目次へ

◎ 2011年4月2日 (土) 原発事故の今後の疑念

これから書く事は、何も調べもしていない素人考えである。
テレビでは、原発建屋内の水素は、酸素によって核燃料の被覆菅が酸化される事によって発生すると言っていた。
という事は、もう随分酸化されたはずだから、現在は、ほとんど水素は発生しないのではないだろうか。
同じ事が、制御棒にも言え、大量の中性子を吸着すると効きが弱くなったりしないだろうか。
そのためのホウ酸かもしれないが。
阪大の教授が、スリーマイル原発みたいに燃料棒を取り出し始末しろと神戸新聞に書いていたのだが、今回の事故はスリーマイルと同規模の事故とみなしても良いのだろうか。
同じ原発事故でも、スリーマイルでは爆発しなかったが、チェルノブイリではなぜ爆発したのだろうか。
チェルノブイリの爆発は、どういう種類のものだったのだろうか。水蒸気?水素?核分裂?核融合?




◎ 2011年4月2日 (土) 市政裏話

百条委員会・・・地方自治法100条に規定されている市政全般について市議会独自に調査を行う権限のこと。強制力を伴い、関係者の出頭、証言、記録の提出を求めることができ、正当な理由がない限り拒むことは不可。ただし、あくまでも調査権に過ぎず裁定権はなく、その結果は単なる議会としての見解にとどまり、市当局を法的に拘束するものではない。最終的な解決手段としては、議会には「市長不信任」、それに対して市長には「議会の解散権等」が付与されている。

くだらない事だが、兵庫県三木市には、現在、市長の差別発言問題がある。
1月に郵便受けに、市長のこの問題についての広告が入っていた。
内容は、2年半前に管理職の教職員が飲酒運転で1人の死亡者を出すボート事故を起こし、その事を市長室で話し合っていた時の会話を職員が無断で録音し、その録音内容を議会に提出したらしい。
その問題になった録音内容というのが、事故の処分対象者2人のうち1人が市会議員と親戚関係にあり、出身地を言った事と、仮に懲戒免職にすると兵庫県教職員組合と部落解放同盟の2つの組織から恨みを買うかもしれないが世論が大切だと言った事となっている。
市議会議員は百条委員会を設置し、300万円をかけて調査した。
3月31日の神戸新聞によると、30日にその件で「市長に猛省を求める決議案」が可決したそうである。

三木市民以外の人間がこの事件を聞くと、おそらく何のことだが、さっぱり分からないに違いない。
薮本市長は、現在2期目で、1期目のときに市町村が合併したときに職員のリストラをしたらしいのである。
そのとき、市の職員が、「市長は鬼だ。これでは仕事にならない。」みたいな事を書いた広告を郵便受けに入れていた。
次の選挙のマニフェストで、市長は、三木市の市議会議員は他の都市に比べて人数が多すぎるから減らすとしていた。
そして当選して、2期目となったのだが、市議会議員が郵便受けに入れた広告によると、市長の提出する議案がやたらと市議会で否決されるようになって、市長が市議会で苦言を呈したらしいのである。

そうした事の後で、今回の騒ぎとなったのである。
おそらく、反市長同盟として、市議会議員と市役所職員が手を結んだのだろう。
新聞には、こうした裏事情は一切掲載されない。




◎ 2011年4月4日 (月) 震災義援金は役に立つのか

権力主義者は、他人への嫌がらせをしながら、震災被災者への支援もできるらしい。
その支援が善意のものとは思えない。
この期に及んでも権力主義者は権力主義者でしかないものらしい。
彼らは、嫌がらせをすれば良いことがあると思っているのである。

物資を送るよりも義援金を送る方が役に立つと一般的に言われているようだが、義援金は炊き出しぐらいにしか役に立っていないらしい。
現場の声は、最初は、ガソリン、灯油、水、食料だったのが、下着・靴下、風呂、薬などに移ってきたらしい。
薬は、糖尿や高血圧の常備薬、風呂はまだ入れていない人が大勢いるらしい、下着は風呂に入れないから大量に要るそうだ。
現実は、義援金よりも物資の方がはるかに役に立つらしい。
義援金が役に立たないのは、世帯あたり数万円を渡す事になっているらしいのだが、全くそれが行われている形跡がないためである。
後、一週間で震災から一ヶ月経つ事になるのだが、現在まで使われずに貯め込まれている義援金に意義があるのだろうか?

