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◎ 2010年12月25日 (土) 紛争地域での個人活動について

国家が危険であるために、紛争地域でのボランティアや報道活動について禁止している時に、勝手にその地域に乗り込んでそれらの活動をするのは、無責任ではないだろうか。
最近の世論では、むしろこれらの個人活動は、認められるべきだという意見を多く見かける。
しかし、ボランティアを一人でしたところで、できることなどほとんどないし、捕まったり命の危険にさらされたりしたら、母国やただでさえ他人にかまう余裕のない対象地域の人々にも多大な迷惑をかけることになる。
個人でできるボランティアの成果と捕まった後のリスクを比較すると、どう考えても行くべきではないと思われる。
次に、報道活動だが、国民の99%は権力主義者なのであり、誰も外国の真実の情報など欲しいとは思っていないのである。
一体、誰のために報道活動をするのだと思うわけである。
もし、多くの国民が真実を知りたがっているに違いないと思っている人がいるならば、その人はただの世間知らずである。
もし、たまたま、外国旅行して国内の報道と自分の見てきたものが違っていたとしても、その旅行者は国内情報が正しいと必ず発言するだろう。
そんなことも知らない人が、おそらく、紛争地域での報道活動を是認したがるのだろう。
自己責任とは、俺がここで述べたような考え方のことだと思う。




◎ 2010年12月26日 (日) ソロモンの指輪 -動物行動学入門-

コンラート・ローレンツ 「ソロモンの指輪 -動物行動学入門-」 ハヤカワ文庫NF

ソロモンの指輪という題なので、ファンタジー小説かと思って読んでみたら、動物研究の本だった。
しかし、意外と役に立つ本である。
例えば、鳥は産まれて最初に見た動く動物を自分の親だと思うらしい。
昔、セキセイインコの雛を一羽だけ育てて大きくなったのだが、人間といるよりは他の鳥といた方がいいんじゃないかと思ったことがある。
しかし、実際は、そのインコは自分のことを人間だと思っていたわけで、そんな心配をする必要はなかったのである。
また、犬の話もあり、犬には血統的に狼系とジャッカル系の二種類あって、それぞれ習性が違うらしい。
狼系の犬は、一度飼い主に捨てられてしまうと、もう他の飼い主を主人とは思えないらしいのである。
動物を飼う場合には、この本を一度読んでおくとペットに対する見方が変わるだろう。




◎ 2011年1月3日 (月) 「城」

カフカ 「城」 新潮文庫

p.63 『小旗を口にくわえて、あっさりと一度でよじ登ることができたのだ』
これは、おそらく「変身」でカフカが文学史上、実存主義初登頂したときのことを書いているのだろう。
初登頂は、世間に認めてもらって初めて、したと言えるのである。

p.217 『この自由、こうして待っていること、こうして誰からも干渉されずにいられること以上に無意味で絶望的なことがあるだろうかという気もするのだ』
普通の実存主義者ならば、こんな考え方はしない。
普通は、個人主体や理性について考える。
「変身」のあとがきを見ると、カフカの実存哲学が少し書いてあるから、彼はやはり実存主義者である。
しかし、『無意味で絶望的なこと』が、女への欲望を満たせないことであるというのは情けない。
なぜ、そう思うかというと、この小説の中心が女だからである。
実存主義者として、『無意味で絶望的なこと』についてのこの考え方の違いは決定的である。
少なくとも、俺はそんなものに絶望することは全くない。
おそらく、俺とカフカの間には、権力や社会や実存主義についての認識に大きな違いがあるのだろう。
10、20代であれば、カフカのような考え方が脳裏をかすめることもあるかもしれないが、30代ではちょっと考えられないように思う。
30代でこの有様だからこそ、カフカの置かれた状況が絶望的なのだろう。
ここまでの城は、社会(権力主義)の象徴だろう。

