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◎ 2011年2月25日 (金) 陸自の訓練

何のための「戦死」か -- アフガン戦争9年目の現実 2010年1月18日
の文章が良く書けていると思ったので、このホームページを覗いてみると、今週の「直言」(2011年2月21日)の「着上陸訓練の狙い」に陸上自衛隊が島を急襲占拠する訓練をしているらしいエッセーがあった。
島の急襲と聞けば、真っ先に思いつくのが、尖閣諸島、竹島、北方領土などの近辺国との領土問題となっている島々である。
いよいよ、日本も本格的に戦争を始める気になったかな?
このページでは、『自衛隊が米軍の後方支援部隊から、「槍の穂先」の部分も担う組織に変貌を遂げつつあることと無関係ではあるまい』とし、『既成事実を積み重ねている』としている。
しかし、アメリカの真の狙いは、日本に尖閣諸島、竹島、北方領土などに殴り込ませる事で、既成事実を作って、アフガンにドイツやフランス同様に自衛隊を戦闘参加させる事にあるのかもしれない。
もし、日本人が戦争を望まないなら、これらの島々を外国に譲る事である。

このサイトは、知識も豊富で内容も良識的なのだが、国家や世間相手に護憲の立場を貫き通すのは難しいのではないかと俺は思うのだが。
こうした立場は多くの人間に理性があるときにのみ成立できるからである。




◎ 2011年2月28日 (月) 人生論(3)

トルストイ 「人生論」 新潮文庫

p.88 『人間の真の生命、すなわち、人が他のあらゆる生命についての概念を作りあげるもととなる生命は、理性の法則におのれの個我を従わせることによって得られる、幸福への志向にほかならない。』

ここで先ず重要となるのが、彼の理性とは何かである。
「2011年2月17日 (木) 人生論(2)」に書いた内容を考慮すると、彼の理性とは、個人を集団の奴隷にする事に思われる。
実存主義者は、自分の行動規範、すなわち、個人哲学に縛られはするが、それに自分を従わせようと考える事は決してない。
実存主義者の理性とトルストイの理性は、全くの別物なのである。
そうすると、彼の言う『個我』とはエゴの事であり、彼は結局エゴを否定しているのである。
しかし、エゴを否定すると個人は無条件に集団の奴隷となり、個人としての思考力も判断力も生命も消滅させる事を容認する事になる。
それでは、権力の性質に準じることと同じであり、人間の存在意義を消滅させてしまう。
トルストイは、あらゆる人間は四六時中、戦争するためだけに生まれてきたと言っている様なものである。
エゴを否定する人は実存主義者ではない。
その意味では、カミュも部分的に権力主義者である。
しかし、トルストイの理性は、必ずしも権力主義ではない。
と言うのも、p.40 に入る p.208 の補足は、『生命の個別性』『自分の生命についての定義も持たずに、他の存在の生命を研究することは、中心を持たずに円を描くことにひとしいからだ』となっているからである。
これは、エゴの肯定であり、トルストイ自身が以前否定したものを肯定するという矛盾が存在するからである。
『自分の生命についての定義』とは、個人哲学の事である。
つまり、トルストイは自身の理性の定義が、あまり把握できていないのである。
彼は、どちらか一方を選択しなくてはならない。

『幸福への志向』というのは、多分、実存主義の理性も同じだろう。
ただし、厳密には、幸福とは他人との比較によって得られるくだらないものであり、別の表現を使うべきである。

p.88 『理性も理性への従属度も、空間によっても時間によっても決定されるものではない。』

p.55 の原注で、彼は進化論によって人間の生命の発達を説明する事を否定しているから、これは理性は進化論によって説明されないと言っているのだろう。

p.41 『偽りの科学は〜人間の生命は、あらゆる動物の生命と同様、個や類や種の生存のためのたたかいにあるという結論に到達するのである』

これは、人間は、他の動物には無い高い知能によって、たたかいを回避できるのではないか、少なくとも、一度はその試みをするべきだと言っているのである。




◎ 2011年2月28日 (月) 理性に従う必要の無い理由と理性からの逸脱について

自分独自の行動規範に従う必要は無い。
それから自分の言動が永久に逸れ続ける場合は、行動規範が壊滅した事を意味するだろう。
ただし、外部的要因による規範からの逸脱は、永久に続いても問題ない。
なぜならば、外部的要因によって理性の適用条件が変化するからである。
法律や戒律のように、このような場合はこうしなければならないといったことはない。
千変万化が実存主義理性の特徴である。
また、常に理性の要求が存在するわけでもない。
要求が無い場合は、何もする必要は無く、要求があるまでひたすら待てば良い。




