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◎ 2011年7月3日 (日) 理性とは因果を考える能力

時事通信 6月25日(土)
『元組員、生活保護で困窮=報酬目当てでドナー承諾―臓器売買事件・警視庁
 腎不全を患った医師による臓器売買事件〜
 滝野容疑者はかつて同じ組に所属し、舎弟分だった坂上容疑者や元組員の男ら2人にドナーにならないかと持ち掛けた。
 坂上容疑者は組対4課の取り調べで「300万円をもらえると聞いて飛びついた」と供述。』

道理として、見ず知らずの赤の他人のために、自分の臓器を提供する必要などない。
しかし、この人は、そんな事を全く考えず、自分の臓器を与えればカネがもらえるという効果だけを期待しているのである。
そこまで理不尽な要求をしてくる社会ならば、犯罪にも正当性が与えられるだろうが、この人は国家や世間が恐くてそれもできない。
では、犯罪もできないほどの小心者かと言えば、そうとも言い切れない。
もし、この人が、戦争で国家や世間からいくら犯罪しても良いと許可を与えられたならば、周囲が引くほどの悪事を働く可能性があるからである。
自分の命を軽く見る人間は他人の命も同様の軽さで見る。
そのため、権力の許可さえ与えられれば、どんな悪事でも平気でやれるのである。
もちろん、自分が相手にやったのと同じ目に遭わされても、理不尽に感じないだろう。
そんな目に遭わされるだけの価値しか自分を含めたあらゆる人間にはないと考えているからである。
これらより、理性とは道理を考える能力であると言え、権力主義者はそれを生まれつき全く持ち合わせていないのである。
おそらく、この人は道理を考えられないから、犯罪に正当性が与えられるとも考えられないだろう。
この人に、もう1つ欠落しているのが、原理を考える能力である。
例えば、この人はなぜ法律が社会に存在するのか考えた事もないのだろう。
もし、法律の存在理由にそぐわない状況が発生すれば、どんな法律でも守る必要はない。
カネの存在理由についても考えた事がないだろう。
人間の命を脅かすためにカネが存在しているわけではない。
そのような状況では、カネの存在そのものを否定して良い。
カネの存在を否定する行動をとれば、当然、違法行為となる。
それらの場合に、社会全体を敵に回して個人として戦う気構えを持っているのが実存主義者なのである。
道理や原理を考える事は、物事の因果関係を考える事でもある。
道理や原理に反する行為をとれば、現実を見れば明らかなように自身に最悪の結果をもたらすからである。
この人は特別でもなんでもなく、人間のほとんどは、こんなものなのである。
因果を考えて行動するならば、必ず実存主義者になるしかない。
権力は、存在そのものが道理に反するからである。
国家や世間に逆らった方が酷い目に遭うと考えているなら、俺もそんな人間に言うべき言葉は持たない。
理性(すなわち道理や原理や因果)は、宗教の規律や社会の法律のように他人と合わせるものではない。
個人として追究した結果が、たまたま余人と合致するものなのである。
合わなければ合わなくても良いのである。
世界中に実存主義者が存在するが、彼らの思想と行動規範が一致しているのはたまたまなのである。




