◎ 2011年6月7日 (日) 官邸
読売新聞サイト(5月2日)
『「老婆心ながら守秘義務」と官邸、小佐古教授に
小佐古教授から空本氏に、「(官邸関係者から)老婆心ながら、守秘義務があると言われた」として、説明会には出席できないと電話で伝えてきたという。』
これは、あからさまな脅迫に思われる。
ここまで、強権的な脅迫をするということは、官邸は気が触れているとしか思えない。
仮にそこまで行っていなくても、官邸は命懸けで腹を決めていると俺には思える。
腹を決めるというのは、戦争突入の決意みたいなものである。
こんな危険な官邸を刺激すると、どんな仕返しが待っているか分かったものではない。
第二次世界大戦の満州での日本軍を想像すべきだろう。
◎ 2011年6月8日 (月) 結婚
読売新聞サイト(6月8日)
『夫にガソリンかけ焼き殺す、36歳妻逮捕…高知
高知市内の市営住宅の無職高橋誠さん(46)方で7日未明、高橋さんが遺体で見つかる火事があり、高知県警高知南署は妻智美容疑者(36)が高橋さんにガソリンをかけ、火をつけて殺害したとして、殺人容疑で逮捕した。』
焼き殺さなくても離婚したら良いと考えるのは、常識がないだけである。
結婚は、一度してしまうと相手を焼き殺しでもしない限り、離婚できないものなのである。
法律でそのように決められているのである。
法律とは、そういうものである。
◎ 2011年6月8日 (月) 国際情勢と日本事情
中東では、リビア、シリア、イエメン、イスラエルなどは戦闘が活発であり、アフガンやイラクではテロが続き、チュニジアではまだ民衆蜂起があり、中国では人権状況が天安門事件当時より悪化していると複数の証言があり、ウイグルやチベットによる抗議運動も続いている。
中東の紛争は、どこから大量の武器や弾薬が民衆にもたらされるのか、誰がゲリラの戦闘方法を民衆に指南しているのか、という疑問がある。
こういうのは、背後関係も知らずに表面だけ見ていても無意味である。
中国には、いつ日本に襲われるかもしれないという危機感があるから、一概に非難するわけにも行かない。
そうすると、中国の人権侵害は、日本社会にも原因があるという事だろう。
ドイツとスイスでは原発の全面停止が決定したが、日本は、原発を停止すると3兆円の電力費が増えるから再開すると言っている。しかし、それは現在の社会を維持する事が前提であり、江戸時代は原発どころか火発も一基もなかったのである。人間が生きるためには、発電所は必ずしも要るわけではない。
震災の募金は、一部を残して被災地に二回目の配布がされる事になったが、残した理由というのが、まだ被害状況がはっきりしないからというものである。
震災から2ヶ月以上経った現在でも被害が掴めないというのは、4,5年経たないと原発事故によるガンの発生の有無を確認できないからだろう。
原発事故は、現在も悪化し続けており、今後、この対応にどれだけ費用がかかるか分かったものではない。
毎日注入している水道水だって、無料ではないのである。
この事故は、底なしに国庫を圧迫する可能性がある。
消費税を上げても、それが全額これの対応に使われないと誰が言い切れるだろうか?
昔、村山首相が消費税を3%から5%に引き上げ、それが施行された橋本内閣は、増税によって大きく経済が低迷した責任をとって解散する憂き目に遭った。
段階的とは言え、5%から10%に引き上げられるとなるとどうなるのか楽しみである。
◎ 2011年6月11日 (土) 中国がチベットを侵略した理由についての考察
日本人による満州国に対する迫害に似たような事が、中国人によってチベットに対して行われているという点において、両者は必ずしも無関係ではないと俺には思われる。
チベットが中国人が迫害されるのを容認したのは自国防衛のためだろう。
もし、チベット人が理性を優先させる民族であるならば、自国の防衛よりも、日本に対する敵対の意志を表明した事だろう。
つまり、チベットは、あまり理性を有していない国家なのである。
そのため、軽蔑すべきチベットは中国に侵略されても仕方がないと毛沢東は考えたのではないだろうか?
もう1つの理由は、国内政治を上手くこなす事ができない日本人は、常に他国を侵略する原因を抱えている。
そのため、日本から中国を防衛するためには、中国は強くならなければならない。
そのため、一党独裁による巨大権力が必要である。
そのため、人権侵害が発生する事になるが、満州国での悲劇を繰り返さないためには仕方がないと考えたのかもしれない。
俺が、中国(毛沢東)の立場で、中国政治の正当性について考えるとすれば、こんなところである。
俺も、チベットは仏教国でありながら自国の事しか考えないありふれた国であるという認識は認める。
宗教国というレッテルは返上すべきではないだろうか?