福島県知事が、国家に福島県産の野菜が安全である事を一日で証明してくれと必死らしい。
しかし、昨日もシイタケから放射性物質が新たに見つかったり、現在も原発から放出されている昨今に、それを国家が証明したところで、消費者は信用しないだろう。
それとも、知事は、生産地名をスーパーに表示させないつもりでいるのかもしれない。
それでは、詐欺みたいなものである。
半狂乱になって、野菜の安全性を求めるよりも、もっと現実的な手段を模索するべきではないだろうか?
現在、福島県を見舞っている事故は、東海村やO157を遥かに凌ぐ日本にとって未曾有の災害であるという認識を知事は持てていない。
一緒だと思われては、世間の現状認識とは、ずれが生じている事になる。
知事は、ハウス栽培なら問題ないはずだと考えるかもしれないが、それでは、ハウスではない農家が見捨てられる事になる。
部分的に農林水産業を救おうとするより、現状にあった対策を考えるべきだろう。
つまり、一定の地域にある農林水産業は完全にあきらめて、福島県は広いのであるから、あればの話だが確実に安全な場所へ、なければ、他県の協力の下、農林水産業者の全面的移転を考えるべきである。
このような決断は、早ければ早い方が良い。
遅れれば遅れるほど損害は大きくなるからである。

福島県以外の被災地についても、同様である。
義援金が、こんなに時間が経ってもほとんど役に立たない以上、長期的なビジョンよりも、短期的なビジョンを優先させなくてはならない。
つまり、とりあえず、建物は考えないようにして、風呂や洗濯機を早急に造ったり設置したりすることである。
中期的ビジョンは、仮設住宅の建設となるだろう。
俺には、今回の震災は、阪神大震災とは勝手が違うように思われる。
阪神の場合は、比較的スムーズに日常生活に立ち戻っていたように思われるが、今回の震災は、ライフラインが復旧しないし、仮設住宅生活が想像以上に長引きそうな気がするのである。
という事は、銭湯やコインランドリーは、早めに用意すべきなのである。
東日本大震災には、阪神大震災には存在しなかった、そのようなワンクッションが必要に思われる。
つまり、大掛かりな被災地村の建設である。
復興したら、その村は消滅させれば良い。
因みに、長期的ビジョンとは、菅政権が立てた被災地の国家買い上げ策である。




◎ 2011年4月4日 (月) 風評被害

風評・・・(ある人についての)世間の評判。うわさ。とりざた。風説。

テレビや政府が、よく風評被害と言っているのだが、果たして本当に風評による被害なのか?
テレビでは、風評被害の一例として、被災地のあるイチゴ小売業者が「どうせ、イチゴも同じなんでしょ?」と言われた事を挙げていた。
しかし、これは、この消費者の個人的な意思であり、それを他の誰かに広めたわけではない。
だから、風評被害ではないのである。
消費者は、傷のあるものよりは無いもの、古いものよりは新しいもの、より良いものを選択し購入する。
その傾向に従えば、たとえ規制値以内であっても、放射線量がより少ないものを好んで購入することになる。
政府やテレビが風評被害と呼んでいるものは、実はそうではなく、一般的な消費者の購買傾向なのである。
風評被害という言葉こそ風評被害だろう。
この言葉は、明らかに政府やマスメディアによって世間に広められているからである。

原発事故は、原発が存在しなければ事故は発生しなかった。
その点において、被災事業者が、国家や電力会社を責めるのは当然であるし、国民全体が原発反対の意志を持つ事ができなければ、被災事業者の敗北ということになるだろう。
当事国の日本でそのような意志が存在せずに、ドイツで原発反対運動が発生しているのは、日本人には悪を容認する傾向があるからではないだろうか?
原発に反対しない人間は、被災事業者は今後、どのようにして生きていけば良いと考えているのか?
この事故は、原発は存在そのものが悪である事の証明である。




