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◎ 2009年5月11日 (月) 概念理解の難しさ

死を恐れないのは野蛮人の性質だというのは、自分の命を軽く考える人間は、他人の命も軽く考えるからである。
これは、誰もが経験的に知っている事である。
何故、その人が自分の命を軽く考えるに至ったかを想像すれば、そのように考えるのは当然であることが分かるだろう。
しかし、どう転んでも死ぬのが確実であるという状況の場合、死を恐れずに反抗することは例外であるといえるのではないだろうか。

権力主義者は、エゴイスト、エゴイズムという言葉を好んで使う。
カミュもシーシュポスの神話p.105でエゴイストを嫌悪的に使っているように、実存主義者の多くもそれに同意している。
しかし、エゴイズム(利己主義、自己中心的)というのは、自我(エゴ)から派生した考え方である。
つまり、自我に対する批判なのである。
自我を持つ事が、利己主義であり自己中心的であると、ほぼ全ての人間が理解している。
では、自我を無くせばどうなるかといえば、権力に対する滅私奉公となるのである。
つまり、権力の奴隷である。
僕は、エゴイズムやエゴイストは決して非難される事ではないと考えている。
自分の自我を軽く考える人間は、他人の自我も軽く考える人間である。
そうすると、欲望のままに悪の限りを尽くしても許すのかという問題が発生する。
しかし、それはエゴイズムではない。
攻撃を受けた場合は、反撃しても良いのだ。
また、攻撃する側も反撃を予期するのは当然だろう。
とにかく、エゴ、エゴイズム、エゴイストという概念は、存在自体が間違っていると、少なくとも僕は考えるのである。

このように概念理解、つまり認識は、極めて微妙で難しく、多くの場合、概念は間違って理解され使用されるのである。
ある場合には、正しくても別の場合には絶対にしてはならないことも多々あるが、大抵、簡単に考えられ無視される。
理性も、最初から間違っている場合もあれば、他人に伝わるときに変化する場合もあるのだ。
キリスト教をみれば分かるように間違って伝わらないことは、ほとんどないのである。
カミュ「シーシュポスの神話」p.56
『つまり、自然の諸法則は〜かぎらないとかいえるのだ』は、このことを説明している。




◎ 2009年5月16日 (土) 西方の人

芥川龍之介「或阿呆の一生・侏儒の言葉」角川文庫「西方の人」「続西方の人」

p.310 「西方の人」32 ゴルゴタ
『わが神、わが神、どうしてわたしをお捨てなさる?』
キリストは捕まってもはりつけにされるとまでは思っていなかったのかもしれない。

p.324 「続西方の人」14 孤身
『クリストはたびたび隠れようとした』
p.314 「西方の人」36 クリストの一生
『天上から地上へ登るために無残にも折れた梯子である』
そもそも、布教そのものが間違いなのだから、キリストがそれに気づいて布教を断念しても不思議はない。
しかし、実存主義者であるキリストが権力主義者になろうとすることは決して無いだろう。
解説にあるようにキリストは梯子の存在にすら気づかないだろう。
天上とは実存主義の、地上とは権力主義の象徴である。

p.291 「西方の人」2 マリア
『世間知と愚と美徳とは彼女の一生のうちに一つに住んでいる』
芥川にとってマリアは、権力(世間知)と愚と美徳の象徴のようである。
『永遠に守らんとするもの』は、この内の権力(主義者)を指すのだろう。
人間社会を守る、すなわち普遍的な行為(就職や結婚)をする側である。
「永遠に」とはこの場合、「普遍的な行為を」という意味である。

p.291 「西方の人」3 聖霊
『ゲエテはいつも聖霊に Daemon の名を与えていた』
芥川にとって聖霊は理性の象徴のようである。
『永遠に超えんとするもの』は、人間社会から逃避する、すなわち普遍的な行為をしない側(実存主義者)のことである。




