◎ 2009年5月24日 (日) サタンの本名
芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」 新潮文庫 「或阿呆の一生」
p.170『五十一 敗北』
過去の実存主義者達は、サタンの本名を知ろうとしていたのだ。
それをできなかったことが、敗北だったのである。
もちろん、悪魔の王であるサタンの本名は、権力である。
理性は、経験と観察と思索によって、人間の本来あるべき姿を探求することで身につける。
「天は自ら助くるものを助く」とは、実存主義者のことを指す。
つまり、自分の命を大切にする人には、神の加護があるだろうという意味である。
実存の宿命を指して、天の助けが無いと言うのであれば、その人には当てはまらない。
悪魔主義、耽美主義などは、実存主義なのだろう。
しかし、これらは定義がいびつであるので、実存主義に統合されるべきだろう。
◎ 2009年5月26日 (火) ハイデッガーの存在と時間
Wikipedia「存在と時間」によると、主観・客観といった概念は無意味である。
これは、納得できる事だ。
何故ならば、人間は神ではない以上、真理を知る事はできないので、客観は永遠に人間には関わりの無い事だからだ。
客観という概念は、人間の思い上がりが作ったのである。
それを、ハイデッガーは、デカルトの「我、思うゆえに我あり」の無効性を証明することで、同様の証明をしたようである。
ハイデッガーの「不安」は、カミュの「不条理」、キェルケゴールの「死に至る病(不治の病)」に相当するようである。
ハイデッガーの現存在、存在とは、実存主義(存在の隠れなさ)としての自己のようである。
そう考えるならば、「存在と時間」は、ほとんどの実存主義者が主張している事と同じである事がわかる。
誰もが、自分は時間と共に生きていると言っている。
仏教的・道教的には、万物は時間と共に変化し続けるという意味だろう。
実存主義者的には、自分の全ては過去でも未来でもなく現在にあるという意味だろう。
しかし、これらの認識は、実存主義者にしかできないのである。
権力主義者には、権力だけが真実であり、正義であるので認識は関係ない。
結局、個人の選択の問題だ。
◎ 2009年5月27日 (水) 地上への梯子
カミュ「シーシュポスの神話」 新潮文庫 「不条理な論証」
p.59 『私に欠けているのは獣性だ』
地上への梯子を必要としたのは、芥川だけではなく、キェルケゴールもだった。
F・ブラント 「キェルケゴールの生涯と作品」 法律文化社
p.59 『私は少なくともその糸を切ることは出来るのだ』
キェルケゴールは、実存主義者でいられないなら死んだほうが良いとも言っている。
芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」 新潮文庫 「或阿呆の一生」
p.166 四十五 Divan 『生活的宦官に生まれた彼自身を軽蔑せずにはいられなかった』
生活的宦官は、キェルケゴールの獣性の欠如に相当する。
すなわち、これは、実存主義者の宿命の事である。
ゲーテも基本的に宦官のはずだから、芥川とゲーテの違いは、作家になる前に別の職業を持っていたかどうかだけだろう。
◎ 2009年5月27日 (水) 古代ギリシア哲学者
F・ブラント 「キェルケゴールの生涯と作品」 法律文化社
p.26 『ソクラテスはキェルケゴールにとって実存的思想家の理想を具現するに至った』
Wikipedia「ソクラテス」「プラトン」「アリストテレス」
ソクラテスも、実存主義者らしい。
無知の知によって、客観的認識の無効性を知っていたからである。
また、「アレテー」は、老子の「徳」に相当するのだろう。
また、書物では人生哲学を理解する事ができないとも言っている。
世間によって悪魔として処刑されたことも、彼が実存主義者であることの証明となるだろう。
これは、正にキリストの受難である。
ソクラテスの弟子のプラトンも実存主義者だ。
「イデアは理性によってのみとらえることができる」としている。
例えば、自己犠牲が感性では美に感じられるのに、理性では美ではないことが挙げられるだろう。
