◎ 2009年6月28日 (日) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(3)
p.20 『思想は外的現実によって絶対的に決定される』
p.20 『マルクスの作品における、思想の真の動向を伝えるものではない』
思想とは理性のことであり、外的現実とは人間社会のことである。
マルクスは、人間社会は権力主義社会であり、そのため、理性は必ず権力主義を基本としなくてはならないと言っているのである。
理由など何もない。マルクスの勝手な思い込みである。
とカミュは言うが、ジャンソンはマルクスはそんなことを言ってるんじゃないと言っている。
ただし、マルクスが実際、どう思っているかについてはジャンソンは内緒にしている。
p.21 『どんな革命にも悪が必ずつきまとうと言うなら〜革命行為の具体的構造のなかで、それを明証すべき』
p.21 『革命的現象の本質が看過されている』
ジャンソンは、「反抗的人間」についての彼のここまでの論証で、カミュは共産主義を否定しているのではなく、暴力革命自体を否定しているのだと唐突に断定する。
だから、カミュに革命の本質についての見解を示せと言うのである。
ジャンソンの子供みたいに横暴な論理である。
カミュが革命そのものを否定するなら、最初から共産主義批判などしないのである。
p.22 『ヘーゲルは、真理、理性、正義を「世界の生成のなかに」肉体化しようとした』
p.23 『人間の国と神の国が一致する』
「人間の国(理性)と神の国(真理)が一致する」というのは、人間は必ず真理を認識できるという絶対的理性を肯定することを意味する。
つまり、ヘーゲルは人間が無知であることを否定するのである。
p.23 『地球をもって人間が神となる王国』
間違った理性を真理であるとし、現実に実行するという意味である。
p.27 『ぐ風的なものと樹液的なもの』
ぐ風的(暴力的)なものと樹液的(非暴力的)なもの。
p.28 『世界の運命は、外見と違って〜』
社会は外見的には「支配者」と「被支配者」の対立に見えるが、実際は両者とも権力主義者であって対立していない。
「実存主義者」と「権力主義者」の対立があるだけという意味である。
しかし、僕は、実存主義者と権力主義者は対立していないと考える。
勝手に権力主義者が実存主義者を攻撃してくるだけである。
殴られれば殴り返すのは当たり前のことだ。
◎ 2009年6月29日 (月) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(4)
p.30 『ただ神をあざけり、この「主人」にたいして、常住、反抗的「奴隷」であろうとする』
p.31 『彼は神に自分の失敗を見させて満足をあたえることもしない』
「主人」というので、この場合のカミュの神とは権力(権力主義者ではない)、あるいは権力主義社会であることが分かる。
権力は感情を持たないため、カミュが権力を満足させることなどできない。
ジャンソンは、カミュの神にジャンソンの都合のいいときだけ人間のような意思や感情を持たせる。
p.31 『彼はなにも企てないから、失敗する道理もない』
カミュの行動とは、広い意味では権力に反抗することである。
革命に限定するならば、暴力(権力)に対して反抗することである。
現実的に何もしていないというジャンソンの説は間違っている。
カミュの反抗とは、同意しないという意味である。
また、革命への反抗の根拠は、理性の絶対性を否定し、理性を根拠とした過激な行動を慎む(中庸)をカミュの人生哲学としているからである。
できるだけ失敗しないように行動する哲学を持つのは当然なので、そのことで非難される筋合いはない。
p.31 『歴史的悪、絶対的悪』
「反抗的人間」を読んでいないのでよく分からないが、「絶対的悪」は権力で、「歴史的悪」は戦争や革命を指すのだろう。
つまり、「歴史的悪」は「絶対的悪」の一部分なのである。
p.31 『人間が統一への狂熱的な欲望から積み重ねる悪の存在〜起源には、別の悪がある』
最初の悪が歴史的悪で、起源の悪が絶対的悪である。
統一とは、思想(主義、宗教)や国家を統一することである。
