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◎ 2009年10月19日 (月) 義理、他

ことわざ 『義理と褌(ふんどし)は、かけねばならぬ』

不義理・・・@義理にそむくこと
      A借金を払えないこと

義理知らず・・・@義理をわきまえないこと
        A贈物を受けて、お返しをしないこと(人)

マンガ 老荘の思想 講談社+α文庫
p.128 『罪悪の大部分は、仁義という名目を使って行われてるんだよ』

ことわざ 『親の因果が子に報いる』
     『寄らば大樹の陰』
     『勝てば官軍、負ければ賊軍』




◎ 2009年10月20日 (火) 実存主義者の書物

実存主義者の言う事や書物は、教え諭すものではない。
Yes か No かそれだけを聴いているのである。
釈迦でも老子でもソクラテスでも同じことである。
もし、聴かれて考えたことがない事であれば、その後に何十年もかけて、人生経験から結論を出せば良いのである。
あらゆる人生哲学は、他人から教えてもらうことではなく、自分でゼロから考え出すものである。
実は、禅問答も、考えるきっかけを与えるものでも、教え導くものでもない。
ただ、どこまで、実存主義を究めたかを確認するだけのテストなのである。
テストをしても、テストした側もテストされた側も何のメリットもない。
しかし、実存主義者同士のコミュニケーションでは、それ以上、どうすることもできないのである。
だから、禅問答は、本質的には無意味なものである。
せいぜい、実存の初心者が、修練している気分になれる程度の意義しかない。
また、老子に書かれていることも、釈迦やソクラテスが後世に伝えたことも、具体的なことには、ほとんど意味がないのである。
彼らは、無駄と知りつつ書いたり伝えたりしたのである。
老子は、内容的に禅問答と同じである。
荘子は、少し違って、内容が具体的なのである。
マンガ 老荘の思想 講談社+α文庫
p.90 「邯鄲(かんたん)の歩み」や p.146 「犠牲」は、実際にそんな目にあった人間が世界中にいくらでもいるのである。
しかし、具体的なだけに、その他の話については、必ずしも正しいとは限らない。
「2009年4月19日 (日) 実存の定義」において、@Aの結果としてBになるなどと書いたが、実際そうなのかどうかとなると、我ながら怪しいものである。実は、@ABの間には関連性はないのかもしれない。




◎ 2009年10月21日 (水) 訂正

マンガ 老荘の思想 講談社+α文庫
p.21 『中国の知識層の伝統的処世法は、公の場では儒教の価値観で自他を律し、私生活では、しばし荘子の説く天地一体の境地に安らぐことであった』
p.152 『つねに主体性喪失の危機にさらされている現代人にとって、老子の生き方はひとつの指針となるであろう』

「律し」というのは、「支配し」という意味だろう。
他人を支配するためには、自分にも多かれ少なかれ拘束が必要となるのである。
「公の場」というのは、権力に直面したときをさすのだろう。
つまり、権力が関係するときには、理性を自動的に消失してしまい、権力に関係のないときは、理性が息を吹き返すのである。
あきれた話である。理性が必要なのは、権力に関係のあるときだけである。
「2009年6月23日 (火) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(1)」に、
『芸術に興味がないのは、実存主義者にむかついている権力主義者か、他人の人格などに感心しない聖人だけなのである』
と書いたが、これは間違いだった。
一人でいるときの権力主義者にも、芸術を理解できる可能性があるのだ。
芸術や美などは、所詮、理性の副産物に過ぎないのだろう。

「主体性」とは、理性のことである。
「常に主体性喪失の危機」にあるのは、現代人だけでなく、ずっとそうだったのである。
集団(権力)に直面すると、人間は自動的に理性を消失するからである。