もちろん、このような理性中心の理論を組み立てるのは、世界中で俺くらいのもので、誰もがこんな考え方をしていると思われると違うだろう。
◎ 2011年6月14日 (火) 第二次世界大戦の真相
太平洋戦争とその背景に太平洋戦争の真相が色々と書いてあるのだが、その内の1つに植民地を先進諸国から奪い取るためだとある。
日本が第二次世界大戦を起こすに当たり大義名分としたのが、大東亜共栄圏構想だが、これはアジア諸国を西洋列強国の植民地支配から解放するためというものであり、解放と言うよりは奪い取るためである。
ドイツは、イギリスやフランスなどとは違い、植民地を持とうとはしなかったのだが、第一次世界大戦で負けて損害賠償で大きな負債を抱え、その結果としてナチスドイツが第二次世界大戦に突入する事になった。
イタリアは良く知らないのだが、イタリアが植民地を持っているという話は聞いたことがない。
そのため、第二次世界大戦を引き起こした理由が、日独伊の三国同盟による植民地大国へのひがみであるとするのは、確かに正しいようである。
なぜ、この三国が植民地を欲しがったかだが、おそらく、国内経済が行き詰ったのを自分達には植民地がないせいだと考えたからだろう。
しかし、第二次世界大戦後、多くの植民地が独立した。
植民地が国内経済のために必要であるならば、先進諸国は決して手放そうとはしなかったはずである。つまり、後進三国の勘違いである。
ドイツはナチスだが、日本は神の国である。
日本が神の国というのは良く聞く話だと思うのだが、これは、天皇が天照大神の子孫だからである。
明治以降の日本は、天皇が神だという理由で、その号令の元で外国と頻繁に戦争していたのである。
そのピークが第二次世界大戦だったのだろう。
日本は、歴史的に、明治政府の征韓論でも豊臣秀吉の朝鮮出兵でもそうだったように財政が行き詰ると中国に攻め込む傾向がある。
ドイツもそうだったように、外国との戦争は、財政難による国民の国家への不満を外国へ向けさせるためである。
日本が神の国だったら、内政的に行き詰る事はないのでは?
日本人は、国家と世間が恐ろしくて決してそんな事は考えられない。
国家は、いつかは必ず財政難になるものであり、そのため戦争は必ず発生する。
国家が長く続けば、権力が安定し巨大になり、権力が巨大になれば富に偏りが生じ経済が行き詰り、経済が行き詰れば財政難になるからである。
つまり、時間の経過と共に恒星の質量が増加し、重力に耐えられなくなって超新星爆発を起こすようなものである。
恒星は超新星爆発を起こすが、惑星や衛星は起こさない。なぜならば、核融合は恒星のみで発生しているからである。
核融合とは、質量の軽い物質が質量の重い物質に変化する現象である。
共産主義のように富を分配すれば良いというものではないのは、ロシアのノメンクラトゥラに富が集中している事からも分かる。
国家という仕組みそのもの、権力主義そのものが悪いのである。
三権分立だの政党政治だのと言ったところで、日本に巨大権力が存在しているのも事実である。
国家を上手く運営する方法など存在しないのである。
だからと言って、俺が国家の消滅を願っているというわけではない。
社会がどうなったところで俺の人生には関係がない。戦争になってもかまわない。犯罪溢れる社会でも良い。
◎ 2011年6月15日 (水) 理性の有無
毎日実感していながら、稀にこれは随分気の毒な事だと思うのが、一般人に理性がない事である。
我々実存主義者は、生まれつき理性を持っているのだが、一般人は生まれつき理性がないのである。
俺は、ロブサン・サムテンほどの理性を持っているわけではないのだが、それでも、理性にがんじがらめで生きているようなものである。即ち、俺ですら全身理性みたいなものである。
その 0.1% ほどの理性すらも一般人は産まれてこのかた一度も持った事がないのである。
これは、毎日のように実感している事で、全く疑う余地はないのである。
何で理性なしで生きていけるのか不思議であるし、また、こいつらは死ぬのが怖いんだろうなとも思うのである。
おそらく、長生きしたがる人間は、理性のない人間である。
理性がないから人生が分からない。人生が分からないから長生きしたがるというわけである。
俺がいつ死んでも良いと思うのは、全宇宙における人生が総て分かっているからである。
人生の総てが分かると言う事は、人間にとっては全宇宙の総てが分かっている事と同じである。
そういう心理は、一般人には永久に分からないだろうと思うのだが、生まれつきのものをどうできると言うだろうか?