p.32 『人間的な没理性の別の一形式に襲いかかるために、「不条理」との誇らかな対話を、一時中断することを承諾した』
「別の一形式」とは、革命のことだろう。
不条理とは、理性と権力主義社会との対立であり、暴力(権力)に反抗することは決して不条理に背かない。
カミュ自身がそこまで思索を推し進めていないため、ジャンソンに理解できていなくても仕方がない。
しかし、カミュにとっては、心外な発言だろう。
p.34 『明晰な精神をもって恐怖を体験した人々』
権力を絶対的悪と認める「明晰な精神」をもち、権力による「恐怖を体験した」人々。
p.34 『絶対的悪にたいしてしめした態度〜歴史にたいしても指示している』
歴史とは、ここでは現実のことである。
ここで、ようやくジャンソンはカミュが、現実に行動していることに気づくのである。
◎ 2009年6月29日 (月) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(5)
p.34 『むろん、反抗者は周囲の歴史を否定しない。〜芸術家が現実にたいするように』
歴史は、ここでは人間社会を意味する。
カミュが「人間社会」と「現実」を使い分けているということは、カミュは現実にはアナザーワールドが存在しうることを示唆するのである。
つまり、実存主義的な人間社会である。
しかし、具体性は何もない。
p.35 『ここでもヘーゲルの「美しい魂」の特性を思い出さずにいられようか?』
実存主義的な人間社会についてカミュは具体的な説明をしなかったため、ジャンソンは現実の人間生活は何も変わらないと言っているのである。
p.35 『意識の作用は、郷愁的な願いである』
権力的な行動をとらないことで、心情の清らかさを保つのは儚い願いだという意味だ。
ヘーゲルは、戦争や人権無視を生きるうえでは仕方のない行為であると言っているのと同じである。
ヘーゲルは、孔子同様に権力を神とする哲学者だ。
p.35 『歴史を超越する原理』
権力主義社会を抜け出す原理のことである。
カミュは、共産主義は資本主義同様に権力主義であるから、権力主義社会は維持されたままだと言っているのである。
p.36 『カミュは厳密に個人本位の企画〜』
カミュは、個人として実存主義を貫くか、実存主義を世界に普及させるのかという意味だ。
カミュは、既に「ペスト」において実存主義の布教を始めている。
p.36 『「世界の動き」は、我々の牢獄でもあり、作品でもある』
人間社会は、人間を支配もするが、人間が作り上げるものでもあると言う意味だ。
しかし、人間社会は、何千年もかけて作り上げられたものであり、実存主義社会に作り変えるためには、人間が実存主義者になる必要がある。
p.36 『カミュはまさしく何も企てないという手段で、つくりなおされることのないように提案する。〜カミュの超越的原理とは、いったいなんであろうか?』
p.34 『反抗者は歴史を前にして、逃げようとはせず、それを押しのけるのだ』
カミュの超越的原理とは、皆で実存主義者になって権力主義社会を押しのけることだ。
たぶん、その後に実存主義的な人間社会が待っているのである。
その社会についての具体的な説明はない。
これには、許しがたい以下の4つの無責任があるのだ。
1.超越的原理に具体性がない。
2.実存主義の布教は間違っている。
3.革命前は、民衆の生活が成り立たない状況のはずだが、その場合の対策を無視している。
4.仮に実存主義社会が実現しても、その後、権力主義社会が来るのは間違いなく、そのとき、実存主義者は権力主義者に戻れないため、それについて説明していないカミュは彼の理想の支持者を騙したことになる。
カミュは戦争が嫌なだけであり、実存主義は彼にとって、それを阻止するためのただの道具なのだ。
実存主義は個人のものであり、できるだけ人間社会に依存しないようにし、結果を求めず、過程を最優先させる生き方である。
カミュの主張は、これに対立する。
p.36 『逆コースの、別の狂乱の共犯者になるのではなかろうか』
「逆コースの別の狂乱」とは、絶対に人間社会の改革をしないことだろう。(反動思想)
実存主義者は人間社会に依存しないから問題ないが、権力主義者は人間社会に依存するから人間社会の改革が必須である。
