◎ 2009年4月22日 (水) 孔子
孔子は、おそらく次のように考えたのだ。
自分自身を含め、多くの人間が老荘思想を理解できない。
理解できない考え方なら存在しないのと同じだ。
だから、自分が理解できる思想を世界に広めようとしたのだ。
悪い人間ではないのだが、結果的に権力を神とする思想になったのである。
もちろん、儒教を信じれば、国内、外交問題は、必ず存在する。
孔子は、権力の下に戦争も人権無視も是認する。否定はしていない。
否定すれば儒教は成り立たないから当然である。
◎ 2009年4月26日 (日) 未来(1)
というわけで、実存の苦悩を取り去る事には成功したのだが、その後についても少し考えてみよう。
ここからは、時間をかけてゆっくりどうなるか様子を見ながら、どうするか考えるべきだろう。
なぜならば、我々は、原因が究明されたらどうなるかについて何一つ知らないからである。
知ったかぶりが急いで何かをしようとしても的外れである。
とりあえず、事実だけを列挙しよう。
荘子には、人間の本性には逆らうなと書いてあるらしい。
つまり、人間社会から権力を取り上げることは、人間の精神衛生上、悪いのである。
権力主義者は、どんなに正義や美を目指しても儒教の道徳までである。
実存主義者は、理性から離れる事はできない。
理性は、状況次第で変化する可能性があるが、儒教の道徳は変化の可能性はない。
(変化するといっても理性は本質的に変わらず、状況に応じて場合分けされるだろうという意味である)
この問題は、どうにもならないが無視できない。
やはり、やめておいた方が良いだろう。
作為的に人間の未来を考える事は老子に反する。
作為の結果の権力主義なのだ。権力だから作為するのだ。
ここまででも、僕は全て自力で考えたわけではなく、経験や他人の考え方も参考にしているのである。
そんなわけで、今後については完全に手詰まりである。
それでも、1つだけ付け加えるならば、外交問題は各国の常識の押し付け合いが原因である以上、各国の常識を権力主義から実存主義に変更する以外に外交問題を解決する術はないということである。
国内問題も外交問題も国内の常識を変更するしかないのだ。
宗教も常識も権力主義なので、参考となる国や宗教は存在しない。
キリスト教もイスラム教も仏教もヒンズー教も儒教と実質的に変わらない。
しかし、個人の世界観が尊重される社会であれば、人間が国内常識にあまり依存しないで済むかもしれない。
世界各国の国内常識が軽視される世界は、実存で統一された世界ということになるだろう。
最終的には、実存的無政府主義となるだろう。
もちろん、机上の空論で現実性はないかもしれない。
これが、キェルケゴールが考えていた未来だろう。
無政府主義には、権力が考慮されていないから結局は不可能だ。
権力が発生したときに、誰もそれを制止できないからだ。
権力主義では、あらゆる問題が解決できない。
実存主義では、あらゆる問題が解決される。
理性的には実存主義が正しいが、それを選択できないという不条理にキェルケゴールとカミュは遭遇したのだ。
◎ 2009年4月26日 (日) 未来(2)
それでも、実存的無政府主義を目指せないことはない。
確かに、いつかは、権力に実存的無政府主義が蹂躙される日が来るだろう。
そのときは、また実存的無政府主義を目指せばよいのである。
例えば、永世中立国のスイスが実存的無政府主義であれば、周辺国はより安全を確認できるだろう。
(しかし、世界情勢が不安定な場合は、周辺国に攻め滅ぼされるだろう。当然ながら他の国は見て見ぬふりだ。同盟関係にない上に権力主義でもないとすれば、他国が強くなってしまうことを差し引いても滅んでもらったほうが有難いからだ。権力は、他の主義の存在を認めるわけにはいかない。イスラム教圏や共産主義が資本主義に攻撃されるのもそのためである。他に理由などない。それが、権力の性質だ。もし、勢いが逆であれば、適当に理由をつけて資本主義が同じように攻撃を受けるのだ。世界を統一しても問題ないのは権力が存在しない実存主義だけだ。)
また、ガンジーのように無抵抗であれば、国が滅びても被害は最小限で食い止められるのである。
これまでの無政府主義は、老子が言うような小さい集落の寄り集まりの事を指したが、権力が小さくなっただけでは無意味である。
その場合、権力である以上、他の集落を併合して大きくなるのは当然だからだ。
