◎ 2010年11月8日 (月) 実存と集団について
「実存」とは、「現実存在」の日本語訳である。
最初に使ったのがキェルケゴールで、彼自身はそれについて具体的に説明はしていないらしい。
彼が、反権力主義者、つまり徹底的な個人主義者であるならば、
その意味は、個人が主体を持った生き方を指すと考えるのが妥当ではないだろうか。
個人が主体を持つとは、自分が属する集団や社会、またそれらの慣習や常識、圧倒的多数意見などに
人生観や哲学を委ねないことである。
現実には、それができる人間は、世界中にほとんど存在しないのである。
それができる人間は、社会には存在できないからである。
例えば、分かり易い例で、江戸時代の武士について考えると、彼らは、自分では何も判断できないのである。
武士は、主君から「あいつを殺せ」と言われたら、その事情など一切知ることなく主君の命令どおりに相手を殺すし、
切腹を命じられたら、自分自身に何の咎がなくとも、それを当然のこととして切腹するのである。
忠臣蔵の志士達を見ても、彼らが真に主君の仇に対し、自分の命を捨てても良いと考えたとしても、
それは、彼らに物事の判断能力があったことにはならない。
もし、彼らが、正しい判断を下せるだけの能力があれば、主君の切腹を止めるために幕府と戦うべきであっただろう。
彼らは、幕府のつまり権力の定めた固定的規則に盲従したにすぎない。
固定的規則と固定的道徳は本質的に同じものであり、それがこのような末路になったのである。
もし、現代において、「俺は、他人の命令に無条件に従って、自殺もしなければ、殺生もしない」と言えば、どうなるだろうか?
それは、現代社会においても一切通用しない。
10代や20代では、そんなはずはないと思うに違いないが、実際、人間社会とはそういうものである。
いずれ、戦争にでもなれば、誰もが理解できるだろうが(あるいは逆により理解できないかもしれない)、
戦争などなくとも、極めて平和な時代であっても、一般人は江戸時代の武士のような人生を過ごしている。
その「他人の意思で自分も他人も殺さない」というのが、すべての実存主義者の唯一の主体である。
その主体のために、人間社会を捨て、就職を捨て結婚を捨てるのである。
一般人に無いのは、これだけではない。
真に何も無いのである。あるのは、無条件に権力に飲み込まれたがっている意思だけなのである。
行動に基準となるものが何もない(厳密には権力だけな)のが一般人であるということが、
社会で生活していれば、我々のような実存主義者のように気づく人も現れるだろう。
それはつまり、自分の五感で確かめたことを間違いとし、権力の意思を正しいとすることである。
一般人は、真実を放棄するが、ファウストは権力の意思よりも真実を欲した。
それゆえに、ファウストは実存主義者なのであり、国家や世間やキリスト教から悪魔の烙印を押されたのである。
第二次世界大戦の日本人が洗脳されたのは、戦時中だけのことではなく、平時も民衆はそんな状態なのである。
芥川が、「子供はいつでも親の言うとおりに盲目になれる」というのもそうであるし、日光東照宮の「見ざる聞かざる言わざる」というのもそうである。
「見ざる聞かざる言わざる」は辞書によると「他人の欠陥は〜」となっているが、実際は、権力(者、集団)の欠陥は〜という意味である。
では、個人に主体を持てと、言っているのかといえば、そうではない。
個人の人生は、個人が決めるべきものであって、僕は何も干渉するつもりはない。
誰かが書くべきものを誰も書いていないから書いたまでである。
国家には寿命があって、時期が来れば、どんな国家でも滅亡するのは歴史上の事実である。
寿命が来る度に、革命や戦争があって、新しい国家が建設されるのだ。
もし、誰も革命を起こさなかったら、どうなるか?
おそらく、無政府状態となるだろう。
無政府状態は、法律も、法律を守らせる警察力(つまり暴力)もない。
そのため、犯罪が社会に溢れるだろう。
しかし、僕にとっては、この無政府状態が、旧約聖書のエデンに思うのである。
法律の無い社会においては、個人が個人の行動方針を決めなくてはならない。
アダムやイブは、元々、そのような人間だったのではないだろうか?
