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◎ 2011年5月15日 (日) ロブサン・サムテン

ダライ・ラマ 「ダライ・ラマ自伝」 文春文庫

p.379 『第一次事実調査団の一員としてチベットを訪れたとき、彼の受けた衝撃はあまりにも深かったのだ。あれほどまでにむき出しの惨苦と不幸にさらされているチベット人を無視してはばからなかった中国が、彼にはどうしても理解できなかったのである。〜彼は傷心のあまり死んでしまったといっても決して過言ではない。』

これは極度に発達した理性の結果だろう。
こうした人が現実に存在しうる可能性については想像の範囲においてはあった。
というのも、似たような人を夢で見たことがあったからである。
多くの場合、夢は思考力に欠けていて、起きている場合であれば決してやらないようなヘマを平気でやっているものである。
しかし、起きている時には決して出来ないような発想も、まれに登場してくるから馬鹿には出来ない。
彼は現実に存在した現実にはありえないと思っていた想像上の人物である。
しかも、彼には他にもあまりにも御人好しなエピソードがいくつもあり、夢の中以上であった。
真似をしたいとは思わないが、やりたくても無理だろう。
このような想像を働かせる事が出来るダライ・ラマの理性も高く評価できる。




◎ 2011年5月15日 (日) チベットの社会改革の可能性

ダライ・ラマは、いくつものチベットの改革を行ってきたが、根本的な改革は不可能だろう。
なぜならば、ダライ・ラマという地位は、社会の慣習が与えてくれたものだからである。
慣習を否定したならば、その地位を利用して改革を行う事は不可能になるというジレンマが存在する。
結局は、当たらず触らずのところで妥協せざるを得ない。
それはすなわち、現実において理性が大きな制限を受けるということである。
だから、チベットに何らかの期待をかけるのは、大きな精神的負担をかけるだけとなるだろう。
その意味において、チベット社会は実存主義社会のモデルにはならない。
1つの慣習を壊すと総ての慣習が壊れる可能性が高い。
しかし、慣習破壊の可能性がなければ、どんな問題解決の途も閉ざされる。
権力主義社会において慣習とは社会そのものである。
そして、権力主義者も社会そのものなのである。




◎ 2011年5月21日 (土) パレスチナのデモ

読売新聞サイト(5月19日)
『中東デモの波、パレスチナ自治区にも
 イスラエルのネタニヤフ首相がワシントンでオバマ米大統領と中東和平を巡り協議する20日に、パレスチナ自治区や中東各国のパレスチナ難民による反イスラエルデモが呼びかけられている。
「チュニジアやエジプトの政変後、多くのパレスチナ人が『我々もデモで抗議すべきだ』と思っていた」』

パレスチナがデモを行おうとしているのは、チュニジアやエジプトで結果が出たからである。
つまり、彼らは結果しか求めていないのである。
もし、それらの国で結果が出なかったら、デモをしようとは全く思わなかったに違いない。
チュニジアやエジプトでは、政権が倒れても土地を追われる事はないという公算があった。
しかし、イスラエル政権が倒れるという事は、イスラエル人は再び祖国を失う事を意味する。
イスラエル人は、最後の一人になるまで徹底抗戦をするだろう。
結果重視の権力主義者集団であるパレスチナ人に問題解決能力は皆無である。
権力主義者にとっての行動は、総て手段でしかない。
その事は、俺のこれまでの人生経験からも明白である。
そして、これまでそんな権力主義的思考が成功した事は一度もないし、パレスチナ人の試みも完全に挫折する事になるだろう。




◎ 2011年5月21日 (土) 異様な事件と時代の関係

三島由紀夫 「金閣寺」 新潮文庫 「人と文学 - 佐伯彰一」

p.356 『金閣寺という日本の伝統美の象徴ともいえる建築の破壊へと駆り立てられる主人公の内的な動因のうちに、敗戦は欠くべからざる重要な一環としてしかと組み込まれている。〜敗戦によって、頼るべきものを失った日本人に、自国の美的伝統は、奇妙に二重性をはらんだ厄介な対象と化した。一方では、自信回復のためのほとんど唯一の手掛かりであると同時に、苛立たしいかぎりの内的呪縛の象徴ともうつった。』

