◎ 2009年8月11日 (火) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(6)
カミュ「革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-」 新潮文庫 「『現代』の編集長への手紙」
p.51 『「反抗的人間」の目的は純粋な反歴史主義は、すくなくとも今日の世界で、純粋な歴史主義と同じように憂うべき問題である、と証明することにある』
カミュは、反歴史主義批判を「反抗的人間」でしているにも拘らず、ジャンソンはカミュを反歴史主義者であると放言すると指摘する。ジャンソンは、カミュの反抗は歴史主義に対する反抗だから、反歴史主義と同じ事だと言っているのだろう。
p.52 『歴史を自足している完全なものと考えようとすれば、現実から遠ざかる』
貧富の差があるために、貧しい人々が生活できなくなる時期が来て、そのために革命が発生するという、従来のやり方ばかりを繰り返しても仕方ないという意味だ。
革命には、いろいろなものがあるが、真の理由はこれだけなのである。
尊皇攘夷、民主主義、共産主義などというのは大義名分(嘘の理由)である。
p.54 『「歴史主義」を「歴史」で置き換えている。これは、この本を反対のものにし、〜』
カミュにとって「歴史主義」とは、ある思想を真理(客観的理性)であるとし、それを実現することである。
ジャンソンにとっての「歴史主義」とは、カミュにとっての「歴史」のことであり、それは、貧富のせいで大義名分による革命が発生することである。
カミュは、「歴史主義」と「歴史」は別物であると考えているのに対し、ジャンソンは、この2つを同じものであると考えているのだ。
「反抗的人間」を読んでいない僕も当然、この2つを今まで同一のものだと思っていた。
カミュとジャンソンの「歴史主義」についての概念解釈が異なるため、話がかみ合わないのだ。
カミュは、「歴史主義」に反抗しているのであり、「歴史」に反抗しているのではない。
p.34 『「歴史」は「不条理」の一変種であろうか?』
カミュの言葉の意味は、場所によってコロコロ変わるので、ジャンソンが勘違いするのも当然だ。
p.57 『厳密な意味ではマルキシストではない』
p.58 『マルキシズムを暗黙の教理として認めているらしい』
p.58 『観念論を反動的な理論と断定することは、マルクスのうちに見いだされる観念と概念の資料にたよらなくてはできない』
マルキシズムは、「歴史主義」を実践しているので、「観念論を反動的な理論と断定する」という意味だろう。
そのため、カミュは「現代」誌もマルキシズムを受け入れているとみなすのである。
しかし、この論法では、「現代」誌はマルキシズムというよりも歴史主義と考えるべきだろう。
◎ 2009年8月11日 (火) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(7)
カミュ「革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-」 新潮文庫 「『現代』の編集長への手紙」
Wikipedia 「ミハイル・バクーニン」
p.57 『バクーニン主義』
カミュは、資本主義や共産主義とは違って、巨大権力(中央政府)が存在しないバクーニン主義の革命家に好感を持っている。
バクーニン主義は、基本的に反権力主義なのでカミュが好感を持つのは当然である。
しかし、金銭も土地の所有も認めるので、当然、法律も認めざるを得なく、ほとんど意味が無いのではないか?
カミュの主張はバクーニン主義そのものではなく、その実現方法である。
歴史主義は、ソクラテスの「無知の知」から分かるように実存主義に確実に反するのである。
カミュの考えでは、貧富の差による生活難が革命を起こすなら起こればよい。
ただし、大義名分に主義や思想を使うなということなのである。
大義名分なら、貧困層の生活難で十分ではないかということである。
カミュのこのような考え方は、権力主義者には全く理解できないだろう。
実存主義者だけが、全く疑問の余地も無く理解できるのである。
権力主義者が、おそらく考えるであろう疑問は、大義名分が何でも良いなら何で主義や思想が駄目なのだ?というものである。
それは、言葉で説明できんのだ。
実存主義を究めた者だけに理解できるのだ。
何十年にも及ぶ実存主義者としての経験だけが、納得させるのである。
実存主義は、個人にとって良いことは、全人類にとっても良いことであると経験が教えるのだ。
そのため、実存主義者や実存主義社会の欠陥に気づかなかった実存主義者は実存を布教しようとするのである。
もちろん、権力主義者と権力主義社会にも大きな欠陥があるが、選択は個人の自由ではないだろうか?
