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◎ 2011年1月19日 (水) 人身売買禁令の経緯

「日本の歴史10 明治維新」 読売新聞社

p.172 『明治五年(1872)十月、政府は人身売買の禁令を出し、娼妓・芸妓などの年期奉公人を解放し、農工商の徒弟奉公の年期も七年を過ぎてはならぬと命じた。〜この布告が出るには、外交上のいきさつがあった。ペルーの船、マリヤ=ルーズ号が、中国人の苦力(クーリー)二百三十名を買いあつめ、マカオから本国にむかう途中、横浜に入港した。このとき、船中のひどい取りあつかいに耐えかねた中国人が、脱走して救いをイギリス船に求めた。イギリスはペルーとは条約をむすんでいなかったので、日本がわがこの事件の審理にあたることとなった。外務卿副島種臣(そえじまたねおみ)が、神奈川県参事大江卓(おおえたく)に調査させたところ、中国人が奴隷として売買された事実があきらかとなったので、中国人を本国に送還せよとの判決を下した。これにたいし、ペルー政府は抗議し、その談判のあいだに、先方からつっこまれた。「日本にも人身売買の事実があるではないか」と。吉原のことである。そこで政府はあわてて娼妓その他を解放する法令を出したわけである。だから抜け道はちゃんとできていた。当人の希望によって遊女・芸妓の渡世をするものは許すというのである。』




◎ 2011年1月19日 (水) 考える葦

考える葦・・・パスカルが「パンセ」の中で人間の存在をとらえた語。人間は葦にたとえられるような弱いものであるが、考えるという特性を持っているとして、思考の偉大さを説いたもの。

トルストイ 「人生論」 新潮文庫

p.5 『人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦(あし)にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。しかし宇宙がこれをおしつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから我々のあらゆる尊厳は考えるということにある。我々が立ち上がらなければならないのはそこからであって、我々の満たすことのできない空間や時間からではない。だからよく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。 パスカル「パンセ」』

ここで、人間をおしつぶす宇宙とは、権力を暗示していることが理解できよう。
それに理性で対抗できる人間は、それよりも崇高であるとパスカルは言っているわけである。
『我々の満たすことのできない空間や時間からではない』は、物理や化学などを勉強しても我々の人生を満足させてくれないという意味である。
道徳の原理が考えることだとするのは、思索と経験をさすのである。
つまり、パスカルは実存主義者である。
「寄らば大樹の蔭」や「長い物には巻かれよ」や「郷に入(い)っては郷に従え」などとは対極の意味である。




◎ 2011年1月20日 (木) 疑惑

カフカには、彼が理性と社会との断絶を認識していなかったのではないかという疑惑があることは、「2011年1月3日 (月) 城」で書いた。
カフカとドストエフスキーを見抜けなかった点と全ての人間が実存主義者だと思い込んでいる点からカミュにも同様の疑惑がある。
あまり、カフカとカミュは細部まで研究しない方が良いかもしれない。
ただし、彼らの哲学は正しい実存哲学なのでその点の問題はない。
実存主義者になるためのヒントは、彼らだけが提供している。
一般的な実存主義の定義は、哲学よりも認識の方が重視されているが、実際は哲学の方がはるかに重要である。

実存主義・・・人間の本質ではなく個的実存を哲学の中心におく哲学的立場の総称。ドイツでは実存哲学と呼ばれる。科学的な方法によらず、人間を主体的にとらえようとし、人間の自由と責任とを強調し、悟性的認識には不信をもち、実存は孤独・不安・絶望につきまとわれていると考えるのがその一般的特色。その源はキルケゴール、後期シェリング、さらにパスカルにまでさかのぼるが、20世紀、特に第二次大戦後、世界的に広がった。その代表者はドイツのヤスパース・ハイデッガー、フランスのサルトル・マルセル・レヴィナスら。

カフカに断絶の認識がなかったとすれば、「変身」の着想は他人からもらったことになる。
すると、なぜカフカは、「変身」で自分には断絶の認識があると世間に公表する必要があったのか。
この問いの答えは、カフカ以外には分からないことだろう。




◎ 2011年1月21日 (金) 実存主義の政治的位置づけ

実存主義は、人間の必要最低限の存在意義を根本に社会は再構成されることが望ましいと考えていることになるだろう。
この考え方は、人間とはどんなものかを全く無視したこれまでの社会を認める一般常識とは全く異なる。
人間不在のこれまでの社会は、社会に人間が合わせることを強要するため、社会常識、つまり権力主義を人間が押し付けられることになるのである。

