◎ 2009年4月17日 (金) 仮面の告白(1)
三島由紀夫「仮面の告白」新潮文庫
抽象的な文体で全体的に分かりにくいし、男色に興味はないのだが、ぱらぱらとページをめくるとチラホラと実存に関係したことが書いてあるので、それについて書こうと思う。
p.4
先ず、書いて良いものか書かない方が良いのか随分悩みそうな事を書こうと思う。
僕としては、書かない方が良いと思う時間の方が長かったのだが、今はたまたま、ちょっと書いても良いかなと思っているのである。
芥川や太宰が最も明白に書いていることだが、鴎外や漱石や川端もおそらく似たような見解を持っているに違いない。
年をとると経験的に分かるのだが、現実の女は美から遠い。
この本の前書きに、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の引用があるが、これがそのことを書いているのである。
ソドムとは、男色のことを指すのだが、これは行き過ぎにしても、実存男は現実の女に興ざめするのである。
その理由は、女は男よりもはるかに権力的だからだ。
女は暴力があまり使えない。そのため、身を守るために集団(全体主義、多数決)や策略、金銭などその他もろもろの権力に頼らざるを得ない。
また、歴史的に戦争で命を捨てる機会がなかったため、死とは程遠い存在なのである。
女は生来的(DNA的)に権力に近いのではないだろうか。
もちろん、男もほとんどが権力だ。権力でなくては生きることもかなわない。
どちらにしても、現実は男女に拘らず、権力なのだ。
ドストエフスキーは、作家は皆、男色であるように書いているが、むしろ男女に拘らず孤独な作家の方がはるかに多いことを忘れている。
必ずしも美が重要なものではないかもしれないが、敢えて美について考えるならば現実は美から遠い。
少なくとも実存作家にとって美は人生そのものである。
このジャーナリズムがまた、人間を更に複雑なものにするかと思うと複雑な気分である。
p.87『「悪魔的なものとは、すべての人の中に生まれつき、自己の外へ、自己を越え、人を無限なるものへ駆りたてる不安定のことで」ある。そしてそれは、「あたかも自然が、その過去の混沌の中から、ある除くべからざる不安定の部分をわれわれの魂に残しでもしたかのよう」であって、その不安定の部分が緊迫をもたらし、「超人的、超感覚的要素へ還元せんとする」のである。』
これは、実存の正体を述べたものだと思われる。
つまり、実存(悪魔的なもの)とは、無意識的に権力が人間社会における諸悪の根源であることを知っているのだが、それを具体的に認識できているわけではない。
しかし、そのために、現実において権力的なものに近づくことができない。
権力に近づけないということは、就職も結婚も長生きもできないのである。
何故、自分が権力的なものにどうしても近づけないのかが分からないため、それを知ろうともがくのである。
実存の真理探究欲は、これに起因するのだ。
あるいは、純粋に不安定の正体を知りたいと思っている場合もあるだろう。
実存は、自意識過剰と呼ばれる。
しかし、実存主義者は権力主義者と明確に区別をつけられなければ、太宰やあおいのように大変苦悩することになるのだ。
実存に自意識は不可欠である。
はっきり両者の区別をつけた後で、両者を区別しないで考える博愛が必要なのだ。
最初から区別をつけないのは、間違った考え方である。
◎ 2009年4月17日 (金) 仮面の告白(2)
p.166 まで読む。
現時点で、三島の言いたいことは、権力主義者は皆、自分の虚栄心を守るための仮面をかぶっているということである。
そして、三島はその仮面を取り去る努力の一つとして、この本を執筆したと書いている。
この小説を発表したとき三島は、24才である。
僕の感想としては、遅すぎる。
僕は、同様のことを中学生くらいのときには、既に実行に移していた。
そう考えると、実存というのは、全ての仮面を消滅させることから始めるのかもしれない。
仮面とは嘘や欺瞞や虚構のことである。
仮面をかぶることで、権力主義者は自己の尊厳を守るのだ。
しかし、仮面同士が生じさせる矛盾につじつまを合わせる作業が、普段の生活にわずらわしさを生じさせる上に、その作業が完璧に成功することはないのである。
