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◎ 2009年6月3日 (水) シーシュポスの神話(6)

カミュ「シーシュポスの神話」 新潮文庫 「不条理な創造」
p.166 『唯一の出口が死』
自殺、迫害による死などの実存主義者の宿命の一つである短命を意味する

p.166 『悦びであれ苦しみであれ』
実存主義者である事による自由が悦び、迫害、無職などの宿命が苦しみである




◎ 2009年6月3日 (水) 思想家

川端康成 「伊豆の踊子・禽獣」 角川文庫
p.218『思想家は旅行しないという意味のことを、ゲーテは言った』
世界中どこもかしこも権力主義だから、どこで何を手にしても権力主義の顔をしているという意味である




◎ 2009年6月5日 (金) 神の存在

遠藤周作 「白い人・黄色い人」 新潮文庫
p.163『人間実存の根源に、神を求める意志の必然性を見出す』
カミュ「シーシュポスの神話」 新潮文庫 「不条理な創造」
p.158『生涯苦しんできた問題、つまり神は存在するかという問題である』
芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」 新潮文庫 「河童」
p.114『とにかく我々河童以外の何ものかの力を信ずることですね』

道教にも儒教にも「道」がある。
道教の道が状況次第で千変万化するのに対し、儒教の道は状況いかんによらず不変なので似ているようで別物である。
法律や宗教の教義も儒教同様、不変である。
そのため、道教の道は抽象的であり、法律や儒教の道、宗教の教義は具体的である。

山本(遠藤)、ドストエフスキー(カミュ)、芥川が必要とする神は、宗教的な神ではなく実存的な神である。
神もまた、別物なのである。
白い人の死はキリストのためではなく、実存の神に対しての死と思われる。
彼は、極限状態になって初めて人生を自分で考えたのだ。
つまり、死の直前でキリスト教から実存に改宗したのだ。
もちろん、小説における教訓は創作であり、現実で必ずしも起こるとは限らない。
それが、童話や小説の限界である。

最近の僕としては、実存に神は必要かそうではないのか?
実存の神が存在するならば、救済を期待しても良いのかそうではないのか?
それどころか、天罰が下ることはあるのかないのか?
そんなところである。
つまり、僕にとっては重要な問題ではない。
そもそも、無知である人間が神の意志を知ることができるとは思えない。
ならば、神に期待できることなど何もないはずである。

白い人の教訓は、実存主義者は社会や人間関係に縛られないことと、極限まで身軽であることである。
迫害されることが分かっていながら、欲張りでいられるはずがない。




◎ 2009年6月5日 (金) 加害者と被害者

革命や戦争の咎がリーダーに全面的に負わされるように、キリストの受難の咎がキリスト自身に負わされるように、いじめの咎がいじめっ子に負わされるように人間の心理は構築されている。
しかし、これらの心理は間違っている。
これらの咎は人間が権力主義であることに起因しているので、全員に同じ咎がある。
この中で、咎が無いのは実存主義者であるキリストだけだ。
しかし、キリストは教義で他人を支配しようとしたので、やはり権力主義者としての咎がある。
布教を行う宗教は、存在自体が悪なのだ。
権力主義に加害者も被害者も無い。




◎ 2009年6月5日 (金) 多数決

キェルケゴール以降の実存主義哲学者のほとんどが理性を否定した。
そのため、世界中の人間が意味も分からずに理性を否定した。
世界中が一人残らず同意見であっても、間違っていることは稀ではない。
多数決のせいで、地獄の権力主義が太古から今日まで続いているのだ。
民主主義、すなわち多数決を支持した結果、誰もが意味も分からずに賛同する現状を僕は否定する。
法律にしても、多数決にしても、仮面にしても、権威にしても権力は何でも、人間から理性(思考力)を消失させる性質があるらしい。
逆にいえば、権力を無くせば理性を身につける事ができるのだ。




