、推進するのは、当然と言えるだろう。
その意味において、端(はな)から原子力安全・保安院は、原発の監視に不向きだったのである。
内閣府の原子力安全委員会や原子力を専門とする大学教授も同様である。
とんだ茶番である。
誰にも原発は監視できない事を日本国民は知っておくべきだろう。
日本国民の性格が悪いから、このように社会が機能しないのである。
俺は、10年前までは、地方分権や権力の分散などの社会システムに興味があったのだが、今では、すっかり考えが変わった。
というのも、それまでの俺は、世間は、必要最低限の理性は持ち合わせていると錯覚していたからである。
その前提がなくなった今、社会システムなど社会にとっては何の意味もないと悟ったのである。
人間には、理性がなければ社会生活は不可能である。
しかし、権力が、根こそぎ人間から理性を消滅させる。
人間が、理性を持つには、権力に打ち克てるほどの極大の理性が必要である。
つまり、理性には、0か100しかないのである。
俺の言う性格が悪いと言うのは、理性の有無の事である。
理性を持てば、国家や世間は、存在そのものが否定される。
◎ 2011年7月26日 (火) ヒッピーとカウンターカルチャー
キニク学派・・・〔哲〕ソクラテスの弟子アンティステネスが始めたギリシア哲学の一派。幸福は有徳な生活にあり、
それは外的条件に左右されず、意志で欲望を制することによって達せられると考え、無欲な自然生活を営むことを理想とし、一切の社会的習慣を無視し、文化的生活を軽蔑した。ここからしばしばキニク主義(シニシズム)は社会生活の伝統や見栄を意識的に無視する生活態度を意味する。シニック学派。犬儒学派。
ヒッピー・・・既存の制度・慣習・価値観を拒否して脱社会的行動をとる人びと。また、その運動。長髪や奇抜な服装が特徴。1960年代後半、アメリカの若者の間に生れ、世界に広がる。
対抗文化・・・(counterculture) 支配的な文化に対抗するもう一つの文化。1960年代のアメリカで、高度管理社会に抗して現れた。都市コロニー・コミューン・大学解放区を拠点に、反戦運動などを展開。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0465.html
このサイトによると、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は、1960年代のヒッピーやカウンターカルチャーにも受け入れられたそうである。
実存主義とこれらの運動との違いは、社会の実体を捉えて哲学化したかどうかである。
これらの運動は、哲学が完成されていないため、ただ、権力と文化を拒絶しているだけで、その後、どうしたら良いか分からないでいる。
おそらく、権力と文化の間にどのような関係があるのかも理解していないのだろう。
キニク学派は、一応哲学化されていはいるが、今ひとつ実存主義とは食い違っている。
例えば、反権力主義と主張しているわけではないし、欲望を悪と考えているようだし、客観的真理を人間は認識できると考えているようである。
1960年代アメリカと実存主義とキニク学派は、志向はほぼ同じでも少し違う。
実存主義者は、一人一人が独自の哲学を持っているから、ヒッピーのように長髪で合わせたり、キニク学派のように生活様式を合わせたり、群れたりしない。
基本的な社会認識が同じであるため、たまたま、意見が同じになる事はあるかもしれない。
◎ 2011年7月27日 (水) 世間知と言うほどのものではないが
俺を知っている人々は、俺は働けない人間なのだと例えば、自分の子供に教えているだろう。
そのくらい、大人社会は厳しいのだと。
権力主義者の考える事は、極めて単純だから、何の手掛かりもなくてもそのくらいの事は容易に想像がつく。
しかし、俺は、働くのは簡単なことだと今でも思っているし、世間も完全になめている。
人々が子供に教えている事は、事実とは正反対なのである。
俺の置かれている状況は、一般人とは、かけ離れている事に留意しないと、俺の考えや行動は理解できない。
多くの人々が知らないような事も俺の身の回りでは起きている。
親が子供にそう思い込ませるのは、自分の思い通りに子供をコントロールするためである。
例えば、勉強させたり、自分を尊敬させたり、そんなところである。
実に浅はかな考え方だから、世間知と呼ぶほどの事でもない。
しかし、わざと親にだまされる子供も多いらしいから、その場合は、この指摘は余計なお世話になる。
俺は、いつでも世間を見下ろしているし、悲惨な人生だと思った人々のために実存主義を紹介するために書く事はあっても、自分を助けるために何らかの文章を書く事は決してありえない。
