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◎ 2009年6月22日 (月) 母のいない実存主義者

芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」 新潮文庫 「大導寺信輔の半生」
p.11 二 牛乳 『父に似つかぬことを牛乳のためと確信していた』

川端康成 「伊豆の踊子・禽獣」 角川文庫 「青い海黒い海」「解説」
p.41 『人生で寝椅子を捜している男かもしれません。私は生まれたその日から母の胸に眠ることができなかったのですから。』
p.204 解説 『母体の無限の遠さを思う男のすがたは、川端文学の本質を何よりもよく語っている』
p.208 解説 『私は自分の母を恋しいとも思ったことはない』

芥川と川端は、自分が大多数の人間のように権力主義者ではなく、極めて少数派の実存主義者であることを母がいないせいだと思い込んでいた。
しかし、実際は父母が健在の実存主義者はたくさんいるので勘違いである。
川端文学には、母体希求の衝動は全くなく、ただ実存文学であるだけなのだ。
実存主義者に安心(寝椅子)はない。
安心は自由(反権力)と引き換えに失っているのである。




◎ 2009年6月22日 (月) 実存主義者の人生の意義

実存主義者は、属する組織のために生きているわけではなく、他人を支配するためでもなく、特定の誰かのためでもなく、だからといって全て自分のためとも言い切れない。
自分のためではないなら、自由のためでもないだろう。

F・ブラント「キェルケゴールの生涯と作品」法律文化社 「第十章 反復」
p.86『わたしはイデーのものです』
理念(イデー)・・・理性によって得られた最高概念であらゆる経験を統制するもの。

結局、事実だけで考察すると実存主義者の人生の意義は理性のためのようである。
理由はないのだ。
人間は理性を持つと、理由もなく理性のために生きるようになるのである。




◎ 2009年6月22日 (月) 問題提起小説

カミュ「シーシュポスの神話」 新潮文庫 「不条理な創造」
p.158 『不条理な問題を提起する作品なのだ』

遠藤周作 「白い人・黄色い人」 新潮文庫 「解説」
p.169 『神の存在を証明するためには、いっそう氏の抱懐する主題を掘り下げなければならない』
p.162 『日本人の汎神論的な世界観』

「白い人・黄色い人」の主題はキリスト教に対する遠藤の不信感だと思われる。
ドストエフスキーと遠藤は、自分の実力不足を痛感し、それぞれの主題について一緒に考えてくれる同士を探すために小説を書いていたのだ。
そのため、「いっそう主題(キリスト教の間違い)を掘り下げなければならない」という遠藤への要求は間違いである。
遠藤としては、山本健吉にも一緒に考えてもらいたかったのである。

遠藤が、キリスト教に不信感を持ちながら、日本人にキリスト教を薦めるのは、キリスト教の間違いを見つけるための舞台に日本人を引き上げるためだろう。
遠藤の二段構えの計画なのである。

ドストエフスキーと遠藤の思索の先には、キリスト教ではなく、実存の神がいるのだ。




◎ 2009年6月23日 (火) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(1)

カミュ「革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-」 新潮文庫 「A・カミュ あるいは反抗心」

サルトルは、カミュに共産主義革命が実存主義に反する事を指摘されても分からない。
サルトルの実存主義者としての完成度は、森鴎外と同じくらいだろう。
そのため、共産主義の是非をめぐるこの本は、ほとんど読むに値しない。
僕が、この本の解説をするのは意味のないことだが、実存小説の解説は僕と考え方が全く合わないことが多いから、気が済むように私見を述べたいだけである。

p.11 『「ユマニスム』『アナーキズム』
ユマニスム(ヒューマニズム、人道主義)・・・人類全体の幸福の増進を道徳の最上目的とする主義
アナーキズム・・・無政府主義。主として国家と私有財産の否定を説く。
ユマニスムは博愛主義であり、個人主義であり、反権力主義である。
すなわち、ユマニスムが実存主義なのである。
全ての実存主義者は、仮面の廃棄と自らの経験、他者の観察とそれらへの深い洞察によって、最終的に、ここに到達するのである。
ユマニスムを現実に実現しようとすれば、実存主義で統一された無政府主義になるだろう。
しかし、統一されることは全く重要ではない。
たとえ世界中に実存主義者が一人もいなくても、権力主義社会であっても、実存主義者になることが重要なのだ。
権力主義者として長生きすることなど、断じてお断りである。