全く想像がつかないが、とにかく実存的無政府主義でなくてはならない。
暴力放棄、金銭・契約放棄、土地の所有権放棄、法律放棄、集団放棄、教育放棄、人権尊重、理性尊重が理念となっているだろう。
また、国家元首や集落の代表も不要だ。
意見をまとめるためにそれらは必要となるが、そのとき必ず、多数決が採用されるからである。
権力に襲われて土地を追われそうになったら、抵抗すれば良い。
軍事力では負けるが、士気と人数では圧倒する。
自衛のための暴力は、権力の暴力ではないので許される。
理性は、このように状況に応じて使い分けができる。
理性なき使い分けは、権力主義である。
もし、権力主義であれば、アメリカに要請されれば補給部隊を支援したりしてしまうのだ。
権力主義国は、法律や契約(権力)に従順だからである。
理性があれば、法律も教育も必要ない。
金銭は、最大権力だから絶対に放置するわけにはいかない。
金銭が存在すれば、他の全ての権力も必要となる。
金銭も契約も手形も使わないようにするには、市場での物々交換しかない。
この場合、現在のような社会を維持するのは不可能である。
金属の加工を行うような大きな構造は維持できない。
江戸時代みたいな感じになるのではないだろうか。
電気、ガス、上下水道は無理だ。
井戸は復活させなくてはならない。
上下水道は、代替となる仕組みが必要だ。
上水道は、井戸水をパイプでつなげば良いだろう。
下水道は、江戸時代には江戸の町に下水施設があったという話だから、それを利用すればよいだろう。
その話がデマで下水施設が無ければ、汲み取りしかない。
大名や庄屋がいないから、不作に備えたり、働けない人間のために、複数の集落が共同で物資をプールする仕組みも必要である。
人間の嫉妬深さは病的で悪魔的だ。
共産主義では、社会を人間が管理するから必ず不正が発生する。
資本主義では、人間の欲深さを刺激する。
どちらも人間の嫉妬を招く。
その点、物々交換とプールの採用は、貧富の差と不平等を比較的抑えられるのではないだろうか。
物々交換では、大きな富の移動が少ないように思えるからである。
人間の嫉妬は権力と並び、人間社会を考える上で最重要事項である。
嫉妬と権力の間には必ず密接な相関関係があるに違いない。
実存になるのは簡単だ。
権力主義では、人間社会の諸問題が解決できない事を知り、権力がどんなものであるかを理解すれば良いだけである。
それを基本にして、物事の判断を自分でつければ良いのだ。
ただし、実存は、迫害・短命・非婚・無職だから、覚悟するように。
実存的無政府主義を目指しても良いけど、政治的、暴力的、集団的などの権力的手段はとらないようにしなくてはならない。
実存への勧誘も禁止である。
個人レベルで、少しずつでなくては意味がないのである。
なぜならば、権力主義者は実存的無政府主義社会では、生きていけないからである。
実存的無政府主義社会では、全員が実存主義者でなくてはならない。
実現にこぎつけなければ、最初から無理な考えだったとあきらめるべきだ。
◎ 2009年4月28日 (火) 未来(3)
僕は、実存的無政府主義の実現性は乏しいと判断している。
積極的な推進は、おそらく無駄骨になるだろう。
権力主義者には理解も納得もできないと思うが、たまたま、世界中が実存になって、実存的無政府主義社会が成立したという可能性しかないと僕は考えている。
権力主義者は、人間社会は人間が動かすものだと考えているから理解できないのだ。
その傲慢を捨てて、世界は人知に及ばないものばかりであることを知れ。無知の知とはそういうことだ。
そもそも、作為をした時点で実存ではない。
神の怒りを買うのは当然だ。神は作為に天罰を下す。
神は、君主制であれ民主制であれ、人間による人間社会の統治を認めない。
神は人間ではない。神とは自然のことだ。
昔、卑弥呼は自然の意思を神託として聞く事ができたというが、そんなことをできるわけが無い。
その作為も天罰の対象となったことだろう。
自然(神)は、人間が無為であることしか許さないのである。
無為とは、権力を作らない事と行使しない事である。
つまり、極力、指図や提案、説得などの他人を動かすような行為をしない事だ。
自然は、全ての人間が実存主義として、自然の下に平等であることのみを認める。
と言っても権力主義者には理解できないだろう。
