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◎ 2009年10月28日 (水) 人間の集団について(2)

司馬遼太郎 「人間の集団について」 中公文庫

p.58 『人間は孤立しては〜』〜 p.59 『生物学的世界になってしまっていることを冷静に認める次元もそうである。』
p.83 『ふつう、地球上のたいていの〜』〜 p.84 『国家の拘束もまた愉しいという社会的気分があるのではないか。』
このあたりが、著者の集団についての見解のようである。
はっきりしているのは、権力および人間社会を肯定しているということである。
それならば、「人間の集団」について意見を出すはずがないので、権力に全く不審を持っていないわけでもない。
つまり、権力について迷いの境地にいると言えるだろう。
著者は必ずしも平和と人権を口にしないかもしれないが、そういうのを心のどこかで求めるタイプの人間であろう。
なぜなら、権力主義者であるということは、それらを手放したことと同じ事だからである。
投げやりで当て推量な文章を読むと、権力に敵対した人間にしか権力の本質や性質は理解できないことが分かる。

p.70 『人間社会から孤立して暮らすという、つまり生物としての人間が元来そういう生存は不可能とされていること』
そんな人生は、頭からありえないらしい。

p.77 『カオダイ教は、儒教と仏教とキリスト教の三つの教義を融合というよりは足し算したような傾向』
p.86 『カオダイ教〜サイゴン政権に対して治外法権を持つに似た自立性を維持し〜日本の知恩院や本願寺とはひどく印象が違っている』
所詮、宗教組織なので、権力主義であるには違いないが、治外法権を確立できるところが注目に値する。
しかし、ビクトル・ユーゴと李白など実在の人間を聖人とするところは、芥川の河童に似ているし、創始者によれば、カオダイ教はモーゼとキリストと老子と釈迦を合わせたものらしい。むしろ、イスラム教に似ているのである。
また、モーゼは分からないにしても、数ある宗教の中で上手く実存主義者ばかりを取り上げたものである。
そうは言っても、儀式や教義、義務などがあるような普通の宗教であるには違いない。
また、ソクラテスがいないし、実存主義哲学者、作家は、他にも多くいるはずが、見つけられなかったようである。
創始者は、ある程度、実存主義者のようである。

p.104 『「こいつ、日本人だろう」〜(ははあ、これは香港映画だな)』
p.115 『ベトナム人というのは、あまり団結したがらない民族ですか』
p.116 『村のひとびとは橋をつくるのに、どこからも援助を受けずにやりました』
p.117 『豊かになれば団結できます』
当て推量に思うのは、こういうところである。
華僑に嫌われているのは、勝手に香港映画のせいだと思っているのである。
これは、実際は、その華僑本人だけが知っていることなのである。
「団結」というのは、集団という権力を結集して、他人にむりやりやらせることをいうのである。
そのため「団結」のためには、団結に参加した人々は、権力(集団)のために理性を完全に捨て去るし、場合によっては自分の命も捨てるのである。
このベトナム人は、明らかに、「団結」を「助け合い・思いやり」と勘違いしている。
「助け合い・思いやり」は、人間が自分の余力で行うものだからである。
権力主義国においては、全て、「〜してやった」になり、必ず返してもらわなければ割に合わないのである。
権力主義者は常に他人を意のままに操る隙を探しているのであり、手当たり次第に何でもその策略とするのである。
ベトナム人にとって、団結組織である会社が無いことや産業が育たないことは、むしろ、誇りであると納得すべきである。
この国の人々は、わざと経済を発展させないのである。
キリスト教や儒教の国は権力主義であるため、団結の国である。
これらの国々は、ほぼ全員が権力主義者である。
司馬のように、相手が勘違いしてることに気づかないほど権力主義が徹底しているのである。
欧米諸国、中国、朝鮮半島、日本などには、このような考え方があることすら想像がつかないことを意味している。
察するに相手は、わざと間違えて見せたのであろう。
自分で見に行ったわけではないから、実際に、全てのベトナム人が実存主義者であるかとなると疑わしい。
そうなると、わざと経済発展させないというのも前提が崩れたことになる。




◎ 2009年10月29日 (木) 人間の集団について(3)

p.139 『先祖以来墳墓の地にしてきたそういうものを守る』
つまり、慣習や儒教的道徳や世知などの太古より伝わってきた人間社会のことである。
人間の定義が、「社会に依存する動物」であるから仕方ない。
特に権力主義者にとって社会は、酸素そのものなのである。
戦争が、国内における経済格差による内政破綻から国民の不満を外部に向けさせるのが、きっかけであるにしても、国際交流において国内常識の押し付け合いを常に問題として抱えている以上、国内常識を守るためというのは、本質から外れてはいない。
実際、日本は戦争に勝ったとき、敗戦国に日本の常識を押し付けてきたのである。
日本が負けたときに、外国がそうしないとは思えないのは当然だろう。

p.218 『独断はもろくもくずれてしまった』
p.220 『太平楽をならべ〜これは政治情況の説明をしているのではない』
著者には、独断癖があるらしく、その上、この小説の内容は太平楽らしい。
残り数ページで、書くようなことだろうか?
僕自身そうしているので、独断でも良いのだが、自分の持ち合わせの知識だけで結論を出してしまうのが問題だ。
本には常に、重要なことは書かれていないものだからである。