◎ 2011年2月28日 (月) 世界の紛争

ガイドブックには載っていない海外旅行の世界の紛争のページも良く書けている。
尖閣諸島・竹島・北方領土のおかげで、日本にも地域紛争が身近になった。
現在、世界各地で民主化デモが発生しているのだが、イスラム教圏のデモにキリスト教圏のアメリカやイギリスが支援しているのは当然のようでもあるし、そうでもないとも思える。
イギリスは、これまでリビア政権を優遇していたのが手のひらを返したような態度で、浅ましいように思う。
おそらく、デモが発生している国々も、アメリカやイギリスも、これで良いのか?と自分たちの行動に疑問を持っている事だろう。
民主国家が増えたところで、何が変わるわけでもない。
それらの国々の生活が短期間でも少しでも良くなるのであれば、それだけの事である。
もし、悪くなるのであれば、むしろ、やらない方が良かったという事になるだろう。
長い目で見るならば、民主国家も毎年多数の自殺者を出しているのである。




◎ 2011年3月2日 (水) 「人生論」の解説からトルストイの実存度を測る

トルストイ 「人生論」 新潮文庫 「解説」

p.216 『1886年夏、58歳の時にトルストイは、貧しい後家さんのために乾草(ほしくさ)をみずから運んでやっているうちに、荷馬車に片足をひどくぶつけ、その傷から丹毒を起こして重病にかかった。40度の高熱が何日もつづき、吐き気がとまらず、すっかり衰弱しきったため、トルストイは病床で自分の死を意識するにいたった。「・・・いみじくもあなたがおっしゃっておられるように、神の御手(みて)の内に自分を感じているこの状態は、とても素晴らしいので、わたしはずっといつもこの状態にありたいと思いますし、今この状態を脱したくない気持ちです・・・」』

権力主義者ならば、ここは、「集団権力の内に自分を感じているこの状態は、とても素晴らしいので」と言うだろう。
そのため、このエピソードは、トルストイが実存主義者であることを示すのである。
トルストイの『神』はキリスト教の神ではなく、実存主義の神である。

p.218 『出版は検閲によって全面的に禁止された。「正教の教義に対する不信を植えつけ、祖国愛を否定している」というのが、検閲による禁止の理由だった。トルストイとしては、それ以前に発禁になった他の著作の場合と同様、手書きの写本や非合法の地下出版、国外での翻訳などによって作品の普及を考えるほかなかった。』

これは、トルストイにしかできない事である。
国家や世間に楯突く事は、左翼にもプロレタリア文学作家にもできるではないかと読者は思うかもしれないが、彼らには決してできないことである。
彼らは、仲間がいるから、非合法な事ができるのであって、たった一人で楯突く事はトルストイにしかできないのである。
だから、トルストイは、勇敢な実存主義者(超人)である。

トルストイは、何でもないかのように国家や世間や教会を敵に回して大暴れしているが、権力主義者にはとても信じがたいことなのである。
権力主義者は、権力を敵に回した瞬間に恐怖の余り自殺してしまうものなのである。
しかし、トルストイは、そんな事は全然分かっていない。
彼は、自分同様に、誰でも国家や世間などいつでも一人で潰してしまえると考えているに違いないと思っているのである。