何がどうなったところで、実存主義者にとるべき行動は何も無い。
仮に実存主義が世界を統一しても、再び権力主義にとって変わられるだろう。
実存主義社会を維持する努力は無駄である。
なぜならば、絶対的に個人は大きな権力に対して無力だからである。
そのため、実存主義者は、実存主義社会でも権力主義社会でも常に実存主義者である必要がある。
基本的に人間社会のありようは実存主義者にとって意義のある事ではない。
◎ 2009年5月1日 (金) 自己犠牲
森鴎外「舞姫」 集英社「妄想」
森鴎外「高瀬舟」集英社「山椒大夫」「最後の一句」「堺事件」「阿部一族」
森鴎外は、他の実存作家と異なり、自己犠牲を積極的に支持する。
森鴎外「妄想」
p.57 『西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと言っている。自分は西洋人の謂う野蛮人というものかもしれないと思う。そう思うと同時に、小さい時二親が、侍の家に生まれたのだから、切腹という事ができなくてはならないとたびたび諭したことを思い出す。〜しかしその西洋人の見解がもっともだと承服することはできない。』
「山椒大夫」「最後の一句」の自己犠牲が鴎外の承服できない理由の1つと思われる。
確かに、最初に読んだときは自己犠牲に感動したような気がする。
しかし、理性で考えると感動する理由がないように思う。
芥川龍之介は、「歯車」で理性と神経を同じようなものとして考えていたようだが、実際は別物ではないだろうか?
自己犠牲を見ると誰しも無条件に感動するようだが、本当にそれは理性にかなっているのか?
神経や感受性は、原始的、野生本能的なもので、欲望と似たようなものかもしれない。
それならば、理性に反していても不思議はない。
鈴木光司「ループ」、「タイタニック」や「ディープインパクト」などの映画も自己犠牲をテーマとしていたが、ほとんど共感できなかった。
特にタイタニックで号泣している女などは変人だと思った。
自己犠牲が真に感動に値するのであれば、リストラで、自主的に退社する人は世界中から絶賛されて、手厚くもてなされなくてはならないことになる。
実際は、ニュースにすらならない。
自爆テロも同様だ。
自己犠牲は、俗物の欲望の1つである。
権力のためだろうが、愛のためだろうが、殉教だろうが関係ない。
神経や感受性を真に受けると猿になる。
p.261『西欧社会の精神的バックボーンとなっているキリスト教を日本が持たない以上は、別な何ものかがなければ、「自己犠牲」や「自己放棄」を強いるような国家的、国民的統一はありえない』
だから、鴎外は自己犠牲の小説を書くのだと解説にある。
しかし、西欧社会は、国家に自己犠牲を強いるためにキリスト教を利用しているわけではない。
解説者は、ここにおいて問題のすり替えを行っている。
いや、キェルケゴールは、「キェルケゴールの生涯と作品」p.176で『牧師は国の官吏だ』と言っている。
案外、解説どおりに鴎外は国民の国家への絶対的忠誠を画策していたのかもしれない。
p.123『「マルチリウム」という洋語も知らず、また当時の辞書には献身という訳語もなかったので』
とあるように、鴎外は、「山椒大夫」や「最後の一句」を「タイタニック」のような愛の自己犠牲として書こうとしたのである。
p.260『思えば、阿部一族が滅亡への道を進んでいったのも、「自然」によるものだった』
とあるが、これも解釈が間違っている。
鴎外が言っている「自然」とは、既存の物語に独自の変更を加えないという意味である。
例えば、「山椒大夫」で安寿の台詞を変更したりしたために、物語が嘘っぽくなっている。
鴎外の主張を優先させたために物語に無理(不自然)が生じたのだ。
「堺事件」や「阿部一族」、「ディープインパクト」、殉教などは、人間社会(つまり、国家の常識)の圧力によって、権力への自己犠牲や自己放棄を強いられるのである。
そこが、「タイタニック」との違いである。
「ディープインパクト」については、愛の側であるという見方もあるかもしれないが、僕は人間社会の圧力の方に入れる。
なぜならば、「堺事件」や「阿部一族」、殉教も権力に対する愛と呼べなくはないからだ。
権力主義の人間社会が、人権や自由、命を奪うのである。
権力であれ愛であれ何であれ自己犠牲は、理性や美にかなっていない。
鴎外のように区別する価値は無い。
◎ 2009年5月4日 (月) キリストの間違い