p.308 『自分がこの土地へやってきたのは、体面をつくろって安穏な生活をおくるためではなかったはずだ』
ここでの城は、実存主義の象徴だろう。

p.325 『とりわけ、ずっと下のほうからよじ登っていく場合〜なんでも利用しなくてはならない』
手段よりも結果を重視しているため、ここでの城は社会の象徴だろう。

p.368 『いろんな意見があれば、すくなくともそこからおのずとなにかしら手がかりになる点なり、一致点が生まれてくるにちがいありません』
カミュ著「異邦人」の解説に『カフカにとって宇宙はしるしに満ちている』とあるが、この『いろんな意見』が『宇宙のしるし』のことである。
「異邦人」の解説では、カミュの主人公とカフカの主人公は別物であると書いてあるが、それはカミュとカフカの着眼点が違うだけの話である。
ムルソーでは固定的道徳の無視を採り上げ、バルバナスでは言葉や概念を通さず直接的に宇宙を観察する姿勢を採り上げたのである。
だから、本当はムルソーにもバルバナスのようなところはあり、バルバナスにもムルソーのようなところがあるのだが、それはそれぞれの作家が主張したいことではなかったのでカットしたのである。
カミュは「シーシュポスの神話」で、不条理の哲学に宗教性(宇宙のしるし)は存在しないと書くが、実存主義者といえども自分の哲学のすべてをはっきり認識しているわけではない。
しかし、厳密には、宇宙のしるしは宗教ではない。なぜならば、個人的なものだからである。
宗教や法律は共同体としての行動規範だが、宇宙のしるしは個人としての行動規範という意味である。
もちろん、人間に行動規範は一つで良い。まして折り合いのつけようがなければ、なおさらである。
『いろんな意見』が『宇宙のしるし』であることから分かるように、クラムは人間ではなく、実存主義の神を人格化したものである。
すなわち、バラモン教のブラフマーや真言宗の大日如来みたいなものである。
測量技師Kとバルバナスがカフカの分身である。
キェルケゴールとカフカでは、権力の本質や性質についての認識に大きな差があるのだが、それはカフカが国家や世間による迫害を受けたことがないことに起因している。
実存主義者が、もし実存主義を究めようと欲するのであれば迫害は必要である。
キリストやソクラテスや中世の魔女やキェルケゴールや俺のように迫害を受けた者だけが、それらを真に理解できるのである。
30代まで実存主義を貫けば、必ず国家や世間が総がかりで襲ってくるはずである。
襲われない人間は、国家や世間になめられているのである。
しかし、実存主義の神がいたとしても、実存主義者が実存哲学を究めることは特に望まないだろう。
その人間にそれが必要かどうかは各自の運命が決めることである。
というのも、もし俺が迫害を経験しなかったとしても何も不都合を感じなかったはずだからである。
ここでの城は、実存主義の象徴だろう。

p.420 『ある一家が突然村八分にされてしまう』
実存主義に、集団を動かして一部の人間を仲間はずれにする権力は存在しないので、ここでの城は、社会の象徴だろう。

p.448 『もぐりになってしまうと、以後正規の使用人としてはけっして採用されないのです』
p.455 『だれひとり助けてくれる者がないなんて』
従者というのが実存主義者のことらしく、バルバナス(すなわちカフカ)は自分はもぐりの従者であると思っていて、正規の従者の誰も自分に真の実存哲学を教えてくれないと嘆いているわけである。
これは、ほとんど全ての実存主義者の嘆きであって、カフカ特有のものではない。
西洋の実存主義者は、キリスト教と戦わなければならないため、俺のような東洋人よりも国家や世間やキリスト教の圧迫が激しいのかもしれない。
しかし、実存主義者は、実存哲学を他人に教えるための支障は何もないはずであり、実際、俺はここに随分書いているつもりである。
しかし、すでに述べたように、実存哲学は自らの経験と思索によって固めていくものであり、具体的に他人に教えてもらったところで身につかないのである。
そのため、実存主義者が書いたことはその人間が持っている哲学が正解か間違いかの判断にしか使えないのである。
ここでの城は、実存主義の象徴だろう。

p.457 『バルナバスとしては〜あの眉唾ものの役人たちですらどれほど大きな権力と知識をもっているかがはっきりわかっているつもりでいたらしい』
この権力は、権力主義の権力のことではなく、理性が実存主義者につきつける要求のことである。
実存主義者の行動規範が理性であるために、当然そこには要求が感じられるのである。
西遊記の孫悟空が頭に付けているワッカが要求の象徴である。
つまり、孫悟空は実際には玄奘の呪文ではなく理性によって行動を制限されているのである。
ここでの城は、実存主義の象徴だろう。

p.509 『ねぇ、イェレミーアス、この人は、なにもかもみごとに論破してしまったのよ』
Kは、いつも論理的に話すのだが、多くの場合、論理に穴があって、論理になっていない。
しかも、誰もその穴について指摘しないため、おそらくK自身はそのことに気づいていないのである。
ただし、カフカがそのことに気づいていないとは思えず、わざとKは頭の悪い男に設定されているのだろう。

p.520 『言葉ひとつ、目くばせひとつ、信頼のしるしひとつだけでも、生涯にわたる血のにじむような努力によるより以上のことが達成できる』
なにかコツさえ掴めば、なにもかも上手くいくのだとカフカは言うのだが、とても実存主義者の言葉とは思えない。
カフカは、何度も婚約と破棄を繰り返すのだが、上手くやるコツを真剣に探していたのかもしれない。
何もかも分かっている実存主義者から見れば、夢物語である。
カフカは、キェルケゴールがレギーネ・オルセンとの婚約を破棄した理由が分かっていなかったらしい。