「イデア」は、現在の「美」に相当すると思われる。
「忘却されていたものの想起」が、「権力が人間社会における諸悪の根源であることを無意識的に知っている」に相当する。
プラトンの弟子のアリストテレスも実存主義者だ。
理性には中庸が必要であることを知っている。
人間には、永久に完璧な理性を身につけることができないことを知っているため、理性を疑えと言っているのだ。
また、プラトンのイデアの客観性(絶対性)を認めない。
エイドスとヒュレーは、フッサールの現象学に考え方が似ている。
世間にキリストとソクラテスが処刑されたのは、人間社会が隅々まで権力主義で成り立っているのに、その権力を否定した思想犯だったからである。
人間が社会から権力を失う事は、地上から大気が消滅したのとほぼ同じ事なのだ。
つまり、わずかな時間でも生活できないのである。
権力は麻薬みたいなものなのだ。
国家としても、国家の存在を否定され、全国民の支持も得ている以上、彼らを極刑にすることに何のためらいも無いのである。
国家全体が敵に回っているのに脱獄しても意味が無い。だから、ソクラテスは逃げなかったのだ。
国外逃亡しても、同じ事だ。どの国も権力主義社会だ。
キリストやソクラテスは、人間や社会がそんな状態である事を知らなかったのである。
グノーシス主義(2〜3世紀)
ギリシア哲学と初期キリスト教が融合したもの。
キリスト教から異端として弾圧された。
人間社会を悪とし、客観的認識を否定する点が、実存的である。
◎ 2009年5月29日 (金) フィリップ・K・ディック(1)
フィリップ・K・ディック 「マイノリティ・リポート」 ハヤカワ文庫 「マイノリティ・リポート」
この小説の主題は、多数決への批判だろう。
フィリップ・K・ディック 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 ハヤカワ文庫
感情移入の有無が人間とアンドロイドの違いである。
p.41『感情移入という天与の能力』
p.42『みんながいっしょに〜』
ディックは、感情移入は天与の能力(感性)なんだから、状況さえ揃えば誰しも同じように感動し、共感できなくてはならないと主張する。
これによって博愛が実現されるとするのだが、これは仮面による博愛である。
僕から見れば、博愛ではなく、権力主義の団結である。
そんなのを認めたら、民意の操作が簡単にできてしまう。
感情移入(共感)と博愛は、全くの別物と考えるべきだ。
また、これらは、感性ではなく理性であると考えるべきだ。
p.42『人間型ロボットは、どうやら本質的に独居性の捕食者らしい』
実存主義者は、個人主義者であると非難される。
しかし、権力主義者は、権力主義と博愛主義が同じものだと勘違いしているから非難するのだ。
個人主義の対義語は博愛主義ではなく、権力主義なのである。
個人主義は博愛主義や人権尊重主義の同義語だ。
そのわけは、既に説明したように、自分の命を大切にする者は他人の命の価値も認めるからであるし、自立や自由や責任などを考慮した結果なのだ。
また、これまで実存とは何かを説明してきたような事も全て含まれるし、その他にも説明のしようがないような漠然とした理由もあるに違いない。
人生哲学は、言葉では説明しきれないのである。
p.42『人間型ロボット〜は、まさに殺し屋の具現に思えるのだ』
p.310『マーサーが十六歳のとき〜』
マーサーは迫害を受けるが、相手は少なくとも世間ではなく、得体の知れない何者か(殺し屋)だ。
それに感情移入させるところは、キリスト教的である。
つまり、ディックはキリスト教と同じように迫害を肯定する。
おそらく、ディックは敬虔なキリスト教徒ではないかと思われる。
僕は、迫害も自己犠牲も認めないし、そもそも、キリストの受難はキリストにとって自己犠牲のつもりはなかったと思っている。
これは、ルイ16世に対するのと同じで、世間の個人への責任転嫁だろう。
p.184『彼らに対するおれの感情は、本来のそれと逆になっていた』
人間には、欲望と感情移入(美)の区別が出来ない。
p.97『バスターフレンドリーとマーサー教は、ぼくたちの精神面の支配を〜』