人間社会の外は、そのような場所のはずである。
あらゆる人間は、そのような場所でも滅亡するまで殺し合わないとは限らない。
しかし、少なくとも、自分の意思が確保できる可能性があるのは言うまでも無い。
実存主義者の哲学(道徳)は、殺人、盗難、自殺、暴力などの行為そのものを否定はしない。
それは、一般人(権力主義者)の定める道徳や法律とは違うところである。
実存主義者は、それらを自分の意思で行いたいだけなのである。
それは、アルベール・カミュ(異邦人)や太宰治(燈籠)、芥川龍之介(羅生門)の小説にも読み取ることができるだろう。
彼らは、誰かからそれを教わったのではない。自分の思索と経験から導き出したのである。
これが、実践哲学である。
一般人が、欲深いのも嫉妬深いのも陰口を言うのも集団でいじめをするのも集団権力を維持するためである。
集団権力のために自らそのような性格になるのである。
集団権力が無ければ、世間知も使えないからである。
集団を維持するには、常に敵が必要である。そのためにこれらの性格が必要になるのである。
しかし、彼らは誰にも強制されたわけではなく、自らそのような人生を選んでいるのである。
◎ 2010年11月11日 (木) 個人の主体
シーシュポスの神話 カミュ (新潮文庫)
p.11 『人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである』
全ての実存主義者は、実存主義者として生きることが無いならば、生きるに値しないと答えるだろう。
ただし、カフカや晩年の芥川のような例外もある。
全ての実存主義者は、アウトローでアナーキーである。
アウトローといえば、ロビンフッドである。
ロビンフッドは、映画で「自由を」と叫ぶが、あれは、一般的な意味の自由ではなく、個人主体のことである。
p.153 『キリーロフは言う、「俺は三年の歳月をかけて、自分の考える神性の属性が何かをたずね求めたが、それは独立性ということなんだ」』
この『独立性』というのも、一般的な意味の独立性ではなく、個人主体のことである。
つまり、ドストエフスキーは、「悪霊」を書いたときには、立派に実存主義者だったことが分かる。
この「神性」というのは、イエス・キリストを一般人と隔てているもののことである。
芥川は、これを「西方の人」で、『聖霊』と呼んでいる。
キリストの母マリアは、集団主体の象徴であり、芥川は、キリストのことを、個人主体と集団主体の両方が入り混じった人間であると揶揄しているのである。
もちろん、彼自身も含めてである。
反権力主義者であるならば、思想だけでなく行動においても反権力主義を貫かなければならない。
実存主義の布教活動という思想の強制を万人にしようとしたキリストは行動の権力主義者である。
そのために、キリストは、死後、地獄に落ちたのではないかと僕は推測するのである。
p.153 『キリーロフはあるとき、こんな情景を想像しているのだ。−イエスは死んでみたら自分が天国に入っていないということに気がついた』
ドストエフスキーもキリストが個人主体を貫けていなかったのでは?と考えていたのかもしれない。
ドストエフスキーが芥川やキェルケゴール同様に、キリストを実存主義者であると考えいていたのは明白である。
それならば、僕と同じことを考えていたとしても不思議ではない。
これは、キリストだけでなく釈迦も同罪である。
集団主体だが、実はこれには、異なる別の概念も存在するのである。
それは、北朝鮮のチュチェ思想のことである。
チュチェ思想とは、外国の常識や価値観、つまり文化の影響をできるだけ受けないようにし、独自の文化を貫こうという思想である。
日本においては、おそらく三島由紀夫が全く同じ考え方であろう。
三島も、天皇を中心とする古来からの日本文化を貫き、外国文化を排除しようと訴えていたように思う。
このような集団に主体を持つという考え方は、実存主義者からするとありえないことである。
というのも、集団の主体とは何かを考えるならば、伝統や文化や常識しかありえないからであり、それらを判断の基準とするならば、自分自身は何も考えていないことになるからである。