p.202 『カウボーイ』
日本人も特に外国人を対象にはしないが、同じ事をやる。
どの国も似たようなものだ。

p.129 『かれらは低地にいるベトナム人の農民達を襲った。〜青木氏らも危険を感じてそこを立ちのいた。〜戦友の二人は高地人に包囲され〜戦死した。』
ベトナム人というのは、水田系ベトナム人のことであり、高地人とは、高地系ベトナム人のことである。
この事件をベトナム人に告げ口されるかもしれないと思われて、戦友は殺されたのかもしれない。
高地人のこの行為は、団結である。
もし、先祖代々このような団結によって反撃する慣習が社会にあり、それに従っただけならば、高地人も権力主義者だろう。
メコンデルタを奪い取った要領で、高地人の焼畑農地も奪い取ろうとでもしたのだろうか?
だとしたら、ベトナム人は、高地人達をに死滅させようとしたのであり、高地人の行為も納得できないことはない。
その場合、これは、豊かさを奪い取るためではなく、自分の命を守るための団結であり、権力とは無関係の団結ということになる。
なぜならば、そこには誰でも分かる必然の理由があり、理性を消失したわけではないからである。
焼畑ということは、高地人は米を作らないのであり、自給自足かつ無一文で普段生活している高地人は、土地以外の財産を何も持っていないことになる。
(注 米は、江戸時代、金銭の代用品であったように財産である。そのため、税金の代わりに年貢が可能だったのだ。)
というわけで、ベトナムの高地人は、実存主義者である可能性がある。
ただし、農地の問題だけは、どうにもならないようだ。
これは、この本のどこかに書いてあった「アメリカインディアンにおけるバッファローの群れ」である。
ということは、インディアンも実存主義者の可能性がある。
ベトナムにおいては、住み分けが確立されたが、白人は、それを許さなかったのかもしれない。
第二次世界大戦以降ののアメリカの十字軍のような対外政策は、まさに、そのままといえる。
ベトナム人も権力主義者であるには違いないだろう。儒教の影響を受けた国ではあるし、イデオロギーにも振り回されるし、愛想笑いはするし、政府も存在するし、ベトナムだけが実存主義国ということもありえないからだ。
僕は、ソクラテスやキリストの二の舞をやっているようである。
真実を追究をしても、それは公開すべきではない。
いや、公開で留めて布教、説得までしなければ良いのかもしれないというのは、やはり、読みが甘いのだろう。
この事件が、高地人の社会に伝わる慣習に従ったに過ぎない可能性は当然、残る。
高地人もインディアンも、実は理性があるわけでなく、慣習に従って生活していただけかもしれない。
実存的社会においては、その社会の住人も実存主義者でなくては、無意味である。
彼らは、実存的社会を形成していたかもしれないが、それよりも実存主義者であることの方が重要である。
そもそも、事件そのものが、でっちあげの可能性があるが、そのような事件が起こりうる可能性があるため、考えることは無意味ではない。
十数年前に、「個性重視」が流行し、画一的ファッションが否定されていたが、個性は重要ではなく、理性を持つことが重要なのである。




◎ 2009年10月30日 (金) 権力の性質

「2009年10月27日 (火) 唯心論・唯物論」において、政治家(権力主義者)にも理性があるようなことを書いたが、これは、司馬遼太郎の「人間の集団について」のどこかにも書いてあった『集団の理性』に相当するものである。
しかし、それは、権力(集団、暴力、策略など)を駆使して、他人から自分が欲しいものを奪い取る、あるいは、他人を支配するというものであり(注 もちろん、個々の集団によって他にもバリエーションはあるだろう)、これは、理性と呼ぶよりは、むしろ、権力の性質をそのまま受け入れたという代物である。
僕が、以前にどこかで書いた長ったらしい論理性は、『集団の理性』には微塵もないのである。
その権力の性質とは、その集団とは異なる考え方の集団、あるいは個人の存在を認めないというものである。
存在するならば、権力によって改宗させるのである。
これは、人間がどうこうできるものではなく、集団という権力(注 キリスト的にはサタン)が独自に持つ性質なのだ。
アメリカは、この権力の性質を人間の力(意思)でコントロールしようとして、結局、敗北したのである。
「平和・自由・人権尊重」とは、この「権力の制御」のことを指していたのだ。
権力主義者は、権力に全面的に降伏し、神と崇めているのである。
他にも、権力が持つ性質は、色々あるに違いない。
すでに説明したように、国家は、いずれ崩壊することが運命付けられている。
崩壊後の人間社会が、どうであるかは個々の人間次第であるといえるだろう。
現在から国家崩壊までの期間は、どちらを選択するかを考える猶予期間であるといえるだろう。
「長ったらしい」と書いたが、理性とは僕がこれまで書いてきたような内容のことであって、それにどう形容詞をつけるかは、読者次第である。

もう一つの権力の性質として、ほんのわずかでも権力を取り入れたら、必ず、巨大権力に育つというものである。
例えば、小さな政府、小さな官僚機構、わずかな法律にしたら良いと思うのは、浅はかである。
権力と理性は共存できない。
例えば、ガン細胞と共存することを考えれば良い。
抗生物質でガン細胞の増殖を抑えていても、いつかは、血管やリンパ管を通って転移するのである。
そして、現在は、ガンの末期に来ていると考えれば良いだろう。
除去したくてもできないのである。

権力主義者は、権力に近づくと、なけなしの理性を消滅させて、代わりに「集団の理性」を置き換えるのである。
これが、一般に、社会性があり協調性があると言われている普通の大人なのである。
大人と言っても、子供もほとんどが完全な権力主義者である。
わずかな例外(中途半端でどっちつかずな人々)が、大人になって権力主義を強化されるだけである。