p.229『おのれの本質にもとる行為をいやいやさせられるのが、人生の基本条件じゃ。これがあらゆる生命をむさぼる例の呪いの実態じゃ』
p.236『ドン・ジョバンニ』
権力と実存。
p.20『動物を飼わない人間〜不道徳で同情心がないと思われる』
p.167『アンディーに飼われた動物は長生きしないんだ』
動物の飼育は、この場合、実存主義者から見ると仮面だが、ディックにとっては人間の条件の1つだ。
p.315『真下には墓穴世界、悪魔的な不変の因果律の世界が横たわっている〜』
墓穴世界は理性、中間は人間界、天上界は感情移入による博愛の実現を指す。
つまり、ディックは理性を否定し、感性(感情移入)を人間の理想としているらしい。
しかし、感情移入による博愛の実現は、権力への帰属意識に似ている。
彼にとって、帰属意識がもたらす安心感のない感情移入は無意味なものかもしれない。
だとすれば、博愛とこの価値観は矛盾する。
彼は、理性を不変の因果律とするが、人間は無知だから理性は常に不完全なものだ。
だから、やりすぎない事(中庸)が必要なのだ。
p.316『ディックにとってアンドロイドとは、"現実"の世界に接触できなくて、内に閉じこもり、〜天真爛漫さと悪意を同時に持ち合わせ、自分の正体を知っているときもあり、知らないときもあり、人間社会にとって潜伏的な脅威である』
正に、ディックにとってアンドロイドは実存主義者だ。
p.315『機械的な行動パターンに侵された人間』
これは、実存主義者というよりはむしろ、権力によって思考も行動も束縛(支配)された権力主義者を指すのではないだろうか?
ディックは、理性を悪とするが、僕は博愛も共感(感情移入)も理性から生まれると考える。
博愛の実現には理性があれば良く、感情移入は必要ない。
◎ 2009年5月29日 (金) フィリップ・K・ディック(2)
フィリップ・K・ディック 「流れよわが涙、と警官は言った」 ハヤカワ文庫
p.178『エミリー・ファッセルマンのウサギ』
ルース・レイは、説得しようとして熱弁するが、ただのストーカーのウサギにしか思えない。
権力主義的な考え方をしながら、平和や人権尊重を主張するディックは、実存とも権力とも言いがたい。
その彼が、ウサギであることは間違いないが、ネコが実存か権力かとなるとウサギがどちらか決めかねるのでネコも決められない。
彼は、実存に大変興味を持っていたようだが、完全に実存になることはなかった。
この場合は、ネコは実存になるだろう。
しかし、彼は共感による集団との融和を目指していた。
つまり、安心感のある生活を求めていた。
この場合は、ネコは権力になるだろう。
彼は、この2つを融合させてこのウサギの話を作ったのかもしれない。
彼は、双方の利点ばかりを欲しがったのだ。
p.328 『もう忘れてしまったよ』
スイックスは、カネと女と栄誉とギャンブルにしか興味が無い。
ディックの作品は実存主義者を描きながら、実存主義者が一人も存在しないのが特色である。
p.365『すべてに対する愛』
p.350〜p.354の黒人とのやりとり(共感)が、ディックにとっての博愛らしい。
しかし、これは僕の博愛の定義とは全く異なる。
p.374『わたしは現実と折れあうべきだ。だが、一度も折れあったことはない』
ディックの人生は厭世的(デカダン)だったから、実存主義者の可能性がある。
しかし、感性を理性と間違えたり、共感を博愛と呼ぶのが気に入らない。
ディックと森鴎外は似ている。
感情移入は権力主義者にもできるが、博愛は実存主義者にしかない。
ディックも実存主義者と呼ぶには抵抗があるかもしれない。
鴎外が国家本位の思考を捨てられないように、ディックも集団本意の思考を捨てられないようだ。
固定観念(常識)が、ありのままの思索を妨げているのだろう。
自立、責任の所在といった考え方がごっそり抜け落ちているから、博愛にたどり着けないのだ。
そうしたことは、思索によってのみ身に付けることが出来る。
他人から言われて気づいても、実際には分かっていないのだ。
だから、ごっそり抜け落ちる事になる。分かっていたら、集団本位の考え方などできるものか。