◎ 2011年4月5日 (火) 三木清

三木清・・・哲学者。兵庫県生れ。京大卒。ドイツへ留学、ハイデッガーの影響を受け、帰国後、法大教授。はじめ人間学的立場からマルクス主義哲学を研究、のち西田哲学に接近。第二次大戦末期、反戦容疑で逮捕され、敗戦後まもなく獄死。主著「パスカルにおける人間の研究」「唯物史観と現代の意識」「哲学ノート」「構想力の論理」。(1897〜1945)

三木市は、国語辞典に載っているのかと思って調べてたら、三木清という人を発見した。
同じ兵庫県生まれで、何か他人事とは思えないような人生に思われたから、少し調べてみたのだが、やはり実存哲学者らしい。
例えば、三木清に「哲学ノート」からの抜粋が載っているのだが、「人生も幸福も想像的なものである」とあるのは、幸福についてはトルストイの「人生論」と同じ意味である。
「哲学入門」にも、『現実が足下から揺ぎ出すのを覚えるとき、基底の危機というものから哲学は生れてくる』とあるが、これもキェルケゴールやカミュなどの実存哲学特有の認識である。
カミュの「シーシュポスの神話」p.38 によると、ハイデッガーもヤスパース、シェストフ、シェーラー、ニーチェ、フッサール、プルーストと同じように実存哲学者らしい。
個人と集団について書いてないのは、時代が悪かったせいだろうか?




◎ 2011年4月5日 (火) 熟睡するためには

今日は、久しぶりに日に当たったら、熟睡できた。
人間には、太陽光に当たる必要があるらしい。




◎ 2011年4月6日 (水) 三木清(2)

「哲学入門」 三木清 著

二 人間と環境
『我々は環境から作用され逆に環境に作用する、環境に働きかけることは同時に自己に働きかけることであり、環境を形成してゆくことによって自己は形成される。環境の形成を離れて自己の形成を考えることはできぬ。』

実存哲学は、個人と社会(環境)との断絶であり、三木の言うような個人が社会に働きかけ、社会が個人に働きかけるような対話関係にはない。
どうも、三木は実存主義者ではないらしい。
しかし、言っている事は実存哲学に近いものが多い。
もし、個人と社会の相互作用で『基底の危機』が乗り越えられるならば、それは危機でも何でもないのではないか?
「語られざる哲学」は、三木の23歳の頃の作品である。
これによると、彼は自分が断片作者になってしまうのを恐れるほど随分読書をしていたらしい。
断片作者というのは、おそらく、邯鄲の歩みの事だろう。
彼の告白によれば、彼はとにかく、学者や作家や何らかの職業に就くために勉強していたらしいのである。
しかし、キェルケゴールにしてもカミュにしても哲学者や作家や神父になど、なりたいとは全く思っていないのである。
彼の思索は、根本に学者や作家になったときに批評家に馬鹿にされたくないという考えの元に行われているらしい。
しかし、これはまだ20代の話なので、30代で何らかの変化が期待できないわけではない。
しかし、「生存理由としての哲学」や「日記と自叙伝」などを読んだ限りでは、ほとんど何の変化も見られない。
何らかの職業に就きたいと考えている時点で、もはや実存主義者への道は断たれているのである。
その時点で、既に世間(権力)に屈しているからである。
キェルケゴールやカミュには存在した分かりやすさが三木には無いのも実存主義者とは思えない理由の1つである。




◎ 2011年4月7日 (木) 国家の消滅へ

東日本大震災の前から、日本国内から海外への労働力の移転傾向は明白だった。
例えば、大手企業は今年度からの海外採用を積極化させたり、阪神間のいくつかの工場も2013年頃に海外移転する事が予定されている。
昨日の神戸新聞には、経済学者が今度の地震で、海外移転がますます加速し、日本は大失業時代を迎えるかもしれないと書いていた。
これは、うなずける話である。
その対策として、彼は国内のコミュニティを活性化させて、いわば、ニューディール政策のような経済の国内循環を提案するのだが、そんな事ができるとは思えない。
彼は、どれだけ日本人の心理が荒んでいるか理解していない。
心の荒みは、他人を奴隷にしようとする権力主義の心理に起因している。
もはや、国家は消滅する以外に前途は無い。
国家が消滅すれば、権力主義者は徒党を組んで勢力争いを始める事になるだろう。
それが、戦国時代である。
その他の可能性を考えるならば、実存主義者になるしかない。
個人主体と理性によって個人として権力に対抗できなければ、実存主義者にはなれない。
どうなるにしても誰にとっても捨て身の人生が待っているだろう。