また、どの国家も根本的に権力主義であり、区別のつけようがない。
権力主義者は自分で考えることも判断することもできないが、文化や伝統には従っている。
文化や伝統には権力の性質が詰まっている。
そのため、権力主義者は、文化や伝統を中心とした権力の性質に従うことになる。
独自の文化を貫くという姿勢は、その国の自立という意味も含むため、三島の行動もつじつまが合う。
キム・イルソンや三島由紀夫は、個人主体をそのまま国家に適用したのである。
その結果、権力の性質が希薄に感じられるのかもしれない。
また、判断基準が根こそぎ文化に取って代わられているため、個人主体の意義も皆無である。
おそらく、キム・イルソンや三島由紀夫は、個人主体にも権力の性質にも入ることができなかったのだろう。
その結果、このような場所に落ち着いてしまったのだろう。
集団主体には、二種類の概念があり、ややこしいことである。
もちろん、僕が今、両方を命名したので、ややこしくしているのは僕である。
権力主体と集団主体に区別しても良いかもしれない。
集団主体は、権力主体を前提として成立する。
ではなぜ三島は死んだのかとなると、やはり単純な集団主体ではなく、個人主体も関係していたのだろう。
真相は、三島本人にしか分からない。
F・ブラント「キェルケゴールの生涯と作品」法律文化社<br>
p.191『指導的な実存主義者たちは、キェルケゴールと同様に自由意志論者である。キェルケゴールは、一般に《自由意志》と称せられるもの、より正確に言えば、選択の自由と称せられるものの存在を確信していた。選択のそれぞれの状況において、それぞれの二者択一に直面して、われわれは《自由な》選択をなしうる。キェルケゴールはこれを人間の気高さを示すものであると考えた。現代の実存主義者たちは、われわれの時代の別の主流をなす決定論に強く反対して、同じ見解をとるのである。ある意味では、これは倫理的基盤であって、おそらく実存主義の不動の一点である。まさしく選択の自由が前提され、受け入れられるが故にこそ、厳しい責任が人間に、彼の行動と彼の関与するものに、重くのしかかるのである。』
『選択の自由』というのは、厳密には正しくない。これは、個人主体のことである。
『別の主流をなす決定論』とは、民衆の権力(共同体)主体のことである。
『同じ見解』とは、全ての実存主義者の一致した意見という意味である。
F・ブラントは、キェルケゴールについての重要な点については、的を外してなかったようである。
◎ 2010年11月14日 (日) うわさの真相
Wikipedia 「横山ノック」を読むと、セクハラ事件について載っている。
この事件は、彼が大阪府知事のときに起こしたものである。
周知のとおり、彼は、大阪府知事になってから性格が別人になった。
タレント時代は、温和な性格だったが、府知事になったとたん、凶悪な顔になり、テレビカメラには常に彼の怒鳴り散らす映像しか映らなくなった。
そんな、凶悪な彼が数年間、続いた後のセクハラ事件なのである。
セクハラ事件に至るまでの経緯には、それまでの数年間に及ぶ大阪府知事時代の変貌が関係ないとは思えない。
そんな映像を誰もが見ていながら、そのことに誰も何一つ触れずに、セクハラ事件を語るのは、虚実の情報を伝えるのと大差ない。
一つの情報だけで、その人間の全てを決め付けるのは、欠席裁判と大差ない。
また、そのような物の見方をしていたら、裏に何らかの陰謀があったとしても不思議は無いのに、誰もその可能性に気づくことも無いだろう。
オウム真理教の地下鉄サリン事件も同様である。
この事件を捜査したのは、国家だけであり、国家の関係者以外は、警察やマスコミの流す二次的な情報以外は入手できないのである。
小説の「JFK」を読めば分かるように、国家は必ず事実しか公表しないとは限らない。
そんな事は、権力や一般人や社会がどんなものか知っている人間ならば、納得できることである。
偽情報ばかりが、世間に流れていることを指摘する人間は多いが、そのとおりである。
偽情報だけが、一般人の判断材料である。
人々は、世間の垂れ流す情報だけを信じ、自分の見てきたことはすっかり忘れている。