◎ 2009年6月5日 (金) 黄色い人

遠藤周作 「白い人・黄色い人」 新潮文庫 「黄色い人」

デュランが、破戒僧となるきっかけは妻帯だった。
キリストは、実存主義者だったため妻帯しないのは必要なことだった。
世間から迫害され就職もできないのに結婚するはずもない。
しかし、キリストのモノマネをしているだけのキリスト教信者には必然性がないのだ。
だから、堕落するのは当たり前である。
次に、デュランがブロウを裏切ったのは、デュランはキリスト教という権力に所属できなかったせいである。
神父は、キリスト教という権力の恩恵があるからこそ神父らしくできるのである。
権力の庇護が無くなった神父や信者に、教義を全うする義務は自然消滅するのだ。
キリスト教の神父および信者は、権力の庇護の元に偶然的に存在しているのだ。
それが、この小説の主題の1つである。
日本人は、汎神論者ではなく、宗教を持たない権力主義者なのだ。
ここには、理性という概念すらないのだ。
これが、もう1つの主題である。




◎ 2009年6月7日 (日) 芥川・谷崎論争

Wikipedia 「文芸的な、余りに文芸的な」

芥川龍之介と谷崎潤一郎は、小説の筋について論争した。
芥川は、推理小説や怪談などの小説は、物語の筋(どう展開するか)を楽しむだけで、文学性(芸術性)が無い。
谷崎の小説は、そんな娯楽小説だとけなした。
谷崎は、小説(文学)に形式は関係ないと反論した。
そういう論争だったらしい。
当時は、自然主義文学(私小説)、プロレタリア文学(共産主義)などがあったらしい。

北斗の拳にたとえるなら、プロレタリア文学がラオウ、芥川がケンシロウ、谷崎がレイといった感じではないだろうか。
ケンシロウには、旧権力(シン)やラオウなどの巨大権力がいるのにレイが水遊びしているように見えたのだろう。

新感覚派は南斗五車星、太宰はバット、ユダは三島といったところだろう。
あるいは、無頼派と三島も五車星に入れても良い。
ちなみに僕は、死に至る病にかかっていない、しかもラオウやケンシロウと面識の無いトキだ。

谷崎潤一郎氏
谷崎と芥川は、論争だけではなく普段から会話が噛み合っていなかったようである。
芥川・谷崎論争は、どうしても価値観が合わないなら絶交するつもりで芥川が谷崎に吹っかけたのかもしれない。
日本版カミュ・サルトル論争である。
実存主義者に先生はいないから、他人に価値観を合わせることは決してないのだ。
合わせた時点で、カミュ「異邦人」p.142『あること以上のことを言ったり』したことになり、もはや、実存主義者でなくなるのだ。
論争は世間への支配欲が、サルトル(共産主義)、芥川(真理探究、啓蒙)、カミュ(真理探究)、谷崎(美)の順に強かったための結果である。
つまり、サルトル、芥川の世間に対する焦燥感が論争の引き金である。
実存主義が世間支配を企てては本末転倒なので、サルトルと芥川は実存主義者として地に足がついていなかったのだろう。




◎ 2009年6月9日 (火) 弱者

太宰治 「晩年」 新潮文庫
p.334『大地主の子であり、「滅びる人間」「滅亡の民」』
カミュ 「シーシュポスの神話」 新潮文庫
p.123『個人という義は勝ちを占める側ではない』

実存主義者が、自分のことを「滅亡の民」や「弱者」と呼ぶのは、権力主義者に対して実存主義者は常に敗北するという宿命の事を指すはずだ。
自分が大地主の子であるから「滅亡の民」とするのは太宰の場合は考えにくい。
自分より弱い者を常に探している権力主義者に弱者がいないように、実存主義者は常に弱者なのだ。
権力主義的なプロレタリア運動に実存主義者が肌の合うはずがなく、太宰に未練があったとは思えない。
しかし、権力主義社会では革命は必ず発生するし、ブルジョワが「滅亡の民」であるのは間違いない。




