◎ 2010年11月21日 (日) 実存主義者の理性
実存主義者の理性は、おおよそ、老子のような感じに落ち着くのだろう。
これまでも老子の道徳や理性について書いてきたが、読者は中心となる考え方が漠然としか分からないだろう。
それも当然で、そんなものは無いからである。
何本かの柱も決められないし、決めてしまうと間違いとなるだろう。
本人にも、知らないうちにいつのまにか出来上がってしまっているものなのである。
ある程度まとめてみようかと思っても、どれもバラバラでまとめようがないようである。
◎ 2010年11月21日 (日) 敵の敵は味方か?
思想界が存在していることもあまり知らなかったぐらいだが、一般程度の知識で日本の思想界を見たところでは、共同体第一主義の思想家しかいないようである。
しかし、共同体第一主義といっても、がくがくの論争らしい。
もし、そこに実存主義者が、「共同体など・・・」と言ったらどうなるか?
彼らは、普段、言い争っていても、このときばかりは共同戦線を張り、実存主義者を攻撃し、撃退し終わってから、再び元の論争に戻るだろう。
これは、権力主義者の作法である。
普段は、どんなに仲が悪くても、いつでも一時的な共同戦線を張れるのである。
どこでもそうである。
例えば、会社では、誰もが同僚に対して、こいつら辞めてくれないかなと思っていても、新人が入ると一時的な共同戦線を張る。
権力主義の作法においては、敵の敵は、必ずしも味方とは限らないのである。
では、実存主義者の考えでは、敵の敵は味方かとなると、孤立している人間に敵も味方もあるものか。
自分以外の人間は、基本的に全員敵である。
◎ 2010年11月22日 (月) 人間とは不思議なものだ
Yahoo掲示板→「西洋哲学」→「ニヒリズム」→「人間とは不思議なものだ」
『強いやつほど群れて過ごし、弱いやつほど孤独に生きている 』
F・ブラント「キェルケゴールの生涯と作品」法律文化社
p.191『《イエス・キリスト》〜《最も卑しい階級の出である十二人のみすぼらしい弟子たちをしたがえて、ひとときは好奇心の対象となり、後には罪人、取税人、らい病人、狂人とのみ交わり給うた、あの身分の低い、貧しい人である。》』
p.5 『誰もがキリストに唾をはきかけた〜この思想が私の生涯なのだ』
イエス・キリストは、一切、群れない人間なのであり、群れない人間になることを世間に勧める(布教する)のである。
そのため、孤独に生きざるを得ないような『弱いやつ』のみを結果的に相手にすることになったわけである。
『強いやつ』は、群れるため、イエスを無視するか、嫌悪するか憎悪していたのである。
p.190 『キェルケゴールは〜(彼自身の言葉によれば)新しい提案をしたり、先例のない発見をしたり、また新しい党派を発足させたりしたいと思っているのではなく−ただ自分自身のためにのみ−〜』
キェルケゴールは、イエスと違って、実存主義の布教は行わない。
それは、権力を行使しないという実存哲学に忠実だからである。
キェルケゴールがしたのは、布教ではなく、実存哲学の単なる紹介である。
三島や太宰などのように実存主義者が自分が実存主義者であることを明確に自意識できずに苦しんでいることがあるのである。
彼らのための紹介である。
◎ 2010年11月24日 (水) いじめについて
今、世間の話題は、「小6自殺事件」らしい。
学校があるから、いじめ自殺が発生するのである。
学校は、地球上から消滅させるべきである。
国家も同時に消滅すれば良い。
学校が必要だと言うやつがいるなら、理由を述べよ。
◎ 2010年11月26日 (金) 二種類のアナーキズム
先日、数年ぶりに本を買ったのだが、そのうちの一つがドストエフスキーの「悪霊」である。
あとがきを読むと、この本の主要部分は、巻末のスタヴローギンの告白だそうなので、そこを先ず、読んだのである。
このスタヴローギンは、バクーニンがモデルであるという説があるらしいので、WEBで検索すると、
http://ebi.2ch.net/sisou/kako/960/960344477.html
という掲示板があり、そこに<a href="http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/">アナーキー・イン・ニッポン</a>が紹介されている。