以上から、トルストイは、自分が反権力主義者とは分かっていない実存主義者であると考えられる。
と言うことは、ドストエフスキーの「悪霊」のスタヴローギンのモデルにトルストイが含まれる可能性がある。
スタヴローギンがトルストイで、ステパンがツルゲーネフならば、二人と交友があったドストエフスキーが、その人物像を詳しく描けても不思議は無い。
ドストエフスキーの思想的転機となったと言われる「地下室の手記」では、痛みが快楽に変わると書いてある。
これは、トルストイの重病のエピソードや、「人生論」p.201 第35章「肉体の苦痛は、人々の生命の幸福のための必要条件である」に関係しているのではないだろうか。
Wikipedia 「トルストイ」に『正教会司祭〜正教の教えにトルストイを立ち帰らせようと努めた』とあるのは、「悪霊」のチホン僧正との会話とも通ずる。
つまり、「地下室の手記」以降のドストエフスキーはトルストイを追いかけていたのかもしれない。
ただし、病気や司祭のエピソードも「人生論」の執筆もドストエフスキーが亡くなった後の話である。




◎ 2011年3月2日 (水) あらゆる人間は四六時中、戦争するためだけに生まれてきた理由

「2011年2月28日 (月) 人生論(3)」に『あらゆる人間は四六時中、戦争するためだけに生まれてきた』と書いたが、権力主義者は死にたいほど権力を恐れるから、権力(国家や世間)が味方についていると思えば、どんな悪行でも平気でやれる。
逆に、間違いなく善行だと思っていても権力の後ろ盾がないと思えば、全く実行できない。
だからこそ、常に人間と人間、即ち、集団と集団は常に争わなくてはならなくなるという意味である。
戦争は、権力主義者の宿命である。
これが、トルストイ著「人生論」p.50『何をしても、何を得ようとしても、すべてはいつも同じように苦悩と、死と、破滅に終わるだろうと、理性は告げている。俺は幸福がほしい、生命がほしい、理性的な意味がほしい、それなのに俺の内部や、俺をとりまくすべてのうちにあるのは、悪と、死と、無意味なのだ。』の意味である。
しかし、トルストイ自身は、その原因が全てエゴにあると思い込んでいて、権力という発想が全く無いのが残念である。
しかし、トルストイは言っている事はともかく、やっている事は反権力主義を貫いているのである。
つまり、自分が、どんな思想を持ち、何をやっているのかが、さっぱり分かっていないのがトルストイである。




◎ 2011年3月2日 (水) 実存的無政府主義社会の補足

実存的無政府主義社会の実際の社会構造は、「2009年4月26日 (日) 未来(2)」に書いた。
実存主義社会は、全ての構成員が実存主義者でなくては成立しない。
先ずは、その状態にならなくては、誰もその次に考えるべき実際の社会構造を考える事はできない。
また、急いで新しい社会構造を構築する必要も無い。
なぜならば、実存主義者は、現にこの権力主義社会でも生きていられるからである。
ゆっくり変えていけば良いのだ。
はっきりしているのは、企業は全く存在できないという事である。
なぜならば、企業は国家権力を利用しなければ存在できないからである。
国家権力が存在しなければ、企業が存在できない事は、もし、実存主義社会が実現したならば、現実として証明されるだろう。
企業が無ければ、小規模な工場や店などの集まりとなるだろう。
やっぱり、江戸時代みたいになるのではないかと思われる。
ただし、国家も裁判所もないから、個人が理性によって事の是非を判断できなくてはならない。
権力主義社会であっても、実存主義者である事で人間の精神が救われるのであれば、実存主義社会の実現はあまり重要な事ではない。
人間が生きるのに必要なのは、社会構造ではなく、精神構造である。

現在生きている実存主義者は、どのようにして生きていくかだが、この壊れた社会では、実存主義者どころか権力主義者も生きていけないのではと俺は思う。
俺の現在の社会認識は、そんなものである。
現代人は、人生のあるべき形を描いてしまうと苦しみが増す事になるだろう。




◎ 2011年3月5日 (土) リビアの革命

リビアの首都で1500人のデモがあったそうだが、人数が少なすぎる。
おそらく、あっと言う間に反体制派は鎮圧されるだろう。
被害が拡大する前に、デモと革命を中止すべきである。
イギリスがカダフィ一家の資産を、アメリカがリビア政府の資金を凍結したらしいが、手段がいやらしい。
これでは、預金した銀行にネコババされたようなものである。
また、反体制派は、国連軍による空爆を求めているらしいが、よほど追い詰められているのだろう。
反体制派を支援している国々は、反体制派がリビア政府軍に捕まって虐待を受けないように外国に亡命させる事を考えるべきである。
革命は、人数が多ければ世間が認めてくれるが、少なければただのテロ集団になるらしい。
アメリカやイギリスは、アルカイダをテロ組織として討伐しているが、同じテロ集団のリビア反体制派を支援するのは筋が通らない。
国際関係は、仁義なき戦いだ。




