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◎ 2009年3月17日 (火) アルゴノオト(1)

1977/5/5の日記を読む。
途中から、創作だと気付いた。
やはり、創作だった。すると、朝倉さんの存在自体が創作に思えてきた。
隣人にそんな人間が都合よく引っ越して来るわけが無い。
となると、この日記そのものが嘘になる。
そう考えると、自殺や後書きや年譜も作者の創作に思えてきた。
しかし、創作だけでこれだけの日記を書くことは到底不可能だ。
どれが真実でどれが嘘でも怒るほどのことではない。
自殺の方が緊張感を持って読めるのは事実だ。
でも、世間に向けた道義的には悪ふざけが過ぎるか。
自殺と後書きと年譜とその他の日記については、事実と考えた方が良さそうだ。

1977/5/3の日記も創作であることが判明したことで、この謎が解明した。

1977/7/22の日記を読む。
前世のあおいが、実際のあおいとほとんど変わりが無い。
詳しく分析すると、普通、人間は前世を想像するときは、実生活と全く異なる人生になるものである。
実際、性別は男、場所はフランスなど、シチュエーションは異なる。
しかし、生活は同じなのである。
これは、あおいが他人の生活や考え方について本当に想像がつかないせいである。
あおいは、頭が良いように思われるが、本を読むだけでは知識にならないのだろうか?
芥川龍之介や太宰治の作品を読んでいても、これと似たような印象を受けた。
他人の本をどれだけ沢山読んでも、自分の本を書くためのあるいは人間を知るための知識にはならないのだ。
あおいは自分の小説の欠点は、どの登場人物も自分になってしまうことだと言っているが、おそらく本当のことだろう。
あおいの自己分析能力は、並外れて正確である。
そのため、自己の作品の限界も分かったのだ。
あおいは、決して並以下の人間ではないにも拘らず、このような内面的欠陥を持ってしまうことは、社会には非常に大きな欠陥があると言える。
もうすぐ社会人になるに当たって、他人について一切何も分からないでは、絶望するのは無理も無い。
人間は誰しも自分の価値観を持っているから、他人と折り合うのは難しい。
そのため、友達を探そうとしても、反発するものらしい。
毎日、一緒にいて嫌な想いばかりするのなら独りのほうが良い。もっともだ。
ガードを緩めろといっても、誰でも信用できるものでもない。
そんな感じだから、誰にでも疎外感を持つ可能性はある。
しかし、これは、あおい独自の問題だろう。ここまで極端な例は見たことが無い。
残念ながら、日記を読むだけでは原因をつかめない。
学校生活もある程度権力で運営しているから、それが障害になったのだろうか。
いじめは学校生活における権力の最たるものだ。
学校と言えども社会の一部である。無関係ではいられない。

おそらく、作家には豊富な人生経験が必要なのだ。
10代でプロの作家を目指すと後で必ず行き詰まるだろう。
鴎外も漱石も、医者や教師、海外留学、恋愛など作家になる前に山ほど経験を積んでいる。
ただし、芥川や太宰が劣っているというわけではない。
読書から自分の才能だけを頼りに思索しても思わしい成果は出ないということである。
若いうちから作家を目指すのは、間違った人生だ。
あおいがプロの作家にどうしても成りたかったのは、他の職業でやっていく自信がなかったからだ。
あおいには、権力の存在を知る必要があったのだ。
権力の存在が分かっていたら、フラニーのように権力に移行できたのだ。
権力は、自我を殺して他人と同じようにするものだが、読書一筋ではめだって仕方が無かっただろう。
あおいの所属する文芸部にも、同じような悩みを抱える人が何人かいたらしい。
あおいとの違いは、権力を知っていたか否かであるように思われる。
最近は、ブログやSNSで趣味の交流ができるらしいから、問題ないのかもしれない。
僕は、ブログもSNSもやったことがないから、何ともいえないが。
誰でも自分を隠して生きているから、他人を知るのは長い時間がかかるものである。

