◎ 2011年7月17日 (日) 権力主義者は他人の真似をする事でしか生きられない
もし、多くの人間は、DNA的に他人の真似をする事でしか生きられないという俺の仮説が正しいとしたら、彼らは古来から続く人間の生き方以外を模索する事ができないという事になる。
彼らの人生を見れば、親から教えられた人生と、世間からされた仕打ちを模倣しているだけである。
しかし、実存主義者はそうじゃない。彼らにできないことをやっている。
それは、自己の思索と試行の繰り返しによる新しい人生の達成である。
もし、彼らが、自分達は模倣しかできないわけじゃないと言うのであれば、彼らの人生が正しくて、俺の人生が間違っているからだという理由しか導き出せないはずだが、いつまで経っても、現実として俺はそうとは思えないし、現に彼らの誰も俺を攻略する事はできなかった。
俺が死ぬまで誰も俺の人生の間違っている事を証明できなければ、彼らは、自分達が他人を真似する事でしか生きられない事実を認めざるを得ないだろう。
だとしたら、永久に、人間には何の可能性も残されていない事が確定するのである。
それは、闘争と戦争の繰り返しの歴史である。
権力主義者が権力主義者であるのは、ただ、権力が恐ろしいだけではないという俺の仮説である。
◎ 2011年7月17日 (日) 言葉の混同による損害
読売新聞サイト(7/17)
『ASEAN外相会議、共同声明案明らかに
南シナ海を巡る中国との領有権問題では、11月にASEANや日中韓、米露などの首脳が集まる一連の首脳会議までに「中国とASEANが(法的拘束力を持つ)南シナ海行動規範を策定するよう期待する」としている。』
規範・軌範・・・@のり。てほん。模範。A〔哲〕のっとるべき規則。判断・評価または行為などの拠るべき基準。
協定・・・@協議して決定すること。相談して決めること。また、その決めた事柄。「販売―」A(agreement) 条約の一種。狭義の条約と本質上異ならず、効力も変らない。「行政―」
これまで、「行動規範」という言葉の意味を、俺は行動の判断基準となる思想として使ってきた。
あるいは、個人が何を行動の基準にしているかという議論においてのみ使ってきた。
しかし、ASEANの共同声明では、「行動規範」を「協定」と全く同じ意味で使っているのである。
これでは、俺の使い方とASEANの使い方が同じような意味として勘違いされる可能性があり、勘違いした人は、人間の行動の判断基準となる思想は、他者との協議によって決めるものと思い込むだろう。
あるいは、個人が何を行動の基準にしているかという議論以外でも使えると勘違いするだろう。
これは、その勘違いした人々の人生を大きく狂わせる可能性がある間違いであり、大変な損失である。
辞書による厳密な意味では、俺の使い方の方が明らかに正しく、ASEANが間違えたのか、読売新聞が間違えたのかは知らないが、全人類の幸福の名の下に断固訂正を要求する。
はっきりさせておくが、思想や行動規範は、他人や社会との協議で決める事ではない。
また。行動規範は、個人に適用される言葉であり、国家や集団に適用されるものではない。
個人の行動や思想を国家にも同様に適用する考え方は、以前にも説明したように、北朝鮮のチュチェ思想や三島由紀夫の考え方のような集団主体の考え方と同じである。
集団主体は、個人主体でもなく権力主体でもなく、実存主義と権力主義の中間に属する人々の誤った社会認識の1つである。
キム・イルソンや三島は、個人主体も権力主体も理解できていないのである。
だから、決して両立できない双方を合体させてしまったのである。
その結果、実存主義と権力主義の根本的な存在意義を置き去りにしてしまったのである。
だから、彼らは個人主体の意義を知る実存主義者からも権力主体の意義を知る権力主義者からも、けったいな事をしやがってと思われているのである。
こういう中間に位置する人々は、権力主義者のカモである。
そんな彼らのために、俺は個人主体とは何か権力主体とは何かをここで説明しているのである。
これらが理解できない人間は、権力主義のカモにならざるを得ない。
ネギを背負ったカモは、銃を背負った猟師には勝てない。
三島も乃木もカモにされたし、キムの息子も北朝鮮においては実権を奪われ、ただの親善大使みたいな扱いである。
トルストイも思想の上では中間に位置するのだが、深層心理における実存哲学が極めて高かったために、そのハンデを撥ね退ける事ができたのである。
だから、トルストイの言う事は真に受けてはならないのである。彼は言っている事とやっている事が正反対なのだ。
自分の主張と正反対のことをやって実存主義を全うし、権力主義を撃退したのがトルストイである。
俺やカミュは、逆に深層心理よりは意識の実存哲学の方が上回っている。