最初に断るが、僕は聖書を読んだことはない。
キリストは、実存を世間に広めようとしたが、これは、ろくでもない末路が待っているから間違いである。
実存と権力の選択は個人の自由意志によるべきである。
世間は、権威の言うことを素直に聞くので、キリストは自ら神を名乗る事で権威による布教を画策したが、これも権力主義のやり方なので間違いである。
キリストは、言葉によって実存を弟子や世間に教えようとしたが、実存哲学は自己の経験と世間観察と思索によってのみ理解ができるので、これも間違いである。
また、言葉そのものも、100%概念で構成されているため、人間社会以上に間違いだらけで当てにならない。
当然、12使徒は、実存が全く理解できていない。
キリスト本人が未熟で、できないことをやろうとしたからである。
ゲーテ「ファウスト 第一部」新潮文庫
p.80『はじめにことばありき』というのは、嘘だ。
◎ 2009年5月4日 (月) 家庭教育
森信三「わが子の人間教育は両親の責任!!」社団法人 実践人の家
p.13『一応人間としての我をぬく秘訣なのです。ですから〜子供はいつの間にやら素直になって親の言う事をよく聞くようになるのです。』
我とは、自我、あるいは自意識のことである。
つまり、権力に盲目的に服従させることが家庭教育であるというのだ。
人間教育は、学校だけの責任ではない、家庭でも教育しろと学校が言うのはこのためである。
もちろん、このような教育は家庭や学校だけでできるものではなく、地域全体、国家総力を挙げて行っているのだ。
その権力服従教育は、具体的には先祖伝来の権力の策略を用いて行う。
何も考えられない人間を作り出せというのが、世界中の全ての国家の方針なのである。
実存哲学などもってのほかというわけだ。
一度、実存になってしまうと権力に戻れないから、そうしているのだろう。
実存と権力の違いは理性の有無である。
権力主義社会では、自我や自意識は理性に不可欠なものだ。
もちろん、それを持つ事は、ろくでもない人生が待っている事を意味するのである。
実存であれ、権力であれ、人生が決して明るいものではないことだけは確実である。
◎ 2009年5月5日 (火) 土地の所有
農耕が始まったために、国家が生まれたと聞いた事がある。
農耕が権力(国家)を必要とするのは、農耕には土地の所有が必要となるからである。
農耕地の所有ができると、地主、小作人という主従関係ができる。
つまり、土地の所有は権力なのだ。
金銭も同様に、他人を支配できる権力である。
土地や金銭の所有が持つ支配力を奪い合ったり、守ったりするために、軍隊や法律が必要となったのだ。
金銭と土地を多く持つほど、強大な権力を手に入れられるからである。
そのため、金銭だけでなく、土地の所有も放棄しなくては、実存的無政府社会は実現できない。
ということは、金銭を無くし、土地の所有を認めなければ、その他の全ての権力は一緒に消滅するだろう。
老子の言う無為自然とは権力を消滅させるという意味で、権力を残したまま何もしないでいたら逆の事をしていることになる。
もちろん、老子は無為自然を薦めはしても強制はしない。
他人への強制は、権力の所業だからである。
◎ 2009年5月9日 (日) 悪魔と悪魔的なもの
悪魔は、実存主義者から見た権力のことである。
悪魔的なものは、実存主義者が権力主義者の視点で実存主義者を評価したものである。
立場の違いで、正反対になるのである。
F・ブラント「キェルケゴールの生涯と作品」法律文化社
p.90『このおれは、生れながらの出来そこないで〜』
太宰治「人間失格・桜桃」角川文庫「人間失格」
p.42『自分を生れた時からの日陰者〜』
この2つは、「悪魔的なもの」について書いたものである。
サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」新潮文庫「バナナフィッシュにうってつけの日」
p.32『あなた、ぼくの足を見てますね』
ゲーテ「ファウスト(一)」新潮文庫
p.292『注釈2184 悪魔の片足は馬の足である』
これが、シーモアの足の理由かもしれない。
悪魔的なものが、偶像崇拝的だとする説があるらしいが、滅茶苦茶な論理である。
他の集団や個人の考え方が許せないのは、権力の性質である。
自分の考えを絶対的だとする人間は、悪魔的なのではなく、人間が無知であることを知らない人間なのである。