Wikipediaだって当てにはならない。
当然のことを書いたが、一般人にとっては当然ではないため、書いた。
だからと言って、新聞やテレビを見れば良いと言っているわけではない。
見なければ見ないで、「え、あの人が?」などと騙されることも無いからである。
マスコミや知識人や世間に毒されなければ、うかつに信じることもない。
テレビタレントや政治家は所詮他人である。
存在すら知らなくても、十分生きていける。
結局、信じられる情報というのは、どこの店がうまいとか、どの本が面白いとかだけなのである。
それ以外の情報は、二次的なものであり、全く信用できないものなのである。
◎ 2010年11月17日 (水) 死に至る病
キェルケゴールの「死に至る病」は、実存主義者特有のものであろう。
だとすると、これは、人間社会と理性(つまり個人主体)の衝突に関係するのだろう。
カミュも「シーシュポスの神話」で、それをその2項の対立のことだとしている。
この対立の狭間で、実存主義者が採れる選択は、人間社会を捨てることである。
つまり、人間社会を捨てることが、「死に至る病」を回避する唯一の方法ではないだろうか。
「2009年2月23日 (月) シーシュポスの神話(1)」に書いたように、また、ソクラテスやカミュも言っているように、あらゆる人間は絶対的真理を確実に認識しているとはいえないのである。
誰に、社会を捨てる我々を非難する権利があるだろうか。
僕は、これをもって「死に至る病」の解決策(あるいは予防策)とする。
「自意識を必要とする病」は、自分が実存主義者であると認識すれば治るので、実存主義者は、実存主義の宿命さえ受け入れれば、これらの病には陥らないで済むわけである。
僕自身は、これらの病気にかかっていないため、もちろん両方とも論理的な結論ではある。
しかし、僕は実際にそんな人間を見たことがないのだから仕方がない。
◎ 2010年11月17日 (水) 絆(きずな)
人間関係は、いつか必ず崩壊する可能性があり、実際もろいものである。
絆は、裏切られたとき、常に取り返しのつかない状態に陥るものである。
例えば、親友だと思って大金を貸したら、逃げられて自殺する羽目になったなどとはよくある話である。
絆ほど、地獄に近いものはない。
人間関係も依存の一形態である。
絆を口にする人間は、僕には自殺志願者に見えるのである。
太宰治は、「人間失格」で無垢な信頼は罪か?と書いていたが、依存しているという点において罪である。
例えば、「走れメロス」で、もし一方が裏切った場合、裏切られた方は相手を恨まずにいられようか?
もし裏切られたならば、この世界は生きるに値しないとまで思い切れるならば、絆は罪とはならないだろう。
◎ 2010年11月17日 (水) 天皇と右翼と権力主義
右翼とは、保守主義者、つまり反動主義者のことである。
彼らは、天皇を称揚する。
何故かといえば、天皇は、天照大神の子孫であり、神の血を引いているからである。
神の血を引いているからには、天皇はたとえ神でなくとも神の眷属である。
よって、神の眷属が国家の元首である以上は、国家は神によってその存在が認められているのであり、誰もなぜ国家が必要なのかという反論をしてはならないのである。
という論理を主張するために、彼らは天皇を称揚するのである。
つまり、本質的には天皇を称揚しているのではなく、国家の存在意義を絶対のものとするための論理を支持しているのである。
既に説明したとおり、権力主義者は、人間社会に依存しなければ生きていくことができない。
そのために、彼らは、天皇を称揚する。
しかし、国家(人間社会)が存在しなければ、生きていけないのは、左翼であっても同じである。
なぜならば、左翼も右翼と同じ権力主義者だからである。
しかし、天皇は、現行の資本主義を支持している以上、天皇は国家を支持するように右翼も支持していることになる。
よって、仕方なく左翼は、天皇批判をするのだろう。
左翼にとっても、神の眷属である天皇は国家の存在意義のためには必要であるが、右翼を支持されるのは困るという複雑な心境にあるわけである。
