◎ 2010年12月5日 (日) 老子の道徳と孔子の道徳の違い
「2009年6月5日 (金) 神の存在」
『道教の道が状況次第で千変万化するのに対し、儒教の道は状況いかんによらず不変なので似ているようで別物である』
「2010年11月8日 (月) 実存と集団について」
『実存主義者の哲学(道徳)は、殺人、盗難、自殺、暴力などの行為そのものを否定はしない』
これまで以上の違いを書いたが、もう一つ付け足すと、老子の道徳は誰も守らなくて自分一人だけ守っていても腹が立たないが、孔子の道徳は誰も守らずに自分一人だけが守っていると腹が立つという点である。
つまり、根本的に老子の道徳と孔子の道徳は別物である。
孔子の道徳は、多くの人間が守るからこそ意味があるのであって、世界中の人間が守らずに数人だけが守っていても意味が無いのである。
ところが、老子の道徳は、そもそも世界中の人間に守らせるために作ったものではなく、いかにして人間(自分)は生きていくと良いのかという個人的問題の結論だからである。
一般的な意味での道徳が、人間関係における摩擦を抑えるために全人類が守らなくてはならないものという定義であるならば、老子の道徳は、道徳ではなく、個人哲学と呼ぶ方がふさわしいのである。
つまり、実存主義者には道徳がないことになる。
もちろん、必要ないからないのである。
◎ 2010年12月5日 (日) 芸術家とペンキ塗り屋
ペンキ塗り屋の仕事は、物の色を塗り替えることで客を楽しい気分にさせてあげることである。
芸術家の仕事が客を楽しい気分にさせてあげることであるならば、ペンキ塗り屋も芸術家と呼んであげるべきである。
俺は、芸術家はペンキ塗り屋以上の存在でなければならないとは思っていない。
ペンキ塗り屋を芸術家と認めるべきだと思っているのである。
あんま師や清掃業者も芸術家である。
「2010年11月18日 (木) 哲学と実存哲学の違い」で、実存主義者にとって言葉や概念は重要ではないと書いたが、芸術家という言葉にこれほどこだわるようでは、実存主義者にとっても言葉は重要らしい。
自分でも理由は分からないが、自分が騙されているような気がするせいかもしれない(実際、騙されているのだろう)。
芸術家という語だけではなく、言葉や概念が実体と一致していないのが気になるのである。
つまり、実存主義者が言葉や概念にこだわる場合は、その言葉や概念が現象と食い違っているかどうかという場合に限定される。
それでも、実存主義者は権力主義者ほどには実生活において言葉や概念の影響は受けないはずである。
そもそも、会話はお互いの言葉や概念が一致していないと成立しないのであるから、言葉や概念に虚偽があるならば会話も根本的に間違ったものになる。
会話が全くできないのも不便ということもあるかもしれない。
ただし、現実には嘘を相手に教えるのが会話ともいえるし(そのために国語辞典がある)、会話は(意思伝達の一つの手段であるというように)明確に定義できるものではない。
◎ 2010年12月6日 (月) 権力主義者の心理
ドストエフスキー 「悪霊 (上)」 新潮文庫
p.82 『あのとき町じゅうの者が総がかりでこの「暴れ者、都育ちの決闘狂」にくってかかったあのすさまじい憎悪の爆発である』
現代用語の基礎知識2002 自由国民社
p.1168 『重層信仰・・・日本では同一の人間が、同時に仏教寺院の檀家であり、神社の氏子であり、なおかつ新宗教の信者である、といったようなことも少なくない。』
漫画か何かで「大衆は不思議なものですよ、国家による束縛だけでは飽き足らず、宗教に入ってまで自分らの自由を無くそうとしているんですから」というようなセリフもあった。
権力主義者は、既に自分の心も命も権力に預けているのである。
そのため、権力の性質が存在しない場所では生きることができないのである。
つまり、属する集団が一つであろうが百であろうが、既に限界まで自由を失っているのである。
そのため、複数の集団に所属することで、何かの事情でどれかから外れるようなことになっても大丈夫なように保険をかけているのかもしれない。
あるいは、複数の集団に所属することで、より大きな権力を手に入れられるのかもしれない。
何にしても権力主義者にとって、宗教はただの集団に過ぎない。
それを考慮すると、ニヒリスト(社会規範は権力主義で貫かれているためにそれを否定する実存主義はニヒリズムでもある)のニコライやキリストが、大衆から異常なほどの憎悪を受けるのは至極当然といえるだろう。