戦争に限定するならば、自分の考えを絶対的としているのではなく、大義名分を遂行しているに過ぎない。
戦争とは、大義名分をたとえ自分が疑っていても遂行せざるを得ないものと聞く。
戦争や人権無視は、権力主義の宿命だ。他の何ものでもない。
資本主義でも共産主義でもナチズムでもポルポトでも何でも同じだ。偶像崇拝は関係ない。
偶像崇拝が必要だとしたら、それは戦争の大義名分だけである。
もちろん、実存主義は偶像崇拝ではない。
ヒトラーやムッソリーニが特別だと思ったら大間違いである。
そんな迷信(責任転嫁)を信じたら、同じ過ちを繰り返す事だろう。
独裁がファシズムだというのも大嘘だ。戦争や人権無視の原因はファシズムではない。
資本主義がイスラム圏や共産圏を攻撃する現状は、民主主義によるファシズムだ。
ファシズムという概念は消滅させて、権力主義で全てを説明するのが妥当だ。
もちろん、戦争をしたくなければ、実存的無政府社会を実現しなくてはならない。
しかし、既得権を失う事には、人々は命がけで反発する。
その既得権所有者は、どの国でも全国民の半数くらいは、いるのではないかと僕は考えているのだ。
官公庁と取引のある企業は山ほどあるし、その企業と取引のある企業も山ほどあるのだ。
これらも皆、既得権所有者だ。
フランス革命も、王や王妃ばかりが悪者扱いされているが、一部の人間に戦争責任をなするのは権力主義のやり口だから怪しいものだ。
本当は、国民の半数くらいが国家から、たとえ合法であっても何らかの利益を得ていたに違いない。
たとえ誰もが法律を厳密に守ったとしても富の不平等が発生し革命が起きるに違いない。
不公平の無い法律などありえないからである。実のところ、賄賂など何の意味も無いのだ。
知識人から言わせると、ルイ16世やマリーアントワネットも悪魔的であるに違いない。
戦争は、全国民(世間)に責任があるのを、知識人が権力のトップのせいにして、世間に媚を売っているのである。
それを聞いて、世間は自分達のせいではないと身勝手に安心するのだ。
他にも世間から迫害を受けてみないと分からない理由があって、実存的無政府社会の実現は無理だろうと予測する。
資本主義による世界統一と、その後の世界大戦争(革命)は避けられないだろう。
権力の性質と現状によって、レールが完全に敷かれてしまっているのだ。
権力の性質からして、イスラム教圏や共産圏を放置する事はできない。
外交努力は何の役にも立たず、資本主義が世界を統一するのは、時間の問題だ。
世界大戦争の原因は、資本主義の最終段階である帝国主義と間違えるかもしれないが、本質的な原因は権力主義の宿命である。
資本主義でなくても共産主義でも宗教でも権力主義であれば何でも世界統一を果たしたら帝国主義となる。
そして、権力の性質上、その他の常識も世界統一されるのは確実で、その結果、富の不平等問題だけでなく、難解で雑多な苦しみが世界中を襲うことになるだろう。
これらが、世界大戦争の引き金になると思われるのである。
仮に、イスラム教や共産主義が世界統一しても同じ事だ。
◎ 2009年5月11日 (月) ファウスト
ゲーテ「ファウスト(一)」新潮文庫
p.81『己は「言」というものをそれほど尊重する気になれぬ』
p.100『己のすべてを支配するこの神も、外へ向っては全く無力なのだ』
p.105『こんどはあなたがわたしの家来になる』
p.155『サタンの若殿様の御光来とは』
p.190『神や世界や世界の中に動いているものや、人間の頭や胸の中に動いているものについて懼れ気もなく、大胆に、やっきになって定義を下したりしたことはないんですか』
サタンとは、人間を堕落させる誘惑者のこと。
ゲーテも実存である。
p.158『三位一体だの、一体にして三位だのと、真理の変わりに迷妄を流布せしめる』
キリストが神ではなく、ただの人間である事をゲーテは確信している。
人間が人間社会に依存する生物であり、人間社会の真理が権力であることを知っていたのは、老子、キェルケゴールの2人だが、他に、金銭を嫌ったキリストとキリストを理解できたゲーテも知っていた可能性がある。
もちろん、彼らは実存主義者なので、人間社会に依存することを望まないのである。
また、人間社会の構成要素のほとんどが概念である以上、人間社会の真理が権力であるというのは、かりそめの真理でしかない。