◎ 2009年10月21日 (水) 田舎教師

田山花袋 「田舎教師」 新潮文庫

p.51 『人間は理想が無くっては駄目です。仏も〜霊肉の一致は説いていますが、どうせ自然の力には従わなければならないのは解っていますが−そこに理想があって物にあこがれる処があるのが人間として意味がある』
つまり、公の場では理性を失っても、一人でいるときは理性を取り戻せという意味だろう。

p.184 まで読む。
主人公の林清三は、僕に似ているところがあるかもしれない。
確かに青雲の志だが、文学だったり音楽だったり、その立身出世の対象が普通とは違って、とてもナンセンスだからである。
しかも、それらは独学で、片手間で、真剣に作家や音楽家を目指している人々から見れば、冗談にしか思えないだろう。
林清三は、商売女に溺れて騙されたり、実存主義者ではなく俗物のように見えるが、深層心理の最も深いところで、実存の芽にもならないような、あいまいなものがあるように思われる。
しかし、その些細なものが、一人の人間の人生を完全に他人と違ったものにしてしまうのだ。
肥料の研究をしたり、作家を志したり、仏門に入ろうとした宮沢賢治や、公務員でありながら、作家を志したカフカなどと実は、根の部分は同じなのである。
宮沢もカフカも生前は、ほとんど、原稿料をもらっていないのである。
林清三の場合は、彼らよりも更に、解りにくいのだ。
いや、むしろ、現実逃避のドンファンにより近いかもしれない。
宮沢やカフカよりも世間を突き放しているからである。

井上靖の「その人の名は言えない」にも、借金をしまくって商売女に貢ぐ男が登場するが、林清三と違って、本当に積極性以外に何も無い男である。
そもそも、小説そのものが、ただの娯楽小説に近いものだった。

田山花袋は、自然主義作家と言われているが、この作品においては適切であったし、むしろ、もっと自分の分析を入れなくても良かったかもしれない。
「田舎教師」は、花袋版の「異邦人」といえるだろう。

読了。
解説によると、林清三にはモデルがあるという話だが、荻生さんは、全く架空の人物に思われる。
その他の人物については、実在したように思われる。
ただし、清三の場合と同様に、花袋独自の分析と自由な人物設定によって、実在のモデルとは考え方も行動も異なるように思われる。
どこまでが実在の人物に近く、どこからが花袋の想像なのかを見極めるには、もう一度、読み直す必要があるだろう。
清三と荻生さんが、花袋の分身に思われる。
荻生さんにのみ「さん」がつくのと、清三の父の禿頭が強調されているのが、特異な点である。
肺病を胃腸病と誤診するのは、「フラニーとゾーイ」における「ベシーのミカン」と同じ意味にも受け取れる。
というのも、咳が止まらずに、素人ですら肺病と思っているのに医者が何度も胃腸病と診断し、高額の胃腸薬を売りつけるのは不自然だからである。

p.200 以降は、ほとんど日露戦争が主役のように見える。
戦争のインパクトが強すぎて、清三のことがどうでもよくなったのだろうか?

自然主義文学・・・ゾラは、人間を遺伝・環境・時代に支配される存在と考え、それを実証しようとした。
         自然主義文学の特徴は、人生や社会の真実を追究して醜悪な事実や暗黒面を描くのを恐れなかった点にある。

私小説・・・作者自身が直接に体験したことが最も確実な真実追究であるとの考えから、作者身辺の経験や心境などを書いた小説。
      身辺雑記に堕したものが多いが、優れたものも多くある。

芥川などの時代には、自然主義文学は、私小説であると解釈されていたように思われる。
「田舎教師」は、実在モデルの日記を元にしているということだが、多分に作者による自由な性格付けがされていると思われ、私小説としてはあまり成功していないように思う。
この小説は、場景描写に殊に力が入れられているが、多くの登場人物に作者による自由な人物設定が加えられているために、ほとんど無駄になってしまっている。
無駄なことに注力するのは、作家の姿勢として不自然である。
一見ただの退屈な私小説に見えるが、実は不可解極まりない。




◎ 2009年10月24日 (土) 第二次世界大戦中の民衆心理の仮説

国家主義・・・各人は、その属している国家のために存在しているのであって、国家のためにあらゆる犠牲を払わなくてはならないとする主義

戦争中は、日本国民は、国家主義一色だったそうである。
国家主義は、権力主義の国家権力を神とする一種であるといえるだろう。
もちろん、国家主義と言っても、人間は色々な権力(集団)に重複して属しているのであり、それらも国家に次ぐ神として存在しているのである。
権力主義者が国家主義者に変貌する経緯は分からないが、本質的には同じ物だから移行は簡単だろう。
現在は、戦争が始まる前の状態に近いため、ようやく分かってきたのだが、権力主義者達は、戦争が近くなると、権力主義の布教を手段を選ばず活性化させるのである。
シーモアやバディを権力主義に改宗させることはできないが、フラニーやゾーイ程度の中途半端な人々は、権力主義者の暴力や世間知によってこの時期に一斉に改宗させられるのである。