ニヒリストは、世界最大の集団の存在を危険にさらしているからである。
◎ 2010年12月7日 (火) 悪霊 (2)
ドストエフスキー 「悪霊 (上)」 新潮文庫
p.52 『シャートフは〜ある力強い思想に打たれると、たちまちその思想に圧倒されて、ある場合には永遠にその影響を抜け出せなくなる、そういった類いの純粋なロシア人の一人であった。こういう連中は、思想を自分なりに消化するということがけっしてできず、ただやみくもにそれを信じこんでしまうので〜』
ここではシャートフは、少々頭の悪いタイプに設定されているが、実際はそのような扱いをされていない。
p.79 『ニコライが、ふいにガガーノフ氏のそばへつかつかと歩み寄って、思いがけず、しかし力まかせに、日本の指で彼の鼻をつまみあげ、そのまま広間の中を二、三歩引きまわした。〜「いささかの後悔の色も見せなかった」』
p.91 『町の医師は三人が三人とも、その三日前にすでに病人が精神錯乱の状態にありえたこと、一見、意識も狡知ももっているように見えはしたが、すでに判断力も意志も健全ではなかったこと、そのことは事実によっても裏づけられているという意見を出した。』
p.93 『きみはほんとうにぼくのことを、完全に正気でも人にとびかかっていける人間だと思っているんですね?』
ニコライは、正気で常識はずれなことができる人間と設定されている。
しかし、実際は精神錯乱状態だったとし、断言を避けている。
つまり、作者は実存主義者はそんな人間だと思っているが、実際には現場を見たことが無いのである。
p.190 『あの男にはかなわん、賢しき蛇だ』
ニコライは、旧約聖書の蛇、「ファウスト」のメフィストフェレスと言われる。
ただし、第一部第五章の見出しはピョートルのことだろう。
マリヤのびっこも同じ意味だろう。
それならば、シャートフもキリーロフもリプーチンもレビャートキンも皆そうである。
p.195 『700ルーブリの件にまきこまれ〜貞淑このうえない娘さんを辱めたり、ひとの細君を寝取ったり』
p.198 『彼はさっそく娘の純潔を疑ってかかったのだった』
p.457 『ダーリヤさんに関するばかげた中傷を真に受けたわけでもないですね?』
p.194 『レビャートキナ嬢〜彼女こそわが殿下の情欲の犠牲ではあるまいか』
p.467 『マリヤは処女ですからね』
真相は分からないが、ニコライには悪いうわさが数多くある。
これらもニコライに善悪の区別がないとする複線である。
p.216 『自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです』
p.217 『苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる』
p.217 『神は死の恐怖の痛みです』
このあたりは、実存主義者の意見である。
『自由』とは個人主体のことである。
『あの神』と『死の恐怖の痛み』は権力(またはその迫害)のことである。
つまり権力を恐れなくなったとき、実存主義者になれるという意味であろう。
個人主体なしでは生きる意義は無いと言い換えることもできる。
p.323 『ニコライの敵〜その男と話してみて、わたしにはすぐ匿名の手紙のけがらわしい出所の見当がついたの』
『その男』はリプーチンで、『出所』はレビャートキンである。
p.340 『このはけ口におるときにですな、奥さん、このレビャートキンが韻文調の世にもすばらしい手紙を書き送る〜中傷家どもに利用される』
p.341 『陰険な狼がひっきりなしに酒を注いで、いまや遅しと結末を待ちかまえながら見張っていても〜口をすべらしやしません』
p.341 『あなたのこの豪華なお邸はですね、もしかしたら、もっとも高潔なる人間の持ち物になるかもしれんのですよ』
『中傷家ども』と『陰険な狼』はリプーチンのことで、『もっとも高潔なる人間』はレビャートキンのことである。
p.380 『でもあなたはご存知でしょう、ぼくがわざわざ知らせを受けたことは。』
p.385 『ニコライ、おまえもさっき、わざわざ知らされたとお言いだったねえ』
ステパンは、ニコライにもニコライの不始末で自分がダーリヤと結婚させられるはめになったと手紙を送ったらしい。
p.404 『カルマジーノフ氏がこのニヒリスト(訳注 伝統や権威を否定した六〇年代ロシアの思想運動者)を招待』
『カルマジーノフ氏』はツルゲーネフがモデルらしい(p.107の訳注参照)が、ツルゲーネフは「父と子」でニヒリスト批判していたはずでは?