◎ 2011年7月4日 (月) 江戸時代

以前、実存主義社会は、江戸時代のようになるのではないかと書いたのだが、江戸時代を肯定しているわけではない。
生活様式が、その段階に留まるという意味である。
江戸時代は、鎖国していたせいで、飢饉になっても輸入ができず、多くの餓死者を出した。
辞書を見ると、江戸時代には、乞食や売春関係の職業が数え切れないほど多くあったのが分かる。
坊さんと乞食、尼さんと売春婦の違いも定かではない。
国家や世間が存在しない江戸時代が、実存主義社会である。
それは、結局、江戸時代を根本から否定しているのに等しい。
江戸幕府が鎖国したのは、日本文化を外国文化の影響から守るためである。
日本文化は外国文化に触れただけで壊れてしまうような脆弱なものなのである。
盾の会は、自国の独立した軍隊を持ち、江戸時代のような日本文化を欧米文化の影響から守る事を目的としていたらしい。
というのも、現在でも、そのような考え方の人が存在するからである。
現在のイスラム教圏とキリスト教圏の戦争みたいなものを想定していたものと思われる。
改憲を主張する人々は、現代における盾の会の会員だと考えて良いのかもしれない。
しかし、俺は、日本が独立した軍隊を持ったとしても、ただの権力主義者の強盗団にしかならないと思うのである。
国家の在り方や軍隊を考える前に、理性を考えるべきである。
理性を持てば、権力がなくなる。権力がなくなれば、国家と世間がなくなる、国家がなくなれば、軍隊がなくなる。
実存主義は、個人の生き方が成立すれば、社会は存在しなくて良いという考え方である。
そのため、国家や世間の同意なく、個人で始めるものである。
「皆で実存主義者になろうよ」と言った時点で、その人は実存主義者にはなれないのである。

神戸新聞(6/29)によると、櫻井よしこ氏は講演で、『(江戸時代の終わりから明治の初め頃に)モースは「日本には貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と述べた』と述べたらしいのだが、江戸時代には、乞食や売春が世間では立派に職業として認められるほど、おおらかであったと考える事はできるだろう。
現代では、物乞いに来られても警察に通報されるだけである。
そう考えてみると、国家や世間は江戸時代の方が弱者に対する同情は持っていたという事かもしれない。




◎ 2011年7月5日 (火) 乞食の例

越後獅子(えちごじし)・・・(2)越後国西蒲原郡月潟地方から出る獅子舞。子供が小さい獅子頭をかぶり、身をそらせ、逆立ちで歩くなどの芸をしながら、銭を乞いあるく。蒲原獅子。角兵衛獅子。

阿万が飴(おまんがあめ)・・・天保(1830〜1844)の頃、江戸市中に流行した飴売りで、女の身ぶり声色(こわいろ)をつかって呼び売りをしたもの。

鹿島の事触れ(かしまのことふれ)・・・近世、その年の豊凶・吉凶につき、鹿島大明神の神託と称して春ごとに(元日から3日まで)全国に触れまわった人。折烏帽子に狩衣の神官姿で、襟に幣帛を挿み、銅拍子を鳴らしてそれを触れ歩いた。後には物貰いのなりわいとなった。ことふれ。

門付け(かどづけ)・・・人家の門口に立ち、音曲を奏したり芸能を演じたりして金品を貰い歩くこと。また、その人。化他。

鉦叩き(かねたたき)・・・(2)鉦をたたき経文などを唱えて、銭を乞いあるく乞食僧。鉦叩坊主。

瞽女(ごぜ)・・・(「御前」から) 三味線を弾き、唄を歌いなどして銭を乞う盲目の女。めくらごぜ。

大黒舞(だいこくまい)・・・(1)室町時代に発生し、近世にかけて行われた門付け芸。仮面をかぶり頭巾をつけ、大黒天の姿をして門戸に立って新年嘉祝の詞を述べ、「ござった、ござった、福の神を先に立て、大黒殿がござった、一は俵をふまえて、二ににっこりと笑い…」などと唄い舞うもの。

太平記読み(たいへいきよみ)・・・江戸時代、路傍などで太平記・信長記などを講釈したこと。また、その講釈師。後世の講談の初めという。

竹馬古着屋(たけうまふるぎや)・・・江戸時代、竹の4脚の籠または箱に古着を入れて、天秤棒でかつぎ歩いた行商人。

叩き(たたき)・・・(3)扇をたたいて拍子をとりながら唄い歩く乞食。また、その旋律を取り入れた浄瑠璃のふしの一。

長松小僧(ちょうまつこぞう)・・・乞胸(ごうむね)乞食の一種。安永・天明(1772〜1789)頃流行の、乞食の持っていた人形の名から起る。右手に3升入り塗酒樽を捧げ、左手には美しく着飾った2尺ばかりの禿(かぶろ)人形を舞わせながら、酒樽に米銭を乞い受けて歩いたもの。