実存とは、徹底的に仮面を取り外していき、最も単純な自分自身になることから始めるのかもしれない。
それ以降は、一切、仮面をつけないようにするのである。
そのために、三島は過激なことを敢えて書いて恥をかくという努力をしてみせたのである。
ついでに言えば、仮面を全て取り去る努力をしながら、後悔しないような言動ばかりするように努力しなくてはならない。
後悔しない言動を目標に努力すれば、結局は正直であることになってしまうだろう。
だまされやすくなるというのではなく、だまさないようになるという意味である。
正直を目標に努力すれば、正直以外の何者かになってしまうのではないだろうか。例えば馬鹿とか。
ただし、実存が正直だと思って良いかといえば、それは違うだろう。
更に経験を積んで、どうなってしまうかは他人にも自分にも分からないのだ。(ここまで説明する必要はあるだろうか?何故、ここまで書いたかといえば、権力は正真正銘、根から腐っているからである。馬鹿につける薬はないのだ。権力がもし、これら文章に興味を持つとしたら、どのようにして実存を支配するかとか策略になるような知識はないかとかなのだ。)
仮面の除去と後悔のない言動を実行するならば、授業や仕事をそっちのけで365日専念しても、5年はかかる。
実存は皆、この人生の空白を実行している。
自己を鍛える修行と言えなくもない。ただし、自分では鍛えるつもりも修行のつもりもなかった。
少なくともこの本を執筆当時の三島は、太宰よりも実存的にも文学的にも劣っていると思わざるを得ない。
ただし、この本がただの自己告白かといえば疑わしい。場景描写が、この本では雑音以外の何者でもない点において、今後の作家活動のための習作のようにも見える。
場景描写が主人公が三島本人でないことを暗示するのである。
この本において三島が重要とするのは、人間の仮面についての話をすること一点なのである。
実存は、仮面がないという点で気楽な人生、社会の真実を知っているという点で絶望的かつ享楽的人生と言えるかもしれない。
普通に就職して結婚する人生を送りたい人は、実存にならないようにしなくてはならない。
実存は自殺する人間ばかりだ。
しかも、自殺したくないのに自殺せざるを得ない人間ばかりなのだ。
まだ20代で、自分が男色で残忍な嗜好を持っていることを告白せざるを得なかった三島の不幸に同情する。
その後、死ぬまで三島が世間(権力)から迫害を受けるのは必至だからである。
権力はその性質上、三島を攻撃せざるを得ないのだ。
権力は、自分と外交のある他者に対して、自分達と考え方において同化させなくては存続できない性質を持っているからである。
権力は必ず、異端(悪魔)を攻撃し消滅させなくてはならない。
そうしなくては、権力が自己崩壊するのだ。
三島は、実存としてキリストの受難にあったはずだが、権力について何も感じなかったのか?
権力の本質に気づかなかったのか?国家の検閲で潰されたのか?
ということは、義務教育も学歴社会も国民に思索させないための国家の策略なのだ。
自分で考えたり実存になったりしないようにするためだけに、無意味にそんな構造になっているのである。
国家体制の存続に関わるのだ。
無駄な知識を勉強させ、その知識を社会全体で尊重する社会を作り上げたのだ。
こうしたジャーナリズムも無駄である。権力に知恵比べを挑んではならない。
実存は権力に対して張り合ったり、引き込もうとしたりしてはならない。
布教や勢力争いは押し付け合いと同じで、権力のやり方である。
勉強は大いにするべきである。ただし、血を吐くまではしなくても良いのではないだろうか。
◎ 2009年4月17日 (金) 仮面の告白(3)
これまでの仮面の告白についての僕の感想を全て撤回する。
p.192 〜 p.199 のあたりの主人公の考え方は特にわがままのように感じる。
女に対して不能であることも試さずして、その時になればできるはずだと考えていたが、実際にはできなかった。
主人公は、怖がって何も試さずして自分の感情を鵜呑みにする。
まるで読者の目には主人公が自分のわがままで他人を振り回しているように見えるのである。
主人公は馬鹿ではない。
大学の法学部に入れるくらいに優秀なのである。
この状況は、誰かに似ていないだろうか?