p.11 『「写実主義的芸術家」と「形式主義的芸術家」』『スタイル』『スタイル化』
写実主義とは、事実をそのまま書く私小説みたいなものだろう。
「形式主義・・・何事によらず、内容より形式に重きを置くこと」と一般的に解釈される。
しかし、カミュが七五調や韻、起承転結などにこだわるとは思えない。
カミュの言う形式主義とは思想主義のことで、スタイルとは思想や思想文学のことで、スタイル化とは思想的修正を加えることである。
事実に全く基づかず、思想のみで書かれた文学をカミュは形式主義的文学と呼ぶのである。
カミュは、写実主義小説に思想を違和感なく加味した(修正を加えた)小説を理想的であると考える。
明確な区分けはできないが、鴎外や芥川がこれに近いだろう。
漱石、太宰、川端、セルバンテスは、現実逃避作家なので該当しない。
サンテグジュペリ「星の王子さま」やスウィフト「ガリバー旅行記」も童話なので該当しない。
僕は、どれも優れていると考える。
現実では、実存主義者の文学だけが後世に残り、世間に認められている。
モーツァルトもそうであるということは、音楽にしても絵画にしても芸術は全て、実存主義者に作られたものしか世間には認めてもらえないというわけである。
人々は、実際にはモーツァルトの音楽を聴いているのではなく、モーツァルト自身の魅力に浸っているわけだから、モーツァルトは音楽家でなくても、優れた芸術家として後世に名を残した可能性は高い。
カミュは、写実や形式が云々と言うが、芸術にとって重要なのは作者が実存主義者であるかということだけである。
芸術は、読むものでも聴くものでも観るものでもなく、芸術家の人格に酔うものなのだ。
そのため、芸術に興味がないのは、実存主義者にむかついている権力主義者か、他人の人格などに感心しない聖人だけなのである。




◎ 2009年6月24日 (水) 革命か反抗か -カミュ・サルトル論争-(2)

p.14 『「ペスト」は形而上的小説だ』
形而上的も形式主義と同じで事実に基づかない思想的という意味で使われている。

p.16 『不条理の意識は、自殺ではなくて、反抗に通じる』
自殺とは理性か社会のどちらかを選択するという飛躍(精神的自殺)のことである。

p.17 『シーシュポスの反抗は〜個人的反抗にとどまっていた』
p.17 『個人を苦しめた病気が、集団的ペストになる』
おそらく、ペストは不治の病ではなく、自意識を必要とする病のことである。
権力主義者は自意識を必要とする病にかからないから、世界中の全ての人間は権力主義者ではなく、実存主義者であるという意味だろう。
「フラニーとゾーイー」p.230『太っちょのオバサマは〜キリストなんだ』も同じ意味だ。
もちろん、これはサリンジャーの意見ではなくゾーイーの意見ではあるが。
ゾーイーに言わせたところに意味があるのである。

p.14 『彼らの生活の実体を知ろうと思えば〜』
何の根拠もなく、人間は一人残らず実存主義者だと言ってしまったから、「ペスト」は形而上的小説になってしまったのだとジャンソンは言う。
この場合、「ペスト」はカミュによる実存主義の布教活動であり、それはキリストと同じ過ちである。

p.14 「籠城状態で暮らさざるをえない町の記録」
しかし、外界に病気が伝染しないように隔離されたのではなく、自ら外界との接触を絶った一部の人々という意味らしいので、ジャンソンは「ペスト」を間違えて理解しているのである。
カミュは、決して世界中の全ての人間は実存主義者であるとは言っていない。
「ペスト」は、キェルケゴールの「不安の概念」と同じ内容の小説なのだ。
人間は、理性を持つ可能性があるので、実存主義者はカミュ以外にもいるはずであるという意味だ。
つまり、世界中の全ての人間が病気にかかってしまうという内容だとジャンソンは勘違いしてしまったのである。
「ペスト」はジャンソンの言うような布教活動の小説ではない。
カミュもキェルケゴール同様に、自意識を必要とする病から逃れる方法を他の実存主義者に求めているのである。