鳥追い(とりおい)・・・(4)江戸時代、女太夫と称する女芸人が新年に衣服を新しくし、菅笠に代えて編笠をかぶり、三味線を弾き、鳥追歌を唄いながら門付けしたもの。

春駒(はるごま)・・・(3)年の始めに馬の頭の作り物を持ち、戸ごとに歌ったり舞ったりした門付け芸人。また、その歌。

放下僧(ほうかそう)・・・(2)放下(ほうか)をする僧形の芸能者。

放下(ほうか)・・・(3)田楽から転化した曲芸。品玉・軽わざなどをするもの。

御出木偶(おででこ)・・・江戸時代、放下師(ほうかし)などの見世物に用いた人形。笊(ざる)を伏せて開けば人形が出、また伏せて開くごとにかわったものが出る。

泡斎念仏(ほうさいねんぶつ)・・・踊念仏の一種。慶長(1596〜1615)の頃、常陸の僧泡斎が寺の修理の勧進のために始めたが、後には物乞いが行なった。

湯女(ゆな)・・・(2)江戸時代、市中の湯屋にいた遊女。風呂者。風呂屋女。

阿呆陀羅経(あほだらきょう)、伊勢乞食(いせこじき)、移他家(いたか)、姥等(うばら)、風の神、門立ち(かどだち)、門談義(かどだんぎ)、願人坊主(がんにんぼうず)、芥太夫(ごみたゆう)、猿若(さるわか)、すたすた坊主、旅乞食、鼻笛(はなぶえ)、独り相撲、古札納め(ふるふだおさめ)、厄払い(やくはらい)、淡島(あわしま)、江戸万歳(えどまんざい)、傀儡師(かいらいし)、でろれん祭文(さいもん)、なまいだ坊主、猫八(ねこはち)、胸叩き、わいわい天王(てんのう)、若潮祝(わかしおいわい)など。

他にもたくさんあるはずだが、こうして並べてみると、江戸時代は乞食・売春時代だった事が分かる。




◎ 2011年7月7日 (木) 高い理性

芥川龍之介「或阿呆の一生・侏儒の言葉」 角川文庫 「注釈」
p.318 『トルストイ ガルシンの追想録によると、「トルストイは・・・人間の誠意というようなことを毛頭信じなかった。優しい感情というようなものは彼にとっては全く虚偽であった」(ビュルコフ著「トルストイ伝」)』

「2011年5月15日 (日) ロブサン・サムテン」と「2011年6月28日 (火) 高い理性の持ち主」で、権力主義者による集団行動としての悪意と残虐行為に対して、反感を覚えるのが、深層心理まで理性が融合した高い理性の持ち主であると書いた。
これは、被害者の立場と自分を置き換えたり、共感したり、同情したりというわけではない。
そういうのも理性の考え方としては存在するから、全く除外できるわけではないが、反感の中心を占めるわけではない。
実存主義者には、他人から優しい人間だと思われたい意思はない。
だから、共感や同情を他人に訴えたり、自分自身のそういう能力を育てたり、発達を望んだりはしない。
反感は、実存主義者としての正義感だの共感・同情だのその他多くの理由によるものである。
しかし、意識的な理由によるものではない。
実際に自分がそういう人間になってみるまで全く分からないものである。

トルストイの「人生論」に書いてある内容が、まるで実存主義とは反している事は既に書いた。
しかし、彼は、深層心理としての高い理性を有している。
この事から、意識的な理性の高さと深層心理としての理性の高さは、必ずしも比例しない事が分かる。
だから、深層心理として高い理性を持っているから、偉大な哲学を有していると思ったら大間違いなのである。
しかし、深層心理と意識の理性は別物ではなく本来同一のものであるため、トルストイはその整合に失敗しただけである。




