◎ 2009年3月5日 (木) シーシュポスの神話(5)
75〜94ページ(不条理な自由)を読む。
カミュは、反抗、自由、熱情というカミュが今後生きるための3つの指針を導き出した。
80ページ『そういう教義・学説〜ぼくには納得できない』の部分がカミュの反抗の核心である。カミュには直感的に既存の宗教や思想が真に正しいものとは思えず、更に発展させて、人間の作り出すあらゆる宗教や思想は信頼するに値しないと結論を出し、納得できないことに反抗することを人生の基本姿勢とすることに決めたのである。カミュは不条理から導き出したと言うがカミュにとっての不条理には2通りの意味があるようである。対立と言う意味とカミュの様な人間という意味である。カミュは反抗するだけなので、例えば革命や宗教のような人間社会の改造は行わないのである。カミュの「革命か反抗か」という小説を参照。革命の代わりに反抗しても意味が無いので、おそらくカミュは普段から反抗することにより革命が発生するような状況を作らせないという意味で言ったのではないか?つまり、日頃の心がけで回避しようと言うのである。しかし、何に気をつければ革命を起こさないで済むのか?僕はカミュとは違って革命とはただの権力の移行で革命に付随する思想はただの大義名分だと思っている。だからと言って革命の是非については、僕の知識と理解力では全く手に負えない。おそらく、誰にとっても手に負えない。革命とは常に人間社会が汚職天国になったときに発生すると言われているようである。歴史には詳しくないのだが、これは正しいのだろうか?日本も中国も汚職の後に戦国時代が来る。フランス革命も汚職が引き金だと言う。革命の真の発生理由とは何か?汚職に対する民衆の嫉妬か?それならば、人間社会から比較の人生観を捨てれば良いのか?それとも真の理由は別にあるのか?カミュの言うように反抗は汎用的な回避策となるのか?
次に近代国家の仕組みについて考える。近代国家は、政権が定期的に交代することにより、国家権力が一部の人間に定着しないようにしている。おそらくこれは、国家権力の作り出す特権が汚職の原因であるとみなしているからである。しかし、現実には汚職は消滅していないのである。つまり、革命の原因は払拭されていないのだ。近代国家の読み違いなのだ。もちろん、革命の原因が汚職であって、その対策が比較の人生観を無くすことだという僕の説が全くの見当違いである可能性もある。だからこそ、カミュは作為を嫌うのである。普通に考えて、人間社会から人間の惰性を消滅させることなど出来はしないのだ。では、カミュの言うように個人レベルで惰性を消滅させるのか?坊さんが100人いたところで革命は止められないのだ。一般的に考えられているものとは違っているが、これが本来の大乗仏教の考え方なんだろうか?しかし、仏や菩薩と言えども現実的に無理だろう。結局、なぜ、汚職天国になるのか?なぜ、汚職天国は革命を招くのか?この2つが革命の核心のようだ。
汚職の発生原因について考えてみよう。汚職は特権が作るとみなされているようだ。特権とは法律のことだ。法律を現在の1/10にしてはどうか?しかし、既得権を手放すことは死ぬよりつらいことらしい。だから、暴力革命以外では歴史的に成功したことが無いのだ。既得権が積もって汚職天国になるのかもしれない。結論としては、個人レベルで比較の人生観を捨てることが、効果をあまり期待できないが最も現実的である。汚職天国を無視できれば革命は起きないのだ。しかし、両方とも人間の惰性の問題だから、両方で対策を打つのが公平だ。汚職と革命に関係がなければ、こんな事を考える必要は無い。その場合は、原因不明となるのだ。
96〜100ページ(不条理な人間)を読む。
経験から語っていることなので、理解することは困難である。
おそらく、有意義なことが書いてあるのだろう。
◎ 2009年3月6日 (金) これらの文章と人生についての所見
何度も書くようだが、これらは世間や誰かに向けた文章ではない。
僕には、そんなことをする意思は全く無いのだ。
誰も読まなくて結構。
カミュは、こういったホームレスの薦めとでも言うべき不毛な話が世間は興味があると思っているようだが、僕はそうじゃないと思っているからだ。
もちろん、僕自身もそれほど興味は無いのだが、暇なので読んでいるだけである。
はっきりさせておくが、僕が世間に要求することなど一切無い。
更にはっきりさせておくが、世間の要求に応えられる者はいないし、世間の要求に応える義務は誰にも課せられない。
また、一切を受け付ける義務も無い。
それらは、これまでの歴史が明確に証明してきたし、今後の歴史が証明し続けることでもある。
世間は貴重な時間を犠牲にして、その大変重要な事実を学習することになるだろう。
◎ 2009年3月7日 (土) 万人の幸福
直感はほとんど当てにはならないのだが、世間一般の価値観には、根本に他人や世間との比較があるように思うのである。
これについては、他人は異議を持つのだろうか?