無政府主義者にとっては、天皇が神だから国家は必要なのだという論理はめちゃくちゃだということになるだろう。
しかし、権力主義者たちは、この説をどんな理由があろうとも主張し続けることは明白である。
◎ 2010年11月17日 (水) 言葉と哲学とファウスト
ゲーテは、「ファウスト」で、新約聖書では『はじめに言葉ありき』というのを見て「んな馬鹿な」という。
哲学者は、哲学とは、『はじめに言葉ありき』であるという。
哲学と旧約聖書では、とにかく言葉であるとし、実存主義者(実存哲学者)はそんなことはないという。
こちらも押し問答である。
人間誰しも、自分の身の丈にあった思想しか持てないのであるから、押し問答しても野暮である。
どうにもならないまま砕け散ってお終い。というのが人生である。
◎ 2010年11月18日 (木) 哲学と実存哲学の違い
キェルケゴールは、宗教家は言っていることとやっていることが一致していないし、哲学者は人間は絶対的真理を認識できると考えていると両者を非難する。
実存主義者からみれば、宗教家と哲学者は同じものである。
そのため、宗教家と哲学者は〜と言っているのと同じである。
実存哲学は、人間社会を否定するが、これは、言葉を否定することと同じことである。
というのも「2009年2月25日 (水) シーシュポスの神話(2)」でも書いたが、人間社会は言葉(概念)によって構成されているからである。
宗教家と哲学者が言葉を最も重要だとするのは、人間社会(国家や世間などの権力主義)を死守するためなのである。
つまり、右翼が天皇を称揚するのも宗教家や哲学者が言葉を最重要とするのも目的は全く同じなのである。
哲学者が学生に言葉の重要性を行動でもって叩き込もうとするのはそうした理由による。
また、哲学者自身も国家を守るという目的で言葉の重要性を実人生においても実践するのである。
実存主義者にとっての哲学は、権力とは何かについての追究である。
哲学者にとっての哲学は、国家の存在の意義を不動とするためか、資本主義と共産主義のどちらが正しいかの判断をつけるためである。
そのため、哲学と実存哲学は根本的に別物なのである。
哲学者は、言葉を操って論理を組み立て、実存哲学者は、言葉を作り出す元となった世界そのものを見ると言った方が分かりやすいかもしれない。
ここにおける世界とは人間社会を包括する宇宙のことである。つまり概念以前の宇宙である。
哲学を持たない実存主義者はいないので、実存主義者と実存哲学者は同じものである。
◎ 2010年11月20日 (土) 共同体
共同社会(ゲマインシャフト)であれ、利益社会(ゲゼルシャフト)であれ、協同社会(ゲノッセンシャフト)であれ、みんなで悪いことをすれば誰もとがめられないのは同じである。
どれが、一番ましかという議論は全くの無意味である。
どんな形にせよ、集団は理性の敵である。
俺は、そのことを誰よりも経験的に知っている。
少なくともよく知っている。
「富岳百景」の宿の親子は、共同体第一主義者である。
そのため、社会常識からは、ほど遠い人生を送る太宰治が許せなかったのである。
とにかく、太宰治や芥川龍之介やサリンジャーの小説が理解できる人間は、あらゆる人間から憎まれていると考えて間違いない。
特に異性には近づかないことである。
「カチカチ山」の狸や「三国志演義」の呂布みたいな末路を辿るに違いないからである。
そのくらい憎まれているものなのである。
その憎悪は、嫉妬と恐怖からくるのだろう。
実存主義者が、世間を全く恐れないのが腹立たしいのである。
また、権力主義者は色々な理由から実存主義者に恐怖するものなのである。
宿親子やうさぎやチョウセンは、典型的な権力主義者であり、その心理はこのようなものである。
だから、彼女たちの行動は、よく似ているのである。
人間は、嘘をつかなくても、他人を知るのは難しい。
他の人間とは全く違っているように見えても、中身は全く同じだったりするし、どんなに痛めつけられても、中身は痛めつけている人間と同じだったりするのである。
権力主義は、ほとんどの人間の共有物である。
それを考えると、社会的弱者だけがイエス・キリストについて行ったというのも疑わしい。