◎ 2011年7月8日 (金) 震災二重債務対策

政府のガイドラインでは、連帯保証人に返済能力がない場合は保証しなくても良く、返済能力のない債務者は、資産で相殺し、相殺し切れなかった分は免除するとなっている。
非常に良くできた話のようだが、免除は、貸し出した金融機関が基本的に全額負担することになっているようである。
その場合、税制での優遇があるらしいのだが、これでは、あまりにも国家の負担が少なすぎるようである。
金融機関が、債権を取り立ての厳しい別の金融機関に渡す可能性がある。
そうなると、自己破産してもどうなるか分かったものではない。
国家も、自腹を切るべきであろう。




◎ 2011年7月9日 (土) シリアのデモ

シリアでは、1970年から現在まで続く長期政権のアサド大統領辞任を求めたデモが頻繁にあり、毎回、多くの人々が死傷しているが、世界各国は何か対策をとっているのだろうか?
国連は、このような事態(人権侵害)を収拾するために存在しているのではないのか?
国連もどの国も何の声明も行動もとっていないのが不気味である。
これだけ、あらゆる組織が何も機能しない事態は、第三次世界大戦が目前まで迫っている証拠だろう。
ゲーテは、「ファウスト」でギリシア独立戦争に参加し、その最中に病死したバイロン卿を称えている。
実存主義者ならば誰しも、多少は意味のある戦争で戦死したいと願う彼らの心理に共感を覚えるだろう。
実存主義者にとっての意味のある戦争とは、反権力主義的な戦争である。
自殺願望があったとしても、権力主義のために死ぬなど願い下げである。




◎ 2011年7月12日 (火) 恥の文化

最近の新聞では、「恥の文化」が良く出てくるようだが、これについて考えてみよう。
死者を火葬にしたり、土葬にして供養するのも、日本の文化であるが、これは、死者が腐ってウィルスが増殖し、それが元で伝染病が発生したのを、古人が死霊の祟りと思い込んだからであるという説がある。
文化にも理由があるかもしれないと考え、その理由を考えた結果としてこのような説ができたのだろう。
このようにあらゆる物事の存在理由を考えるのは、実存哲学に通じるものである。
その考え方は、当然、恥の文化にも適用できるわけで、なぜ、恥の文化が存在するのかを考える事が可能である。
恥の文化は、総ての日本国民に適用されるわけではない。唯一の例外が、商人である。
商人は、恥など考えずに実利を追求する。
逆に、武士やヤクザなどは、特に恥を重視する。
そのため、俺の考えでは、恥の文化は、個人や集団が、他の個人や集団と争っているときに、敵に対して自分の弱点や弱気を相手に見せないために存在するのではないかという事である。
相手に弱点を見せると、なめられる。
なめられると喧嘩を吹っかけられたり、騙されたり、理不尽な事を要求されたりするため、多くの人々は他人からなめられる事を殊の外、嫌悪する。
商人は、客と喧嘩したら、それが自分の負けとなってしまうから、厚顔無恥である。
しかし、それ以外の人々の生活は、常に他人との闘争である。

俺は、問題の米国の文化人類学者ルース・ベネディクトの代表作「菊と刀」は読んだ事がない。

次に、文化そのものの存在意義を考える事も可能である。
読売新聞(7/12)の『「町長に与えた恥に責任を取る」と海江田氏』という見出しに『民主党内からは、「恥知らずと言われても辞任しない首相へのあてつけではないか」との見方が出ている。』とあるように、文化は、他人を自分の思惑通りにコントロールするために存在するのではないかと思われる。
他人の思想や行動を制限する法律と同じ役割を持っていると考えられるのである。
これは、他人の支配という権力主義に通ずるものである。
文化が権力主義者にとって都合がよく、逆に実存主義者にとっては都合の悪いものであることは理解できよう。
イエス・キリストは、実存哲学で他人を支配しようとしたため、実存主義者としては失格なのである。

因みに俺は、このように自分の哲学を他人に披露するため、近所の人々から「恥ずかしいな」と言われるのだが、俺自身は全く恥ずかしいとは思っていない。
むしろ、勝手に盗み聞きする方が恥ずかしい事だろう。