仮にこの考え方が正しいとするならば、比較である以上、必ず他人や世間との差異は存在するのだ。
そのため、論理的に考えると万人の幸福というのは、絶対にありえないという結論が導き出せる。
しかし、別の視点から考えるならば、どんなにろくでもない状況になっても、最悪の事態とは言えないという結論にもなるのである。
(また、どんなに理想的な状況になっても、最高の事態とは言えないのである。論理と現実との間には必ず差異があるため現実的には極論だったが、許容範囲が広がるのは確かである。)
そのため、もし、世間のためにあれこれ骨を折っている人がいるならば、そんなことをする必要はないと僕は思うのである。
多分、政治家などの支配者層は、人間のこういった習性を操作して世間を支配しているのだ。
例えば、江戸幕府はえた・非人という身分制度を作って農民の比較心をくすぐっていたのだ。
権力の1つである策略である。
支配されたくなければ、比較の人生観を捨てることだ。
しかし、これは万人と共有しているから、捨てるのは不可能である。
人生を論理的に他人に語る人はいない。
それには、理由がある。
例えば、この「万人の幸福」の論理を読むと世間は、僕にこう言うのである。
「では、困っている人を見ても何もしないのか?」
「世界中みんな困っているのだ。それでも何もしないのか?」
論理には、必ず、どこかに穴があると言われている。
世間は、そこを突いてくる。
だから、誰もが論理を毛嫌いし、特に人生については論理的に考えないように努めるのである。
論理の穴を突くことは、他人を支配する策略の1つなのだ。
◎ 2009年3月11日 (水) 善悪
仏教用語の善悪不二は、善悪の区別は存在しないという意味だ。
人間社会の善悪は、昔から人間社会に伝わる道義が根拠になっている。
しかし、道義には何も根拠が無いのだ。
何がどうなれば道義で、何がどうならなければ道義ではないのかが不明なのだ。
現代における善悪は、そういった前提を踏まえてか、前例があれば何でも善であり、多くの人間が納得できれば何でも善とみなしているようである。
例えば、キェルケゴールはコルサール紙で他人の人生を解剖して傷付けるのは許せないと非難されたそうである。
しかし、現代では、小説家は内臓どころかDNAまで切り刻まれるのが当たり前となっている。
キェルケゴール自身もいろいろな本であることないことを山ほど書かれているのだ。
また、ある小説家は、あとがきを付けないことを前提に出版を許可したそうだが、前例があることを理由に勝手にあとがきを付けられている。
このように、善悪は元々、現実に存在しない概念であり、現在においては前例と多人数がその根拠となっているのである。
コルサール紙の件が元で、その後、キェルケゴールはキリストそのものといった人生を送る。
ただし、死刑にはならなかった。
民衆とキリスト教が、キェルケゴールをキリストにしたくなかったのか、あるいは、別に理由があるのか。
不自然ではある。
ローマ帝国がキリスト教を国教にしたのと似ている。
◎ 2009年3月13日 (金) 実存主義者
シーシュポスの神話(3)に書いたように、もし、キリストが実存主義者ならば、異邦人のムルソーとキリストは同一人物になってしまうのである。
誰がどう見ても、正反対の2人に見えるに違いない。
何がこの2人を分けているのだろうか?
この違いは、何を意味するのか?
フッサール、カミュ、キェルケゴールも含めて考えるべきだろう。
いくらなんでも、正反対というのは問題ではないだろうか?