権力主義者の立場からすると、この疑問は正しいことになる。
p.20 『たとえば食うにも困って、はるかに低級な論理にしたがって、飢餓の責任者とたたかおうとする人たちが送っているような単純な生活では、そうはいかない』
p.21 『革命的現象の本質が看過されている』
つまり、ジャンソンにとっては、資本主義も共産主義もどうでもよいのである。
ジャンソンは、共産主義革命における共産主義はただの大義名分であって、革命の真の意義は、全ての既得権(法律)を破壊し、国民の飢餓を助けようとすることだと考えているのである。
◎ 2009年7月9日 (木) 堺事件、阿部一族
森鴎外「高瀬舟」集英社 「堺事件」「阿部一族」
「堺事件」「阿部一族」「忠臣蔵」などの登場人物達に切腹などの行動をとらせたのは、世間という権力に対する恐怖である。
本質的には、それだけなのだ。
鴎外は、それを指摘しているのだろう。
人間は自分が属する権力に対して、とことん弱いものである。
人間は社会性の動物だというが大嘘である。
人間は権力性の動物である。
「人間という字は人と人の間に生活するから〜」というのは、この社会性の動物というのを真に受けた馬鹿である。
世界中が認めた概念でも間違いは山ほどある。
◎ 2009年7月17日 (金) 金閣寺放火事件
Wikipedia「金閣寺放火事件」
金閣寺放火事件の動機について推理してみる。
以下の内容は、全て国語辞典に拠る。
仏教には、大乗仏教と小乗仏教があり、大乗仏教は世間全員の救済を説くのに対し、小乗仏教は個人の修養による解脱を説く。
日本と中国には大乗仏教が伝わったとある。
浄土宗・・・「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できるというものらしい。
浄土真宗・・浄土宗の肉食妻帯できる亜流らしい。一向宗。
天台宗・・・中国の智者大師による法華経の解釈で、最澄は密教、戒円、禅宗も統合したらしい。
密教 ・・・印契を結んで真言を唱えれば成仏できるというものらしい。東密(真言宗)と台密(天台密教)がある。
禅宗 ・・・依るべき本経を持たず、各自の工夫・修行によって悟りを開くものらしい。臨済宗、曹洞宗、黄檗宗などがある。
このように並べてみると、大乗仏教は経文を唱えるだけ、あるいはそれに近い行為だけの宗教である。
その点、禅宗は経典が無く、個人の修養によって解脱を試みるので、これは小乗仏教ではないだろうか?
だとすると、日本には大乗仏教しかないという学校や国語辞典は間違っていることになる。
禅の公案に「隻手の音声」というのがある。
これは、「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?(ナイン・ストーリーズ p.8)」という意味だ。
これは、実存主義者であれば誰でも理解できることである。
即ち、禅宗は実存主義に近いのだ。
実存主義者は、権力を嫌うため、貧乏人が多いらしい。
その貧乏であるはずの禅宗の臨済宗が、金閣寺の宗派なのである。
真面目に禅宗修養してきた地方の僧が、悟りには程遠い権力にまみれた金閣寺のシステムを見て失望するのは当然だろう。
裏では賄賂や世知的な支配などもあったかもしれない。
信心が、そこにあるはずのない権力にぶつかったと推測するのである。
江戸時代に武士しか入信できなかった普化宗(虚無僧)は、禅宗の一流派である。
禅宗は、武士の宗教と聞くが、権力主義者である武士には儒教は理解できても禅宗が理解できたとはとても思えない。
禅宗は、正反対の2種類の理解のされ方をしてきたのだ。
最澄は、おそらく四宗合一に失敗しただろう。
◎ 2009年7月17日 (金) 旧約聖書が権力主義者の聖典である理由
Wikipedia 「アダムとイヴ」
理性を持つアダムは罪人である。
Wikipedia「魔女狩り」
『女呪術師を生かしておいてはならない』
旧約聖書の一文が、魔女狩りの根拠になっている。
これは、権力による迫害を推奨する発言である。
<新約聖書が権力主義者の聖典である理由>
はてなキーワード 「狭き門とは」
『狭い門から入れ』