カミュ 「シーシュポスの神話」 新潮文庫

p.193 『「城」のかくれた意味』
城の秘密とは、小説の進行によって城の象徴が、実存主義になったり権力主義になったりと、コロコロ変化する事である。
これは、作者が意図的にしたことだろう。
つまり、完全な実存主義にも権力主義にもたどり着けない事を意味しているのである。

村は、社会の象徴ではなく、全くの架空世界である。
水野良著「ロードス島戦記」の世界観を使うなら、精霊界が実存主義、妖精界が村、物質界が社会といった関係になるだろう。
村の住人は全員、多少は理性を持っているのであり、現実には存在しないようなカフカの創造物である。
これは、実存主義者だけが創造できる美の世界である。

俺は、カミュの「シーシュポスの神話」だけを読んで勝手にカフカは、権力主義者になりたかった実存主義者だと思い込んでいたが、間違っていたようだ。
真相は、両者の妥協点を探して途方にくれていたか、完全な実存主義者になりたかったようである。

オルガの告白の後(p.467以降)、権力主義と実存主義については何も触れなくなった。
作者はそんなものにすっかり興味がなくなって、女の事ばかり書きたくなったようである。
その結果、それまでのテーマと食い違いが生じ、修正できなくなって投げ出したのだろう。
振り返ってみると、作者は実存主義はおまけで、女を中心に書きたかったようである。
女についても実存哲学についても浅はかな10〜20代の思想に感じられる。
うらやましくはないが、不思議な感じがする。
30代の実存主義者の男であれば、現実の女とは、カネ(金脈)とコネ(人脈)にしか全く興味を持たないものだと知っているはずである。
そのため、カネにもコネにも縁の無いはずの実存主義者の男には、女は無縁なのであり、興味を持つのは愚かしいことである。
カミュは「シーシュポスの神話」で、カフカは「城」において権力主義と実存主義との間に全く妥協点など存在しないことを知りながら、それを敢えて探すという贅沢をしていると書いている。
これを事実とするならば、女についても、自分には女は無縁だが、それでも敢えて女を書くという贅沢をしていたのかもしれない。
しかし、俺は敢えてカミュの説を否定しよう。
というのも、確かにカミュの説では表向きはカフカの名誉を重んじているようだが、実質的にはカフカは読者を混乱に陥れようとしていることになり、大悪人となってしまうからである。
俺は、カフカは10〜20代の思想の持ち主であったと考える。
しかし、俺の説が正しいとすると、カフカが実存主義者ではない可能性も浮上する。
実存主義者が、権力と実存間の妥協の線を探るという可能性はないからである。
しかし、カフカの思想はまぎれもなく実存主義者のものではあるために、この疑惑はどうでも良いことである。