他にもいくらでも、博愛の根拠は見つかるに違いないのだが、彼らはその内の何一つ、ものにできなかったのである。
しかし、(三島が言うところの悪魔的に)社会に対して何か引っかかるものがあるから、実存主義に興味を持つわけなので、2人とも実存主義と呼んでも良いだろう。
p.374『そのあとぼくは〜』
この解説者は実存主義者だ。
権力主義者は、本を読んでも他人を支配する方法にしか目が行かない。
つまり、説得力のある文章作成能力を身につけたいと願うのである。
カミュ 「シーシュポスの神話」 新潮文庫 「不条理な論証」
p.20『あの荒涼たる乾ききった場所』
フィリップ・K・ディック 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 ハヤカワ文庫
p.274『乾いた風が音を立て、周囲の白骨の山が砕け散った』
墓穴世界は、カミュの不条理に似ている。
ディックは、カミュの不条理を根拠に、理性を否定した可能性がある。
しかし、ディックは理性を否定しながらも、実際は理性的だ。
フィリップ・K・ディック 「地図にない町」 ハヤカワ文庫 「地図にない町」
既存社会が、実存主義者の存在によって侵食される危惧のようである。
◎ 2009年5月29日 (金) 実存から生じる苦悩(2)
芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」 新潮文庫 「河童」
p.100『或いは一歩の差かもしれない。けれども僕には10マイルも違うのだ』
芥川龍之介「蜘蛛の糸」
フィリップ・K・ディック 「流れよわが涙、と警官は言った」
蜘蛛の糸は、カンダタという実存主義者が実存主義者になる方法を他の人に教えてくれない事への非難である。
それは、河童の『10マイルも違うのだ』から推測できる。
「流れよわが涙、と警官は言った」のスイックスも実存主義者で、フェリックスはディックの分身である。
ディックも、芥川とほとんど同意見である。
芥川もディックもおそらくドストエフスキーも、名実ともに実存主義者と呼ばれるような作品を書きたかったのだ。
理由は、他にもたくさんあることだろう。
彼らは、権力主義的な思考と実存主義的な思考が混ざっていたのだろう。
そのため、権力主義に反発しながらも、完成度の高い実存主義者にも届かないという腹立たしい状況に置かれていたのだ。
僕のこれらの文章を読めば、彼らも納得のいく実存主義者になれたのではないだろうか。
とにかく、実存の定義どおりに仮面を外して理性を信じなくてはならない。
たぶん、彼らには博愛がなかったのだろう。
それでも、迫害、短命、無職、非婚などの宿命からは逃れられない。
F・ブラント 「キェルケゴールの生涯と作品」 法律文化社
p.59『性悪な娘』
これらの宿命を受け入れられない実存主義者は、キェルケゴールに言わせれば「性悪な実存」なのである。
◎ 2009年5月30日 (土) たね子の憂鬱
芥川龍之介 「或阿呆の一生・侏儒の言葉」 角川文庫 「たね子の憂鬱」
結婚式、葬式、食事の作法などの礼もなくなってしまえばいい。
既存宗教に礼がないものはない。
あらゆる宗教は、儒教の傘下にあるのだ。
◎ 2009年5月30日 (土) 不安の概念
F・ブラント 「キェルケゴールの生涯と作品」 法律文化社 「第12章 不安の概念」
Wikipedia 「アダムとイヴ」
原罪についてのキェルケゴールの解釈は、知識の実を理性、アダムを実存主義者としている。
権力主義社会が人間に理性を持つ事を禁じたために、不安が生じて理性をもってしまったらしい。
というよりは、理性を持てる可能性があったから、理性を持ったと考えるほうが自然だろう。
誰にでも、理性を持てる可能性がある以上、いつまで経っても理性を持つ人間が発生することは防げないというのが彼の説である。
また、既存の実存主義者の存在が新たな実存主義者の発生に寄与しているとも言う。
不安は、ヘビ(サタン)になるのだろう。
キェルケゴールがこんなことを言う理由は、自分の苦境を他人に救ってもらいたかったからである。
ぼくのこれらの文章を読んだら、キェルケゴールは救われたはずだが、彼がいたからカミュなどの実存主義者がいるわけで、仕方のない事なのだ。