現実において、社会とは卑弥呼の時代から続いているような慣習の事であるが、社会は常に同じ表情をしているわけではない。
その時々の表情の移り変わりを時代と呼ぶ。
むろん、それは権力主義者にとってであり、社会の制約を受けない実存主義者には無縁の話である。
既に書いたが、権力主義者にとっての道徳は、社会常識、即ち精神的慣習に基づき、社会の総ての構成員にそれを遵守させる事である。
具体的には、個人は国家や世間に絶対的な優位性を認めなければならないとか、子供は勉強を、大人は就職と結婚をしなくてはならないとか、どんな場合でも他人の物を盗んではいけないとか、どんな場合でも借金は返さなくてはならないとか、世間一般と違う事はしてはならないとか、多数決に逆らってはならないとか、恩は必ず返さなくてはならないとか、権力(特に集団や経済力や暴力)を持っている者は持たない者に何をやっても許されるとかである。
それとは対照に、実存主義者にとっての道徳は、理性によって状況に応じて汲み出されるものである。
つまり、それぞれの道徳には、他者に対する強制があるかないかの違いが存在する。

『敗戦によって、頼るべきものを失った日本人』とあるのは、日本人は国家という巨大権力に頼って生きているという事である。
しかし、その日本人にとっての最大権力が世界にとっては最大権力ではない事が敗戦という事実によって証明されたのである。
そのため、権力の性質に基づくと、より大きな権力に依存したいにも拘らず、日本国家という弱い権力集団に所属せざるを得ない日本国民は、生きる上での精神的支柱を失ったという事である。
そのため、『自信回復』というのは、生存のための精神基盤の回復という意味である。
権力が唯一の生きる目的であり、行動指針でもある権力主義者は、それが破壊されると生きる気力を失うのである。
『内的呪縛』とは、万人を支配しなければ成立しない社会常識による束縛の事である。
弱い権力によって、自分が支配を受けなければならない境遇に、我慢できなくなったのである。
このように、権力は常に同じだけの大きさを維持する事はできない。
そのため、社会は必然的に、常に同じ表情を維持できない。
これを平家物語では、盛者必衰、諸行無常と言っている。

精神基盤が崩れ去った動揺や不安が、金閣寺放火事件の動機の1つであると、この評論の著者は指摘しているのである。
これは、この放火犯に限らず、ほぼ全国民が共有した感覚で、誰もがこのような一文の得にもならないような異様な事件を引き起こしても不思議はない。つまり、時代が起こさせた犯行である。

最近では、数年前の神戸の児童殺害事件があったり、無差別連続殺人もそれほど珍しくもなくなったりと異様な事件が目立ち始めた。集団による異様な事件としては、オウムの毒ガス散布事件も、参戦の原因となった226事件に似てなくはない。
これらも時代が起こさせた事件ではないだろうか?
社会常識を守りたくても生きるために守る事ができなくなった現代人が、生きるための精神基盤を失ったためと考えられはしないだろうか?
国民に社会常識を守らせているのは権力主義であり、それを誰も守れなくなると権力(国家や世間)が崩壊するのである。
権力主義者には、時代に弱いという致命的な欠陥がある。
と言っても、権力主義者を実存主義者にしたいために書いたわけではない。
ほんのわずかでも、その可能性があるならば、俺がこんな人生を送っているわけがないのである。
世界中に一人か二人でも実存主義者になりたいと思っている人がいるならば、その人のために書いたのである。
それ以上のことをする能力は、俺にはない。




◎ 2011年5月26日 (木) イスラエル・パレスチナ問題

読売新聞サイト(5月25日)
『イスラエルのネタニヤフ首相は24日、米連邦議会の上下両院本会議で演説し、中東和平交渉に向けて「痛みを伴う妥協」の用意があるとしつつ、重要争点ではパレスチナ側に譲歩しない姿勢を繰り返した。

 首相は「和平合意では、(ヨルダン川西岸のユダヤ人)入植地の一部はイスラエル国境外になる」と述べ、入植地からの一部撤退の可能性に言及。さらに「国境は交渉で定める」と述べ、将来のパレスチナ国家とイスラエルの国境は第3次中東戦争以前の境界を出発点に改めて交渉で定めるべきだとのオバマ米大統領の構想への配慮を示した。

 しかし、首相は、パレスチナ側にユダヤ人国家を認めるよう要求。そのうえで、〈1〉パレスチナ難民のイスラエル領への帰還は認めない〈2〉併合地・東エルサレムは返還しない〈3〉パレスチナ国家は武装解除し、イスラエルがヨルダン川沿いに軍事力を長期的に維持する――などと主張した。』

