◎ 2011年4月9日 (土) 哲学入門(2)
「哲学入門」 三木清 著
三 本能と知性
『人間は環境に働きかけてこれを変化し、客観的なものは人間化或いは主観化され、同時に人間の主観的な欲望ないし目的は環境化或いは客観化されるが、その媒介となるものが技術である。』
ここにおいて『主観化』は概念化で『客観化』は物質化のことである。
物質が認識において概念に変換され、逆に概念は物質化されるという意味である。
物質が認識において概念に変換されたものは、知識と呼ばれる。
概念が物質化されるというのは、「2009年10月27日 (火) 唯心論・唯物論」で書いたように、例えば政治家が想念を法律として社会に物質化することである。
そしてこれらの作業を三木は『技術』と呼んでいる。
二 人間と環境
『人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。作られて作るものというのが人間の根本的規定である』
上記を踏まえると、法制化によって世界は作られ、知識によって人間は作られるということになる。
知識のみが人間を作るとしたら、できあがるのは欠陥のある人間であると思えないだろうか?
その知識は、必ずしも正確な知識とは言えないはずである。
三 本能と知性
『主体が環境から規定されながらそれに解消されることなく主体として自己を維持し得るのは技術によってである。技術的であることによって主体は客観を我が物として真に主体となるのである。』
ここでの『主体』の意味は自我のことであろう。
前章では、彼は主体とは行為の主観のことであるとしていたから主体の意味が変化している。
『技術的であることによって主体は客観を我が物として真に主体となる』から察すると、技術というのは論理的思考のことらしい。
しかし、論理的思考によって何かが客観性(絶対性や物質化)を持つ事などありえないのではないか?
論理的思考のどこにそのような偉大さが存在するのだろうか?
『主観的なものと客観的なものとの技術的な形における統一は先ず身体の構造において現われる。それは自己の保存とか種の保存とかという主観的な欲求と客観的なもの環境的なものとの統一を示している。本能は環境に対する適応の仕方の一つであり』
本能は、主観、客観、主体の対象として考えても良いのだろうか?
本能は、フロイトの精神分析のような心理学の領域に思えるのだが。
これまでは、人間と社会との関係について語っていたのが、ここでは、人間と身体の関係に、すり替わっているのである。
この本はこれ以上読まない。
◎ 2011年4月9日 (土) 放射性物質の広域拡散
読売新聞サイト
『放射性物質、北半球全体に拡散…国際機関発表』
『「雨に放射性物質」韓国、休校やプロ野球中止も』
『中国のホウレンソウから放射性ヨウ素131が1〜3ベクレル、地元紙報道』
この分だと、日本全国の米や野菜はどれも多少は被曝しているだろう。
外出するときは、雨にも気をつけないとね。
関係はないが、ニューヨークの金やプラチナの相場が上がっているらしい。
世界中の国家が民衆の信用を無くしているということだろう。
(黒くはないが)黒い雨は降るし、金は買い占められるし、いよいよ実存主義の時代か。
◎ 2011年4月9日 (土) 大道廃れて仁義あり
大道廃れて仁義あり・・・(老子)大道が行われているときはおのずから人情が純朴で、仁義を唱える必要はないのだが、大道がすたれてしまうと世の中に虚偽が多くなって、そのため仁義を唱える必要が起こる。また、世の中に道徳が退廃すると、人間として生きるために、義理人情という美徳が表れてくる。
義理人情は、感傷主義の一種なので実存哲学ではない。
だから、原典に忠実であるならば、『また、世の中に道徳が退廃すると、人間として生きるために、義理人情という美徳が表れてくる』の部分はカットすべきである。
大道とは、老子の道徳、すなわち実存主義の理性の事である。
つまり、個人主義だったり博愛主義だったり反権力主義だったりの事である。
しかし、社会そのものが権力主義なわけだから、大道は常に廃れているのである。
となると、現代におけるこれの意味は、権力主義が更に強化された状態、すなわち、国家主義の台頭という事になるだろう。
しかし、最初から実存主義などどこにも存在していないのだから、いつかは必ず国家主義は台頭して来るわけで、防ぎようはないのである。
仁義とは、礼や忠や信などと同じように孔子の道徳で、法律の仲間である。
現に法律は増える一方の昨今である。
原発事故が発生してみると、法律はあってないようなものだとはっきり分かる。
こんな法律のために死刑になったり、人生を潰されたりする人は哀れである。
「大道廃れて」と言っても、常に廃れっぱなしである事を読者には理解してもらいたい。
もし、実存主義者が多数派であるならば、世界中に国家など1つも存在しないのである。
◎ 2011年4月10日 (日) 原発への窒素注入と魚