別の国語辞典では、ツルゲーネフはニヒリズム作家になっている。
『このニヒリスト』は、ピョートルのことであるが、伝統や権威を否定しているのはニコライも同じである。
p.359 『彼が自分を《略奪》してくれないのは』
p.415 『シャートフの細君をだしに使ったんですよ』
マリヤのことを話しているふりをしてシャートフの妻のことを話していたようである。
シャートフを怒らせるためである。
p.326 『燕尾服とシャツは、(後に知ったことだが)リプーチンの差し金で、ある秘密な目的のために用意されていたものだった』
p.332 『やはりリプーチンの書いた筋書きだったのだろう』
p.408 『彼らは狡猾ですね、日曜日にはしめし合わせていたんだ』
彼らというのは、ピョートルとリプーチンとレビャートキンで、後で分かるがレビャートキンは組織の目的を知らないただの使い走りである。
p.419 『外国で檄文を発行していた賢人』
p.421 『きみにあのからくりを気づいてもらおうために、わざとああやったんですよ』
p.422 『イエスと言いたければイエス、ノーと言いたければノーと言っていただく。』
p.429 『ガガーノフはきみにかんかんですね。〜ぼくはすぐさま真相を洗いざらい〜ぶつけてやったんです。』
p.433 『懲役人のフェージカ〜なんでもやってのける男〜リザヴェータの件』
つまり、ピョートルやリプーチン、ヴィルキンスキーなどが参加している組織は、外国で非合法な活動を行っており、その件で、何らかの要求をニコライに突きつけているのである。
日曜日の猿芝居は、ニコライを脅迫するためだけに行われたのである。
脅迫されている当人が脅迫されていることに気づけなかったら脅迫にならないから、わざと気づかせたのである。
後で分かることだが、シャートフはその組織に命を狙われており、ピョートルがシャートフを怒らせたのは、ニコライを脅迫すると同時に、ニコライがシャートフを殺してくれたら一挙両得であると考えたからである。
また、そうなると、ますますニコライを窮地に追い込むことができるため、一挙三得である。
ニコライがシャートフを殴り返さなかったのは、ピョートルの陰謀に気づいたからである。
気づかなかったら殴り返していただろう。
ガガーノフは後で、ニコライと決闘することになるが、ピョートルがそのお膳立てをしたのである。
『リザヴェータ』の件というのは、ニコライがリザヴェータと本気で結婚するつもりでいるならという意味である。
もし、ニコライがリザヴェータと結婚するなら、フェージカに命じて邪魔になるレビャートキン兄弟と既婚の秘密を知っているキリーロフを始末してあげますよという意味である。
ニコライも所詮ただの人間である。親の財産が惜しくなって親の言いなりになっても不思議はないとピョートルは踏んだわけである。
ピョートルは、ニコライを脅迫するだけでなく、要求を飲んでくれるなら役にも立ってみせると言っているわけである。
p.448 『かりにきみが月に住んでいたと仮定してみる〜そしてそこで、滑稽で醜悪な悪事のかぎりをつくしてきたとする・・・きみはここにいても、月ではきみの名前がもの笑いの種にされ、千年もの間、いや永久に、月のあるかぎりきみの名前に唾を吐きかけられるだろうことを確実に知っているわけです』
これは、ドストエフスキーが自虐しているのである。
ドストエフスキーは、ある実存主義者の哲学をすっかり盗んで、この「悪霊」で、それがさも自分の考えたことであるかのように書いた。
しかし、俺のようにいつかは、そのことに気づく人間が現れることが、ドストエフスキーには予測ができた。
文学作家にとって盗作は、おそらく最も恥ずべき行為である。
なぜならば、後世に残るような優れた文学は娯楽小説とは違って哲学だからである。
他人の受け売りでは、いつかは誰かにばれるし、哲学は一部の人々にとっては精神医学あるいは社会も同様であり、それらの真面目に取り組む人々に対する侮辱や妨げにもなるからである。
そもそも、真に優れた文学や哲学で金儲けをすること自体がけしからん話であり、カフカや宮沢賢治にしても生前は全く本が売れなかったのである。
ドストエフスキーの著作は全て真の文学を目指そうとしていたのが、そのモチーフからはっきりしているため、思想の盗作が恥ずべき行為となるのである。
そのことをここに書いているのである。
実存主義者でないのに世界中から実存主義の第一人者のように扱われているサルトルに似てはいないだろうか。