俺は、中東問題に全く疎いのだが、これは良い案ではないだろうか?
ユダヤ人は、旧約聖書で祖国を失ってから、西洋諸国の狭いゲットーの中で長い間、チベット人のように迫害を受け続けてきたのである。
そのユダヤ人が国家を持つのは、人道的に許される事であろう。
また、ユダヤ教とイスラム教は生活習慣が違うのだから、明確な国境線が必要である。
国境線は紛争の境界線だからである。
だから、川を国境線にするのは妥当な案であろう。

アメリカのオバマ大統領は、この案を事実上、了承したようである。
この姿勢も認められるものだろう。
もし、ネタニヤフ首相がこの案を出せずにオバマ大統領がイスラエルに第三次中東戦争以前の境界線をイスラエルに認めさせたら、どうなっていただろうか?
第三次中東戦争以前の境界線は、おそらく川の境界線ではない上に、もう少し領土の削減を迫ったものになるのだろう。
それで、事態は収拾するだろうか?いや、そうはならない。
おそらく、気分を良くしたパレスチナやイスラム教圏は、ますます戦争を繰り返し、イスラエルという国を世界地図から消滅させた事だろう。
もし、そうなれば、オバマ大統領の口車に乗って、譲歩したイスラエルは、ただの馬鹿になってしまう。
長い間、ゲットーで苦労してきたイスラエル人なら、その程度の未来は容易に想像できるはずであり、当然、あらゆる犠牲を払ってでも、オバマ大統領の提案は撥ね付けたであろう。

人間社会において、善意の譲歩は、ただの馬鹿でしかない。
例えば、神戸新聞(5月24日)には、愛知のコンビニに、強盗が入り、「金を出せ」と言われて「金はない。働けよ。」と諭されて、「通報するな」と言い捨てて何も盗らずに逃げた話が載っている。
この強盗未遂犯は、相手が通報しない事を条件に何も盗らないという譲歩をしたにも拘らず、店員は警察に通報したのである。
通報しなかったら、新聞には載らないだろう。

また、読売新聞サイト(4月28日)には、リビアのカダフィ氏の娘が、リビアは2003年以降、米国の要求に応じて大量破壊兵器開発計画の放棄を行ってきたが、米国はその見返りにリビアを空爆していると非難している。

また、エジプトのムバラク大統領は、ほとんど抵抗しなかったにも拘らず、家族全員の全財産没収されかかていたり、起訴されたりしている。
ムバラク一家は、その気になれば、随分抵抗できたはずなのだ。

少しでも譲歩すれば、一切合財を失うばかりか、命まで失いかねないのは、万国共通の社会常識である。

ただし、アメリカやイギリスなどのキリスト教圏は、権力主義に基づき、今後もイスラム教圏への攻撃を続けるだろうし、それが、イスラエルにどんな影響を与えるかは未知数である。
ネタニヤフ首相の案が受け入れられ、パレスチナ・イスラエル紛争が多少落ち着いたとしても、アラブ諸国は、全く油断できないだろう。
アラブ諸国としては、これまでの状況を踏まえ、よく考えた上で答えを出すべきだろう。




◎ 2011年5月28日 (土) 被災地

東日本大震災の避難者数は、地震発生直後には30万人以上いたのが、現在は10.2万人ほどである。
確実に減りつつはあるのだが、彼らの今後の生活は不安定ではないだろうか?
というのも、地震保険に多数の加入者がいたらしいのだが、その保険金は、せいぜい、2〜300万円程度らしいからである。
家を購入するには、数千万円はかかるから、これではほとんど足しにはならない。
せいぜい、数ヶ月分のアパートの家賃程度ではないだろうか?
慣れない土地で、やったこともないような仕事をやって、どこまでやっていけるだろうか?
しかも、財産を使い果たしたからと言って、避難所に戻りたいと思っても、その頃には避難所そのものがなくなっているかもしれない。
阪神大震災のときは、大阪はほとんど無傷だったから、仕事の心配はほとんどなかった。
神戸は、そこそこ知られた名前だが、大阪に比べたら、ただの片田舎であり、被災者総てを吸収しても余力はあまりある。
それに引き換え、東北には近くに、それだけの都市がない。全く状況が違うのだ。
そんな場所には、実存主義社会の建設は必須なのだが、全くその気配がない。
これは、国家と世間が、被災者を完全に見捨てた事を意味する。
そのため、現在、被災地でボランティアをしている人々が、資金不足などで難渋しているというのを聞くと、当然だと思うのである。
国家や世間が、彼らの活動を意図的に妨害しているのに、弱小ボランティア達にその妨害を乗り切れるわけがない。
被災地で頑張っている人々は、国家や世間が、どんな目で被災者やボランティア達を見ているか知るべきだろう。
もし、国家や世間に敵対するくらいなら死んだ方がましだと被災者が考えているのであれば、ボランティアのやっている事は、ありがた迷惑以外の何物でもない。
ボランティアは、その行動が正しいのかどうかを見つめなおすべきである。
良かれと思ってした事が、国家や世間にとっては、殺したいほどむかつくことだってあるのである。
権力主義社会においては、良心に基づく行動は、極めて危険である。
民主主義に自由など一切ないのは、歴史的事実であり、国民は良心を持つ事すら許されない。
同じ資本主義国であるハイチにも実存主義社会の建設は必須である。
中国は、大地震がここ数年、最も頻繁に発生しているようだが、共産主義国だからあまり心配をする必要がない。
常に、豊富な物資の提供が保障されているからである。
実存主義社会が建設されても、上手くいくわけではないが、あるのとないのでは、雲泥の差がある。
そして、数年後には、地震や原発事故の影響で、日本は近隣国に攻め込んでいるかもしれない。
第三次世界大戦の勃発である。