1977/8/16の日記を読む。
ポーカーフェースの意味がわからないそうである。
自分を隠さないと他人からどんな攻撃を受けるか分からないからだ。
孫子の兵法、己を知り敵を知れば100戦危うからず。
また、自分の欠点を隠して他人から尊敬されたいと思うのが人情だ。
自己の内面を公開する作家は異常な人種なのである。
一般人からすると破廉恥極まりないのである。
作家や医者や教師や政治家や弁護士などを先生と呼ぶのは、軽蔑してるのを相手に悟らせないためだと僕は思っている。




◎ 2009年3月17日 (火) アルゴノオト(2)

1977/8/24の日記を読む。
自活する自信の無いあおいは保護してくれる中年男を欲しがっている。
中年男は、必ず生活力のある権力男でなくてはならない。
権力男と実存女が上手くいくのか?
想像つかないが、なんか殴られてそうな気がする。
殴られてるあおいは、なぜ殴られてるのか分からない。
権力を知らないからだ。
殴っている方も、なぜ殴ってしまうのか明確に分からないのかも?
権力男は理屈よりも体で生きてるから物事を理解するのが困難なのだ。
多分、理解できないことがあると混乱するのだろう。
この場合、権力男は自分や世間と価値観が合わないあおいの言動に混乱するのだ。
混乱すると常識どおりに権力発動だ。これでよし!(権力男の声)
よくねーって!(あおいの声)
権力男と権力女しかやっていけないのかもしれない。
あるいは、権力男と2号もありかもしれない。

1977/9/19の日記を読む。
シナリオを読む限りでは、あおいには充分に他人の考え方や生活を観察する能力がある。
確かに、人間には頭から事実を丸呑みにするようなところがある。
これは、1976/12/19の日記のカミュの一節にも通ずる。
1977/9/18の日記に『人が変っていく時、丁度記憶喪失のようにして以前の自己から抜け出てゆくのだろう〜そのきざしのようなものを待っていた』と書いてある。
これが、正に権力への移行を待望していたことを示唆している。
ただ、何故、そう考えたかを忘れたと書いてある。
過去に権力の存在を認識したが、それを忘れてしまったそうだ。
あおいにとって生きる上で最も重要なものを忘れてしまったそうだ。
つまり、あおいには内面的欠陥などなかったのだ。

それはさておき、17才とは全く思えないシナリオだ。
プロの作品としか思えない。世間にしてみたら惜しい才能を亡くしたものだ。
視点も新しいし、問題性も充分、あいまいな部分も無い。
これを読む限りでは、作家に人生経験は必要ないらしい。
芥川・太宰と鴎外・漱石では、文学の方向性が違っていたのだ。
明確には分けられないが、真理探究型と叙事詩型といったところか。
叙事詩的といっても事実そのままではない。
くだらない現実をそのままを書いても仕方が無いと思っているようである。

1977/10/22の日記を読む。
芥川や太宰は幼稚園落伍組だそうだ。
僕も入っているに違いない。光栄だ。

1977/10/24の日記を読む。
『自分を見ている誰か』に『して見せている』のが『こんな筈ではなかった』らしい。
あおいは、人生に限界が来ないことに錯乱するほど苛立っている。
僕は、人生には限界があると思っていたが、そんなものは無いようである。
人生は、死ぬ直前まで引き返すことなく歩きっぱなしらしい。
しかし、引き返すといっても、他の選択肢は権力しかないぞ。
人生は、迷いそうに見えて実は選択肢は、たった2つしかないのである。実存か権力か?
昔は広い空間に、いくらでも人間の数だけ人生の選択肢があるように思ってたけどね。

1977/11/5の日記を読む。
『マイクルにアランを責めてもらいたくない。世の中は99%がアランで1%がマイクルで出来ているのだから。皆がそうやって生きているのだから。』
人数が多ければ無条件に正しいとする考え方は、危険である。
人間の行いに善悪の区別は付けられないという意味であれば、互いに責めるべきでないと書くべきだろう。
全体主義の考え方だ。

アルゴノオト あおいの日記 読了
あおいに言いたいことは、あおいは実存で世間は権力だということだけ。




◎ 2009年3月31日 (火) 哲学と科学(あるいは実存と学者)