そうである。井亀あおいと全く同じケースなのだ。
あおいも馬鹿じゃなかった。三島と同じくらいに優秀な人間なのだ。
おそらく、彼らの生存本能が正常な思考を完全に遮断(緊急停止)してしまうのだ。
他人の目には三島や太宰やあおいがわがままであるように映るが、実際はとんでもない生き地獄なのである。
太宰とあおいの場合は、自分が実存であることが分からなかっただけだったが、三島の場合はそれに、生まれつきの男色が加わって更に区別がつかなくなっているのである。
三島の仮面は、常人の仮面とは全く違い、命そのものがかかっているため、本能レベルで命がけで作られたものなのだ。
試そうという思考は、生存本能によって無意識に遮断されてしまうものと考えられる。
三島にとっても、先ずは、彼自身が実存であるという自意識が必要である。
それを認めた上で、次の手を考えなくてはならない。
実存と男色とが混ざり合っているので、現在の感情がどちらによるものか分かっていないため、先ずはその区別が必要なのだ。
実存作家の美には対象に性別が関係ないため、おそらく、男色による感情と混同しやすいのである。
おそらく、その後で男色であるという自意識も必要なのではないだろうか?
自意識のない実存は、常に死と隣り合わせであるため、自分のことしか考えられない。これは、わがままというより悲鳴なのだ。
おそらく、何故、自分が死と隣り合わせなのかが分からないのだ。
人間は、どのように生まれてくるかは運次第なのだ。
そのことも踏まえて博愛について考えるべきだろう。
p.199『人間の情熱があらゆる背理の上に立つ力をもつとすれば、情熱それ自身の背理の上にだって、立つ力がないとは言い切れまい』
情熱とはここでは美を求める衝動のことである。
三島は、美の存在を肯定することで美による感情と男色による感情を区別することには成功したようだ。
しかし、実存であることの自意識がないので、太宰やあおいと同じ状態であることには変わりない。
生まれながらに、体は男だが心は女の人がいるらしい。
実存と権力の区別が必要なように、女と男の区別も絶対に必要なのだろう。
他人の苦悩は本人と同じ状況にならなくては、全く想像もつかないと実感する。
現在でさえ、男女の区別がつけられない地獄を僕は全く想像することができないのだ。
空虚な感じがするだけである。
しかし、三島や太宰やあおいの心理には、同情できるのだ。
◎ 2009年4月17日 (金) 仮面の告白(4)
p.201『感情は固定した秩序を好まない。それはエーテルの中の微粒子のように、自在に飛びめぐり、浮動し、おののいていることのほうを好むのである』
ドストエフスキーの「地下室の手記」のメインテーマの「人間は理性とは異なる行動をするものだ」と考え合わせると、人間が理性に逆らって行動するのは感情のせいだろうか?