実存主義者の著作は、ほとんどの場合、自分の苦境を他人に救ってもらいたいために書いているようである。
なにしろ、実存主義には落とし穴がたくさんあったのだ。
旧約聖書も新約聖書も、権力主義者の著作のようである。
権力を抑えられるのは権力だけだが、権力を消滅させられるのは理性だけだ。
Wikipedia 「アダムとイヴ」
『イエス・キリストを「最後のアダム」と呼ぶ』
ゲーテ 「ファウスト 第一部」 新潮文庫
p.304『すべてのキリスト教徒が、悪魔のたくらみを知って、わが身のいましめとするように』
12使徒はアダムとキリストを悪魔として、キリスト教徒の反面教師としたのだ。
12使徒にとってキリストの受難は悪魔の末路であり、それをキリストは身をていして(自己犠牲によって)信者に教えてくれたのだと解釈するのである。
こんなあからさまなインチキ宗教がよく2000年も続いたものだ。
フィリップ・K・ディック 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 ハヤカワ文庫
p.274『暴露は説得力を持っておった。それなのに、なぜなにひとつ変わらんのか』
人間は、無知だから断定できない。それ故の多様性である。
しかし、国際状況次第では、権力主義のままでいられるか分かったものではない。
◎ 2009年5月31日 (日) 狂人社会の常識
例えば、権力主義社会における自称先進国家の社会常識を1つ紹介しよう。
僕が世界の全ての狂った常識を知ってると思ったら大間違いで、どちらかといえば僕は知識が乏しい部類の人間であることを断っておく。
たまたま、1つだけ知っていると思ってもらいたい。
富裕な国(大抵、先進国である)があり、そこでは法律上、生体移植(もちろん例えばの話で生体移植には限らない)は認められない。
貧しい国(大抵、発展途上国である)があり、そこでは法律上、生体移植を認めている。
本当は、この貧しい国も生体移植を認めたくないのだが、カネ(外国資本)が欲しくて仕方なく認めているのだ。
これは、国際問題だけではなく、国内においても同様なのである。
カネ(権力)さえあれば、他人の人権を好き放題、侵害できるのだ。
これは、国際的に、どの国でも認めている常識であり、全人類が当然のこととしている。
呆れたことに、国外で出来なくなったから国内で出来るように法改正しようと平気で新聞で載せる間抜けな国もあるのだ。
これは、発展途上国で出来たから今まで国内でそんな法律を作らなかったのだという意味だ。
もちろん、国内でも同様だ。
弱者は、好きでやるわけじゃない。カネが無くては生活できないからするのだ。何らかの見返りを当てにしてするのだ。
新聞もテレビも世界中から消滅すべきだ。
改心したからといって許される事ではない。倒産だ。
これは、法治制度が限界に来たことを露呈する出来事だ。
権力主義者達には、この意味が分かっているのだろうか?
法律の抜け穴ばかりを常に探しているこの神戸新聞社の心理は、完全に犯罪者のそれなのだ。
国内では認めず、国外では認めていた国会は消滅させなくてはならない。
マスコミも国会議員も人間のクズだ。高学歴が聞いて呆れる。
エリートは皆、人間のクズだと思って間違いない。
というより、権力主義者は皆そうだ。
権力主義者には強者も弱者も無い。自分で弱者と認めなければ弱者ではないのだ。
つまり、常に権力を欲し、権力者になろうとするのが権力主義者なのだ。
例えば、資本家も労働者も同じ権力主義者なのだ。
もちろん、これは1つの例であり、この問題だけ解消したからといって、社会から問題が全て消えるわけではない。
とにかく、あらゆる問題は解消されなくてはならないし、その方法は実存的無政府主義しかないのだ。
世論を操作したり、弱者の承諾さえ得れば、こっちのものと考えているのが明白な権力所持者どもは、世界大革命で一人残らず死滅すれば良い。
少なくとも、先進諸国は全滅だろう。
国内の弱者ども、国外の非道を認めたら、自分達が同じ目にあう事を覚えておくがいい。
お前らの性格の悪さがお前ら自身の首を絞めるのだ。
実存主義者である僕は、自国の国益など一切考えないのだ。