福島第一原発に窒素を注入するのは、水蒸気が放射線で分解されて水素が発生するからだそうである。
核燃料の被覆菅が酸化する以外にも水素が発生する原因があったことになる。
話は変わるが、「2011年3月22日 (火) 食品の放射線汚染」で、『個人的には食べずにすむなら食べたくない』と書いたが、今日は早速、国産サバを食べた。
国産サバなので、原発被災地とは限らないのだが、そのスーパーは原発被災地の野菜を仕入れると公言していたから、可能性は否定できない。
大気中の放射性物質が北半球全体に拡がったという事は、海に溶け込んだ放射性物質も広域に拡散されるという事であり、どこで捕れても多少は含まれる事になる。
韓国や中国やロシアが海への汚染水の放出を非難するわけである。
原発事故による被災地の痛みは、否応無く日本中そして世界中が分かち合わされるのである。
◎ 2011年4月10日 (日) 実存主義の基本思想
実存哲学は、既存の道徳や常識を取っ払い、社会で人間が生きるための最も適した生き方を考えようとするものである。
そのため、一般人から見ると、とんでもなく美徳的になっているかもしれないし、逆にとんでもなく邪悪になっているかもしれないのである。
どうなっているかは、実存主義者自身は考えない。
しかし、俺自身は、美徳に落ち着いたと思って安心している。
しかし、逆であっても何とも思わないだろう。
現に全人類を敵に回しても何とも思っていない。
死ぬまで貫き通すまでである。
◎ 2011年4月12日 (火) 東日本大震災の今後の見通し
阪神・淡路大震災から16年経つが、神戸市経済的には未だにその後遺症について取りざたされている。
住民については、転出・転入者が増え、入れ替わりの激しい地域もあるらしい。
おそらく、東日本大震災の被災地も似た感じになるだろう。
国家が土地を買い取るということは、震災前とは全く別の街になる可能性が高く、そうすると区画整理も一からやり直す事になり復興までには時間が掛かるだろう。
となると、カネも仕事もない被災者生活が長くなり、国家や義援金に頼る生活がどこまで続けられるかとなると疑問である。
政府による昨年の事業仕分けによって、初動の財政支援はスムーズだったが、それがいつまでも長続きするとは俺には思えない。
また、義援金が財政による支援の肩代わりをできるとも思えない。
現在は避難者が15万人まで減ったようだが、財政支援が縮小する前に、これだけの人数の仮設住宅を確保できなくてはならない。
できなければ、被災者は全国に散らばるしかない。
日本の総人口に比べれば15万人は多い人数ではない。
全国の都道府県が就職先・入居先の斡旋、税金の免除等の全面的な支援を行えば受け入れは可能だろう。
阪神・淡路大震災では、そこまでの協力体制は必要なかった。
今後の見通しは、以上で収まるだろう。
しかし、他の可能性としては、国家に見切りをつけるという手段もある。
被災地だけで無政府主義社会を構築してしまうのである。
現実には何が起こるか分からないため、被災地だけで現状に即したそのような生活圏を構築できる可能性も視野に入れることができる。
具体的には、物々交換による経済を想定している。
◎ 2011年4月13日 (水) 暗黙の了解
読売新聞のサイト
『福島第一原子力発電所の事故の国による評価は、事故発生直後の「4」が3月18日に「5」に、そして20日以上たった4月12日になって最悪の「7」に変わった。専門家からは「国は事故を過小評価しようとしてきたのではないか」との批判の声も上がっている。』
戦争の負傷者・死者数や金融機関大型倒産の負債総額、原発事故などの災害規模などは、常に最初は少ない数字が示され、1ヶ月、2ヶ月と経つうちに徐々にその数字が桁違いに大きくなっていく。
これは、政治家や官僚などが、国民の非難を避けるために使う常套手段であり、俺が今まで生きてきた中では例外は無かった。
戦争では政府が、金融機関の大型倒産では監督不行き届きで財務省官僚や日銀総裁が、原発事故ではの経済産業省原子力安全・保安院や原子力安全委員会などが非難される事になる。
これらに共通しているのは、徹底的に情報が国民に隠蔽されるという事である。
マスメディアも、そんな事は百も承知で、この茶番に加担しているのである。
おそらく、事件直後よりも時間が経った方が民衆の非難が小さくなるという事実があるのだろう。
毎度のことだから気付いていない国民は、ほとんどいないに違いない。
◎ 2011年4月13日 (水) 東日本大震災の今後の見通し(2)
「2011年4月12日 (火) 東日本大震災の今後の見通し」では、仮設住宅の整備と都道府県の協力で収まると書いた。
しかし、仮設住宅は早期に撤去されたが、神戸市の借り上げ住宅に住んでいる高齢者は現在でも何人かいて、そこを追い出されるとすむ所がなくなると言っている。
生活補助や年金生活の人々は被災すると、国家による社会システムでは、やっていけないのである。