◎ 2011年3月7日 (月) 権力主義社会の末路

父の広島市議を木刀で殴り殺害未遂…息子を逮捕 (3月7日)
家族3人刺し、父親死亡…次女を逮捕(3月7日)
福島女児遺体、死因は窒息死…祖母が無理心中か(3月6日)
小6女子、いじめ理由に自殺未遂…学校側も把握(3月6日)
牛丼店のチャイム音に立腹、男性客2人を刺す(3月6日)
父親を刺殺、同居の37歳長男を逮捕 (3月6日)
妻子3人殺害の無理心中、43歳被告に無期判決 (2月28日)
無理心中か…マンションで女児死亡、母親も重傷 (2月28日)
一家心中?焼けた車内に3遺体…神奈川・相模原 (2月28日)
血だらけで家族3人倒れる、無理心中か…宮城 (2月21日)

また、会社員は過労で大学生は就職難で自殺するらしい。
会社員の仕事を大学生と分担したら?と思うのは俺だけではないだろう。
もちろん、大学生が就職できてもすぐに追い出されるのは知っているのだが。

昨今の社会は、こんな感じである。
国家と世間を人々が恐れる限りは、必ずこのような末路をたどる事になる。
歴史は、このような社会状況の中で常に戦争を始めた。
日本もいずれ戦争を始めることだろう。
世の中は、権力主義者ばかりで俺の意見に同調するやつは一人もいないらしい。
俺は独り身だから一家心中とは無縁だが、一般家庭では他人事ではないに違いない。
それでも権力主義者をやめられないんだから、一般人は業の深い事だ。
人間が国家や世間を恐れる限り、それらが消滅する事はない。
消滅しない限りは、同じ歴史を繰り返す。
国家や世間に楯突くくらいなら自殺したいらしいから、皆自殺すれば良い。




◎ 2011年3月9日 (水) 新聞(2)

読売新聞のサイトの記事
『カダフィ氏は糖尿病か…表情こわばり、長い昼寝
 9日付(8日発行)の仏紙ル・モンドは、内部告発サイト「ウィキリークス」が公表した米外交公電に基づき、リビアの最高指導者カダフィ氏について、「体調が良くないのは明白で、糖尿病に近い状態にある可能性がある」と報じた。
 カダフィ氏は、階段を苦しそうに上ったり、顔の表情がこわばっていることが知られている。報じられた2009年春の米公電は、リビアの医師などの話として、カダフィ氏がこの頃、健康状態に非常に神経質になり、複数の医師の診察を受けたり、長時間の昼寝を取ったりしていたと指摘している。
 また、公電はカダフィ氏が「極端に見えっ張り」であり、シワを取り除くための薬剤の注入を複数回にわたって受けたと指摘した。ル・モンド紙は、「顔が引きつっているのはこのためだろう」と解説している。


これは全国紙のニュースサイトの記事だが、ネタの出所も極めてあいまいで、どう見てもカダフィに悪意を持っているとしか思えない。
記事内容の公平さがジャーナリズムの基本であるならば、読売新聞とル・モンド紙にはジャーナリズムのジャの字も無いと言える。
第二次世界大戦中に日本の全ての新聞社がデタラメなニュースを垂れ流していたのは周知の事実である。
偽りの情報で仮想敵を作り、国民の憎悪を向けさせるマスメディアの姿勢は、戦時中さながらである。
現在、日本とフランス社会は、マスメディアにおいては、既に戦時中である。
これにそれぞれの国民が同調するならば、日本とフランスが本物の戦争に突入する時期が早まる事になるだろう。
全国紙でこれだから、マスメディアは既に壊滅と考えて良いだろう。