国家主義者に、真実は必要ない。
たとえ、空が青くても、国家が空は黒いと言えば、空は黒くなるからである。
そのため、毎日のように本土が空爆されても、戦争には勝ちつづけているのである。
昨日までは、圧倒的に戦争に勝っていたのに、国家が負けたと言えば負けるのである。
民衆(国家主義者)は、どんな経緯で戦争が始まったかなどは全く知る必要も無く、敵国はどんな理由があっても悪魔なのだ。
民衆は、何も知らないことにもどんなに現実が情報にそぐわなくても、全く疑問を持つ必要は無い。
戦争中だけではない。平和なときもそうなのだ。
新聞やテレビを民衆が見るのは、権力が何をおっしゃているのかを知るためであり、それ以上の意味は無いのである。
ジャーナリズムというのは概念だけ存在していて、現実には、戦争中であっても平和であっても一切、機能していないのである。
嘘しか書いてなくても、国民(権力主義者)は喜んで金を出して新聞を買うのだ。




◎ 2009年10月24日 (土) 汎〜主義

汎スラブ主義・・・19〜20世紀にかけて、ロシアの領土拡大のため、ロシアを中心とするスラブ民族の結束を理想とする主義
汎ゲルマン主義・・汎スラブ主義に対抗して、ドイツ民族の対外発展を策する主義

領土発展となっているが、本質的には、スラブ民族、ゲルマン民族の太古から継承してきた社会常識を全世界に強要させようとする運動だろう。
これは、アメリカが第二次世界大戦以降、ずっと実行しつづけていることであり、日本が、第二次世界大戦中、朝鮮半島や中国に対して実行していたことである。
すでに説明したように、これは、権力の性質の一つである。
何しろ、強要できなかったら国内に内乱が発生するんだから仕方ない。




◎ 2009年10月24日 (土) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(8)

カミュ「革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-」 新潮文庫 「A・カミュに答える」

p.41 『君も連帯責任を回避しないと僕が確信しているあの態度は〜』
カミュが、サルトルの雑誌に投稿した理由は、サルトルがカミュと絶交したがっているのを怒ったからだろう。
しかし、商用雑誌にそんなことを直接書くわけにはいかなかったから、ジャンソンの批評に反論する形をとったのである。
カミュは、実存の布教をしており、サルトルの言論界における影響力を当てにしていたのではないだろうか?

p.73 『君と僕との友情は〜、君が今日それを断ち切るとすれば〜』
それに対するサルトルの回答は、逆にカミュの方がサルトルと絶交したがっていると読者に思わせているのである。
しかし、その後のサルトルのジャンソンに対する全面的な擁護をみれば分かるように、サルトルはカミュと絶交したがっているのである。

つまり、お互いに腹の内で考えていることと、実際に発言していることは違っているわけである。
本当は、この本に書かれていることは、それだけなのである。
しかし、第三者である読者には、そんなことはどうでも良いことであり、カミュの哲学がより分かり易く書かれてあるので問題ないわけである。

p.94 『自然は〜人間を押しつぶすかもしれないが〜』
田山花袋 「田舎教師」 新潮文庫
p.51 『どうせ自然の力には従わなければならない』
権力主義者は、人間社会を自然と呼ぶ。
つまり、サルトルは権力主義者なのである。
実存主義者が自然というときは、老子の「道」を指すのである。
カミュは、サルトルが実存主義者ならば、自分は実存主義者ではないと言う。
「〜主義」というのは、先に名乗ったもの勝ちなので、カミュはそう言ったのである。
しかし、「実存」という言葉を考案したのは、キェルケゴールであり、サルトルはキェルケゴールの「実存」を全く理解できていないため(注 理解というより実存は実践するものである)、サルトルが実存主義者を名乗るのは、おこがましいことなのである。
カミュ(実存主義者)にとって言葉や概念とは、所詮、表面的なものに過ぎないので、サルトルがキェルケゴールを全く理解できないにも拘らず、実存主義者を名乗っても咎めたりはしないのである。
しかし、僕は、ややこしいと思ったから咎めるのである。
p.92 以降、サルトルは抽象的な事をだらだらと書いているが、論理の初っ端の「自然」からして我々とは概念が違うのに、実存主義者にサルトルの哲学を理解することなど不可能である。
権力主義者が権力主義社会を自然と呼ぶのは、もちろん、権力を神としているからである。
実存主義者と権力主義者は、根本的に視野が違うのである。