他の集団や個人が入れない門は、むしろ、狭き門だろう。
博愛主義こそが、誰でも入れる広き門である。
イエス・キリストの間違いだ。
◎ 2009年7月17日 (金) 自己犠牲(2)
Wikipedia 「狭き門」
『自己犠牲に対する批判』
「5月1日(金) 自己犠牲(1)」に、自己犠牲は欲望だと書いたが、それは、自己犠牲をする者の欲望ではなく、他人の自己犠牲を望む者の欲望のことである。
そのため、自己犠牲をする者に欲望は無くとも、自己犠牲自体は欲望なのである。
なぜならば、一人では自己犠牲できないからである。
ならば、誰も望んでいなければ、自己犠牲は欲望ではないのか?と権力主義者は食い下がるだろう。
しかし、自己犠牲は無意識の欲望である。
理解するには、隻手の音声を聞くしかない。
ちなみに、この隻手の音声には多様な意味があるので、これが全てではない。
実存主義者の思想全体に行き渡っているのである。
権力主義者に実存主義を言葉で説明しても、いくらでも勝手に浅はかな抜け道を探して、一人合点するから意味が無いのだ。
実存主義は、仮面をはずした後の、経験、観察、思索の三位一体である。
これらを通せば、あらゆる実存主義者の言うことが、説明されなくても断片だけで理解できる。
逆に、それらが無ければ、説明の仕様も無い。
◎ 2009年7月18日 (土) 戦争
政財官の癒着の根本にあるのは、法律である。
法律によって、合法的な金儲け及び権力維持のシステムが構築されているのだ。
よって、彼らは犯罪する必要が無いのだ。
癒着の根本は、賄賂だと民衆には信じられているが、嘘である。
義務教育、マスコミ、書籍、知識人において、嘘の知識をばらまき、人間を支配するのも彼らの世知である。
国内の不平等は、内政不満(不安)を発生させる。
その不安の矛先をマスコミ操作によって外国に向けさせることで、国民の不安は法律にあるのではなく、外国の脅威にあるのだと勘違いさせるのである。
感情のすげ替えは、ごく普通に使われる心理操作である(人間は興奮するとその根拠が自分では分からないものらしい)。
そのため、法律が存在する国は、必ず外国と戦争をする宿命があるのだ。
権力(集団)は、自分と考え方が違う集団や個人を攻撃するから、中国や北朝鮮が軍事力に力を入れるのは当然の事であり、外国から非難される筋合いは無いのだ。
今や世界中の資本主義国は内政不安を抱えているのである。
世界中の資本主義国が内政不満を消滅させるために、中国や北朝鮮に攻撃の矛先を向けているのだ。
内政不満から国家間戦争が発生するという歴史上の事実から、いつ、戦争が起きても不思議は無いのである。
政財官のマスコミ操作にまんまと翻弄されている世界中の資本主義国民は滑稽である。
支配者層が恐れるのは革命であり、その回避策が国家間戦争なのだ。
革命は確実に破滅だが、戦争は勝てば良いからである。
しかし、戦争に勝っても法律は維持されたままで増え続けるから、内政不満はいつまで経っても消えないどころか大きくなるばかりである。
考えてもみたまえ。たとえ共産党が政権をとったとしても、既存の法律は維持されたままで、その上に新しい法律が加わるだけなのだ。
法律が出来たらそれを前提に社会が構築されるから、法律を消滅させたら社会が混乱するからである。
法律と戦争は常に表裏一体である。
そして、膨大な法律を前提に構築された現代社会は、どうにもならない状態なのである。
我々には、あきらめる以外にできることはない。
戦争の後で、運良く生き残ることが出来、そのとき無政府状態になるほどの打撃を受けていたなら、法律と戦争の無い社会もありえるかもしれない。
◎ 2009年7月18日 (土) 金銭
金銭は、最大権力であり、人権侵害の中心である。
しかし、一つだけ功績があるのだ。
それは、人間を警戒感から解放し、動きやすくしたことである。
つまり、金銭が存在しない時代は、素人が一人で家を造っていたのが、専門家が多人数で造るようになった事である。
我々に、そのことを気づかせた事で、金銭の存在意義はなくなったといえるだろう。
金銭は所詮、支配による合理性である。
支配だけが不合理を無くせるわけではないだろう。
それとも、他人は、権力=合理性というのだろうか?