これは、知識から推測できることではない。結論は経験待ちにしておく。
(追記 2016/0317)
感情が好まないのは、秩序ではなく、権力だ。
権力は、時に人間に理不尽を強制するからだ。
三島は、秩序=権力だと思い込んでいるようだが、両者は別物だ。
平清盛やソ連は、強大な権力基盤を手に入れたが、長くは続かなかった。
p.202 『この名状しがたい危険、世の常の粗雑な危険とは似ても似つかぬ或る正確な密度ある危険の抜きがたい力を感じるのであった』
実存が本来持つ、人間社会とは相容れない破滅的な危険のことだろうか。
例えば、世間から迫害を受けることとか。
あるいは、単純に道徳的な罪の意識か。
p.207 に『今』についての会話がある。
過去でも未来でも永遠でもない今に生きるのは実存の性質の一つである。
生粋の実存と権力の会話は異常に感じる。
生粋の実存とはここまで現在に生きることにこだわるものらしい。
主人公には、1秒先のことすら想像できないのかもしれない。
p.212『おかしなことをうかがうけれど、あなたはもうでしょう。もう勿論あのことはご存知の方でしょう』
ここで、園子に主人公が男色であることに気づかれる。
園子は、危うく人生を転落しかけたというのに、男色の主人公に誘われたことで腹が立つと同時に、そんなことを気にもかけない主人公の自己中心的な軽率を軽蔑したのだ。
主人公にとっての園子は、アルゴノオトのあおいにとっての山岡氏である。
園子や山岡氏は、実存作家にとっての美の象徴である。実存作家にとって美は現実そのものだ。
主人公やあおいは、園子や山岡氏に愛されることは生きる上でどうしても必要であると考えている。
彼らは、自分達が実存であるという自意識ができれば、生存本能の制御から解き放たれ、わがままから脱出し正常な思考ができるようになるのだ。
その結果、園子や山岡氏にもこだわらなくなるだろう。
人間社会は理性と断絶している。それが全ての発端なのである。
そこから、現実逃避(美)が人生の意義となってしまうのである。
そのメカニズムが、主人公とあおいには自覚できていない。
また、半実存半権力の園子や山岡氏が、そんなメカニズムを持っていないことを知らない。
常に死にかかっている主人公やあおいに他人の事を考える余裕などない。
◎ 2009年4月18日 (土) 三島由紀夫の自殺について
三島由紀夫は、国粋主義者として自殺したそうである。
この事件の真相を三島由紀夫のウィキペディアに書いてある内容だけで探ってみようと思うのだが、僕のこれから述べる推理は、ほぼ間違っていると思ってよい。
僕は、この行動に全く共感できないし、男色でもサディスティックでもないので想像もつかないのだが、全く意見を述べないのもここまで書いた意味がなくなるかと思ったのである。
自殺の動機については、自衛隊問題だったようだが、本当は迫害に耐えられなかったんじゃないかと思うのである。
24才で半自伝の仮面の告白を発表したとき、三島自身も世間からの迫害を予期して、何としても生きなければと決意したそうである。
しかし、三島は自身が権力主義者でなかったため、また年齢も若かったため、自分で想像したよりも100倍くらい世間の迫害はえげつなかったはずだと僕は思うのである。
というのも、権力主義は年齢を重ねるほどにエスカレートするからである。経験が権力主義を徹底させるのである。
大学を卒業したばかりの同年代は、まだそれほど権力主義に染まってなかったはずである。
また、三島は自分が実存である事を知らなかった。
実存は、ありふれた男色なんか比較にならないほど権力(世間)から見ると許せないものなのである。人でなし、悪魔扱いである。
国粋主義は、権力主義である。
これが、現実逃避に使われるというのは、僕が2009年4月6日(月)実存作家で書いた権力的なことは現実逃避に採用されないというのに矛盾する。
しかし、暴力は必ずしも権力主義とは限らない。例えば、自衛のための暴力であれば、他人を支配する事にはならないのだ。
三島の国粋主義は、自殺のためのお膳立てとしてのみ意味があったのではないかと思うのである。
森鴎外の武士らしさが権力的でなかったように、三島の国粋主義も権力的ではなかった可能性がある。
しかし、結果的に大怪我をさせているので、本気で権力的な国粋主義であった可能性もある。
それにしては、実現性のない行動である点が不審である。
苦痛のある死に方を選ぶというのは理性に反する。
生来の欲望が理性を上回ったのか?
実存主義から権力主義へ乗り換えるには意識的な判断が必要だ。
三島は、明らかに意識的に実存から権力への移行を考えていたのだ。
権力主義として生きるなら理性も現実逃避も必要ない。
そんな事が可能なのか?