◎ 2011年1月7日 (金) 世界の紛争

アフガニスタンの多国籍軍とタリバンの戦争で、2001年から2010年10月までの累計で2170人の死者が多国籍軍から出たそうである。
タリバン側の死者数は、載っていなかったが、因みにロシアとチェチェンの戦争では、1000人のロシア兵に対し60000人のチェチェン市民が死んだという話もあるらしい。
去年は、多国籍軍は毎日2人死んでいた計算になるそうで、毎日戦争で死んでいる人がいるのに、我々日本人は完全に他人事である。
確かに、どうしようもないが、国内常識で考えるならば、過去に森総理や村山総理が、事故や震災での対応で世間から責められたように、日本全体の経済活動を停止して世界の紛争について注視かつ、問題の本質について考えるべきだろう。
もし、森総理や村山総理の態度が間違っていたのであれば、当然、我々日本人全員が全く同様に間違った態度を現在とっているのである。
もし我々が、何事もなかったかのように今のような経済活動を続けるのであれば、森総理や村山総理を日本国民は責めるわけにはいかないだろう。
我々日本人は、他人の葬式の前でパーティをしているようなものである。
ユーゴスラビアは、現在静かになっているが、いずれ必ず再開することになるだろう。
ロシアもチェチェンの独立派とイスラム圏のテロリストを全滅させたらしいが、武力で押さえつけられた民族が納得できるはずもない。
中国にもウイグルやチベット問題がある。
アフリカにも民族紛争はあり、飢餓の一因になっている。
イスラエル・パレスチナ問題もある。
世界のテロや紛争は多種多様であり、決してイスラム圏だけではない。
いずれ、日本国民は、世界大戦争という形で、このつけを支払わされることになるだろう。
俺は、全ての原因は、人間が社会に依存しているためだと考える。
根拠は、はっきりしている。人間には理性が皆無だからである。
理性のない人間に、まともな社会生活が送れるわけがない。
国家や地域社会が消滅しない限り、テロも紛争も飢餓もなくならないだろう。
国家や地域社会が消滅すれば企業も消滅することになるが、テロや紛争や飢餓を消滅させるためにはやむをえない。
国家や地域社会を存在させたまま、平和を維持することは不可能である。
そんなことは、普段の生活で気付かないだろうか。
現在、人間に必要なのは理性であり、そのためには国家や地域社会は存在してはならないのである。
日本が多国籍軍の側にいるのは、恥ずべきことだろう。
先ずは、日本が日本国を消滅して世界に範を示すべきである。




◎ 2011年1月7日 (金) パリ・コミューンとアナルコ・サンディカリスム

パリ‐コミューン・・・(Commune de Parisフランス) 1871年3月18日〜5月28日の72日間にわたり、パリに樹立された自主管理政権。独仏戦争にフランスが敗れた際、パリで小市民・労働者による国民軍が結成され、臨時政府・議会に対抗して組織した政府。敵国プロイセンの支援を受けた政府軍の攻撃により「血の1週間」の闘争後壊滅。マルクスが「フランスの内乱」で高く評価。

アナルコ‐サンディカリスム【anarcho syndicalismeフランス】・・・すべての政治権力を排除し労働組合の指導による社会を想定する主義。1920年代を中心にスペイン・フランス・イタリアなどで隆盛。日本では大杉栄らが主唱、大正時代の労働運動の組織をめぐってボリシェヴィズムとの間にアナ‐ボル論争を展開。

パリ・コミューンは、フランスがプロイセンに戦争に負けたことに不服のあったパリ市民が、フランスから独立して作った社会主義社会らしい。
動機からすると別に社会主義でなくとも良かったはずである。
察するに、パリ市民の母国政府への反感を利用してパリ在住の社会主義者達が企てたのではないか?
アナルコ・サンディカリスムは、パリ・コミューンとは直接、関係はないらしいのだが、おそらく最終的にはパリ・コミューンのような形態を想定しているのではないだろうか?
だとすれば、パリ・コミューンとアナルコ・サンディカリスムは、およそ同じものであると考えて良いわけである。
パリ・コミューンは、理論が全く存在しない状態で、全くの偶然で出現したアナルコ・サンディカリスムである。
パリ・コミューンは、最終的にはプロイセンが後押ししたフランス軍によって、3万人の死者を出して攻め滅ぼされることになった。
偶然とはいえ、パリ・コミューンは国家を否定した無政府主義社会である。
そのため、攻め滅ぼされたのは、世界中の権力主義者達から、すさまじい憎悪を受けた結果だろう。
特に、メーストルのような反実存主義者からは、殊更に憎悪されたことだろう。
彼ら権力主義者にとっての社会(国家や地域社会)は、既に述べたように麻薬中毒者にとっての麻薬と同じ物だからである。
さて、パリ・コミューンは必然的理由によって72日間しか持たなかったが、もし運よくその後何年も継続できたらどうなっていただろうか?
無政府主義社会は、その社会の全ての構成員が実存主義者の場合にのみ成立できるのである。
もし、あのまま何十年も続いていたら、内部で派閥が発生し、収賄、独占、人権侵害などが深刻になったと予想できる。
重要なことは、社会構造の構築ではなく、実存主義者になることなのである。
社会の構成員の全てが実存主義者になれば、誰も社会を必要としなくなるため、社会は自然消滅することになるだろう。

マルクスとバクーニンは、国家的社会主義と無政府主義的社会主義で意見が対立していたと俺は捉えているが、パリ・コミューンはバクーニンの方だろう。
マルクスがパリ・コミューンを称賛したというのは、何を意味するのだろうか。
「革命か反抗か」p.57で、カミュが、『第一インターナショナルと、スペインとフランスの全国労働同盟の大衆のなかに、いまも生きているバクーニン主義的活動』『革命的組合主義』としているのが、アナルコ‐サンディカリスムのことだろう。