哲学とは、本来、宇宙や世界とはどういったものかを研究することである。
これは、自然科学と現在では呼んでいる。
現在の哲学は、本来の哲学から自然科学を取り除いた雑多なものを指すようである。
つまり、認識の仕方や人間の存在意義といったものである。
もちろん、これらは別の種類のものなので、本来、同じ扱いにすべきではない。
これが意味するのは、哲学は純粋な学問とは認められていないということである。
自然科学は世間にとって有益なものとして、それ以外は無益なものとして区別されたのだ。

世間にとって有益なものとは、権力となりうる知識である。
知識とは、蓄積できる概念や考え方のことだ。
認識の仕方や自然科学は、知識と呼べる。
しかし、人生哲学は、知識ではない。
実存主義者の語ることは、本人以外には理解できないのである。
つまり、実存主義者の著作物は、他人には無用のものなのである。
書物を残そうとする実存主義者は、自分達が全く無意味なことをしているのを知っている。
そのため、実存主義者の書物から学習しようとした作家達は、ことごとく挫折するのだ。
人生哲学は、実存主義者によってのみ追究される。
他の手段では不可能である。
人生哲学は、実存主義者として生きることにのみ意義があるのだ。
学者は他人の知識を得るだけでよいが、人生哲学に学者は不要である。
人生哲学は、知識の蓄積が全く効かないからだ。

禅宗が、知識を教えずに、自分で考えさせるのはそのためである。
しかし考えさせても意義が無い。
実存主義者として生きなければ禅宗は意義が無いのだ。
ただし、実存の概念を理解して、それを実践しても意義が無い。
本を読んでも実存主義者にはなれないのだ。
実存になるには独力で人生の真理を探究し、行動することだ。
実存主義者の真似をしても、挫折するのがオチである。
禅問答や修行は、ほとんど意義がないと思われる。
実存主義者の修行は、一つだけである。
キリストの受難である。実存主義者として世界中の全人類から、はりつけにされることだ。

キリスト教は科学を推奨するらしいが、このように科学と人生哲学は全く異なるものである。
科学は権力の知識となりうるので、本来、キリスト教は科学を非難しなければならないのである。
どの宗教も宗旨とは正反対の行動をしているものだ。
敵を知るという意味だと言うなら納得しよう。
もちろん、その場合は科学に制限を付けるのが当然だ。

しかし、一つ問題がある。
宗教は救いがあると言うのに、実存主義者には救いが全く無いのだ。
宗教は実存を説くが、そこには一切の救いが無い。
実存の生涯は、世間から迫害されて、野垂れ死ぬのみである。
それは、芥川龍之介の「河童」であり、カミュの「シーシュポスの神話」である。
宗教は全てインチキだ。
救いは迷いだ。

誰もが実存になれば良いなどと考えてはならない。
それは、老子の無為自然に反する。
いつか、とんでもない破綻を引き起こすだろう。

実存には良いことが何も無いが、カミュやドン・ファンなどのように実存しか選択しない人間はいるのだ。
彼らにとって利点はあってもなくても関係ないのであろう。
カミュやドン・ファンは実存に救いが無いことを知っていたが、それ以外の実存は救いを信じてそれを見つけられなくても実存を選択した。
実存に真理は必要ない。




◎ 2009年4月1日 (水) 迷いは策略

権力になれば、暴力や人権無視や弱い者いじめは受け入れなくてはならない。
それが、安心や快楽の代償だからである。
実存になれば、世間からの迫害と、野垂れ死にを受け入れなくてはならない。
それが、権力無視の代償だからである。

しかし、権力は暴力反対、人権尊重と言う。
また、宗教団体は、実存を薦めながら、そこには救いがあると言う。
これらの発言は、明らかに迷いである。
迷いによって、人間に夢を見させ、権力の安泰を謀っているのだ。
真実は、どちらも甘くない。

パンドラの箱に最後に入っていたのは、この悪魔の策略だったのである。
希望とは嘘を信じることである。

実存、権力とはっきり区別してきたが、実生活では区別をつけないこと。
たとえ、言葉に出さなくても、差別は人間関係に亀裂を入れることになるからだ。
実存同士でも権力同士でも取るべき態度は同じだ。
実存と権力の間でも取るべき態度は同じだ。
距離の無い人間関係など存在しない。
むしろ、実存は誰とでも距離を取りたがるものである。
実生活では、実存と権力の区別を完全に忘れてしまうことが肝要である。