そのために必要となるのが、無政府主義社会なのである。
カネと財産がなければ、生きていけない世の中では、こうした弱者は死ぬしかない。
東日本大震災でも、多くの高齢者が避難していたようだが、彼らの一部もそのような問題を抱えることになるかもしれない。
神戸市の借り上げ住宅の住民は人数が少なかったから、マスメディアは彼らの肩を持ったが、人数が多ければ財政を圧迫するという理由で神戸市の肩を持ったかもしれない。
先ずは、無政府主義社会の必要性を認め、一国二制度を導入すべきだろう。
そして、徐々に完全な無政府主義社会へと移行するのである。
しかし、俺の書いている内容を理解するためには理性が必要だから実現はしないだろう。
◎ 2011年4月14日 (木) 現実を直視した発言の是非
読売新聞サイト
『首相「当面住めない」発言情報に憤る地元自治体
首相の発言情報に、福島第一原発周辺自治体には一時、動揺や困惑が広がった。
佐藤雄平・福島県知事は13日の県災害対策本部の会議で、県幹部らを前に「みんな一日も早く古里に戻ってもらいたいと思って今日までこうして苦労しているのに、そんな報道があったとは信じがたいし、信じられない」と述べた。
また、飯舘村の菅野典雄村長は、計画的避難に関する同日の住民説明会の中で、「できるだけ早く帰れるようにすると言うのが政治家の役目」と声を震わせた。
避難指示を受け、役場機能を会津若松市に移した大熊町。渡辺利綱町長は「そんなことを本当に言ったとすれば、1、2年住めないのでも大変なのに、10年、20年とはとんでもない話」と怒りをあらわにした。
約100キロ離れた会津美里町に役場機能を移した楢葉町の草野孝町長は「みんな混乱する。1日も早く戻れるよう救済措置をしっかりやってほしい」と憤った。
広野町の山田基星町長は「首相という立場の人が、いとも簡単に発するべき言葉ではない。事前に自治体に説明もないし、そもそもこういう話が報道で出てくること自体、よく理解できない」と話した。
川俣町の古川道郎町長は、「国がしっかり見通しを示さないと、余計な不安が広がる」と表情を曇らせた。』
知事や町長、村長の発言内容は、てんでバラバラだが、知事と広野町長の発言だけが彼ら全員の真意だと考えるならば、知事や市町村長は、今まですぐに戻れると被災者達を励ましてきたために、結果的に自分達が嘘をついた事になるから面目を失ったと思ったのかもしれない。
あるいは、そう説明する以外に、住民を納得させられないのかもしれない。
「当面住めない」という発言そのものは、確実なデータに基づいているならば、全く非難される理由がない。
マスメディアは公正を期すために、首長だけでなく、住民の意見も載せるべきだろう。
マスメディアの徹底した首相叩きは、「2011年3月29日 (火) 民主党と官僚のクーデター」に書いた俺の読みを裏付ける
◎ 2011年4月14日 (木) 人生論(5)
トルストイ 「人生論」 新潮文庫
p.93 『動物的個我の幸福の否定は、人間の生命の法則である。かりにその法則が、理性的な意識の従属にあらわれて、ひとりでに遂行されぬとしたら、動物的個我の肉体的な死に際して人間ひとりひとりのうちで強制的に遂行されるのであり、その時になって人は苦しみの重みに耐えかねて、ただ一つ、滅びゆく個我の苦しい意識から解放されて別な生存様式に移ることだけを願うのだ。
この世への誕生と、人の一生は、ちょうど、主人に厩(うまや)から引きだされて馬車につけられる馬の身に生ずることと似ている。厩から出て、光を目にし、自由を感じた馬には、この自由のうちにこそ生命もあるのだと思われるが、馬は馬車につながれ、駆りたてられる。〜馬には二つしか道はない。そのまま歩いて、荷を運びつづけ、荷も大したことはないし、歩いてゆくのも苦痛ではなく喜びであるとさとるか、さもなければ、言うことをきかぬかである。その場合には主人が脱穀機の回転輪につないで、壁に輪縄(わなわ)でくくりつけるだろう。車輪が足元でまわるので、馬は暗闇の中で一つところを、苦しみながら歩き続けなければならない。が、馬の力はむだにはならない。馬が不本意な仕事をやりとげれば、法則はちゃんと果たされるからである。はじめの馬は喜んで働き、あとの馬は苦しい思いをしていやいや働くという点に、違いがあるだけだ。』
トルストイは、権力におとなしく従えば、苦しまずに済むのだと言っている。
つまり、トルストイは権力支持者、権力主義者である。
しかし、現実のトルストイは、農奴の解放をしようと考えて奥さんと対立している。
それは、馬を主人の拘束から解放することと同じである。
また、トルストイは国家や教会とも対立している。
p.51 『この自分がただひとり全世界を相手に立ち向かおうと、俺はこの自分を信じぬわけにはいかない』と書いているのも、集団権力の拒絶である。
この本は、書いている事が一貫していないし、作者自身の行動とも真っ向から対立している。