そのため、トルストイが最期に、「(死期が近い)自分よりも世界中の苦しんでいる人々の事を考えてやってくれ」と言ったのは、それが分からない人々には偽善者っぽく感じられるだろうが、深層心理から出てきた本心なのである。
ダライラマ兄弟やトルストイは、意識的な実存主義者から見ても、神がかり的な人々に感じられる。
しかし、彼らも修行の結果としてそうなったのであり、必ずしも深層心理の神秘だけではない。
なぜなら、深層心理の理性も意識の理性の発達なしでは、発達し得ないと思われるからである。
比例関係にはないが無関係でもない。
盲目の人々は、目明きの人々よりも別の感覚が発達すると聞くから、あるいは、意識の理性の未発達が深層心理の理性の発達を促進したのかもしれないが、その真相は、俺には全く分からない事である。
しかし、俺やカミュや老子も意識の理性が発達したせいで、常人よりは少しは無意識の理性も発達しているはずである。
鴨がネギをしょってくる・・・(鴨鍋にするのに好都合に、肉ばかりでなく葱までが同時に手に入る意) ますます以ておあつらえむきである。
◎ 2011年7月18日 (月) 片親と世間知の関係
近代日本文学の巨頭、夏目漱石と芥川龍之介には、片親であるという共通点がある。
彼らが、権力主義(社会)から、はみ出したのは、決して偶然ではない。
カフカ 「変身」 新潮文庫 「解説」
p.103 『母が僕に対して、とても優しかったのは事実です。しかし、僕にとってはそれもすべてあなたに関係していたため、結局はよい状態にあるとはいえませんでした。母は無意識のうちに、狩猟における勢子(せこ)の役割を果たしていたのです。・・・そして、そのことで僕が独り立ちしそうなときは、いつも母が間に入り、その優しさで、あるいはまた、・・・あなたへのとりなしによってまるく収めるのでした。』
これは、カフカが「父への手紙」で述べた内容である。
これは、一般家庭において必ず、見かけられる風景である。
これは、ある社会が存在し、その社会の総ての構成員がグルになり、しかし、陥れる対象の前では二つに分裂して見せ、一方は、強行に非難し、もう一方は、「まあまあ、お父さん」と、とりなして見せるが、結局はグルであり、最終的に対象を彼らの誘導する方向に持っていくという世間知である。
この場合の、社会とは、家庭であり、その中の二大権力である、父と母が意見が分裂しているように見せかけているのである。
このやり口は、当の父や母も子供の頃に、彼らの両親にやられた事であり、それを彼らも模倣しているに過ぎないのである。
しかし、片親であれば、それが父であれ、母であれ、父の役割を果たさなくてはならないため、子供には、1つの社会を分裂させ一方に勢子の役目を務めさせるという世間知を教える事ができないのである。
そのため、片親の子供は、世間知を知らずに大人になってしまい、権力主義からはみ出すのである。
カフカは、その世間知を非難しているのであり、そのため彼は実存主義者であるといえるのである。
あるグループがあり、その中の一人が攻撃を仕掛け、もう一人が「かわいそうだから、やめとけ」と言ったら、両方とも敵だと考えて間違いない。
◎ 2011年7月18日 (月) 社会に太古から伝わる世間知
社会には、太古から伝わる世間知が存在する。
その1つが、地域社会である。
地域社会では、「大人の権力」というものが存在する。
「大人の権力」に属するのは、子供を持っている世代の親の集団の事である。
これは、暗黙の了解というやつで、そのくらいの年齢になれば、誰に言われた訳でもないのに自動的に自ら入るのである。もちろん、総ての他人がそうしているのを経験的に知っているから模倣しているに過ぎない。
「大人の権力」に属したら、自分の意見を持つことは絶対に許されない。
だから、大人は、常に自分の意見を持たない。
とにかく、子供がその親と対立しているのを見たら、母親役もしくは、二人目の父親役になって、その子供を攻撃しなくてはならないのである。
それは、「大人の権力」に属する人間が何があっても絶対に守らなくてはならない鉄則である。
鉄則を遵守するためには、どんな意見を持つことも許されないのは、理解できよう。
地域社会は、この総ての大人による結束という権力集団によって運営されているのである
その中には、学校社会や国家機関も含まれるのである。つまり、地域社会と学校社会と国家社会がグルになって更に大きな大人権力集団を形成しているのである。
このルールを国家レベルに拡大したのが、政治家と官僚と法律家と民間企業の癒着である。
1つの社会があり、その中の集団全員がグルになるのも世間知の1つである。
この世間知は、太古から地域社会に伝わっているものである。
普通に考えれば、子供には、どこにも権力主義から逃れる術はないと思われるだろう。
しかし、総ての実存主義者は、理性によって逃れたのである。
一般人と違って、我々が理性を保持していられるのは、そのためである。