◎ 2009年6月10日 (水) 地下室の手記

ドストエフスキー 「地下室の手記」 新潮文庫

p.215『「意識は病気である」〜実存の深淵』
意識とは、自意識や自我の事である。
残念ながら、既に説明したように、実存主義者にとって自意識を持たない事が病気(死に至る病)なのである。
ただし、この手記の場合は、反権力主義ではない中途半端な実存主義者なので、実存の自意識とは関係ない。
つまり、自意識による引きこもりではない。
ドストエフスキーも、権力主義を受け入れながら、平和と人権を求めるというディックと同じ過ちをしている。
反権力主義の実存主義者は、権力主義そのものを否定するのである。
そのため、自意識が必要となるのだ。

主人公の官吏は、3通りの解釈が可能だ。
1つは、ドストエフスキーの代弁者である説だ。
この場合、ドストエフスキーは、理性を否定する。
もう1つは、世間の代弁者である説だ。
この場合、理性を否定する世間を揶揄していることになる。
最後は、ドストエフスキーを含む世間の代弁者である説だ。
この場合、理性どおりに行動できない自身や世間を軽蔑すると同時に絶望している。

最後の説の根拠は、p.210『私は、ロシア人の大多数である真実の人間をはじめて描き出し、その醜悪な、悲劇的な面をはじめて暴露した』である。
また、p.213『キリストの教えどおり〜』は、感情移入によって自己犠牲をすることは難しい。そのことで苦悩を感じる事が自己犠牲の代わりとなると言う意味だ。
また、p.215『ドストエフスキーは、自分の主人公の状態を正しいものとはみなしていない〜』ともある。
つまり、解説を参考にすると、最後の説が最も有力である。
「地下室の手記」は、理性どおりに行動できない理由を説明した小説なのである。

ドストエフスキーの理性は、実存の理性とは異なり、ヘーゲルの理性だ。
実存主義者は理性は間違いを伴うものであるとするのに対し、ヘーゲルの理性は客観的(絶対的、普遍的)な理性である。
つまり、ヘーゲルは、人間は必ず真理(客観的理性)を認識できると考えているのである。
「実存の理性」という呼び方に語弊があるならば、「ソクラテス、キェルケゴール、シェストフ、カミュの理性」である。

実存主義者が、理性を否定したのは理性が権力主義が隅々まで行き渡っている人間社会に通用しないと考えたからである。
ドストエフスキーが、理性を否定したのは人間は理性どおりに行動しない性質を持っているからだと考えたからである。
実存主義者とドストエフスキーでは、理性を否定する理由が異なるのである。
同じ実存主義者でも、カミュは理性を否定しない。
つまり、カミュ 「シーシュポスの神話」 新潮文庫 p.6『(理性の中の)可能なものの領域を汲みつくせ』である。

ドストエフスキーとディックは、キリストのp.213『自他への愛の融合』を信奉している。
しかし、キリストのこの博愛の考え方は、既に説明したように間違っている。
キリストは、生まれたばかりのひよこのように未熟な実存主義者なのだ。
キリストは、本来、理性的な人間だが説明するのが面倒だったので、情に訴えることで他人への説得を試みたのである。
そうと知らずに信じたドストエフスキーとディックは、権力主義者でありながら平和と人権を求める人間になってしまったのだ。
ドストエフスキーとディックは、実存主義を志向するので、それでもやはり実存主義者なのである。
彼らは、実存主義者の宿命を決して嘆いたりしないだろう。

p.39『水晶宮』
p.40『理性万能の世界』
ドストエフスキーは、社会主義革命が理性に適っていると考えていたが、民主主義にしても資本主義にしても社会主義にしても権力主義であるからには理性に適っていないのだ。




◎ 2009年6月10日 (水) 普遍理性

カミュ 「シーシュポスの神話」 新潮文庫

p.55『太陽系の理性というヘーゲル的命題』
p.67『普遍理性が勝ち誇り』

カミュによるとヘーゲルとフッサールは普遍理性論者である。
人間に真理を正確に認識できるかどうかという問題は、人生哲学においては重要であるらしい。
カミュもシェストフもキェルケゴールも普遍理性論に猛反発している。
それに気づいてたからソクラテスは偉いのである。