ドストエフスキーにしてもサルトルにしても名前が売れすぎて、そこから降りられなくなったのかもしれない。
しかし、実存主義者の哲学を研究した社会依存思想の人間が、実存哲学をどのように解釈するのかが分かった。
それは、つまり、キリストやソクラテスの弟子達が、師をどのように見ていたのかが判明したことを意味する。
その意味で、「悪霊」やディックの作品は、十分、意義がある。
p.447 『それはぼくの決めることじゃない、ご存知でしょう。言われたときです。』
このあたりの文章は、盗作した人間とされた人間にしか分からない暗号文になっている。
もし、ドストエフスキーが哲学を盗んだ当人から、「この盗人!」と言われたら、俺は死ぬぞと言っているのである。
これは、ある意味で脅迫である。ただし、自分が死んだ後なら話は別だ、世界中から千年でも軽蔑される覚悟はできているという意味だろう。
これでは盗作されても本人が存命中は、うかうか指摘するわけにもいかない。
しかし、実存主義者は、必要と感じたら、死ぬぞと脅されても指摘するのである。
ドストエフスキーが指摘されなかったのは、その必要がないとその実存主義者が判断したためである。
第二の彼が現れるまでの間、世界中がドストエフスキーに騙され続けてもかまわないと、この実存主義者は判断したが、俺はそういうわけにはいかない。
なぜならば、実存主義についてこれまでの誰よりも徹底的に解説したからである。
この大きな不正に目をつぶっては、世界中のそして未来の大勢の人間が芥川や太宰などのような地獄を見るかもしれないからである。
もし俺が盗作された実存主義者と同じ立場であればおそらく黙っていただろう。
逆に、彼が俺の立場であれば、全く迷うことなく指摘しただろう。
実存主義者は、その時の状況しだいで判断が異なる。
また、決して世界全体に対する不正が個人の命よりも重要であるとは考えない。
また、やつは悪いことをやったのだから当然の報いだなどという短絡的な結論も出さない。
ただし、命をそれだけ重視しているかといえばそうではなく、比較の問題である。
p.475 『正教徒でないものはロシア人たりえない』
「人間の定義は、社会に依存する生物である」と同じ意味である。
p.476 『カトリックは、地上の王国なしにはキリストもこの地上に存立しえないと全世界に宣言することによって、反キリストの旗をかかげ、ひいては西欧世界全体を滅ぼしたのだ』
これは、既に述べた実存主義者の意見である。
ルイ16世を犠牲者としたメーストルも全く同じ意見を持っていたはずである。
ただし、権力に負けたメーストルは、これを必要なこととする。
p.476 『昔の自分の思想』
p.480 『自身の神によって他のすべての神を征服し、世界から追放できると信じているかぎりにおいてのみ、国民なのです』
p.483 『ぼくはロシアを信じてます、その正教を信じてます・・・ぼくはキリストの肉体を信じてます・・・ぼくは新しい降臨がロシアで行われると信じてます』
p.458 『「だからなぐった?」〜「ぼくは、あなたの堕落に対して・・・虚偽に対して』
p.489 『あなたが善悪のけじめを失ったのは、自国の民衆を理解することをやめたからです。』
p.489 『労働によって神を手に入れるのです』
p.532 『おまえはシャートゥシカに(ああ、かわいらしい、なつかしい人!)頬っぺたをなぐられたじゃないか』
p.532 『わたしの鷹は、どんな上流のお嬢さんの前だって、わたしのことを恥ずかしがったりするはずがない!』
p.562 『神さまがあなたを悪魔からお救いくださいますように』
シャートフとマリヤとダーリヤは、ドストエフスキーの代弁者である。
ここが、「悪霊」のモチーフである。
キリスト教はイエス・キリストの教えを悪としていると実存主義者は考える。
この点は、ドストエフスキーも認める。
しかし、「2010年12月5日 (日) 老子の道徳と孔子の道徳の違い」に書いたように実存主義者に道徳(善悪のけじめ)がないことを彼は全面的に非難する。
ドストエフスキーは、老子の道徳が全く理解できないために、人間には固定的道徳が必要であり、イエス・キリストの教えを新たな固定的道徳にし、現在のキリスト教を改革し、新生キリスト教として世界中の人間をキリスト教信者にしなければならないと主張するのである。
これが、ドストエフスキーが出した結論である。