その権力が人権侵害と戦争の根源なのだから、合理的ともいえない。
また、金銭は、極端に人間を動かし過ぎるから合理的ではない。
害悪の方がはるかに大きい以上、金銭の役目は終わったと考えるべきだろう。
我々は、金銭のせいで逆に全く身動きの取れない状態にもなっている。
我々は、現在、金銭が存在しなかった時代と金銭流通の現代の生活の比較をすべきだろう。
無銭時代は、個人の生活が中心で、市場はどちらかといえばおまけだった。
金銭時代は、商売が中心で、個人の生活がおまけである。
金銭社会は、人間の交流を促進したが、人間性は変わらなかった。
むしろ、徒党を組むようになって悪事が大きくなった。
教育の結果がこれである。
教育など無い方が、豊かな生活が送れていたのだ。
人間生活の理想は、権力が無く、個人の生活が中心で、なおかつ、合理的に動ける状態である。
金銭時代を経験した我々には、それが理解できるだろう。
金銭の助けなくとも、このくらいは実践できそうではないか?
これは、理論的なものだが、戦争後の無政府状態があるならば、その後の人間の在り方の指針にすれば良い。
金銭と土地の所有権さえ無くなれば、人間社会に法律は不要だろう。
◎ 2009年7月22日 (水) その人の名は言えない
井上靖 「その人の名は言えない」 文春文庫
p.78
『わたし、禅の本も読んだわ』
『外国の修養書も読んだわ』
沢木信也は、実存主義者の設定である。
実存主義者には、沢木のような完全世捨て人と、作家のような職業を持った半分世捨て人の2種類がいるようである。
夏子が佐伯から逃げた理由は、おそらく、結婚後に権力主義教育が待っていることを予測できたからだろう。
前にも書いたが、権力男と実存女の関係は、妾が一番だろう。
実存男は、権力女も実存女も駄目である。
結婚の理想は、権力男と権力女である。
権力主義と実存主義とは別に、どちらにも属しないのがいるが、それは、大きくなったら大抵、権力主義になるので権力主義扱いである。
実存主義哲学は、誰かに教わることはないから、権力主義者には考え及ばないのである。
実存主義者は、一人残らず、思想において誰の影響も受けていないのだ。
川端の「雪国」の島村と駒子や葉子との心の遠さは、沢木と秋子や夏子との遠さとおそらく同質のものだろう。
島村と沢木は、実存主義者として永遠の独身を納得していることだろう。
1892年 芥川龍之介
1899年 川端康成
1907年 井上靖
1909年 太宰治
1913年 アルベール・カミュ
1925年 三島由紀夫
同時代に実存主義者がこれだけいて、人生哲学は同じでありながら、その完成度は千差万別である。
この中で布教していたのは、芥川、太宰、カミュ、とおそらく三島である。
三島、太宰、あおいには、自分のことしか考えられない余裕の無さがあったが、その他の人々は、正常な思考が出来ている。
井上の描く沢木は、完全に世間を見放している。
沢木が井上の分身であるとして、沢木にはあまり触れず、ヒロインの夏子を中心にしているのは、自分に対して十分に余裕のある証拠である。
この事から、井上は三島らと違って、実存の自意識を完全に持っていると思われる。
川端と井上は、自分の哲学については何も書かない主義のようである。
カミュの哲学が最も厳密で、僕にも最も納得の出来るものだが、井上の精神の安定感も僕と同様であると感じられる。
何をもって実存の完成度が高いとするかは、人間には知ることは出来ないことだが、これらの実存主義者の多様性を見ると、改めてそのように感じる。