◎ 2009年5月17日 (日) 実存主義の布教

権力主義者にとって実存主義者は不安や恐怖以外の何者でもない。
権力主義者は、生活する上で今まで述べてきた以外にもいくつかあるいは多くの苦しみや不安を抱えなくてはならないと思うのである。
実存主義者は、迫害、短命、無職、非婚といった明白な問題は抱えるが、その他の苦しみからは解放されるのだ。
また、実存主義者は仮面を持たないため他人にも自分と同様の仮面を持つ事を強要しない。
また、権力主義者にとって権力(世間)は最も恐ろしいものかつ安心をもたらすものだが、実存主義者は恐れない。
それらの点が、権力主義者の不安や恐怖、憎悪の対象となるのである。
権力主義者にとって、世間からの迫害、短命、無職、非婚は何に引き換えても避けたいものらしい。
そのため、実存主義を薦めても無駄である。
それでも薦める場合は、明白な問題と再び権力主義に戻る事はできないという条件は、事前に通告すべきだろう。
実存主義になるには、漱石や芥川、サリンジャー、老子などの実存文学を読めばよい。
また、権力主義者にとって大人になることは、他の大人の真似をすることだったが、実存主義者は、自分で考えて行動しなくてはならない。
実存主義者の真似もしないことだ。
自分で考える事が、理性を身につけることなのである。
しかし、多分無駄だ。
キリスト教も仏教も権力主義宗教だから布教に成功したのだ。
実存主義宗教であれば、決して広まる事はなかっただろう。
実存主義を布教したい人は、不可能な事をやろうとしていることを忘れないようにした方が良いだろう。
キリスト教を、実存主義宗教に変えようとしたキェルケゴールの試みは失敗しただろう。
信者は、権力主義宗教だからこそ納得できたのだ。




◎ 2009年5月17日 (日) 森鴎外と三島由紀夫

三島と鴎外には、博愛が欠けているようである。
三島については、彼の人生から明白であり、鴎外については、自己犠牲へのこだわり等から推測されるのである。

三島の理性は美を認識できるが、権力主義に移行したときに博愛が理性と共に消滅した可能性がある。
あるいは、彼の理性には美はあっても博愛が最初から欠落していた可能性もある。
その点において、理性と正反対の行動を取るのである。
自分でそれが分からないはずがなく、人格が破綻しないのが不思議である。

鴎外については、高瀬舟(集英社文庫)の解説にあるように、理性(美)というよりは、西欧精神の輸入であったのかもしれない。
そのため、博愛が無いのである。

森鴎外「舞姫」集英社文庫「妄想」
もし、鴎外に博愛がないというのが僕の勘違いであるならば、彼は実存主義者と呼べるだろう。
しかし、実存哲学にことごとく NO と言ってしまうところは、あまり実存的ではないのかもしれない。




◎ 2009年5月19日 (火) 権力主義は融通がきかない

権力主義社会が日常生活の上で、人間に苦痛を与える理由の一つとして、杓子定規で融通が利かないことが挙げられる。

前に挙げた法律も理性とは違って融通が利かない。
そのため、状況に応じて適切な処置がとれないのである。
例えば、未成年が煙草を吸ったくらいで、その後の人生が終わらされてしまっても良いのであろうか?
法律ではなく理性による判断に任せるのであれば、この手の間違った判断は解消されるのだ。
法律の存在によって、人間は考える力を消失しているのだ。

カミュ「異邦人」新潮文庫
p.108『あの男には魂というものは一かけらもない』
これは、検事の発言だが、実存主義者から見ると、どんな状況でも同じ結論を導き出さなくてはならない、この魂は仮面なのである。
こうした仮面が、人間関係をぎくしゃくしたものにし、日常生活に苦しみを与えるのだ。
仮面の杓子定規で融通が利かない性質がそうさせるのである。
仮面の代わりに理性を働かせるならば、万人が、このような苦痛を受けなくて済むのである。

安部公房「笑う月」新潮文庫「自己犠牲」
人間社会において、人間の価値は職業でしかない。
人間社会が、権力主義社会だからである。
どの権力に所属しているか、あるいは、どんな奉仕ができるかだけが、その人間の全ての価値となるのだ。
これも権力主義は融通が利かない事を示している。
人間の柔軟な判断による社会生活を妨げているに違いない。
相手の身元をはっきりさせる事で安心感を持てるためとも考えられるが、これは職業の無い者は安心できないという偏見である。
偏見のせいで、かえって犯罪に巻き込まれる人間の方が多いのではないだろうか?

これらの例は、人間には自由が必要である事を示すのだ。




◎ 2009年5月20日 (水) モーツアルト

F・ブラント「キェルケゴールの生涯と作品」
p.57『モーツアルトのドン・ジュアン』
芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」 新潮文庫 「或阿呆の一生」
p.164 四十一 病『Magic Flute-Mozart』