ここの[道場・無政府]→[アナキズム対談問答]→[主義論(アナキズムを信じうるか) ]とリンクをたどると、思想家三人の議論がある。
これによると、アナーキズムには、バクーニンのように社会を直接変革しようとするのと、実存主義の延長としての個人主義的アナーキズムの二種類があることが分かる。
ウィキペディアによると、バクーニンは、ヘーゲルの影響を受けたとある。
そのヘーゲルは、既に書いたように人間は絶対的な真理を認識できるとする哲学者であり、多くの実存主義者とはこの点で異なる。
では、ヘーゲルとバクーニンは、全く実存主義者的な思考を持ってないのかといえば、実存主義者にも多少は納得できる思考もある。
つまり、我々から見るとこの二人は、実存と権力の狭間で迷っているのである。
この二人と我々との違いが、絶対的真理の認識にあるのは確実だが、この掲示板の三人の会話からすると、そこに至る以前に、言葉や概念を絶対としているか否かという思考の相違が存在することが分かる。
つまり、言葉や概念を操ることでしか思索できないから、人間には絶対的真理の認識ができるという結論になるのである。
あるいは、一般的な哲学者のように共同体主体を守るために言葉や概念しか操らないように自分の思考を制限しているのかもしれない。
しかし、言葉や概念しか扱えないことは、個人主体を持つことよりも重要ではない。
そもそも、個人主体を持たないのであれば、言葉や概念の問題は必要ないからである。
言葉や概念の問題は、個人主体を持った後の話である。
因があるから果があるのであって、果が因の前に来ることは決してないのである。
実存主義者は、個人主体が権力主義の社会や世間に対立するために、色々と考える必要があり、言葉や概念の問題は、そのとき初めて発生するのである。
言葉や概念というのは、既存の言葉や概念という意味である。
既存の言葉や概念が全て間違っているとしたら、その間違ったものを哲学者が積み木のように組み立てた理論は当然間違っていることになるだろう。
だから、実存主義者は、言葉や概念をも疑うのである。
もし、既存の概念が全て間違っているとしたら、社会の全てが根本的に間違っていることになる。
だから、社会の存在を守るために、共同体主体の哲学者は言葉や概念を絶対視するのである。
そこには、人間は社会に依存する生物であるという概念が先ず存在していることが分かるであろう。
◎ 2010年11月26日 (金) ジョゼフ・ド・メーストル
「アナーキー・イン・ニッポン」を見つけた掲示板に千坂恭二氏の名前があったので彼の自己紹介のWEBページに行くとジョゼフ・ド・メーストルという名前があったので、ウィキペディアで調べてみると、徹底的な反合理主義、反啓蒙主義者であり、自律的理性を否定すると書いてある。
この自律的理性とは、個人主体のことであるのは言うまでもない。
彼は、無実のルイ16世が殺されたのは、生贄であるとし、それは必要不可欠なことであったのだとこの事件を肯定する。
つまり、彼は、キリスト教がイエス・キリストを悪魔とし、キリストの死が民衆と教団の完全な責任転嫁であることを認め、その上でキリスト教を全面的に支持していることがはっきり分かるのである。
なぜ、そうなったのか?
もちろん、俺は、このような精神を全く持っていないし、可能性すらありえないので、完全な当てずっぽうであることをあらかじめ断っておく。
おそらく、彼は、理性と社会が対立していることを認識し、その結果、実存主義者の反対側、すなわち、理性を捨て、社会(権力)を神とすることにしたのである。
そのため、個人主体を激しく否定し、社会を擁護するのである。
俺は、反啓蒙主義だけは、同意見である。
なぜならば、権力主義者には全く理性が存在しないのだから、何を言っても誰も理解できないだろうからである。
誰も理解できないならば、言うだけ無駄である。
実存主義者ならそんなことは聞かなくても分かるし、聞かなければならない人は理解できない。
無意味なことはやめておけと思うのである。
権力に対する恐怖は、あらゆる自律的理性をはねつけてしまうのである。
ルイ16世の件で本質を見抜けたように、彼は決して馬鹿ではない。
しかし、逆の立場を取ってしまう場合もあるらしい。
おそらく、JFKで大統領を暗殺した連中も彼みたいなタイプの人々だろう。
権力が怖くて怖くて仕方がないのだろう。
この事態はどうしたものだろうか?ほっとくしかないのだろうか?