ほんのわずかでもあれば、俺の考えている事や言っている事は理解できるだろう。
しかし、皆無であればこそ、全く理解できないのである。
◎ 2011年6月17日 (金) 山岳民の血の復讐
トルストイ 「人生論」 新潮文庫
p.46 『山岳民にとっては血の復讐』
「2009年10月29日 (木) 人間の集団について(3)」に、『もし、先祖代々このような団結によって反撃する慣習が社会にあり、それに従っただけならば、高地人も権力主義者だろう』と書いたのだが、トルストイによれば、これは慣習らしい。
ベトナムの山岳民には、仲間の一人が他の集団から攻撃を受けたら、全員で相手の殺害に向かう慣習があるらしい。
◎ 2011年6月17日 (金) 国歌問題
日本の歴史10 明治維新 読売新聞社
p.171 『「天子さまは天照皇大神宮さまのご子孫さまで、神様の御位、正一位も、みな天子さまよりお許しなされるので、まことに神さまよりとうとく、日本国の父母にましますのだ」これは明治二年(1869)政府が奥羽人民に出した告諭の一節である』
天皇が権威を持ったのは、明治維新からであり、それまでは打ち捨てられた存在で、天皇も公卿も貧乏生活をしていた。
天皇が権威を持つようになったのは、先ず、外圧により幕府内で攘夷派(水戸・尾張・薩摩・土佐など)と開国派(横井小楠など)と反動的開国派(紀伊・大奥など)の3つに分裂し、その内の分の悪い攘夷派と尊王攘夷派の長州藩が天皇の力を借りようとし、そうはさせまいと幕府の反動的開国派も天皇を自分達の側に引き込もうとした事にある。ただし、幕府の攘夷派と長州藩も、公武合体と倒幕で敵対していた。
取り合いをしているうちに天皇の権威が飛躍的に上がってしまったのである。
そんな中で台頭したのが、下級公卿の岩倉具視で、朝廷の最高実力者にのし上がり、天皇を裏で自在に操った。
そのため、本来、尊皇攘夷派の明治政府は、反開国派のはずなのだが、明治政府は開国しっぱなしで岩倉はアメリカに外遊までしている。
また、岩倉や伊藤博文などは、西郷隆盛などの征韓論には反対したのだが、自分達はその後、諸外国との戦争に乗り出すのである。
つまり、尊皇攘夷も征韓論反対も新政府にとっては、権力闘争に勝ち残るためのただの建前だったのであり、後であっさりと主張を翻すのである。
そうして、明治になって突然巨大になった天皇の権威は、その後、戦争を始めるために利用される事となった。
問題の君が代は、天皇を称揚する歌である事は周知の事実であり、天皇の権威と戦争にこのような因果関係があるために、嫌悪感を持つ人がいても不思議はない。
最近、国歌が政治や司法で高く評価されているのは、国家主義が台頭しているからで、これは戦争が近づいている予兆だろう。
俺が、こういう事を書くのは、理性として、人間は極力正確な知識を持つべきだと考えているからである。また、日本の歴史を多く挙げるのは俺が世界で最もよく知っている社会が日本だからである。
権力主義者は、正確な知識を持つよりも巨大権力にだまされる方を選ぶ。それを阻止するためである。
明治維新には、薩摩は長州と組んで倒幕したのではと思うかもしれないが、薩摩の西郷隆盛や土佐の坂本竜馬などの下級藩士達は、公武合体派の藩主達と敵対していたのである。
そのため、薩長同盟には、薩摩藩主は関与していないのである。つまり、藩主の権威はこの時点では地に落ちていたのである。
その後、政争に負けた西郷隆盛は藩主に見捨てられて自殺する事になる。
反動的開国派というのは、幕政改革をするつもりもないし、根本的には開国するつもりもないのだが、外圧をかわすために一時的に開国しようというものである。
幕府の攘夷派の中心は水戸の徳川斉昭だったのだが、息子の慶喜の時代になると公武合体派は開国派寄りになる。
攘夷・改革・公武合体派が、後に開国・改革・公武合体派となり、反動的開国派と対立することになった。
つまり、幕府も攘夷派と開国派よりも改革派と保守派の対立の方が重要だったわけである。
最初は、現役将軍を擁する紀伊に権力があったのだが、井伊直弼の暗殺と14代将軍家茂の病死で、将軍職が一橋家の養子となった慶喜(水戸家は代々副将軍職で将軍にはなれない)に移り、形勢が逆転したが、その時には既に討幕軍の勢力の方が大きくなっていた。
暗殺によって、政権が移行する点は、5・15事件や 2・26事件に良く似ている。
奇兵隊が、長州藩の実権を握ったのも重臣への襲撃だった。
井伊直弼を暗殺したのは、水戸と薩摩の浪士で、両方とも尊皇攘夷的傾向が強い。
水戸は幕府軍なのだが、水戸の参謀の藤田東湖が尊皇攘夷派で、水戸藩士は基本的に公武合体の尊皇攘夷派なのである(ただし、慶喜は別)。