◎ 2011年6月5日 (日) ボランティアと赤報隊

日本の歴史10 明治維新 読売新聞社

p.148 『相良総三(さがらそうぞう)は、鳥羽伏見の戦争がおわるとすぐ、近江(おうみ 滋賀県)で兵を挙げ、隊名を赤報隊と名づけた。赤報隊は、百姓出身者がひじょうに多かった。かれらは東山道を本隊よりもはるかにさきがけて進軍した。村々で、かれらは年貢半減の高札をたて、庶民が安心して生産にはげむように訴えた。かれらはまた、さきざきの藩と交渉し、新政府に忠誠を誓わせ、武器・金穀を献納させた。〜(新政府に)相良総三らは処刑されたが、赤報隊の弾圧をもっとも強く主張したのは、薩摩藩出身の参謀や、岩倉家の人々であった。』

p.149 『(赤報隊のような)草莽(そうもう)隊は、手先であるあいだはまだよいとして、主役になられては困るのだ。要するに、倒幕戦争と諸藩の統制をおしすすめるのは、新政府とその官僚の指揮下に行われなくてはならない。だから草莽層の出すぎた行動はゆるしておけない。これが赤報隊弾圧の真の理由であろう。赤報隊が、かれらの信頼していた薩摩藩にうらぎられたとおなじように、九州の天草島や豊前(ぶぜん 福岡県)で兵を挙げた草莽隊は、かれらが尊敬していた長州藩討幕派によって弾圧された。』

人間社会を知るには、権力主義を理解しなくてはならないが、特に現代日本社会を理解しようと思えば、明治維新を理解しなくてはならない。
明治維新には、赤裸々な現代日本社会の本質が示されているからである。
この本によると、高杉晋作は、奇兵隊を組織して、長州藩の実権を掌握した。つまり、下克上である。
奇兵隊を組織するにあたり中心となったのは、地主や大店主などの富裕層であり、彼らは、中国やインドなどが西洋列強国に弾圧されている情報を知っていた知識層でもあったために、高杉に協力したのであり、そのため、明治維新は、市民革命であるという意見もあるらしいのだが、これは、奇兵隊だけに限られた現象らしい。
薩摩藩でも、下克上で、下級藩士の西郷隆盛らが台頭した。
時代の変わり目は、下克上の時代でもある。
そんな中に現れた赤報隊も、おそらくは、勉学によって知識を持っていた人々の一部であっただろうし、新政府に協力して、国家の建て直しをしたいと願っていたのだろう。
赤報隊の協力がなければ、新政府は幕府軍に敗れていたかもしれないらしいのだが、新政府軍はキリのいいところで赤報隊を処刑した。
この赤報隊の意志が、ボランティアの精神であると俺は考えるのである。
だから、ボランティアは、いくら自分が正しいと思っていても、国家や世間はそれを認めず殺しに来るのだから、気をつけなくてはならない。
良心に従って行動する事は、人間社会では命取りである。
邪悪な意思に盲従する人間だけが生き残れるのである。