俺は、自分が子供の頃、両親が彼らの両親からどんな風に自分達が育てられたか一所懸命思い出そうとし、そのとおりに実行していたのを覚えているし、カフカの両親もおそらく、そうだったに違いないし、俺やカフカは、それらに抵抗しながら大人になったわけである。
家庭教育や学校教育は、権力主義者に育て上げるために存在するのである。
今でも、国家や世間や親達から色々と攻撃を受けてはいるのだが、この悪魔達のやる事など俺には痛くもかゆくもないのだ。
ここまで書けば分かると思うが、権力主義者達は常に他人の不幸を願っている。
他人の同情や哀れみに期待するような事を言ったり、書いたりしたら、やつらはますます、その人間を苦しませるような事をしたがるだろう。
一般人とは、そういう連中である。
◎ 2011年7月19日 (火) 嫌がらせ
国家と世間が早速、夜中の三時に家の前で老人に騒がせるという嫌がらせをやってくれた。
この手の嫌がらせは、毎日の事だが、いずれやつらは、この報いを受ける事になるだろうから放置している。
◎ 2011年7月19日 (火) 実存主義者はキリスト
昨日、突然、世間知について書く気になったのは、元X JAPANのTAIJIの訃報を知って、Wikipediaでその人生を読んだからである。
実存主義者は、基本的に、社会から弱者をなくさなくては、人間に社会生活は不可能であると考えているから、実存主義や権力主義や世間知について、社会のはみ出し者達に説明しなくては気が済まない。
それは、結局、キリストがやっていた事と同じであり、実存主義者は皆、キリストみたいなものである。
権力主義者は、社会に弱者やはみ出し者は、必要で、最低最悪な人生を送らせなくては気が済まないのである。
いわば、見せしめみたいなものである。江戸時代におけるエタ・非人みたいなものである。
その点においても、実存主義者と権力主義者は対立する。
弱者やはみ出し者とは、実存主義にも権力主義にも属さない中立地帯の人々の事である。
俺も攻撃を受けているとはいえ、自分が権力主義者よりもほんのわずかでも劣っていたり、弱者であったりしているとは、全く思えない。もちろん、後悔した事も一度もない。
だから、権力主義と対等以上の存在である実存主義とは、いかなるものかを説明しているわけである。
ただ、哲学や認識の問題だけで、これだけ人生が異なるのだから、教えるだけで破滅からまぬがれるなら簡単な事だろう。
実際、それで救われるかどうかは知らないが。
現代社会では、権力主義者も似たり寄ったりの悲惨な人生を送っているのだが、彼らは性格が極めて悪いから自業自得というものである。彼らには反省と実存主義への更正が必要である。
あんなに性格が悪くて生きていられると思っている方が悪いのである。
反省しているなら、先ずは、国家と世間の消滅から取り掛かるべきである。
◎ 2011年7月20日 (水) 生得観念と習得観念
観念・・・@〔仏〕観察し思念すること。仏陀の姿や真理などに心を集中してよく考えること。
Aあきらめること。覚悟。「もはやこれまでと―する」
B〔哲・心〕(idea) 思考の対象となる意識の内容・心的形象の総称。山の観念、善悪の観念など。
C物事に対する考え。見解。「固定―」「責任―」「経済―に欠ける」
生得観念・・・〔哲〕人間に生れつき具わっている観念。デカルト・ライプニッツはこのような観念の存在を説いたが、ロックはこれに反対。本有観念。[対]習得観念。
習得観念・・・〔哲〕経験に基づいて得られる観念。ロックはデカルトの生得観念説に反対して一切の観念が習得的であることを主張。[対]生得観念
俺の考えでは、両方とも違ってて、人間には、生まれつき思考方法が備わっていて、生まれてからわざわざ他人に思考の方法を教えてもらう必要はないというものである。
これは、生まれつき思想が身についているという「生得観念」とも、他人から総てを教えてもらわなくては人間には何もできないとする「習得観念」とも異なる。
思想は、生まれつき持っている思考能力によって、思索と経験によって形成されるものであるというのが、俺の説である。もちろん、他人や経験から教わる習得観念も場合によっては、あるに違いない。しかし、決してそれだけではない。人間は経験によって思考能力を手に入れるわけではないのである。
例を挙げるならば、人間は生まれながらにして、他人と異なる意見を持っていても不思議はないという事である。
◎ 2011年7月21日 (木) 金閣寺
三島由紀夫 「金閣寺」 新潮文庫
p.225 『「自分のまわりのもの凡てから逃げ出したい。自分のまわりのものがぷんぷん匂わしている無力の匂いから。・・・老師も無力だ。ひどく無力なんだ。それもわかった」』
p.225 『「金閣は無力じゃない。決して無力じゃない。しかし、凡ての無力の根源なんだ」』