しかし、実存主義は社会に存在意義を認めないために、しいて社会を再構成しようとは思わない。
そのため、政治活動を行う実存主義者はほとんど見かけないのである。
もし、別の社会が構成されて、その新しい社会常識が押し付けられたら、たとえそれが実存主義であったとしてもたまったものではないからである。
なぜなら、押し付けは権力主義であって、押し付けられたら実存主義も実存主義ではなくなるからである。
実存主義は人間の必要最低限の存在意義を中心にした生活、権力主義は社会を中心とした生活と考える方が正しい。
言い換えると、実存主義は非政治的、権力主義は政治的ということになる。

宗教は政治的である。
なぜならば、戒律や修行の強制があるからである。

一般人に理性が皆無であることを知るのは、少なくとも30代になってからである。
理由は不明だが、一般人は、普段、自分たちには少しは理性があるかのように振舞っている。
だから、20〜30年ほどの人生経験しか持たない子供の中には、俺の書いていることが経験と全く合わない人もいるだろう。
子供は、自分の拙い経験をあまり信用しないことである。
しかし、子供といえども、幼児のころからすっかり権力主義が根付いている人もたくさんいるので、千差万別だろう。




◎ 2011年1月25日 (火) 領土問題

「外務省の尖閣諸島の領有権についての基本見解」
「外務省の竹島問題についての基本見解」

世界の紛争の内、チェチェンやユーゴ、ウィグルなどの独立問題やイスラエル・パレスチナ紛争は、領土問題とみなして良いだろう。
しかし、日本人は、世界の紛争に対して今ひとつ実感が持てない。
なぜ、世界中で戦争や紛争が起きるのだろうかと全国民が思っている事だろう。
しかし、日本にも世界の紛争地域同様に領土問題が存在するのである。
具体的には、ロシアとは北方領土問題、台湾・中国とは尖閣諸島問題、韓国とは竹島問題を現在抱えているのである。
つまり、全ての近隣諸国と日本は領土争いを現在展開しているわけである。
我々、日本人は、これらの問題によって、ようやく現実として世界中で数万人規模の死傷者が出る紛争が起こる理由を心底理解できるかもしれない。

ただし、もし、日本の将来のために、これらの領土問題を解決するにはどうすれば良いかと他人から尋ねられたら、俺はすべての島々の領有権を日本は放棄すべきだと答えるだろう。
なぜならば、領有権を主張すると日本の安全が保障されないし、万一、領有することができたとしても、石油資源や漁業海域が手に入ったところで、政治家や官僚の天下り先が増えるだけ、あるいは、漁業従事者が得をするだけで、日本国民全体からすると不公平の種、つまり不満の種を作るだけだからである。
国内に富の偏りや汚職が更に増えたところで、誰が満足できようか?




◎ 2011年2月12日 (土) 現実逃避型実存主義者

ドンファンや川端康成は、完全な現実逃避型で、自分の哲学をほとんど一切、他人に語らない。
ドンファンは、積極的に女に接触を持ち、雪国の主人公は積極的ではあるが、それほど行動的ではない。
それは、ドンファンは女にのみ現実逃避をし、雪国の主人公は、女だけでなく別の趣味にも現実逃避をしたからである。
実存主義者は、社会常識に縛られないため、自分が就職や結婚をしなくても何とも思わない。
そのため、実存主義者の男は、最終的には女を一切必要としない。
そのため、雪国の主人公は、女をさまよいつつも、誰とも距離を縮めようとはしない。
しかし、ドンファンは女を現実逃避の対象に選んだから、行動は積極的である。
しかし、ドンファンが探しているのは、ドンファンが女を必要としているからではない。
ドンファンは、カミュが言うには実存主義者なので、女は一人もいらないのである。
ドンファンが探していた女は、ドンファンを必要としている女だったのである。
ただし、ドンファンを必要としている女が、ドンファンが探していた女かどうかは、ドンファンが全て決めるのである。
最終的にドンファンは女を見つけられなかったが、ドンファンは、そんな自分の一生に何も後悔はしない。
なぜならば、ドンファン自身は、女を一切必要としていなかったからであり、いないならいないでいなかったのかで終わるからである。
ドンファンは、川端康成同様に、現実においては既に死亡していた人間だったのである。
ドンファンは、カネとコネのある裕福な家に生まれたから、あのような人生を選べるのであって、そうではない実存主義者は、他の現実逃避を探すべきである。
いや、実存主義者は、ドンファンみたいな裕福な人生よりは、案外、有島武郎のように財産を投げ出した方が幸せかもしれない。
カネとコネのある実存主義者が女で失敗(自殺)するのは歴史的事実である。
社会に溺れかかっている女を救えるのは、カネとコネと社会常識のある権力主義者の男だけである。
実存主義者には、社会と何とか折り合いをつけようとしている人にしてやれることは何もない。
国家と地域社会が地上から完全に消滅しない限り、実存主義者が現実逃避を止めることは絶対にない。