ドストエフスキー達は、部分的に実存主義を取り入れ、それを固定的道徳に置き換えようとしたのである。
しかし、イエス・キリストの教えは、本当は固定的道徳に置き換えることはできないのである。
キリストは、それを無理に実行して失敗したのである。
ディックの場合は、キリストとキリスト教が別物であることにすら気づいていない。
ドストエフスキーとディックは何も分かっていない。
下巻はスタヴローギンの告白以外はまだ読んでいないが、上巻だけで結論は出ているのである。
◎ 2010年12月8日 (水) これらの文章の意図
これまでの文章は、実存主義者が権力主義者と戦うための武器とするためではない。
もし、実存主義と権力主義が戦うとしたら勢力争いにしかならないので、それは布教活動になるからである。
では、抵抗するためかとなるとそうでもない。
これらの文章は、より完全な実存主義者になるような内容しか書いていないため、現在の中途半端な立場を維持することは不可能である。
実存主義者になれば、どんなに論理で抵抗しても例の実存主義の宿命は避けられない。
実存主義者に固定的道徳がないと書きながら、それが必要でない理由を直接的に書かなかったが、書けないわけではない。
簡単すぎるから書かなかったのである。
その例については、第二次世界大戦の竹槍や武士の切腹などを書いた。
考えれば他にも色々あるだろうが、それらから類推すれば良い。
先にも書いたように実存主義者の武器とするためにこれらを書いたわけではないので、簡単なことは読者が勝手に考えれば良い。
論理は別として、現実として俺は今まで刑務所に入れられたことは無い。
おそらく、統計をとっても犯罪者は権力主義者の方が圧倒的に多いだろう。
◎ 2010年12月10日 (金) ユダヤ人の思想と生活
加瀬英明 「ユダヤの力(パワー)」 知的生きかた文庫
この本は数年前に読んだだけで、内容はうろ覚えなのだが、ユダヤ人というのはタルムードという戒律を守って生きている人種らしい。
このタルムードには、ユダヤ人同士でのカネの貸し借りで利子を取ってはならないと書かれているから、ユダヤ人同士では利子は取らないが他の民族に貸す場合は利子を取る。
自国を持たない中世のユダヤ人は、色々な国に散り散りになって住むことになったが、彼らはタルムードに縛られているから、生活様式で他民族と衝突を起こす。
そのため、ゲットーと呼ばれる自治区を作り、その中で生活するようになった。
人数が増えても自治区の領地拡大は許してもらえなかったため、かなり人口密度が高かったらしい。
権力には、同じ組織の人間には優しいが外部の人間には厳しいという性質がある。
ユダヤ人は、この性質が著しいのが分かる。
戒律は、固定的道徳であるし、ただし、タルムードはあれをするなこれをするなというよりは、一休さんや吉四六さんみたいな内容らしい。
そもそも、旧約聖書でモーゼが十戒を作った時点で、ユダヤ人は権力主義者である。
キェルケゴールやカフカなどのユダヤ人の実存哲学者は、このような権力主義のユダヤ人が間違っていると非難したのである。
しかし、カフカの場合は本当は実存主義者になどなりたくなかったのだ、むしろ普通のユダヤ人になりたいのだと小説で書いている。
ユダヤ人は、国家がなくてもタルムードを中心とする思想の結束において消滅せずに済んだ。
だから、キリスト教徒もキリスト教の教義において結束するならば、国家に寿命があっても権力集団を維持したままでいられる、つまり社会秩序を維持することができる。
だから、宗教において結束している集団は、いかなる状況においても大丈夫なのだと主張する人がいる。
このような人は、俺が「2010年12月6日 (月) 権力主義者の心理」で書いた内容が正しいことを裏づけしてくれる。
しかし、こんな陳腐な発想は誰でも子供でもできるものであり、そんなのが通用するくらいなら世界には何の問題も存在しないだろう。
こんな連中は、絶滅してしまえば良いと思うのだが、どんなつまらない人間でも目の前で落とし穴に落ちそうになっているのを見かけたら、一声かけてやるのが人情である。
そのため、再考を促すためにこんなことを書いてみたのである。
果たして、イスラエル人(つまりユダヤ人)が今、何の問題も無く平和で安心のできる人生を送っているだろうか?
彼らの未来は、本当に絶滅の恐れが無いのだろうか?
国家と同様にキリスト教が消滅霧散する可能性は存在しないのだろうか?