俺が、(たとえ相手が数十億人いたとしても)世間ごときに敗北を喫するなど到底ありえない話である。
俺が小学生の頃、尊敬している人は?というアンケートで、どうしたら他人を尊敬できるのかと思っていたのだが、両親と答えた人が数人いて、そんな事思ったことないな感心だなと思っていたのだが、今から思えば、彼らは権力主義社会を受け入れていたのだろう。
彼らも大人になったら、社会で他人と戦うつもりでいたに違いない。
工場で働けば、ちょっと目を離した隙に機械を故障させられるし、技術職に就いてもいつまで経っても技術は何も身に付かないし、営業職に就いても社内に派閥があったり、皆、戦ってはいるのだが。
俺は、そういうのに辟易したわけではない。辟易するほど働いていないからである。
ただ、働いていてもいなくても、人々には理性が皆無という問題に直面するわけである。
すると、実存主義者には、いくつかの宿命が課せられる事になり、普通に生きる気力そのものが消え失せるわけである。
ただし、既に説明したように、社会にも権力主義者にもいつかは破滅が訪れるのである。
むろん、それが俺が働かない直接的な理由ではないが、そんな事はどうでも良いことだ。
◎ 2011年7月27日 (水) 政治的なこと
いつも、政治的なことは、書くべきか書かずにおくべきか迷うのだが、というのも、政治や社会の構造がどうなったところで何も改善しない事が、よく分かっているからである。
しかし、どうでも良い事なら、書いても悪い事にはならないから書いてみよう。
全国都道府県議会議長会が首相退陣の合同声明を出した。
しかも、理由が、復興が遅いというだけでなく、原発再稼動にストレステストを導入したからというのである。
つまり、基本的に原発反対を公言している首相が原発再稼動の障害になるような事をしたという理由だから、全国の県議会議長は、原発推進派であると全国に意思表明したのと同じ事である。
ボロを出しまくる全国の県議会議員達は、次の全国地方選では、落選する事を覚悟した方が良いだろう。
議長は、最大政党から選出されるから、次の県議会議員選挙では、各都道府県の最大政党が変わるという事である。
現在の最大政党とは、自民党と公明党と造反民主党ということになるのだが、現状では、ほとんどの議員というわけである。
身の程をわきまえず、地方分権の流れをバックに調子に乗った罰である。
しかし、反原発を推進するなら、原子力の専門家達の再就職について、国家レベルで対策に当たるのが当然である。
その点でも、原発廃止は、民主党の前原議員が言うように、時間をかけたほうが無難だろう。
それにしても、自民党も公明党も民主党も腐っているなら、何が残るのだろうか?政治の崩壊か?
ノルウェーのテロは、移民反対が理由だったらしいのだが、移民反対と言えば、かつてフランスやドイツなどでも、ソ連崩壊で東欧から労働者が大量に流れ込んだときは大騒ぎしていた。とすると、移民に仕事を盗られたと思ったのが理由かもしれない。福祉大国ノルウェーの先行きは不透明である。
以前、神戸新聞で、東南アジア人は、借金してまでも車を買おうとすると自動車会社の人が言っていた。
もし、この借金が焦げ付いて、販売会社が取り立てたりしたら、東南アジア諸国の政情が不安定になって、テロやクーデターの新たな火種になりかねない。
そうなると世界中が更にパニックだ。
そういうわけだから、世界平和のために、自動車会社は、東南アジア人に車を寄付してあげたと考え、代金回収は行うべきではないだろう。
EUが、北朝鮮に食糧支援を行うそうである。
俺は、これには賛成なのだが、新聞記事を読む限りでは、今まで北朝鮮政府は国民の食料対策を全くとっていなかったように思われる。
しかし、毛沢東のように反乱分子粛清という話は聞かない。毛沢東よりは、少しだけましか。
中国や日本や韓国や北朝鮮の国民を見ていると、嫌な地域に生まれたものだと常々思うのだが、JFKや、世界中の実存主義者の本を読んだりすると、世界中どこでも似たようなものである。
菅首相が超人的な自制心と忍耐力を見せるのだが、民主党全体から、近隣国に侵略戦争を開始しそうな気配を感じるのは俺だけか?最近は、「絆(きずな)」という言葉を良く見かけるようになったが、これが天皇崇拝に転化する恐れがあるから国内全体もそのような傾向にある。「絆」は、孤独への不安から来るのである。孤独への不安は、その人間が人生哲学を持っていないことを意味する。
◎ 2011年7月28日 (木) 「ライ麦畑でつかまえて」を愛読する暗殺者