◎ 2009年4月2日 (木) 荘子

「マンガ 老荘の思想」のp.136「孔子、黒森林に遊ぶ」の8つの欠点と4つの憂いは間違っている。
荘子は、全体的に老子に及ばない。
荘子はトンチに頼り過ぎる。
荘子を読むときは、頭から疑って読む必要がある。




◎ 2009年4月3日 (金) 付記

長々と文章を書いたが、これらは、カミュやあおいの泣き言が気にかかったためで、彼らの泣き言が他の実存主義者の泣き言とならないようにしようと思ったためである。
僕自身は、完全に完成された人間なので、彼らの泣き言に全く同調しない。
ここで、これらの文章の意図を明確にはしないが、少なくとも彼らのように世間や他人に対して一切、何も期待したりはしていないことだけは、はっきりさせておきたい。
これらの文章が、カミュやあおいに対するように僕を行動の理由にされるのは、僕の全く期待することではないのである。
彼らと違い、僕は世界中の何も変化することを期待していない。
これまでどおり、世間は戦争反対、人権尊重と言っておれば良い。
僕は、世間に対してこれらの文章を書いたわけではない。




◎ 2009年4月4日 (土) 歯車

芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」 新潮文庫 「歯車」

p.186 『僕の作品の不道徳であることを公言していた』とあるが、これは同ページの『「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」』や、p.191 『「恐ろしい四つの敵、−疑惑、恐怖、驕慢、官能的欲望」〜それ等の敵と呼ばれるものは少なくとも僕には感受性や理知の異名に外ならなかった。』という芥川の創作理由に対する世間の意見である。
この芥川の考え方は、ドストエフスキーの「地下室の手記」のメインテーマでもある。(僕はドストエフスキーの他の作品は読んだことがない)
芥川とドストエフスキーは、この部分で引っかかって先に進めなかったのだ。
芥川は、自分の理性や神経や感受性を根拠に創作してきた。
芥川は、同じ人間(DNAをもった生物)である以上、多くの人間は同じような神経や感受性を持っているはずだと考えていたのだ。
おそらく、地下室の手記のメインテーマは、人間は理性や神経とは異なる行動をするものだということである。
「地下室の手記」には終始、このことばかりが書いてある。

芥川やドストエフスキーは、いじめに遭った人間が別の場所では他の人間をいじめる側にたつことを知らない。
彼らの考えでは、いじめに遭った人間は、その苦しみが分かるから他人をいじめるはずはないのである。
しかし、現実には、いじめとは入れ代わり立ち代り行われるものなのだ。

芥川やドストエフスキーと世間との考え方の違いはここにある。
いじめられる人々は、いじめは決してなくならないことを知っている。
だからこそ、いじめを肯定するのである。(実際は認識していない。直感的なものであろう。)
そして、その認識は、人間(権力主義)社会的、および人間のDNA的にも全く正しいのだ。
実際はドストエフスキーが考えるように、ただ理性に背くわけではない。(もちろん、ただ背く場合もあるだろう)
現実が背くように仕向けるのだ。

芥川のような、「あんたの神経、疑うわ」的考え方は人間には通用しないのである。
理性や神経では、他人を束縛(支配)できない。
では、何なら通用するのか?通用するものがあってたまるか。

芥川やドストエフスキーは、カミュやキェルケゴール達と考え方が同じである。
しかし、芥川、ドストエフスキー、老子は、不条理については全く記述していない。
つまり、不条理とは実存そのものではなく、実存に関係する特殊な例なのである。




◎ 2009年4月4日 (土) 文学を始める時期

10代、20代で実存小説を読んでも無駄である。
若いときに読んでも内容を理解できないし、すぐに忘れる。
ある程度、経験を積んで30代以上で始めないと全く意味がない。
その頃には権力に夢中で誰も読まない。
本を読むのは大抵、青春時代で、その頃は誰も理解できない。
実存小説は他の文学と違い、作者の人生観が直接、書かれているのだ。
読んでも得することはないが、どうせ読むなら理解できた方が良いに決まっている。




◎ 2009年4月5日 (日) キリストは実存か?