p.82 『種族の優越感』
カミュが、ジャンソンを無視するのは、論旨が理解できていないだけでなく、自分の意見をカミュの意見であると読者に思わせようとした悪意である。
あまりに、失礼だったから返答する価値なしと判断したのだろう。
しかし、それならば、一切、返答しなければ良かったのだ。
サルトルの裏切りへの怒りが、返事を書かせてしまったのである。
しかし、サルトルは全く実存主義者ではないので、真相からすると裏切りでもないのである。
サルトルの場合は、むしろ、実存主義者に見せかけようとしたペテンである。
『携帯用の踏絵』を誰よりも恐れていたのはサルトル自身だったようだ。
今日では、サルトルは実存主義哲学の第一人者であると世界中から思われている。
実存主義者のポジションに安住していたようだが、結果的に恥の上塗りになった。




◎ 2009年10月26日 (月) ジャーナリズムが権力の広報係に成り下がる法則

植物の葉は、常に日光の当たる方向を向きたがる。
人類にとっての日光は、権力である。
実存主義者は、時々、全人類が「我々は、真実など全く興味は無いし、聞きたくも無いのだ。権力様のおっしゃることだけが、真実であり全てなのである。」と声をそろえて叫んでいる姿を目撃するのである。
実存主義者は大人になってから、彼らにそうさせるのが権力による暴力や世知によって深層心理に植え付けられた恐怖を原因とすることに気づくのである。
もちろん、そんな人類にジャーナリズムなど全く無意味である。
ニーズの無い商売が成立しないのは、資本主義であっても共産主義であっても同じである。
仮に、権力様の意見と食い違う真実を目撃してしまっても、深層心理の恐怖がそれを認識させないであろうことは、僕には容易に想像できるのである。
「見ざる聞かざる言わざる」と言うが、そんな標語は必要ないのだ。
無意識レベルで真実を排除してくれるからである。
もし、そんな権力主義者が世間(権力)を敵に回す羽目になったらどうするかといえば、あきらめて自殺するらしい。




◎ 2009年10月26日 (月) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(9)

p.103 『そこで、君は「自然」にたいする人間のたたかいが、同じように古くて、もっと無慈悲な別のたたかい、つまり、人間の人間にたいするたたかいの原因であり、同時に結果であることに、眼をおおってしまったのである。』
これは、サルトルの間違いである。
サルトルにとって「自然」とは、「権力」または「権力主義社会」のことである。
権力主義者は、権力という概念に対して敵対しない。
それをするのは、実存主義者である。
カミュが言いたかったのは、権力が、人間同士の戦争の原因であり、その他あらゆる災厄の原因でもあるということである。
サルトルは、実存主義者ではないので、何を言ってもボロが出るのである。

p.104 『君の死・生・大地〜などは。、王侯の遊び』
カミュは、共産主義がただの権力主義であることを見抜き、資本主義と同じように富の不平等のために滅びることを予見したのである。
共産主義で富の不平等というと変に思うかもしれないが、現実に、ソ連はそのために滅びたのである。
これが、権力主義なのである。
権力主義の前には、自由市場主義も共産主義も関係なく、富の不平等で滅びるのである。
もちろん、カミュの思考の延長には、実存的無政府主義以外にはありえなく、そこには、カミュは辿り着けなかったのだ。
仮に辿り着いても、実存的無政府主義が永遠のものではないことを、カミュに見抜けるわけが無く、カミュは実存の布教をやってしまうのだろう。
そもそも、実存主義者は、カミュやキリストのように呼びかけによって連帯しなくても、状況を正しく理性によって判断し自ら行動するならば、自然と同じ行動になるのではないか?
つまり、布教は作為に相当するので、実存主義者らしくないのである。
言い換えると、「2009年8月5日 (水) 用語」で説明したキニク学派の作為的な世捨て人と、実存主義者のいつのまにか世捨て人の違いみたいなものである。