考え方や知識の問題ではないため、実存主義者が彼に言えることはおそらくないだろう。
理性を持っていたときの彼は実存主義者といえたかもしれないが、理性を裏切り続ける彼は、もはや実存主義者とはいえない。
これも一つの実存主義の形だと主張する人もいるかもしれないが、彼の思索は既に死に絶えているのであり、権力主義者と変わらないのである。
同じ認識から正反対の立場を取った人間は、態度も両極端である。
このジョゼフ・ド・メーストル氏は、老子やキェルケゴールやカミュは大嫌いだろう。
彼は、戦争賛美者でもあるらしいが、これはこの社会は生きるに値しないとする自殺願望も理由の一つに数えても良いかもしれない。
サンテグジュペリの偵察志願のようなものかもしれないのである。
だとすると、彼の心境は、理性を否定しながらも否定し切れなかったと考えることもできるのである。
そうすると、俺の実存主義者から権力主義者への転向は不可能だとする説も、あながち間違いではないことになるのである。
俺には彼らの心境が分からないのであるから、もちろん、主要な理由は他にあるのかもしれない。
啓蒙思想といっても、17〜18世紀のルソーやモンテスキューやアダム・スミスやマルクスのような権力を神と崇めるような理性は賛成できない。
◎ 2010年11月27日 (土) 実存主義者の生き方
既に書いたと思うが、実存主義者の生き方は、結果ではなく手段である。
結果を見越して行動するのではなく、自分の実存哲学だけを指針に後先を考えずに生きるのである。
おそらく、カミュが、「シーシュポスの神話」において、不条理な人間は時間と共に生きると言っていたのは、そういうことである。
どんな人生の結末が待っているかは、本人には皆目、見当もつかないが、どんな結末が待っていようとも、その責任はとる。
つまり、受け入れる。という人生である。
これが、カミュが、ドンファンについて書いていた内容である。
このような生き方は、とにかく、実存哲学、つまり老子の道徳が完成した後の話である。
いつのまにか出来上がった思想が、老子と同じだったら、このような考え方をするようになっていることだろう。
そのため、社会がどうなっていようが、ジョゼフ・ド・メーストルのようなタイプの人間がたくさんいようが関係ないのである。
社会を変革する必要も異端者を更正させる必要もない。
◎ 2010年11月28日 (日) 第二次世界大戦における日本の大義名分について
忘れたが何かの本によれば、日本の第二次世界大戦の大義名分は、西欧列強国によるアジア各国の植民地支配からアジアを解放するためらしい。
しかし、結果を見れば明らかなように、これは完全なデマカセであった。
朝鮮には、日本人名を名乗ることを強要し、中国には満州という植民地を作った。
つまり、西欧列強国に成り代わってアジアを日本の植民地とするのが真の目的だったのである。
日本人は厚顔無恥なキチガイ詐欺師強盗団である。
それは、戦前に清において、日本が西欧列強国と同じことをやっていたことからも明白である。
しかし、中国人や朝鮮人が、日本人に対してそんな非難をしているのは聞いたことがない。
大陸の人間は、ずいぶん気弱なものらしい。このくらいのことは、言って当たり前である。
◎ 2010年11月30日 (火) 悪霊 (1)
ドストエフスキー 「悪霊」 新潮文庫
この本の上巻を部分的に読んだところでは、作者が悪霊と呼んでいるのは、無神論的な実存主義者のことである。
多くの実存主義者は、おそらく無神論者であるために、結局は実存主義者を非難しているのである。
「2009年6月10日 (水) 地下室の手記」において、俺は、ドストエフスキーは実存主義者であると書いたが、権力主義を非難する意思を持っているという意味においてである。
厳密には、思索と経験によっていつの間にか完成した実存哲学(老子の道徳)を彼は持っていないのである。
結論だけを先に述べるならば、ドストエフスキーと「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の作者のディックは、全く同じ意見を持っている。