説得するつもりはないのだ。人情として一声かけただけである。
◎ 2010年12月15日 (水) 悪霊 (3)
ドストエフスキー 「悪霊 (下)」 新潮文庫
一応、下巻も読んでみたが、「2010年12月7日 (火) 悪霊 (2)」に書いたように、やっぱり下巻は蛇足だった。
ドストエフスキーは、上巻でテーマの全てを書ききっていた。
「悪霊は」、難しいことは何も書いていない。
下巻については何も書くことはないのだが、敢えて多少記憶に残ったことを書くとしよう。
悪霊が豚に乗り移って溺れ死んだという聖書の1節が、この小説のオチである。
つまり、自殺したり自滅したりした登場人物が、作者の言う悪霊なのである。
たくさん人が死ぬのだが、ニコライやキリーロフも作者にとっては取るに足りないそれらの悪霊の一人にすぎない。
上巻はニコライとピョートルが主役だったが、下巻の主役はステパンである。
ステパンは、この下巻においてその性格がはっきりする。
ステパンの人格設定は、愛だけであらゆる問題を強行突破する、すなわち感傷主義者である。
芥川龍之介の「山鴫」に出てくるツルゲーネフが俺にとってはもろにこのタイプである。
国語辞典のツルゲーネフは、アナーキストだったり反アナーキストだったりするが、「山鴫」のツルゲーネフは感傷主義者である。
ステパンは、自由主義者で感傷主義者で反革命主義者である。
自由主義はアナーキズムといえるし、反革命主義は反暴力的アナーキズムといえ、反革命主義である理由が感傷主義であるとするならば、ステパンはツルゲーネフであると考えることもできる。
そう考えると、アナーキストで反アナーキストで感傷主義者であったとしても矛盾はしないことになる。
ただし、ステパンは権力の性質について全く意見を持たないので愛だけで押し切ろうとするが、権力に心も命も明渡している大衆を彼の思想に導くのは無理だろう。
p.595 『汝は冷ややかにもあらず熱きにもあらず、われはむしろ汝が冷ややかならんか、熱からんかを願う!かく熱きにもあらず、冷ややかにもあらず、ただ微温(ぬる)きがゆえに、われ汝をわが口より吐き出さん。汝、われは富めり、豊かなり、乏しきところなしと言ひて、己が悩める者、憐れむべき者、貧しき者、盲目なる者、裸なる者たるを知らざれば』
分かりやすく書くと、弱者に対し無関心であるよりは彼らに対し冷酷な方がましであるという意味になる。
しかし、単に無関心を責めるのであれば、ぬるくてもぬるくなくても、また、何かと比較しなくてもかまわないはずである。
俺が思うに、『ぬるい』というのは、前にも書いたように実存主義者でも権力主義者でもない人々をさすのであり、その後の無関心を責めるところは別の人間が勝手な解釈を後から付け加えたのではないか。
あるいは、弱者に対する無関心を責めているのではなく、実存主義や権力主義や社会が完全な権力主義であることや権力の性質などを知らないでいることを責めているのである。
そのように考えなくては、この聖書の一節は辻褄が合わない。
「スタヴローギンの告白」だが、チホンをシャートフやマリヤやダーリヤと同様にドストエフスキーの代弁者にすぎないと思えば、全て上巻に書いたとおりである。
マトリョーシャという少女は、直接的にはこの話には関係ない。
この少女は、ドストエフスキー自身である。
その場合にスタヴローギンが象徴するのは実存主義者である。
つまり、この少女のエピソードは、ドストエフスキーがある実存主義者に実存主義が何かを教えられて精神的に酷い目にあったと告白しているのである。
つまり、ドストエフスキーは危うくキリスト教徒から無神論者になりかけたのである。
キリスト教の教義では、また旧約聖書においては、またゲーテなどの何人かの作家が改善する前の伝承の「ファウスト」においては、蛇はメフィストフェレスであり実存主義者であった。
その蛇にそそのかされた恐怖をドストエフスキーは実体験を元にこの「スタヴローギンの告白」に記したのだろう。
スタヴローギンとキリーロフは本来一人の人間である。
思想がなく行動だけのスタヴローギンと行動がなく思想だけのキリーロフの秘密はそこにある。
作者が一人の実存主義者を行動と思想で別々の登場人物を作り上げたから彼らは不自然な存在なのである。
キリーロフの言葉はそのままスタヴローギンの言葉だと思えばよい。
ドストエフスキーは、スタヴローギンもキリーロフも全く理解できなかった。
そのため、「悪霊」における彼らの扱いは、極めてぞんざいなのである。
「シーシュポスの神話」でカミュはキリーロフはドストエフスキー自身だというが、そんなことは全くない。
スタヴローギンやキリーロフは本来、自殺する理由がない。
キリーロフは、我意を貫くために自殺すると言うが、我意を貫くためならわざわざ自殺する必要がない。
これは、単なる言葉のあやである。
キリーロフにとって神とは、恐怖のことだとある。
つまり、この神とは国家や世間などの巨大権力に対する恐怖のことである。
国家や世間に打ち勝つために自殺するなど間抜けな話である。
そして、なぜ国家や世間にキリーロフは自殺してまで勝たねばならないかというと、それによって個人でも国家や世間に勝てるという事実を社会全体に証明することによって後世の実存主義者が国家や世間をはばかることなく、気楽に生きられるようにするためだという。
その捨石になるためにキリーロフは自殺すると意気込むのだが、キリーロフは一度社会が実存主義を受け入れたらもうそれで問題は解決すると勘違いしている。
キリーロフは、権力の性質を何も理解していない。
つまり、ドストエフスキーというフィルターを通したキリーロフは全くの不完全である。
あらゆる実存主義者はどんな時代であっても誰がどんな犠牲を払っても、実存主義の宿命は背負わなくてはならない。
だからこそ宿命と呼ぶのである。
スタヴローギンやキリーロフが死んだ理由は、かれらが悪霊で悪霊は自殺しなければならないというドストエフスキーのモチーフ上の都合だけである。
ピョートルが、我意を示すなら自殺しなくても他殺すればよいと言うが、これは単にキリーロフを自分専用の殺人マシーンに仕立て上げたいためのデタラメである。
ひっかかったらもうけもの程度の意味しかない。
ところで、ドストエフスキーが、一人の実存主義者を二人の人格に分けなければならなかった理由が読者には理解できるだろうか?