モーツアルトも実存主義者らしい




◎ 2009年5月20日 (水) ドン・キホーテ

最近、ドン・キホーテを読んでいるのだが、まるっきり自分に思えて仕方がない。
世間は、ここに書かれている内容は、ドン・キホーテの所作としか思えないだろう。
その最大の要因は、おそらく、実存的無政府主義が夢物語だからである。
世間は、実現できない結論ならば、その思想も聞くだけ無駄だと考えるのだ。
実存主義者に結論は関係ないが、権力主義者はそうじゃない。
僕にしても、ドン・キホーテのように世間を引っ掻き回すつもりではなく、暇つぶしに自分の頭の中を整理しているだけである。
そうは言っても、外交問題は権力主義社会では解決できない局面まで来ているかもしれないので、実存的無政府主義について否応なく考えなければならなくなる可能性はある。

セルバンテス「ドン・キホーテ」白水社
ドン・キホーテの最後に『君は世界を蔑視し、世をあげて君をおそれ、怖気をふるった。』とあり、
解説に、『鐙に足をかけながら、死の不安を胸にして、殿様、これを書きまする。』とある。
ドン・キホーテは実存主義者で、騎士道物語は実存哲学だったようである。
銀月の騎士に敗北したのは、キェルケゴールの死に至る病かもしれない。
ドン・キホーテは死の直前に正気に戻ったが、セルバンテスは死ぬまで実存主義者だったらしい。




◎ 2009年5月22日 (金) 脳死と臓器移植

脳死と臓器移植の法律についての問題は、生体移植にあるようである。
動いている臓器を取り出すなど、ぞっとする話ではないだろうか。
生きている臓器を手にしながら、それを死んでいると判断できるものなのか。
白を黒と言っているような無理を僕は感じるのである。
安楽死や脳死からの安楽死ならば、個人の尊厳死として認められるかもしれないし、その後の臓器提供も考えられる。
脳死者からの生体移植問題は、実存主義と権力主義の問題が深く関係しているようだ。
実存と権力問題について明確なケリをつけてから、脳死生体移植問題について考えるべきだろう。




◎ 2009年5月23日 (土) 人間は他の動物よりも価値があるのか?

村上春樹「スプートニクの恋人」講談社文庫
p.157,158『猫と無人島に流れ着く話』
サリンジャー『フラニーとゾーイ』
p.189『人間は、どんな人間でも〜鶏より価値がある』

鳥の立場からすれば、人間の命より鳥の命の方が価値があるだろうし、人間の立場からすれば鳥の命より人間の命の方が価値があるだろう。
人間の命が他の生物の命よりもはるかに尊いといった人が、どんな状況でそれを言ったかを想像しなくてはならない。
それは、こんな状況しか考えられない。

ある地主が、奴隷よりも牛に贅沢をさせていた。
そこで、ある僧は言った。
「あなたは、人間の命よりも牛の命を優先させるのか?」
すると、地主はこう答えた。
「この奴隷は何の役にも立ちはしないが、牛は畑で大いに働いてくれる。役に立つ牛を大切にして何が悪い?奴隷などいくらでも代わりがいる。」

地主の価値基準は、社会の役に立つか立たないかで、これは権力主義者の基本的な考え方である。
これは、同じ権力主義の僧にも納得のいく説明だったので、苦しい策として、根本的に人間は他の動物よりも価値があるとしたのである。
実存主義者であるならば、役に立つか立たないかで、価値を決めるなと言うところだ。
ここで重要なのは、行為の対象が、人間か他の動物かということである。
無人島の猫と人間は、行為の対象が人間ではないので、この状況には当てはまらないのである。
シスターは権力主義者なので、状況に関係なく他の動物に対しては非情に徹しろと言ったのである。
実存主義者であるならば、無人島の場合は、どう行動するかは、その人間の自由だと答えるだろう。
人間は他の動物よりも価値があるというのは、キリストは神であるというのと同様に嘘も方便なのだ。
鳥が、仲間の鳥を犠牲にして、人間の命を助けるようなことは、ちょっと考えられないだろう。
無人島に、もう一人、人間がいる場合は、猫を犠牲にしたら良いのだ。
「社会や他人の役に立つ立たない」が、脳死と臓器移植の問題につきまとっているようだ。




◎ 2009年5月23日 (土) 法律と教育は不要

人間は、無知であるため、完璧な理性は手に入れられない。
しかし、その事実さえ忘れなければ、法律や教育などの権力が無い方が、はるかに豊かな生活が送れる事は、これまでの説明で理解できるだろう。
法律や教育には欠陥があるが、理性にはその欠陥が存在しないからである。
理性と中庸こそが、人間社会の根本になるべきである。
科学技術の無い不便な中世のような生活しか送れないが、実存的無政府主義のみが人間らしい生活の基盤となれるのだ。
民主主義とは、民が主になる、すなわち民が民を支配するという意味で、封建社会であることには変わりがないのである。