ディックは、実存主義者を冷血無情なアンドロイドに模して、ドストエフスキーは、(空想的社会主義者のスペシネフや無政府主義者のバクーニンがモデルとなったという説のある)スタヴローギンを悪霊として徹底的に非難するのである。
俺の直感では、ドストエフスキーもディックも、実際に実存主義者に会って、本人から実存哲学がどんなものかを聞いているし、長期間、徹底的に観察、研究している。
その熱意は、調べられた本人もおそらく呆れるほどである。
実存主義者にも色々いて、カミュやメーストルのように革命を否定する者もいれば、バクーニンやスペシネフのように革命の先頭に立つ者もいるのである。
これは、実存哲学の性質上、致し方ないことだろう。
権力主義から実存主義までの距離の分だけ多様な実存主義者が存在するからである。
権力主義色が混じっているバクーニン達がいても不思議はないのである。
ただし、ドストエフスキーやディックは、全ての実存主義者に共通する部分も徹底的に非難する。
この部分が、「悪霊」の中核(モチーフ)ではないだろうか。
解説で、スタヴローギンは、偽者で僭称者であると書かれているが、これは、ドストエフスキーの意見が正しかった場合の話である。
実存主義者から見れば、むしろ、ドストエフスキーの方が、実存主義者のふりをしているのである。
スタブローギンは、自分が救世主だとは思っていないし、勝手にドストエフスキーが祭り上げて失望しているだけだろう。
おそらく、悪霊に出てくるほとんどの登場人物にはモデルが存在しないし、作者の創作だろう。
会話については、全て創作であると思われる。
ドストエフスキーは、自分が創作した多くの登場人物の後ろ盾で、スタブローギン(実存主義者)をやっつけているのである。
ドストエフスキーやディックの作品から、自分が実存主義者になれないことのひがみを感じることができたら、おそらく、彼らの作品を正確に理解できたといえるだろう。
実存哲学は、少しずつ理解できる類ではなく、いつの間にか全てが同時に身についているものである。
長年に渡る努力の後の最後のその瞬間まで、自分にそんな膨大な量の哲学が存在していることには、わずかたりとも気づかないものなのである。
つまり、身につきつつあるという実感が皆無なのである。
ジグソーパズルのようには、なっていないのである。
おそらく、完成したという瞬間もあいまいである。
理論上、実存哲学に上限は無いのだから、当然だが、なんとなく自己の哲学に一貫性のようなものを感じたらそれが完成なのである。
あいまいだから、その基準として老子の名前を出すのである。
しかし、これまでの文章で、老子に書かれていない実存哲学もいくつか書いたが、それらは老子の書きそびれだと思えば良い。
いかに老子といえども、全てを思い出して書けるわけではない。
ドストエフスキーには、他にも有名な著作がいくつかあるが、おそらく、「悪霊」の域を出ないことが予想される。
俺は、ドストエフスキーを侮辱したいわけではないのだが、第二部第三章 決闘 でスタヴローギンが、ガガーノフを侮辱した描写を思い出せると思うが、実はガガーノフはドストエフスキー自身だったと思われる。
不本意ながら、俺はドストエフスキーが最も腹の立つことをやってしまったらしい。
このような侮辱は果たして必要だったか、それとも見逃すべきであったのか、どうせ国家や世間の無駄知識の蓄積以上のものにはならないのではないかと思うのだが、神ならぬ俺にこの文章の必要性など分るはずも無く、そのため書いたのである。
俺は、世間に実存主義者を非難するように仕向けたドストエフスキーに対して何も腹は立てていないし、彼が世間を欺いたことにも正義感などは覚えない。
おそらく、この本が、権力主義と実存主義の狭間で、どちらにも着けずに苦しんでいる人々の邪魔になるような気がしたから書いたのだろう。
権力主義も分からず、実存主義も分からず、どっちつかずが恐らく一番苦しいのである。