これは、どうでも良い事なのでヒントしか教えないが、ドストエフスキーは本当は思想と行動で分けたのではないのである。
思想と?で分けたのである。
これが、ドストエフスキーにとってどうしても、一人の実存主義者から二人の登場人物を作らなければならなかった理由である。
◎ 2010年12月19日 (日) 人生論
トルストイ 「人生論」 新潮文庫
トルストイは、ドストエフスキーやツルゲーネフと同時代に生きた19世紀のロシアの作家である。
トルストイの略歴によると、彼は82歳で夫人と喧嘩して家出し、その10日後に死んだらしい。
また、解説によると、この本は「(ロシア)正教の教義に対する不信を植えつけ、祖国愛を否定している」ために国家によって出版を禁止されたらしい。
奥さんが天敵である点や国家やキリスト教を非難している点から、トルストイは実存主義者っぽいと思われる。
7〜9ページに水車と象の卵の話がある。
水車の話とは、水車で粉を引いて生活している人がいた。
その粉引き男は、水車を上手く使う方法は知っていたのだが、ある日、水車の構造を研究し始めた。
その結果、問題はすべて堤と川にあることが判明した。
そのため、男は水車の調整をやめて、川の研究を始めたのだが、粉が引けなくなった。
トルストイは、この男は間違っている。
なぜならば、目的は粉を引く事であって、川を研究する事ではない。
目的を達成するには、川など研究せずに水車の調整だけしておけば良いのだと言う。
男が間違えたのは、優先順位である。
この場合、優先順位が高いのは水車であって川ではなかったのだ。
優先順位をどうやって知れば良いかは、目的が教えてくれると言うのである。
また、ゴーゴリの「死せる魂」の登場人物のキーファ・モケーエウィチが象が卵から産まれるとしたらその卵の殻の厚さはどれほどか、爆破するのにどのくらいの火薬が必要かなどと考えた話を引き合いに出す。
モケーエウィチがこんなくだらない事を考えるのは考察の目的を持たないからである。
粉引きが、どんなに立派な論理を組み立てたところで、このモケーエウィチと同じ事をしているのだとトルストイは言うのである。
さて、読者は、このトルストイの論理をどう思うであろうか?
これが正しい論理に思えるだろうか?
確かに、モケーエウィチの思考には、目的がない。
現実にありえない事であるために、どんな目的にも沿うはずがないからである。
しかし、粉引きの場合は別である。
粉引きは、上手く粉を引きたいために水車を研究し、その延長として川の研究にたどり着いたからである。
粉引きが間違ったのは、問題は水車ではなく川にあるとした彼の結論だけであり、目的にはちゃんと沿っているのである。
すると、目的さえあれば優先順位を間違えるはずがないとするトルストイの論理は間違いであることになるだろう。
彼が、これらの例を出した理由は、10ページ以降に書かれてある。
細胞やDNAやそれらが発生した原因など研究しても意義がないから、そんなのはやめて人生哲学をみんなで研究しようではないかと言うためである。
しかし、誰も人生哲学に興味がないから細胞などの研究に専念するのであるから、このような主張に耳を貸す人間はいないだろう。
しかし、彼の言うように人生哲学が人間にとって極めて重要であることは、マルクスの共産主義思想が経済学でも社会学でもなく一般哲学であることからも、また実存主義者にとって人生哲学的に社会そのものが不要であることからも明白である。
つまり、俺は人生哲学は社会の存在意義そのものを揺るがす大問題であると言いたいわけである。
しかし、トルストイは実存主義の存在も権力主義の存在も社会が権力主義であることも知らないらしい。
というのも後のページを読めばわかるが、彼は世間の大多数の人間に理性が皆無であるのは、自我(エゴイズム)のためだと勘違いしているからである。
彼の言う自我とは、実存主義者の言う自我とは意味が違って、個人の欲求に限定される。
しかし、間違いであることには変わりがない。
だから、彼は理性と個人主体の関係もあいまいであり、人間と社会の関係についても分からず、哲学的にも社会の定義づけや絶対主義やその逆の不可知論なども知らず、唯心論や唯物論も知らないなど全てにあいまいである。
しかし、彼は理性の重要性を主張する。
このトルストイの理性は、老子の理性か、それとも孔子の理性かとなるとまだこの本を読み始めたところなので判断はつかない。
しかし、この本をパラパラめくっているとたとえトルストイが持つのが孔子の理性であったとしても自分の思想に十分満足し、幸福であったらしい。
だとするならば、トルストイをわざわざ実存主義者にしてやる必要はないわけである。
82歳で家出してその10日後に死んでしまうような孤独で破天荒な人生でも幸福だったと言えるならば、これは十分、実存主義に匹敵するほどの思想と言えるからである。
水車ではなく川を研究した粉引きは、社会の中ではなく社会の存在意義を否定する実存主義者と同じである。
このような発想が全くなかったトルストイは、少なくとも一人前の実存主義者ではないことだけは明白だろう。
実存主義者の基本的な主張は次のようになるのではないだろうか?