◎ 2011年7月12日 (火) ストレステスト

EUで、総ての原発でストレステストが実施されるという事で、日本でも総ての原発でストレステストが実施される事になったそうである。
突然の話だから、ストレステストをするのであれば、一度は出した原発再稼動の許可を取り消すと玄海町長は決めたらしい。
その後、この件で九州電力によるやらせメール事件が発覚した。
原発対策の会合での福井県知事の「(原発)立地地域の住民や自治体の原子力に対する思いや、これまでの地道な努力が無になっている」(神戸新聞 7/8)という発言や、経団連会長による「国民が安心できるよう説明責任を果たすのが政府の責任だ」(読売新聞 7/11)や鹿児島県知事による「あまりにもあぜん」(読売新聞 7/8)という政府批判などは、原発稼動が最低条件で、それを国民に承認させるのが国家と地方自治体の仕事だと言っているようなものである。
しかし、なぜ、原発を稼動させなければならないかの説明を彼らは一切していない。
これら知事や経団連会長は、自らその説明を全国民にする義務がある。
原発事故により、大変な事態が引き起こされているのは事実であり、その事実をないがしろにして、原発推進を政府に迫るのだから当然である。
国家の方針を決める人々は、原発全廃を含めた議論をすべきである。
事故などなくても、原発作業者は、発ガン率が一般人より高いのである。
それだけでも、本来、原発は反対されるべきである。

と書くと俺は、ストレステストに賛成かと思われるだろうが、そうではない。
EUのストレステストは、電源が総て失われた場合などを想定して行われるらしい。
もちろん、それは、今回の津波地震を受けての話だと思うのだが、もし、これが原発直下型地震だった場合は、電源が失われるだけでは済まないのである。
原発建屋が倒壊し、内部が壊れる可能性もあるし、格納容器に穴が開くまで至らなかったとしても、例えば、制御棒が歪みでもしたら、電源が確保されても制御棒が動作しなくなる。
そうなると、完全暴走である。
水循環のパイプがいくつも破損しても、制御盤が壊れても、建屋が倒壊して人が中に入れなくても、今回以上の事故となるだろう。
総ての電源が失われるなど、原発事故としては生易しい方なのである。
チェルノブイリやスリーマイル、東海村などの人的事故も防ぎようがない。
つまり、直下型地震や人的事故では、どんなストレステストも無意味となるのである。
EUも日本も地震と原子力をなめすぎである。




◎ 2011年7月13日 (水) 権力主義は人間との勝負

原発再稼動の問題を見れば分かるように、権力主義は、相手を納得させれば総て解決すると考え、行動する。
しかし、実存主義はそうではない。
と言うのも、人間はロボットと違って、命令されたらその命令が実行可能かどうかだけを考えたりはしないからである。
人間は、他にも色々な事を考える。その色々な思考が、人間のあいまいさであり、ロボットとの違いなのだ。
だから、実存主義者は、他人を説得しないし、説得してもされてもそれで終わりとは考えない。
実存主義は、説得ではなく道理なのである。道理は相手を説得する道具ではなく、現実である。
この問題も実存の神が実在するのかしないのかの問題に左右されるだろう。
どちらが正しいかは現実で確認する以外に術がないからである。




◎ 2011年7月13日 (水) 別件逮捕

内部告発サイト「ウィキリークス」代表のジュリアン・アサンジ氏が、性犯罪の容疑でスウェーデンから身柄引き渡しを求められているそうだが、西欧や日本など世界中の政府や閣僚がウィキリークスは止めさせろと息巻いているから、別件逮捕としか思えない。
権力によるあからさまなモラル破壊に、やはり世界は終わっているとしか思えない。
WTOや世界各国の政府やマスコミが、中国にレア・アースをよこせと目を血走らせているのも狂気の沙汰としか思えない。
国家レベルで、かなり物騒な世の中と言えるだろう。

自分の思想のために命を懸けるのは良い人生だ。
バイロンが現在も生きていたら、中東各地のデモに参加している事だろう。
思想を持つ人の人生が試される時代が到来した。