2・26事件を引き起こしたのも陸軍皇道派である。
奇兵隊率いる高杉晋作は、尊皇派ではないのだが、比較的尊皇派が暗殺事件を引き起こしやすいのではないだろうか。
ただし、陸軍皇道派は、事件後、敵対する陸軍統制派に一掃される事になった。
これは、面白い現象だ。
というのも、この天皇崇拝者というのは、乃木大将や三島由紀夫と同じタイプの人間で、権力の性質を持っていないのである。
それに対し、統制派は完全に権力の性質を踏まえているのである。
統制派は、政治家と官僚と財閥が手を組んだものだからである。大きな権力同士が手を結べば無敵じゃーんというわけである。
それを考えると、天皇崇拝者というのは、実存主義にも権力主義にも属さない中途半端な人々という事になるのである。
俺としては、こういう中途半端な人々をどちらかに導いてやるべきだと考えているわけである。
権力主義者になりたければ、井戸端会議に出席して、その場にいない人間の悪口でも言っとけば良いだろう。
実存主義者になりたければ、理性と個人主体を重視し、社会を捨てる事である。
どちらかしかない。
そう考えてみると、天皇崇拝者の心理が少し想像できそうではないか。
地域社会では、慣習や社会常識を基にした権力主義者が集団で攻撃を仕掛けてくる。
国家全体では、それを権力主義者が更に規模を拡大して、政治家・官僚・産業界が手を結んで集団で攻撃を仕掛けてくる。
それに対抗するためには、何らかの大義名分が必要である。それが天皇賛美というわけである。
天皇の名の下でしか、やつらを成敗できないと彼らは考えたのではないか?
結局のところ、核となっているのは、地域社会の権力主義であり、国家全体の権力主義は、それが拡大されただけに過ぎない。
地域社会が消滅しない限り、即ち、慣習や社会常識が消滅しない限り、それらに従わせようとする権力が消滅しない限り、あらゆる権力主義が消滅する可能性はないのである。
国体の本義・・・1937年文部省が発行した国民教化のための出版物。記紀神話にもとづき国体の尊厳、天皇への絶対服従を説き、社会主義・共産主義・民主主義・個人主義・自由主義を排撃。
1937年は、第二次世界大戦が始まる2年前であり、国家主義の台頭が開戦の予兆となっている事が分かる。
1936年に 2・26事件が発生したから、国体の本義は統制派が行ったのだろう。
1935年には、国体明徴問題が発生し、天皇主権ではあるが天皇の権限は憲法を逸脱するものではないとした美濃部達吉の天皇機関説が、議会で著書発禁処分にされた。
北一輝・・・国家社会主義者。名は輝次郎。佐渡生れ。「日本改造法案大綱」で国家改造を主唱、二‐二六事件に連座して死刑。主著「国体論及純正社会主義」。(1883〜1937)
日本改造法案大綱・・・北一輝の著。1919年(大正8)上海で執筆。23年に修正・改題して刊行。天皇大権の発動というクー‐デター方式による国家改造を説き、急進派青年将校に大きな影響を及ぼした。
天皇崇拝といえば右翼のイメージがあるが、2.26事件は天皇崇拝の左翼によるものらしい。
◎ 2011年6月17日 (金) 国際感覚
自国の文化を外国人に説明できない事は、恥ずかしい事だという世界常識がある。
少なくとも昔聞いたことがある。
しかし、実存主義者は、そんなことは全く考えないだろう。
実存主義は、文化の否定だからである。
文化とは社会の事であり、社会を捨てるのが実存主義だからである。
我々実存主義者にとっての国際感覚とは、逆に文化を否定する事である。
しかし、権力主義では自分を説明する事の方がむしろ恥ずかしいはずである。
それを考えると、この世界常識も変り種である。文化とは権力主義の事だからである。
実存主義者は、自分を説明する事をそれほど恥ずかしい事とは思わない。
なぜならば、実存の神が存在するならば、実存主義は神の生き方であり、神の意志を恥ずかしいと思う事があるだろうか?
もし、神が存在しないならば、この世界で生きる意義があるだろうか?
我々が生きている事が既に神の実在を示しているのではないだろうか?
◎ 2011年6月21日 (火) 他人から必要とされること
某会社の社長は、必要とされる人だけが会社に残れると言っていた。
インターネットで、他人の文章を読んでいると、自分は社会の役に立つのだろうか?とか自分の知識はどう役立てたら良いのか?とか書いてあったりする。
明治天皇は、他人から必要とされることで権威が増大した。
荘子は、他人の役に立つ人間になるなと書いている。
そういえば、「2011年6月17日 (金) 国歌問題」を書いた後の世間の攻撃が激しかった。
これと言って真新しい事は書いていないはずだが。