ジョン・レノンを射殺した人と、レーガン元大統領を銃撃した人が、「ライ麦畑でつかまえて」を愛読していたというのだが、新聞記事を何でも信じ込むのは危険な考え方だろう。
「JFK」を読めば、アメリカ国家中枢の一部が、ケネディ暗殺犯を捏造したらしいし、オウム教の事件では、事件現場に北朝鮮幹部のボタンだかバッジだかが犯行現場に残されていたということである。
マスメディアが、国家の言う事を一切検証せずに、何でも鵜呑みにするのは、誰でも知っていることだ。
国家を怒らせると自分の会社だけ情報を教えてもらえなくなるからである。
また、1960年代アメリカの若者に、この本は大きな影響を与えたということだから、国家がサリンジャーを危険視して、犯人が崇拝者だった事に事件を作り変えたとしても、不自然な事ではない。
同じ実存主義者のカミュも当時のフランスの若者に大きな支持を得ていたと聞くから、尚更である。
国家の力を持ってすれば、こんな事は造作ないのである。
因みに、俺がいつも国家と呼んでいるのは政府の事ではなく、政府も含めた国家機関や議会や裁判所や地方行政機関などの法律と行政を司る政治家や公務員などの集合体の事である。
政府=国家という関係は、独裁国家にのみ適用される。
国家の規模は絶大で、一国において民衆と張り合える権力は、国家のみである。
国家・・・@くに。邦国。
A(state; nation) 一定の領土とその住民を治める排他的な権力組織と統治権とをもつ政治社会。近代以降では通常、領土・人民・主権がその概念の3要素とされる。
領土・人民・主権が国家の3要素とされるというのは建前で、現実には俺の方が正しいだろう。
領土・人民・主権が国家の基本であるならば、国家そのものには権力は全く存在しない事になる。
現実には、権力が国家(この場合は@)を治めているのである。
◎ 2011年7月28日 (木) 奪われる人生
「2011年3月28日 (月) 人生論(4)」で書いた『人生の幸福は常に他人に奪われ続ける』とは、どういう意味か?という質問のおてまみをもらったので説明しよう。
多くの人々の唯一の楽しみは、他人が欲しがっている物を所有して、欲しがっている相手にそれを見せびらかす事である。
だから、他人の物を分捕って、それを本人に欲しいかと見せ、悔しがっている姿を見ることができれば、とても幸福感に浸れるのである。
だから、分捕るというのが人間の生きる目的であり、分捕られた側は当然、奪われるわけである。
これが、人間の人生なのである。
分捕られら人間が、これに対処するには、どうすれば良いか?
答えは1つだ。
何も欲しいと思わないことである。
つまり、無欲になる事である。それを、俺はあそこで書いたわけである。
古代ギリシアのキニク学派の無欲も、そういう意味である。
禅に「無」というものがあるが、これも実はほぼ同じ意味なのである。
江戸時代の禅僧、沢庵の言うように物事に執着しないという事である。
執着なしでは欲は成立しない。「無」は生きる上での知恵である。
何かに頼るのも執着だし、憎悪するのも信用するのも執着である。これらも排除の対象である。
それに対し、「2009年2月24日 (火) 自慢」に書いたように、般若心経の「空」は、あらゆる行為や物質には、本質的な価値はないという意味で、ダイヤモンドなど、ただの石ころだと言っているわけである。
また、老子の「有」と「無」は、「2009年8月15日 (土) 警察」で書いたように、法律のような「無」の存在が、建造物のような「有」になるという意味である。
つまり、それぞれ、意味が異なるわけである。
ただし、般若心経の「空」と老子の「有」と「無」は、同じような意味もあるだろう。
どちらも禅の「無」のような実践的な生活手法ではなく、あらゆる物事には絶対的なものなど存在しないという哲学で一致しているからである。
あるいは、取られたのであれば、取り返せば良いと思う人がいるかもしれないが、総ての国民が国家ぐるみで、それをやれば、個人に勝ち目はないのである。
権力主義者とは、そういう連中なのであり、現実とは、そういうものであるために、その前提における対処の仕方を書いたのである。
◎ 2011年7月29日 (金) 新卒のフリーター
最近は、就職難で、新卒でもフリーターになってしまう人もいるそうである。
新卒のときくらいは、正社員の方が良いと思うのだが、そうもいかないらしい。
製造業や技術職の場合は、同じ会社で長期間働くよりも、意外と同じ系統の職種で転職を何度かした方が、知識や技術が身に付きやすい場合もあるのではないだろうか?
製造業の場合は、本来覚える必要のないはずの機械の調整の仕方まで覚えざるを得ない場合もある。
技術職の場合は、転職している間に、意外と知識が増えている場合がある。