カミュが思想家として、布教と実存主義社会への大きすぎる期待(依存)以外は間違っていない事はこれでお分かりだろう。
実存主義者は、実存主義的思考と社会だけが、つまり権力を消滅させることだけが、あらゆる問題を消滅させることを知っている。
p.59 『マルキシズムも一つの上部構造』
p.61 『強制収容所』
中央政府や法律、軍事力などの強大な権力を持つマルキシズムは、当然、次の革命で攻撃を受けるであろう上部構造である。
強制収容所が、「反抗的人間」における1つの重要なテーマらしい。
p.63 『もし、歴史が意味をもっているとすれば、なぜ人間はそれを目的としないのだろうか?』
既に説明したが、革命に大義名分なんか使うなという意味だ。
◎ 2009年8月12日 (水) アメリカのイスラエル支援とグローバル化
現代用語の基礎知識2002 自由国民社
「新型戦争と世界システム」 田中明彦
p.2 『グローバリゼーションは、経済で地球を一体化させているのみならず、戦場をもグローバル化している』
これは、2001年のニューヨークのテロを指しているのだが、ここで重要なのは、グローバル化とは一体、何かということである。
自由主義は、人権を尊重する思想であるという意見があるが、資本主義(経済的自由主義)は、金銭によって人権が著しく損なわれているので、この考え方は大きな間違いである。
「宗教、その現代への挑戦」 立山良司
p.8 『アメリカでは、教会へ行く人の割合が大変高い』
p.9 『「アメリカは、すべての反イスラム政権を支え、イスラム運動を潰そうとしている」というアブドゥル・ラハマーンの言葉』
p.669 ユダヤロビー・・・アメリカ議会やホワイトハウスなどに対する圧力団体として活動しているユダヤ人グループの総称。
p.1502 グローバリゼーション・・・冷戦終結後、市場経済が世界的に拡大し、生産の国際化が進み、資金や人や資源や技術など生産要素が国境を超えて移動し、貿易も大きく伸び、各国経済の開放体制と世界経済の統合化が進む現象。
司馬遼太郎 「人間の集団について」 中公文庫
p.23 『第二次世界大戦のあと、米国は「反共」を軸とする世界政策をもってしまった』
「人間の集団について」によると、ベトナム戦争は、アメリカ側からは資本主義を、ソ連側からは共産主義を世界中の国々の体制にしようとする世界政策である。
そして、アメリカのイスラエル支援を多くの人間が、アメリカのユダヤロビーの活動のせいだと勘違いしているようだが、実際は、ベトナム戦争と同じアメリカの世界資本主義(権力主義)化政策である。たまたま、在国ユダヤ人の意向とアメリカ政府の世界政策が一致したに過ぎないのである。
アメリカ人もユダヤ人も同じ旧約聖書を聖典とする権力主義宗教の国である。
いわば、アメリカのイスラエル支援とは、キリスト・ユダヤ教連合とイスラム教との対立が本当の姿なのである。
グローバル化とは、アメリカや西欧社会による世界政策が加速度的に進行していることを意味するのである。
もちろん、それは、1つの権力主義による世界統一が実現しつつあることを意味し、それ故に、「戦場のグローバル化」というのも統一後のアルマゲドン(世界統一国家革命)を暗示するのである。
◎ 2009年8月15日 (土) 警察
警察は、国家の治安を守る組織ではなく、国家の法律を守る組織である。
法律を守るとは、国民に法律を守らせることであり、治安を守ったことにはならないからである。
法律を人間の守るべき絶対的道徳とする警察の姿勢は、テロの意義を絶対的なものとするテロリストそのものである。