p.104 『この世のすばらしさは、貧困の末端はつねに世界の贅沢と富につながることを知っている万人による<証明>ではないか』
僕も、社会について考えるときは、常に社会の最下層について考えるのである。
というのも、社会の最貧民層(基本的人権が侵害されている人々)を無くすことは、万人の不安を消滅させることになるからである。
なぜならば、もう、そこに落ちる人はいないからである。
ただし、そういう意味でカミュが言ったかどうかは分からない。
しかし、実存主義者は皆、そのように考えるであろうし、釈迦や達磨大師は王族出身者であってもそのように考えたであろう。

p.108 『<歴史>に意味があるかないかだ』
p.108 『<歴史>は何もしない・・・すべてをなすのは人間であり〜』
p.109 『そして問題はその目的を知ることにあるのではなくて、それをあたえることなのだ』
ここでの<歴史>は、外国との戦争ではなく、暴力革命である。
意味とは、ジャンソンが書いた p.21 『革命的現象の本質』のことである。
サルトルは、革命を起こす者が革命に意味(本質)を与えるのだと言う。
つまり、サルトルは、革命は純粋に何かの目的を果たすための手段であると言うのである。
つまり、サルトルにとっては革命に大義名分は存在しないのである。
ここではっきり、三者の立場が分かれたのだ。
ジャンソンは、暴力革命は貧困層を救うために法律(既得権)を破壊することに意義があり、国民主権や共産主義や尊皇攘夷などというのは、大義名分に過ぎないという立場である。
カミュは、暴力革命が発生するなら発生しても良い。しかし、大義名分は一切使うなという立場である。
なぜなら、大義名分は勝利後に必ず、果たされなくてはならないからである。
というよりは、作為的であることは多くの場合、間違いを含むのであり、急進的行動は大きな被害のみをもたらす可能性が高いからだろう。
また、大義名分というのは所詮、虚偽であり、虚偽の方法論を認めるのは、実存主義者らしくないのである。
また、老子、釈迦、ソクラテス、キェルケゴールなど多くの実存主義者は、作為を認めないということもあるいは含まれるのかもしれない。
また、実存主義者は、人間社会に依存しないのであって、多くの犠牲を払って人間社会の改造をするのは無意味だからである。
また、反権力主義者が権力を使って目的を達成するというのも筋が通らないからかもしれない。
また、暴力革命が成功した場合、新たな政権が巨大軍事力(権力)を持つからかもしれない。
他にもあるだろう。
しかし、できることならば、万人が実存主義者になるならば、革命は発生しなくて良いはずである(ただし具体策なし。これから考える)という立場である。
サルトルは、純粋な共産主義者であり、共産主義社会の実現のために革命を認めたい立場である。




◎ 2009年10月27日 (火) 唯心論・唯物論

唯心論・・・世界の本質と根源を精神的なもの(霊魂・精神・理性・意志など)に求め、物質的なものをその仮象となす立場。ヘーゲルなど。

唯物論・・・精神(観念)に対する物質の根源性を主張する立場。人間の意識から独立した客観的実在を認め、認識を人間の頭脳による客観的実在の反映であるとする。

弁証法的唯物論・・・人間の意識から独立して存在する現実とその弁証法的発展、思惟の弁証法はその反映であるとするマルキシズムの世界観、方法論。
          生産関係の弁証法的発展が社会・歴史の発展の根本原因であるとする。

機械的唯物論・・・生命や人間の意識の世界をも物理的自然界と同質的に取り扱い、力学的方法で説明しようとする唯物論。

主観的観念論・・・ 客観的なものをすべて意識・精神の内容に帰し、存在を主観的観念と見なす立場。

客観的観念論・・・世界の本質を主観的意識とは独立に存在する何らかの精神的・観念的なものと見て、一切の現象界をこれの顕現と見る形而上学的立場。ヘーゲルなど。

超越論的観念論・・・人間の認識は経験と共に始まるが、経験に由来せず、それが可能になるのは主観の先天的直観および思考形式により感覚的所与が構成されるからであるという認識論上の立場。