つまり、三島の国粋主義には、2通りの考え方ができる。
1つは、自殺が真の目的である場合。
もう1つは、実存から権力への移行である場合。
2つ目の実存から権力への移行の方が可能性は高い。
どちらにしても、世間の迫害に耐えられなかったというのが国粋主義や自殺の根本的な動機であるように僕は思っている。
◎ 2009年4月18日 (土) 完璧な理性
理性から美、博愛、同情、哀れみが生まれるならば、美しか生まれない理性は欠陥のある理性といえる。
全てを生み出せる理性が完璧な理性なのだ。
中途半端な理性では、あまり充実した人生は送れないだろう。
しかし、無理に美、博愛、同情、哀れみを持っている仮面をつけるならば、他人にもそれらを押し付ける人間になるだろう。
理性は実存に直結するのだから、現実的に人間として普遍的(常識的)な生活は送れないのである。
また、理性の完成度によって人生が決まるというのも不公平なことである。
また、ドストエフスキーや三島由紀夫によると理性のままに生きる人はいないそうである。
彼らの説をとるならば、完璧な理性があっても使えるとは限らない。
しかし、それらも背後に理性による指図があるならば、つまり、理性の正当性を否定する理性のせいだとするならば、理性のままに生きているといえないだろうか。
結論は、理性にこだわって生活する必要はないということだ。
◎ 2009年4月19日 (日) 仮面と儒教
仮面とは、この場面では、このような行動をとらなくてはならないという決まり事(規則)のようなものである。
これは、儒教の礼という考え方である。
例えば、ピカソの絵を見たら、その中に美を感じなくてはならないといったことである。
仮面によって人間は、他人と価値観を合わせる。
そこに、嘘と本音ができるのは当然である。
仮面をとった瞬間に、他人との意思疎通が困難になるのは当然かもしれない。
しかし、自分の人生を仮面の人生と無理心中をさせるのが嫌であれば、仮面を外して実存主義になるしかないだろう。
実存とは、仮面を外す事だ。
仮面(儒教の礼)が、権力主義を許していた原因の1つだろう。
カミュ「異邦人」新潮文庫
p.142『母親の葬儀で涙を流さない人間は〜』
実存とは仮面を外す事だと最初に言ったのはカミュである。
◎ 2009年4月19日 (日) 実存の定義
以上から実存を定義してみると、
1.自分自身であろうとすること
2.理性のままに生きること
3.1,2の結果として反権力主義であること
更に追加するならば、
4.3の結果として、不条理に突き当たる場合がある(キェルケゴール「死に至る病」)
5.4の結果として、現実逃避が現実になる場合がある(審美家、実存作家など)
となると思われる。
ウィキペディアのサルトルの項を読む限りにおいては、即自と対自というのは、自分自身であろうとすることと仮面の人生とは別物のようである。
不条理とは、理性が人間社会に対して全く通用しない状態を指す。
その理由は、どの国の人間社会も権力主義で構成されているからである。
理性とは、この場合、権力が人間に苦しみを与える根源であるという認識である。
◎ 2009年4月20日 (月) 実存から生じる苦悩
僕は、実存であることで苦悩を感じないから、実存作家にはなれない。
また、哲学や実存に興味がない上に必要性も感じないから、それらについて哲学者や作家の意見を調べ上げることもしないため、哲学者とも言えない。
僕がこれまでの人生で引っかからなかった、実存であるがための苦悩があることを本を読む事で知った。
そこで、彼らに解決策を提示することにしたのだ。
実存である事から生じる苦悩は、2種類のようだ。
1.自分が実存である事を知らなかったために、自意識を持てない場合(太宰、あおい、三島)(Wikipediaヤスパース「不安」)
2.人間社会の真理に到達できなかったため、世間に実存を広めようとして挫折する場合(キリスト、芥川、カミュ、ドストエフスキー)
◎ 2009年4月21日 (火) 実存の不条理
実存は、世間から迫害されたり、長生きできそうになかったり、結婚や就職できなかったりと不条理である。
しかし、それらの不条理は、神の視点、つまり宇宙的視点から見ると、ひょっとしたら別に不条理ではないかもしれない。
そんな不条理な人生こそが、本来、理想的な人生である可能性だってある。
実存は、結果を気にしないで理性を信じるべきではないだろうか?
過去の実存は発狂したり自殺したりだが、苦悩が消えた実存も同じような運命なのだろうか?
年をとれば病気になるし、実存に幸せな結婚はありえないし、金銭があっても幸福とは限らない。
迫害されれば、珍しい経験をしたと思えばよい。
他人にも薦めるつもりはないのだが、他にどうできるだろうか?