聖書にも、熱くも無く、冷たくも無く、生ぬるいから吐き出すとあるらしい。
人間は、極端な権力主義者か極端な反権力主義者かのどちらかだけである。
ドストエフスキーやディックがどれほど、ややこしい場所にいるか、分かるだろう。
おそらく、キリストの弟子達が、こんな感じだったのではないだろうか。
彼らに比べたら、まだメーストルの方が幸せな気がする。
メーストルには、実存主義者から何かを言う必要もあまりないし。
しかし、メーストルも地獄である。
彼のようなタイプの人間は、発狂しすぎて秘密結社を作って、黒い三角の目だし帽を被って、処女を拉致して生贄の儀式を始めてしまうからである。
悪魔教団は、おそらくやつらの組織である。
つまり、J・F・ケネディは悪魔教団にやられたのである。
とにかく、実存主義者は、国家や世間などの権力を恐れてはダメなのである。
◎ 2010年12月2日 (木) 分類
ここで、おそらく間違っている箇所もあると思うが、主義の分類を試みる。
実存主義1と権力主義4以外は、どちら側かは、あいまいである。
1.実存主義者1・・・社会依存なし。個人主体としての理性。法律や儒教、慣習を軽蔑する。反権力主義。(老子、ソクラテス、キリスト、釈迦、キェルケゴールなど)
2.実存主義者2・・・社会依存なし。個人主体としての理性。実存主義者1ほどの哲学は持たず、社会では半死人となり、芸術の世界に逃避する。(川端康成、サリンジャー)
3.実存主義者3・・・社会依存あまりなし(就職・結婚などはする)。個人主体としての理性。万人は社会に依存するとまでは思わないが、万人に個人主体があると信じ、大衆の啓蒙を行う。社会の変革は理性が押しとどめる。(カミュ、漱石、鴎外、芥川、太宰など)
4.実存主義者4・・・社会依存。実存主義者1を研究するが、部分的理解に留まり、実存主義者1を非難し、独自の思想を展開するが、宗教、法律、社会常識、慣習などが人間には絶対に必要だと主張する。個人主体は不十分。(ドストエフスキー、ディック)
5.権力主義者1・・・社会依存。個人差があり、不十分な個人主体をもつ場合も、権力の性質に忠実な場合もある。万人は社会に依存すると信じ、社会の変革を主張。万人に個人主体があると信じ、大衆の啓蒙を行う場合もある。(社会主義者、個人主義的ではない無政府主義者、民主主義者、孔子、ルソー、モンテスキューなど)
6.権力主義者2・・・社会依存。自分は社会常識や慣習を理性の代替にしていると勘違いしているが、実は不十分な個人主体を持つ。権力の性質には不服従。個人主体の考え方を国家に適用する。その結果、自分は保守主義者(自国の社会常識や慣習を守るために他国の影響を拒絶する主義)であると思い込み、個人の独立性ではなく、国家の独立性を主張し、それが国家の主体的武装論(核兵器の保持など)と結びつく。つまり、彼らにとって国家の軍事的自立と個人の経済的自立は全く同じ意味なのである。(キム・イルソン、三島由紀夫)
7.権力主義者3・・・元々は実存主義者1だったが、個人主体と社会の対立に挫折し、個人主体を捨てて社会を神と崇め、狂信的な保守主義者となる。しかし、個人主体を捨てきれず、発狂する。(メーストル、あるいはキム・イルソンや三島由紀夫もこれに近いかもしれない)
8.権力主義者4・・・社会依存。権力の性質に忠実。集団権力(国家や世間)を恐れ、世間知として集団権力を利用する。理性皆無の代わりに社会常識や慣習を理性の代替とする。宗教や法律や儒教を守ることもあるが、社会常識や慣習、権力の性質の方が優先される。属する集団の意志を自分の意志とする。保守主義。一般大衆。
実存主義者1が極端な実存主義で、権力主義者4が極端な権力主義である。
その他が、実存主義も権力主義も理解できていない人々である。
無理に実存主義者1にも権力主義者4にもならなくて良いが、遅かれ早かれ権力主義者4によって、どちらかを選ばされる事になるだろう。
実存主義者1や権力主義者1などは更に細かく分類できそうだが、そんな気力はないし、必要性も感じない。
さて、分類して良かったのか悪かったのか。