p.273 『「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」』
この本は、飛ばし読みしているのだが、およそ、モチーフはこの辺りだろう。
『無力』というのは、美や正義のための行動を何もとらずに、ただ道徳的腐敗に身を任せている人々の有様を指しているのである。
『金閣寺がすべての無力の根源』というのは、見た目だけは美しいが、それだけで、道徳的な美を実現するための何の助けにもなっていず、実が伴っていないという意味で、金閣寺を世間体を取り繕うだけで、こと足れりとする多くの人々の親玉(象徴)とみなしたわけである。
社会の腐敗に対抗しているはずの禅寺ですら何も行動できない社会全体を覆う無力感が、金閣寺を焼いた理由であると作者は言っているのだろう。
しかし、行動よりも、俺のように悪の根源を先ずは追究する方が先だろう。
三島は、「仮面の告白」でもこの作品でも言っている事が常にあいまいで、悪の根源を把握していない。
目的も分からずに、闇雲に突っ込んでも、結果は伴わないだろう。
だからこそ、三島の作品は詩であり、芸術であると言えるのだが。
詩や芸術は、哲学ではなく無意識の衝動である。哲学も大きく関係しているのだが、衝動の発露に留まる。
故岡本太郎画伯も、「芸術は爆発だ」と言ったそうである。
そう考えてみると、金閣寺炎上も芸術的行為であったわけだ。
◎ 2011年7月22日 (金) 脱原発
大阪では、秋に大阪に首都機能を持たせるか否かの民意を問う府知事・大阪市長選挙があるそうで、あるかないかは不明だが、もし首相が、脱原発衆院解散に踏み切れば、珍しく分かりやすい選挙が続く事になる。
どちらの選挙も、1つの政策だけが争点であり、その他の政策は不問である点が良い。
これは、どちらもトップが命懸けで独自の思想を貫いた結果である。
以前読んだ神戸新聞の記事によれば、神戸大学の名誉教授が、福島原発の地震計が故障し、計測データがない事を取り上げ、あるいは地震によって循環水の配管が壊れた可能性があると指摘していた。
直下型地震であれば、更に破壊規模が拡大するのは当然であり、俺としては脱原発に賛成である。
大阪の首都機能については、実存主義社会とあまり関係がないから個人的には、あまり興味がない。
原発問題は、実存主義社会に原発は存在不可能だから、脱原発に賛成というのもある。
つまり、ほんのわずかながら、実存主義社会に近づくというだけの事である。本音では、こちらもどうでも良い。
社会には興味がない。
◎ 2011年7月22日 (金) 日本共産党とTPP
東日本大震災前に、郵便受けに、「しんぶん赤旗 2011年2・3月 号外」というのが入っていて、色々とマニフェストが書いてあった。
その1として、サラリーマン給与を上げて、大企業減税の取りやめと軍事費の削減によって社会福祉を充実させろと書いてある。これについては、特に言う事はない。どうでも良い。
その2として、核兵器反対と沖縄基地の無条件撤去、日米安保条約の取り消しと日米友好条約の締結を掲げている。
日米安保条約の取り消しは、北朝鮮や盾の会やイスラム教圏と同じように日本文化の防衛的な意味も含まれるのだろう。
これらも社会に関することだから、どうでも良い。
次に地方における政治力の自慢があり、旧ソ連と北朝鮮の非難をしている。
では、共産主義や社会主義の非難をしているのかと言えば、そうではなく、これらの国々は、真の社会主義ではないと非難しているのである。
しかし、尖閣諸島と千島列島の領有権は強く主張し、財産や権力への強い執着を隠そうともしない。
これらの主張は、自分達が旧ソ連や北朝鮮と全く同類であることを白状しているのと同じである。
環太平洋連携協定(TPP)についても言及しているのだが、『”アジアの活力をとりこむ”どころか、アメリカの対日経済戦略に深く組み込まれてしまいます』と書いてある。
これは、明らかに、日本は資本力に物を言わせ、アジア諸国を食い物にしてやると言っているのと同じである。
日本共産党は、日本の国益だけを考え、他国を奴隷とするために資本主義を全面的に支持しているのである。
TPPについては、神戸新聞にも、どこの大学か忘れたが、助教授が日本共産党と全く同じ事を書いていた。
自分の属する集団のために、どこまでも鬼や悪魔になれる権力主義者達が、この国の政治家や知識人になっているのである。
俺は、特別、日本共産党を非難しているわけではない。他の政党や国々を非難しながら、自分達もそれらと何ら変わりがないではないかと言っているわけである。
人間が生きるために必要なのは、心であって、社会システムではない。
心とは、権力と全く妥協なく対立するものである。
俺は、TPPなどどうでも良い。人々の腐った精神を指摘したかっただけである。
日本共産党が、道理だの自主自立などと書くのはちゃんちゃらおかしい。身の程を知れ。