そのため、法律が無くなれば、警察は跡形も無く消滅するだろう。
2009年2月23日 (月) シーシュポスの神話(1)で書いた
『人間社会とは、機能的には子供の作ったおもちゃの世界みたいなものなのだ』
とは、そういう意味なのである。
また、般若心経の「色即是空(すべての有形のものの本性は空である)」や老子の「無」も、同じ意味である。
法律は、はっきり正しいとは断定できない架空の存在である。
しかし、それを守るべき警察という組織は現実に存在している。
無の存在であるはずの法律が消滅すれば、不思議なことに現実に存在する警察まで消滅してしまう。
国家も同様である。
国家とは、土地の所有と金銭というただの概念(無の存在)が作り出した妄想の存在である。
もし、この2つの概念が消滅すれば、国家と言う巨大組織が一瞬にして跡形も無く消滅してしまうというありえない現実が待っているのだ。
現実存在の象徴とも思えるようなあの巨大な中央官庁や、その建造物が消滅するなどいうことがあるだろうか?
人間社会とは、「無」が、現実存在の全てなのである。
◎ 2009年8月18日 (火) 易姓革命
封神演義 英雄・仙人・妖怪たちのプロフィール 遥遠志 新紀元社
古代中国には、「易姓革命」という考え方があったらしい。
それは、国家には寿命があって、時期が来ると革命によって滅びるというものである。
古代中国には、陰陽五行説などあまり信憑性のない考え方もあるので気をつけなくてはならないが、国家が長く続けば長い目でみると法律は増え続けるし、そうなれば、貧富の差もますます拡大するので、易姓革命という考え方は理にかなっている。
ただし、中国においても日本においてもかなり不評判だったらしい。
中国ではどうか知らないが、日本においては全国民的に不評判だっただろう事は予測がつく。
現在もそうだからである。
分からない人は、世界のほとんどを占める権力主義者が社会的弱者に対してどんな行動原理を持っているか思い出すと良い。
ほぼ全人類が弱者は死に絶えれば良いと考えているのだ。
自殺者数の統計(http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm)
平成9年までの自殺者数は、2万人〜2万5千人で推移してたのが、平成10年以降、突然上昇し、毎年3万2、3千人で高止まりしている。
これは、阪神大震災の死者の5倍の人数である。
そして、その半数は無職の人々である。
これは、セーフティネットという用語が、政治家やマスコミ、知識人達から公言されて久しいが、現実には全く機能していないことを表している。
彼らは口先だけで、現実には何もしていないのである。
社会的弱者を見捨てて顧みることをしない国家やジャーナリスト、知的エリート達に支持や期待するような人間はいないだろう。
人間が守らなくてはならないのは、銀行ではなく社会的弱者の命である。
貧困問題は、国内だけでなく世界を視野に入れて考える問題である。
確実なのは、法律の無い世界である。
他の方法としては、国内に治外法権の無政府主義地域を設けることもできる。
しかし、あまり想像つかないだけに、極端に貧しい場所になるとやっていけないだろう。
部分的に設けるのは、権力の性質からして無理があるかもしれない。
それに部分的では、世界にも対応できない。
貿易まで法律(関税)なしにはできないからである。
そんなことよりも、自殺を受け入れ、実存主義者として生きることが何よりも重要である。
ODAよりも、関税を低くする方が発展途上国思いなんじゃないの?