社会が存在するのであれば、それは個人(人間)の存在意義を否定するものであってはならない。
しかし、社会は時間と共に堕落するものであり、堕落すれば権力主義になってしまうのであれば、やはり社会は必要ないのである。
それとは別に、人間はあらゆるものに依存すべきではないのであって社会もその例外ではないという実存哲学もある。
◎ 2010年12月20日 (月) 「城」のあとがきについて
カフカ 「城」 新潮文庫 「あとがき」
この本のあとがきは、実存主義者の小説の解説としては大変よくできている。
一つを除いては。
その一つとは、「資本論」の作者、つまり社会主義理論のマルクスを実存主義者の一人としている点である。
この訳者は、実存主義を最も極めた人間としてカフカとマルクスの二人だけを挙げているのである。
マルクスとバクーニンの確執や芥川龍之介がプロレタリア文学作家に攻撃されたことや「革命か反抗か」においてカミュが共産主義者と論争を繰り広げたように、実存主義と社会主義は妥協の余地が全くない敵対関係にある。
その社会主義の提唱者のマルクスを世界史上最も優れた実存主義者とするのは、気違い沙汰にしか思えない。
また、カフカは実存主義者になりたくはなかった権力主義者になりたかったと彼の全ての作品でぼやいているし、彼の哲学はどこにも披露されていない。
このどこが最も優れた実存主義者なのだろうか?
あとがきは良く書けてはいるのだが、訳者は実存主義については何も知らなかったのではないかと思われる。
◎ 2010年12月22日 (水) ルシファー = シャーマン説
ルチフェル【Lucifer】・・・(「明けの明星」の意) 神に反逆して天から堕した最高位の天使。堕天使たちの頭領としてのサタン。
シャマン【shaman】・・・自らをトランス状態(忘我・恍惚)に導き、神・精霊・死者の霊などと直接に交渉し、その力を借りて託宣・予言・治病などを行う宗教的職能者。シベリアのツングース系諸族の例が早くから注目された。シャーマン。
いたこ・・・東北地方で、口寄(クチヨセ)をする巫女(ミコ)をいう。
くち‐よせ【口寄せ】・・・巫女などが神がかりになって霊魂を呼び寄せ、その意思を伝え告げること。
堕天使ルシファーがシャーマンであるとする説を打ち立てる。
ただし、実際そうである可能性は低いだろう。
というのも俺は天使や悪魔の原典を知らないからである。
この説のきっかけは、メーストルである。
メーストルの思想には、先ず彼が実存主義者であって、後に理性と社会(権力)がぶつかって、彼の中で権力が勝利したという経緯がある。
この対決の決着は、理論など全くなくて、ただ権力が怖かっただけである。
彼は、権力を自らの神とすることにした。
なぜならば、論理で説明できない事(即ち恐怖や凶悪性)が現実に存在したからである。
そして、彼は神を研究し、一つの結論を得た。
それは、イエス・キリストがキリスト教において、神への生贄と解釈されている点と、ルイ16世がキリストと全く同じように生贄にされてしまっている点から導き出されたもので、神は人間に生贄を欲しておられるのだという事である。
これは、明らかに論理的ではなく気違いの発想である。
実際、メーストルは発狂していたのだろう。
これと全く同じことが、シャーマンにも起きたと俺は考えるのである。
インカ帝国やマヤ文明、日本のヤマタノオロチや人柱、ギリシア神話のアンドロメダ、アフリカの未開文明などにおけるシャーマンによる生贄の儀式は、このような経緯で行われたのではないだろうか。
巫女の末裔と思われるイタコの口寄せが、気違いじみて見えるのも実際、発狂しているのではないだろうか。
権力主義者の多くは、自分が権力を崇めている理由を説明できない。
しかし、メーストルのようなシャーマンは、絶対的な根拠を持っているのである。
そのため、シャーマンは世界中の古代文明において絶対的な権力を有することができたののではないか。
もし、実存主義者が天使と仮定するならば、メーストルは堕天使である。