キェルケゴールは、キリストを実存だと考えていたようだが、愛で人間を救済しようとする者を実存と認めて良いのだろうか?
愛とは、所有欲、独占欲のことである。
それ以外のものは、哀れみ、同情、理性と呼ばれるべきだ。
哀れみや同情は理性から派生するので、全て理性と呼んでも良い。
もし、人間に理性が無ければ、哀れみや同情は存在しないだろう。
キリストは、それらの区別ができない人間で哀れみや同情、理性を愛と呼んでいたようである。
愛や実存を権力に広めようとするキリスト、芥川、孔子達を真っ当な実存とは、僕は認めたくない。
彼らは、権力寄りの実存である。
「芥川」が最も実存に近い。「孔子」は、ほとんど実存とは呼べない。「キリスト」は、未発達な実存である。
実存が、何の躊躇もなく他人に薦められるような代物でないことは、既に説明済みである。

孟子は、孔子よりは少し実存に近いが、実存とは呼べない。
孟子の母は、孟子が学問を一度放棄したときに、叱咤して復学させたそうである。
しかし、残念ながら、人生学はいくら勉強しても無駄である。
孟子が挫折したのは、学問を続けても無駄であると悟ったからだ。
孔子も勉強しても無駄だと老子に言われている。
孟子の母には、「無学の母、学問を尊ぶ」の言葉を贈らせてもらう。

太宰治「走れメロス・おしゃれ童子」集英社文庫 「燈籠」は、老子派の女と孔子派の男のやりとりである。
いや、老子(実存)に美は関係ない。むしろ、実存作家派の女と孔子派の男のやりとりである。
美は、理性から生まれると考えるならば、実存は全て実存作家とも考えられるからどちらでも同じだ。
それでも、やはり分けた方が無難かもしれない。
あとがきに、「燈籠」だけは何とか理解できそうだと女性詩人が書いている。
しかし、女に実存作家の描く女が誰一人、納得できるはずが無いし、納得する必要も無い(もちろん、納得できても良い)。
実存作家達は、女に対する妄想を書いているのであって、男は現実にそれを女に求めたりはしない(もちろん、求めても良い)。
妄想ですらないのかもしれない。女どころか人間ですらないのかもしれない。何でも良いのである。
実存作家自身も、そのつもりで書いているのだ。

芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」新潮文庫 「歯車」 p.215の『「〜何しろ反対なものを一しょに持っている」』がおそらく、芥川が実存と権力の両方を持っていることを意味する。
一般的に、実存は権力から見ると子供に見えるらしい。
そのため、同ページ『「じゃ大人の中に子供もあるのだろう」』と区別しているのだ。
キリストや芥川達は、実存の末路を想定できなかったため、世間に愛や実存を広めようとしたが、これは権力的な考え方だろう。




◎ 2009年4月6日 (月) 権力(2)

法治制度、民主主義(多数決)は、権力主義の仕組みである。
数年前に、一家全員で嫁を柱に縛り付けて餓死させた事件があった。
理由は、言うことを聞かなかったからだそうである。
1、2人の犯行ではなく、一家全員である。
誰も彼もが他人を支配することしか考えていない端的な証拠と言えよう。
他にも例があるが、敢えて書く必要も無いだろう。
僕自身も経験的にそう確信している。
権力の存在は経験的に知るものである。
他人の場合は、特殊な例と考えてしまうからである。
キリストの受難が良い例だ。
あの仕打ちはキリストだけだと思っていたら、実存は誰しも経験する運命なのだ。
法律は、人間を支配するためにあるのだ。
離婚させない、辞職させないといった法律はそれを端的に示している。
それぞれ、理由があると思うが、よく考えればそれらの理由がでっちあげであることに気づくだろう。
法律だけではない。因習・慣習も似たようなものだ。
他人を支配することだけが人間の全てなのである。
支配しなければ支配されるだけだ。
法律を改正しても意味が無い。
法律そのものが問題なのだ。
では、法律をなくせば良いのか?
結局のところ、人間は権力なしでは生きられない。
なぜなら、権力を止められるのは権力だけだからだ。
犬猿の仲というのは、犬も猿も人間同様、権力主義のDNAだからである。
実存としては、芥川龍之介の河童やカミュのシーシュポスの神話のドン・ファンみたいな人生しかない。