絶対的観念論・・・精神と自然が根源的には同一であるとする立場。ヘーゲルなど。

絶対主義・・・絶対的真理ないし絶対的実在の認識を可能とする説。[反]相対主義。

相対主義・・・絶対的な価値認識は不可能とする説。[反]絶対主義。

客観的観念論と絶対的観念論を両方認めると、世界には真理が存在し、それを人間は正確に認識できるという考え方に確かになる。

この中で、弁証法的唯物論は認識論ではなく社会進化論である。
つまり、マルクスの論理的錯乱である。
マルクスは、ヘーゲル学派の一人であり、ヘーゲルの間違いを受け継いだのである。
一般に、唯心論と観念論は同一のものとされているが、実際は、観念論は唯物論だからである
そのため、主体的観念論は主体的唯物論であり、超越論的、絶対的も同様に唯物論なのである。
機械的唯物論も認識論ではなく道徳論である。
ヘーゲルは唯心論者となっているが、実は唯物論者なのである。
つまり、ヘーゲルの論理的錯乱が、更に見当違いのマルクスの論理的錯乱を引き起こしたと言えるのである。
また、絶対的観念論を提唱したのは、シェリングであり、ヘーゲルはそれに追随したのである。
最初の原因は、シェリング、あるいはその先人であるが、理論の真偽を考えずに追随するのも問題であろう。
認識論は、基本的に2つしかないのである。
人間は、真理を正確に認識できるという絶対的唯物論と、できないという主観的唯物論である。
超越論的唯物論は、主観的唯物論における認識方法論である。
なぜならば、こんなあいまいな方法で真理を正確に認識できるはずがないからである。
できるというのであれば、両方で通用する認識方法論としても良い。
客観的観念論とは唯物論そのものであり、唯心論はその逆である。
「2009年8月15日 (土) 警察」で説明した「色即是空」が唯心論の説明であり、唯物論はその逆である。
さて、唯物論と唯心論のどちらが正しいかだが、ケースバイケースで、あるいは物の見方次第で、どちらもありえるのではないだろうか?
というよりは、唯物論と唯心論が交互に入れ替わっているという物の見方もあるかもしれない。
しかし、人間に作為がなければ唯心論そのものが消滅するような気がしないでもない。

「国家の成立が土地の所有権と金銭(財産)の使用にある」というのが唯心論ということは、唯心論とは人間が勝手に考え出した(思い込んだ)ものが人間社会に物質化するということである。
それは、マルクスの考えた共産主義が人間社会に実現した(物質化した)のと同じ意味である。
即ち、マルクスは(もちろん、ヘーゲルも)唯心論者でもある。
ということは、絶対的唯物論者は必然的に唯心論者でもあるといえる。
というのも、絶対的唯物論者は自分の理性を真実と信じて、次から次へと人間社会に彼らの理性を物質化するからである。
ということは、あらゆる政治家も唯心論者ということになる。
次から次へと彼らの理性が人間社会に法律として物質化するからである。

絶対的観念論(僕の説では絶対的唯物論)と絶対主義は、同じ意味である。
ただし、絶対的認識を不可能とする説に、相対主義と命名するのは間違いである。
なぜならば、絶対の反対は相対ではないからである。
絶対の反対を相対とするのは、「白色の反対は黒色」と言っているのと同じである。
絶対主義の反対を相対主義と命名するくらいなら、不信主義とでもした方が、まだましである。
絶対的なものの反対が比較になってしまうのは、悪質な虚偽である。
絶対を認めないから多数決で物事を決めるのはなく、疑わしいという認識をして中庸に努めるのが正しい方法である。
物理理論においては、絶対座標、相対座標、相対性理論などがあるが、これも必ずしも正しい用法ではない。
絶対座標といっても、基準を固定的にするというような意味であり、絶対というのとは本来的には意味が違うからである。
相対の反対は、固定基準、意味が少し違うならば、普遍的基準、あるいは絶対的基準としても良いかもしれないが、絶対と絶対的基準とは全く意味が違うのである。
そのため、絶対的認識の反対が相対的認識になることもないのである。
「基準」の一語を省略しただけで、大変な誤認識を招くのだ。
「名は体をあらわす」というが、そうは、なっていないのが現実である。
このことも、絶対主義が現実では実現されていない証拠となるだろう。
相対の反対を絶対とするのは、「悪質な虚偽」と書いたが、それは結果的にそうなってしまっただけである。
というのも、「相対」とは固定的な基準に対してのみ使われるため、決して「相対基準」と言われることはなく、そのため、「相対」は基準についての用語であると言え、その反対の語も必ず基準に関するものだからである。
そのため、「相対」の反対語の「絶対基準」から「基準」が省略されてしまうのは、「分かりきったことは省略される」という省略の法則からすると正しいのである。
我々は、ここで、省略の法則に適っているからといって、何でも省略すればよいというものではないということを学んだわけである。