◎ 2011年6月5日 (日) 武士とユダとタイタニック

映画「タイタニック」では、乗員のほとんどが、女、子供を優先的にボートに乗せていた。
これは、自己犠牲と考えても良いだろう。
忠臣蔵では、家来が主君の仇討ちをして、自決した。
これも、自己犠牲に見える。
ユダは、イエスを国家に売った後で、自殺した。
これも、自責の念にかられた自己犠牲に見えなくもない。
しかし、赤穂浪士が、仇討ちをしたのは、家来のくせに仇討ちもしないで、おめおめと生き恥をさらしやがってという世間の白い目に耐えられなくなったせいだと俺が考えている事は、既に書いた。
権力主義者には、国家や世間を敵に回して生きる力はない。
つまり、自己犠牲ではないのだ。
ユダについても、確かに、イエスを裏切って国家や世間の側にユダはついたのだが、権力主義の考え方では、自分が所属している集団(権力)や、その長(主君)を裏切る事は許せない事になっているのである。
おそらく、裏切り者が味方についてもまた裏切るかも知らんといったところだろう。
しかし、ユダは、その事を知らなかった。
だから、ユダは、せっかく、イエスを裏切ったにも拘らず、国家や世間に更に白い目で見られる事になったのである。
ユダも自殺の理由は赤穂浪士と同じなのである。
ただし、裏切っても優遇される場合もある。例えば、関が原の合戦で西軍を裏切った大名は優遇されていた。
権力主義社会における裏切りは、場合によりけりである。
タイタニックだが、現実において、多数派の人間が純粋に自己犠牲的行動をとることはありえない。それは、俺の人生経験において事実である。
多くの人間は、権力を持たない弱者を攻撃するように社会常識において規定されているのである。
映画の中では、一人だけ他と別の行動をとる人間がいたが、映画の中では誰もかまってはいなかったが、あのような少数派の人間は先ず攻撃の対象になるのは確実だろう。
その次は、へまをやらかした船長や船員あたりが標的になるのでは?
そうやって少数派を殺して生き延びようとするのが現実である。
つまり、映画「タイタニック」は、現実では決してありえない夢物語である。
あの映画の不愉快なところは、原作者は多数派の人間(つまり世間)を裁ける根性が全くない偽善者であるという点である。
あの映画は、その点において、道義的には酷い作品であると俺は考える。
せいぜい茶番の恋愛映画である。女は無条件に自分を守ってくれる男を求める。




◎ 2011年6月5日 (日) キリストとムルソーとファウスト

キリストは、死を目前にして、神が大衆を裁かない事を祈った。
「異邦人」のムルソーは、死を目前にして、世間を嘲笑した。
大衆による処刑における反応が同じであるため、キリストとムルソーは、本質的に同一人物である。
キリストと一般人との違いは、聖霊の有無であり、ファウストと一般人との違いは、メフィストフェレスの有無である。
一般人にはない同じものを持っているキリストとファウストは、本質的に同一人物である。




◎ 2011年6月7日 (日) 君が代起立斉唱問題

君が代起立斉唱訴訟が、昨日、最高裁で棄却されたそうである。
多分、10年前であれば、逆の判決が出たと思うのだが、時代の流れだろう。
東京都知事や大阪府知事は、法制化まで行ったし、ほとんどの新聞社は、当然合憲に決まっていると書く。
俺が社会を見放したのは、大衆に全く理性が存在しないからである。
理性が全くないということは、何をどうやってもどうすることもできないことを意味するからである。
どう転んでも必ず、滅亡へと突き進むのである。
では、大衆に理性を持たせるにはどうしたら良いのか?
そんなことは誰にもできはしない。
そもそも、大衆に理性を欠片でも持ちたいという意志すら感じない。
どのくらい大衆が理性を持つ事を嫌がっているかといえば、それを持つくらいなら戦争している方がましだと思われるほどである。
つまり、死んでも絶対いやなのである。
そんな連中を相手に、戦争や国家の崩壊だけは避けなくてはならないと考える地方の首長は、それならば、我々の言う事を絶対に服従させて、どうにかするしかないと考えたのではないかと俺は思うわけである。
しかし、全体を自由自在にコントロールできたとしても、一人一人に理性がなければ、やっぱり総ては滅亡に突き進むしかないと俺は考えるのである。
普段の生活で、どう振舞えば分からないような連中に、何をどう教えてやっても滅茶苦茶な事しかできないのである。
普段の生活まで統制する事は、都知事や府知事にも決してできない。
彼らの頭は結局は1つしかないのであり、一人一人の人間に、ああしろこうしろとは忠告してやれないからである。
戦争するしかないなら、それを前提に生きるだけである。