◎ 2011年4月8日 (金) 哲学入門

「哲学入門」 三木清 著

二 人間と環境

『人間と環境の関係は普通に主観と客観の関係と呼ばれ、私は主観であって、環境は客観である。』

『主観的な作用も客観的なものということができる。人間の存在のかような客観性を先ず確認することが必要である。真に客観的なものとは単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。』

『相対と抽象的に対立する絶対は真の絶対でなく、真の絶対は却って相対と絶対との統一である』

ここでは、主観と客観という2つの概念は存在そのものが間違っている理由を説明している。
また、『ひとは行為の主観とはいわず主体といっている』とし、主体とは行為の主観のことであるという。
主観と客観の無効性は、「2009年5月26日 (火) ハイデッガーの存在と時間」で書いた内容によるとハイデッガーの主張らしい。それを三木の意見として解説しなおしたのだろう。
この問題についての俺の意見としては他に、「2009年2月23日 (月) シーシュポスの神話(1)」がある。
どちらも、客観を絶対的真理と解釈し、それを否定する事によって、主観と客観の2つの概念の無効性を説明したものである。
三木の場合は、主観は抽象で客観は具象であるとし、主観の元となる「私」は現実に存在するのだから主観が抽象であるのは変であるとしている。更に説明を加えて、「私」の主体と「私以外の人」の主体という概念は現に両方とも具象ではないかとしている。更に結論として、真の絶対は相対(主観)と絶対(客観)の統一であるとする。
つまり、三木は、絶対的真理とは、主観と客観が一致した状態だと言っているのだろう。
この結論も、ヘーゲル学派のものであって、実存主義者のものではない。
どうやって一致を確認するつもりだろうか?




◎ 2011年4月8日 (金) 実存主義者と権力主義者は別の生き物

森鴎外 「舞姫」

『この交際の疎(うと)きがために、かの人々はただ余を嘲り、余を妬むのみならで、また余を猜疑することとなりぬ。これぞ余が冤罪(えんざい)を身に負いて、暫時の間に無量の艱難(かんなん)を閲(けみ)し尽くす媒(なかだち)なりける』

留学生仲間と同じように行動しなかったから、彼らに妬まれてとんでもなく酷い目に遭わされたと書いてあるのだが、権力主義者は、同じように行動しなければ嫉妬するという性質があり、逆に他人から嫉妬されないために他人に合わせて行動するようなところがあり、例えば、他人から馬鹿にされないために見栄を張る性質が権力主義者にはあるのだが、見栄を張らない人間を見たら嫉妬したりする。
「舞姫」の場合は、点取り虫とでも思われたのだろう。
つまり、実存主義者と権力主義者は、全く別の考え方をして生きているのであり、両者に意志の疎通や相互理解を求めるのは、難しく面倒な事であり、あきらめるしかない。
権力主義者の嫉妬は根本的な性質なのだから、実存主義者は異なる価値観を持っているのだから必然的に自分が嫉妬の対象となる事を容認せざるを得ない。
ただし、容認するとは言っても許す必要はない。
ライオンが肉食獣だからといってむざむざ首を差し出すシマウマはいない。
これは相手を殺そうとするほどの大きな嫉妬なのだが、俺はどういうわけか何とも思わないのである。
ここで言いたかった事は、実存主義者と権力主義者は、全く異なるルールに縛られて生きているという事である。
嫉妬の問題は、被害者となる実存主義者にとっても、やりたくもないくだらない事を死ぬまでやらされる続ける権力主義者にとっても不幸な事だが、お互いに宿命とでも思ってあきらめるしかない。