もちろん、他国に依存しなくてはならないような国は、何をどうしても無駄だが。
要するに、やりくりできない国だからである。
◎ 2009年8月20日 (木) 夢
すずめが主役の夢を見た。
人間はいたが、全員、顔も名前も無いエキストラだった(それでも、見知り合いである)。
自分が経験したものしか夢に登場しないのは当然だが、現在の生活にも関係しているようだ。
◎ 2009年8月21日 (金) 権力主義者の未来
僕は権力主義者達に言うことは何も無いのである。
ただ、こいつらは、この先、何万世代にも渡って(つまり、未来永劫)、地獄を見続けることになるだろうと思うだけである。
僕は、子供がいないからこの人生だけである。
僕が一生、結婚しないのは、そういう理由があるのだ。
◎ 2009年8月28日 (金) 紙アレルギー
本を開いたり、広告を開いたりするとくしゃみが出る。
紙を開くときに、紙の粉が飛び散るのでは?
読書は、体に悪いらしい。
特に古い本は、紙の表面がもろくなっているために要注意である。
いらない紙は処分しよう。
◎ 2009年9月19日 (土) 万事を尽くして?
実存主義者は、人間には最も好ましい結果を知ることができないことを知っているために、結果を予測した人生設計を立てないのである。これを無知の知と呼ぶのである。
人間には、あるべき姿があると思われているが、常識やコミュニケーションの仮面を捨てた実存主義者には関係の無いことである。
好き勝手に生きて、天命を待つのが実存主義者の人生である。
何が正しいか分かっていないのが分かっているから、神を恨むこともないのである。
◎ 2009年9月20日 (日) もうすぐ日本は滅亡する
政治家は馬鹿ばかりである。
住宅用火災報知機を一軒につき、3個つけることを義務付けたのだ。
我が家にも、消防署から取り付けの催促状が来た。
その理由が笑える。
日本全国で年間1000人の火災による死者が出ているからと言うのだ。
自殺者が全国で30000人だというのに、それには全く手をつけず、その地域で年間、一体、何人の火災による死者が発生しているかも公表しないで、火災報知機を、一軒につき3つもつけろと言うのだ。
これで、火災報知機の金銭的負担で自殺者が増えたりしたら、火災による死者は一人も出ずに、政治家が殺した人間が増加したことになるだろう。
もう1つある。
兵庫県では、庭で枯葉を焼くのを禁止しているが、田畑での野焼きは例外として認めている。
この理由も笑える。
弱い火力での焼却はダイオキシンが発生するからと言うのだ。
ダイオキシンが食料に大量に入り込んでも良いが、何にも悪影響が及ばない庭での焼却を禁止しているのだ。
違反すると、罰則まであるらしい。
馬鹿以外の何者でもない。
しかも、これらの法律は、市議会ではなく、国会や県議会で決定されたというのである。
つまり、ここで新たな問題が発生するのである。
それは、なぜ、国会だけでなく、県議会や市議会が必要なのかという問題である。
もし、何でも国会や県議会で決定できるのであれば、市議会は必要が無いことになる。
では、なぜ、国会だけでなく、県議会や市議会があるのかを考えると、国民一人一人の考え方が違うことを考慮して、地域ごとに法律の柔軟性を持たせる為だと考えられるのである。
すると、国家全体の法律を決める国会と法律に柔軟性を持たせる市議会だけあれば良く、県議会は不要になる。
いや、県議会は、国会の権力を抑えるために必要なのだと考えるのであれば、国会が不要で、県議会と市議会だけがあれば、良いことになる。
いや、国会は、対外的な方針を決めるために必要なのだと考えるのであれば、国会では、外交についての法律だけを決め、県議会では、全体としての内政の法律を決め、市議会では、柔軟性を持たせる為の法律だけを決めるべきだろう。
この火災報知器と野焼きの問題は、明らかに個人の意見が分かれる問題であるため、国会や県議会が口出ししてはならない問題である。
国会や県議会や市議会がなぜ存在しているのか、法律とは何なのかを考えたことすらない政治家しか、この国にはいないらしい。
もし、その地域がわけの分からない条例を作っているのであれば、僕なら、そこに住むのを考慮し直すかもしれない。