p.47 『「異邦人」から「ペスト」への進化があるとすれば、それは連帯と参加の方向にある』
自意識を必要とする病を克服する取り組みに、全ての実存主義者は連帯と参加をしようという意味だろう。
自意識を必要とする病は、権力主義者には想像もつかないだろうから、参加はできないのである。
権力主義者であれば、精神分裂病と診断するのが関の山だ。

p.17 『この意識を万人と共有している』
いや、やっぱり、ジャンソンが正しかったようである。
カミュは、布教している。
僕は、「ペスト」も「反抗的人間」も読んでいない。

読者の中には、実存主義者に実存主義を布教するのか?既に自意識があるから籠城しているのでは?と思うかもしれない。
これは、中途半端な実存主義者、中途半端な自意識という意味である。

p.18 『国民議会の「真の仕事」は「新しい専制主義」の確立にあった』
つまり、カミュも民主主義は権力主義であると言っているのである。




◎ 2009年6月24日 (水) 愛

wikipedia「星の王子さま」
『「仲良くなる」とは、あるものを他の同じようなものとは違う特別なものだと考えること』

愛・・・[1]かわいがり大事にすること(愛犬)
   [2]異性を恋い慕う気持ち(愛人)
   [3]キリスト教で神が人間を慈しむこと

「星の王子さま」によると、[1]と[2]が一緒で「友情」と「愛情」が同じになる。
これには、切手の収集なども含まれる。
つまり、「愛」とは「お気に入り」のようなものである。
しかし、「博愛」や「自愛」は、どこにも当てはまらない。
これらの「愛」は、命や権利を尊重するという意味である。
全人類や自分をかわいがる必要はないし、むしろ、やってはならないことである。
これらは、理性の所産である。
[3]の「神の愛」がこれらに該当するなら、キリストが間違っているのだ。
これらは、「愛」という文字が入っているだけで実際は愛ではないのである。
友情と恋愛は同じもので名前が違うのに、恋愛と博愛は別のもので名前が同じというのは大変まぎらわしい。
このような間違った定義をした人間に僕は抗議する。
これらの概念の違いが全く分かっていない人間が数え切れないほどいるのは、これらの間違った名前付けをした人間の責任である。

人間の好き嫌いをなくさせようとするのは精神的権力主義である。
考え方まで支配される筋合いはない。




◎ 2009年6月24日 (水) 権力主義者

権力主義者は間違った考え方の仮面をいくつもかぶり、自分ではそのことに気づかず、それを他人にも押し付ける人間である。
権力主義者は他力本願で依存したがり、責任という概念を知らず、権力を手に入れることと他人を支配することだけを考え、権力だけを信じて生きている人間である。
権力主義者は、嘘と隠し事を大量に持ち、権力に魂を売り渡し、嫉妬心が強く、世間という権力を何よりも恐れ、他人を陥れたり支配したりする策略を知恵と呼ぶ人間である。
そんな権力主義者が世界の人口の大部分を占めているのだ。
というより権力主義者しか見たことがない。
一般的に、大人になるとは権力主義者になることを言うらしい。
実存主義者は、この正反対のものだと思えばよい。
しかし、子供が実存主義者というわけではない。
結局、権力と実存の分かれ目は、各人の自由選択のみなのである。
実存主義を選択すれば、自分の人生を自分で考えざるを得ないからである。
権力主義を選択すれば、いつまで経っても考える必要がないのだ。
一度、実存主義者になれば二度と権力主義者にはなれない。
一度、権力主義者になれば二度と実存主義者になれないかどうかは僕は知らない。
ひょっとしたら、子供だけが選択権を持っているのかもしれない。




◎ 2009年6月25日 (木) シーシュポスの神話(7)