◎ 2011年2月14日 (月) 福祉施設への義援金

最近は、福祉施設への義援金がニュースになりやすいのだが、貰った方のコメントは、「義援金よりも注目されたことの方が嬉しい。卒業生達に優しくしてもらいたい。」、「携帯電話をもたせようかな」、「福祉イベントの補助にしたい」など、歓迎しているよりは、むしろ、迷惑そうに感じられる。
理由を考えてみると、一時的な義援金によって、予算が削減されることを懸念しているのではないだろうか。
国家よりも国家から独立したNPOに寄付した方がまだましだろう。
それだけ多くの寄付金が集まればの話だが。
どこで何をやっているのか分からない公共福祉よりも、経営に誰も口出しできないNPOの方が、世間の目に付きやすい事業を行うことができる。




◎ 2011年2月14日 (月) 今、万人が、なすべきこと

今、万人がすべきことは、NATOのアフガン戦争を止めさせることである。
次にすべきことは、個人が自己の哲学を確立し、理性を持ち、国家と世間を消滅させることである。
社会構造改革は、やっても全くの無駄で、人間が個人哲学と理性を持つことだけがあらゆる問題を解消できるのである。
イスラエルの紛争にしても、宗教から抜け出さないことには、問題の解決の方法がないのである。
もし、ユダヤ人が、個人哲学を確立できれば、聖地などにこだわることなく、別の土地に移住できるだろう。
キリスト教とイスラム教が無くなれば、世界の紛争の多くは消滅するのである。
もし、万人が理性を持てば、万人がアフリカの食糧事情解決に取り組むことになり、アフリカの紛争も消滅するのである。




◎ 2011年2月15日 (火) 新約聖書

天網恢恢(かいかい)疎(そ)にして漏らさず・・・[老子第七十三章「天網恢恢、疎而不失」]天の網は広大で目があらいようだが、悪人は漏らさずこれを捕える。悪い事をすれば必ず天罰が下る意。
天網・・・天がはりめぐらした網。是非曲直を正す天道を網にたとえた語。自然の制裁。天罰。

ルカ 17.1-37

『パリサイ人たちには神の国はいつ来るかとたずねられて、こう答えられた、「神の国は見える形では来ない。
 また、『見よ、ここに』とか、『あそこに』ともいえない。見よ、神の国はあなた方のうちにある」と。』
『神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです』

これの意味は、神の国とは、理性や個人主体(つまり聖霊)を持つ人間の心の中にあるという意味である。
実存主義者は、生命よりも理性や個人主体の方がはるかに価値があると考える。

『そして弟子たちにいわれた、「時が来る。そのときあなた方は一日でも人の子の日を見たいと思っても、見えまい。
 人々はあなた方に、『見よ、あそこに』『見よ、ここに』といおうが、出かけるな、追いかけるな。
 ちょうどいなずまが光って、天の下を端から端まで照らすように、人の子はその日に来ようから。
 しかしその前に人の子は多くの苦しみを受け、この世代に捨てられねばならない。
 ちょうどノアのときにおこったことが人の子の日にもおころう。
 ノアが箱舟に入った日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎしていたが、洪水が来て、ひとりのこらず滅ぼした。
 ロトのときにも似たことがおこった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てていたが、
 ロトがソドムから出た日に、天から火と硫黄が降って、ひとりのこらず滅ぼした。
 人の子が現われる日も同じようであろう。
 その日には、屋根の上にいるものは道具が家の中にあっても取りにおりるな。野らにいるものも、同じくもどるな。
 ロトの妻を思い出しなさい。
 いのちを保とうとするものはそれを失い、失うものは生きつづけよう。
 わたしはいう、その夜ふたりの男がひとつ寝床にいると、ひとりは移され、ひとりは残されよう。
 ふたりの女がいっしょに臼をひいていると、ひとりは移され、ひとりは残されよう。
 〔ふたりの男が野らにいると、ひとりは移され、ひとりは残されよう〕。」と。
 弟子たちがたずねた、「主よ、それはどこですか」と。彼はいわれた、「死体のあるところに鷲も集まる」と。

『しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました』

『いのちを保とうとするものはそれを失い、失うものは生きつづけよう』というのは、理性や個人主体を生命よりも尊重すれば、人間として死ねるという意味である。
因みに、トルストイの「人生論」p.95 には、『「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(訳注「マタイによる福音書」第16章25節、その他)』とある。

ノアの洪水やソドムやゴモラの町の破滅は、もし神がいたら、あるかもしれないと思える。

『ひとりは移され、ひとりは残されよう』は、二人に一人が選ばれるという意味ではなく、理性や個人主体を持たない人間(すなわち権力主義者)は選別されるという意味だろう。
聖書における数字は、全く意味がないらしい。
この罪人の選別は、老子における「天網恢恢疎にして漏らさず」と同じ意味である。
つまり、イエスは、老子の思想をこの程度までは、自分のものにできているのである。
それは、イエスは彼自身の思想と行為が一致している事と、自分と他人との関係を因果として理解している事を意味するだろう。
思想と行為の一致は、イエスは努力の結果、自分の行為に後悔することがなくなったことを意味するのである。
老子とイエスが同じ思想を共有しているという事は、イエスの神とは老子の大道の事である。
読者も老子を自分と同じ思想だと思えるようになる頃には、俺の言っている事が理解できているだろう。

『人の子は多くの苦しみを受け、この世代に捨てられねばならない』とあるが、ソドムの町はロトを苦しめたから裁かれたのではないか?
だとしたら、こんなことをしたら駄目だ。
イエスは、実際は、『捨てられねばならない』と言ったのではなく、排斥されているに違いない、あるいは、排斥されていることだろうと言ったはずである。
それならば、俺がこれまでに書いてきた内容と符合するからである。
イエスの弟子達は、イエスの言った事を自分勝手に改ざんする。
もし、読者がこの弟子達の改ざんから、弟子達の思想に、一人の人間に全員の罪を押し付けて生贄にしようとしていることを感じるならば、それは正しい見解である。
弟子達の改ざんには、イエスへの憎悪が根源にある。

しかし、実存主義者は、権力主義者にイエスや弟子達のように実存主義を強要してはならない。
権力主義者は、権力がこの世界の唯一の神でないとするならば、自分はこの世界で生きる意義はないと言うに違いない。

ここに書いてあるようなことが起こるなら、実存主義者で良かったと確実に思える。

イエスは、少し軽蔑していたから聖書は読む気がしなかったが、これだけ実存主義を誉めてくれるなら、読んでみてもいいかもしれないと思わないでもない。
もちろん、得る物は何もないに違いないが、気分が良くなりそうだ。




◎ 2011年2月17日 (木) 人生論(2)

トルストイ 「人生論」 新潮文庫

p.29 『個人にとっての幸福なぞありえない』

これは、世界のどこかに不幸な人間が存在するのであれば、自分が現在幸福であったとしても、それは欺瞞に過ぎないと言っているのと同じである。
それは、その不幸がいつか自分にも降りかかるに違いないと考えているからであり、これは、自分と世界との関係を因果として捉えているのである。

p.28 『自分にとって必要でも重要でもなく、生きていると自分には感じられないもの、すなわち、たたかい合い、交代しつづけてゆく存在たちのこの全世界−それことが本当の生命なのであり、残りつづけ、永久に生きつづけてゆくのである。だから、人によって感じとられ、そのために自分の全活動が行われる唯一の生命は、結局は何か欺瞞的な、ありえないものにほかならず〜』

もし、トルストイが、このような考え方をしているのであれば、彼は全く実存主義者ではない。
ここには、なぜ永遠に存在するものが、本当の生命なのかの説明が全くされていないという飛躍がある。
この考え方は、無条件に個人の命を集団のために捨てさせる傾向を持つので権力主義的であり、危険である。
トルストイは、人生経験に乏しいため、自分の思想の矛盾、つまり実存主義と権力主義の混同に気付けていない。
どんな思想であっても、権力(集団と個人)について何も書かれていないようなものは、現実離れした欺瞞である。
本を読みすぎると、こうなってしまう。
彼も、芥川同様に、邯鄲の歩みになったようだ。