◎ 2011年1月8日 (土) 赤ちゃんポスト

赤ちゃんポストを利用する人がいるとは思えない。
もし、ポストの周辺で警察官や物好きな周辺の人が監視していたり、監視カメラがあって住所や名前を知られたら、逆に追い詰められる事になるからである。
指紋やDNAを採取されたら、逃げ場がない。
その可能性が存在する以上、利用者はいないだろう。
仮に法的な拘束権がないにしても、弱みであるには違いない。
この世に他人の弱みを握ろうとしない人間はいない。
根本的に企画倒れである。




◎ 2011年1月8日 (土) 世界大戦争は近い

ロシアがチェチェンを全滅させたように、多国籍軍もタリバンを全滅させるつもりらしい。
全てが権力によって制圧される時代に突入した。
今まで、権力による制圧が表面化することはなかったが、これは社会の真実である。
ついにそれが表面化した以上、もはやこれまでのように隠すこともできず、ひたすら世界秩序は破壊されるのみである。
テロは必ずしも無駄な行為とはいえない。
なぜならば、日本の歴史においても、二二六事件や五一五事件において軍部は権力を拡大した事実がある。
自衛隊は、その気になれば、いつでも政党政治を廃して軍事政権を樹立できる。
もはや、日本国内だけではなく世界においても権力だけの時代になった以上、第三次世界大戦は間近であると考えて良いだろう。
世界中の全ての人々は、戦死することを覚悟すべきだろう。




◎ 2011年1月12日 (水) 戦争の大義名分・原因

チェチェン紛争・・・ソ連共産主義崩壊に伴う独立
ウイグル自治区・・・独立
チベット・・・内政の不干渉(外交は中国に任せる)
イラク戦争・・・大量破壊兵器の保持疑惑とフセイン独裁からのイラク国民の解放
ベトナム戦争・・・ドミノ理論(出典:司馬遼太郎「人間の集団について」)
湾岸戦争・・・イラクのクェート侵攻
アフガニスタン戦争・・・2001年のアメリカの貿易センタービルへのテロの主犯と思われるアルカイダの身柄引き渡し
イスラエル・パレスチナ紛争・・・第二次世界大戦のどさくさでイスラエルが建国されたことにまつわるいざこざ。イスラエルは数千年前の祖先が住んでいた土地と主張。パレスチナは乗っ取られたと主張。
旧ユーゴスラビア紛争・・・東欧共産主義崩壊に伴う独立

イラク戦争の独裁からの解放は、アメリカのポル・ポト政権の容認から分かるように嘘である。
大量破壊兵器もなかった。
アフガン戦争は、タリバンがアルカイダをかくまっているという確証もないままに、9年以上に及ぶ戦争となっている。
多国籍軍の死者数も最低でも2000人を超えている。アフガン側の死者数は未知数である。
チェチェン紛争がそうだったように、死者数は戦争が完全に終わった後にしか公表されることはない。
この大きな戦争の原因が、たった一つのテロとは思えないほどである。
イラク戦争は、アフガン戦争のついでみたいにして行われた。(アメリカ軍がアフガン空爆後、すぐにイラク空爆を開始したのを見て驚いたのは俺だけではないはずである)
つまり、最初からアメリカは、アフガン戦争をキリスト教によるイスラム教撲滅のために起こしたのである。
アフガン、イランの両戦争は、十字軍の遠征であって、テロ撲滅とは何ら関係のない戦争なのである。

しかし、戦争に理由を求めるのは世界中で、ごくわずかの人々に過ぎない。
結局、大きな権力を持ちさえすれば、理由など何もなくても世界中のほとんどの人間がその行為を認めてしまうからである。
人類のほとんどが権力主義者だから致し方ない現状である。
国家や地域社会が存在するということは、こういうことである。

日本は、アメリカや多国籍軍に対し、遺憾の意を表し、断固反対の立場をとるべきである。
それにより、日米安保条約が取り消され、戦争になっても致し方ない。
安保条約がなくなれば、沖縄の米軍基地も移転することなく消滅できる。
こんな理不尽な戦争は、止めさせるべきである。
現代日本人は、忠臣蔵の二の舞を踏むわけにはいかない。
大石内蔵助は、幕府に楯突くことができなかったが、現代日本人は、アメリカに楯突くことができることを示さなくてはならない。