カミュ「シーシュポスの神話」 新潮文庫 p.167「シーシュポスの神話」

シーシュポスに与えられた天罰は、努力の果てに完成させるといつも壊され、最初からやり直さなくてはならないというものである。

シーシュポスを実存主義者であるとすると、先人の知識が実存主義者としての完成度を高めるために生かせないため、最初から自分で考えなければならないことを意味するのだろう。
シーシュポスを権力主義者であるとすると、権力主義社会では、分裂国家⇒戦争⇒統一国家⇒革命⇒分裂国家と戦争を繰り返さなくてはならないことを意味するのだろう。
実存主義者の方は罰とは思えないので、シーシュポスは本当は権力主義者ではないかと僕は思うのである。

歴史は、山ほど年号を覚えなくても、これだけ覚えておけば事足りるのだ。
学校の真の目的は、馬鹿と奴隷と権力主義者の養成だ。
理由は、大人になったときに支配しやすいようにするために決まっている。




◎ 2009年6月25日 (木) 文部省は故意に学校で嘘を教える

国際連盟は、アメリカが提唱者でアメリカは参加しなかったそうである。
そのため、第二次世界大戦が発生したと学校で教える。
第二次世界大戦は、ドイツ、日本、イタリアの三国のファシズムのせいで発生したと言われている。
ファシズムは、一党独裁の党首一人が悪人であるという説である。
だから、一党独裁に気をつけたら戦争はおきない。
国際連合は、国際連盟よりもしっかりしているから戦争はおきない。
議会政治(民主主義)は、君主による専制政治ではないから戦争はおきない。
日本は法治国家で憲法で平和主義を掲げているから戦争はおきない。
そのため、現在は絶対に戦争がおきない仕組みになっていると学校では教えてきた。
しかし、実際には、ファシズムという概念は嘘であり、実際は全国民と社会そのものが権力主義であるために戦争は発生していたのである。
国際連合がしっかりしていると言うが、アメリカ一国ですら止める力がない。
平和主義は改憲されている。
民主主義の実体は権力主義である。
つまり、学校が教えたことは一つ残らずデマだったのである。
現実には、太古から現在に至るまで、戦争が発生しやすい状況(社会および人間の精神構造)は何一つ変わっていないのだ。
イスラム教圏が悪いのでも北朝鮮が悪いのでもない。
日本国民及び日本社会が戦争の原因なのである。
もちろん、世界中どの国でも言えることである。
政府やマスコミや知識人が、嘘をついて扇動しているのだ。
理由は、国内において不正や富の偏りなどで発生している不満の矛先を他所へ向けるためである。
権力主義社会では、当然、このような事態になるのだ。
常識で考えれば、この国の北朝鮮に対する異常な反応に誰しも不信を持つはずである。




◎ 2009年6月28日 (日) 責任転嫁

キリスト教は、国民全体でキリストを迫害死させながら、キリストは人類全体の罪をかぶって死んだのだとデタラメな責任転嫁の教義を広めた。
この腐ったキリスト教が西欧思想の根本にあるものだから、戦争も革命もトップの人間一人が悪いというファシズムの概念を作り出し、世界中に容認させたのだ。
もちろん、西欧社会やキリスト教だけが悪いのではない。
世界中どの国も権力主義思想以外に持ったことがないのだから、西欧思想の影響がなくてもファシズムと言う概念は世界中に受け入れられたはずである。
キリストは反権力主義者であるにも拘らず、キリスト教は西欧権力主義の総本山なのだ。
更にさかのぼると旧約聖書で理性を持ったアダムが罪人呼ばわりされていることは原因の一つである。
そうなると当然、キリストも罪人だからだ。
これらが、人間社会の苦悩が全て権力に起因することを人間が気づくのを阻止していたのである。
現在、権力主義が引き起こすであろう戦争によって全人類の滅亡が視界に入るところまで来ているのである。
既存の全ての宗教が、苦悩の原因は人間の欲望にあるとするのは、誰の差し金なんだろうか?
恐らく、宗教団体そのものが集団(権力)であるため、権力主義的思考しか内部で容認されなかったのだろう。
権力を否定したら集団を維持できないからである。