キリスト、カミュ、キェルケゴールは、世間に働きかけ、ムルソーは、一人で生きる。
キリストもムルソーも死刑になる。
キリスト、カミュ、キェルケゴールは、孤立するが、ムルソーは溶け込んでいる。
キリストは33才、カミュは46才、キェルケゴールは42才で、カフカは41才で死んでいる。
ムルソーは架空の人物である。
僕はフッサールについての情報を持っていない。
こうして相違を並べてみるとみんな不幸で、あまり比べる意味がないような気がしてきた。
◎ 2009年3月13日 (金) 結論
キェルケゴールは、自分勝手な神頼みはするなと言い、カミュは、不条理から逃げるなと言うが、結局は無理なことをしようとしているのだ。信仰も抵抗も大きな効果は期待できない。おそらく、人間社会は人間のDNAに合わせてあるのだ。犬は忠実だが猫は違う。これもDNAに拠るものだ。一朝一夕でどうこうできるものではない。そういうわけで、基本的には、いつかは人間社会に依存しないようになれたらいいなくらいのことで良いと思うのである。これだけでも、最初の一歩には違いない。
そうは言っても、人生はそれぞれ違う。
ここに書いたのは、実存主義者限定である。
実存主義者は、できないことを他人に薦めようとしているのだ。
キリストもカミュもキェルケゴールもムルソーもドン・ファンもろくでもない人生を送っている。
実存主義者は皆、放蕩者なのだ。
実存は、全くの個人の人生なのである。
ホームレスでも野垂れ死にでもOKという人ならば、実践しても良いだろう。
人間社会が生身の人間には向いていないというのが実存主義者の言い分である。
向いていなくても野垂れ死には嫌だというのが、その他の人間の意見なのだ。
人間は人間社会に依存する生物だ。
人間社会は、既に説明したように権力社会だ。
人間は誰しも権力を無視して生きることはできない。
無視するということは、ホームレスのように一人で生きること、つまり野垂れ死になのである。
他の実存主義者は別として、キリストとカミュとキェルケゴールは野垂れ死にを実践した人々なのである。
厳密には、野垂れ死ぬ前に死んだ人々なのだ。
「アルゴノオト」の井亀あおいの自殺もこれが主因であると思われる。
誰もが、権力(策略など)については経験から身に付けるのだ。
例え、家族であっても教えはしない。
学校でも教えない。
権力は何万年も前からそうして人間社会に伝えられてきているのだ。
井亀あおいは、世間が権力社会であることを全く知らず、権力の仕組みも全く知らず、権力の存在すら知らず、その状態で社会人になるのに絶望して自殺したのだ。
それは、1977/11/16の日記から明らかだ。
井亀あおいも実存が好みのようである。
実存主義者の全てが野垂れ死にするわけではない。
自分の主張とは正反対の人生を送るからだ。
井亀あおいも権力の存在を知っていれば、そうしたのだが、知らないので出来ないのだ。
僕は、おそらく、人間の数万年の歴史で初めて、権力のネタばらしをしたのだ。
だから、どの本を読んでも書いていないのだ。
これが、僕の人生なのである。
プログラムにしても世間の隠し事にしても、誰でも知っていることをネタばらしするのである。
その後、どうなろうと知ったことではない。
また、必要最低限の事しか興味が無いので、必然的に誰でも知っていることしか書けないのだ。
おさらいをすると、権力は、暴力(侵略戦争、革命、DV、ヤクザ)、金銭や土地(経済摩擦、闇金融、税金差し押さえ)、法律(汚職)、契約(人権侵害)、教育(いじめ、権力の流布)、集団(集団リンチ、多数決、全体主義)、策略と、人間社会におけるあらゆる問題の根源なのだ。
人間は権力からは離れられないが、権力は人間を苦しめるというわけだ。
そのため、これらの列挙した諸問題は人間社会から永久になくならないと断定できる。
専制政治、民主政治、資本主義、共産主義などは、権力主義の中の派閥である。
戦争でも金銭でも策略でも法律でも手段の違いだけで、哲学的には実質的に同じ行為である。
僕の世間観察によれば、人間の存在意義は他人を支配することである。
一般に役に立つ知識と呼ばれるものは全て、他人を支配するのに役に立つ知識なのである。
戦時中の権力については、いろいろな本に書かれている。
ダニエルキイス「眠り姫」、村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」、「戦後短編小説再発見17 組織と個人」など。
しかし、それらは特別なものではなく、家庭や地域社会、企業社会なども実質的に同じ権力で運用されているのだ。
もちろん、だからといって我々に選択の余地は無い。
そのため、第二次世界大戦で「鬼畜米英」と竹やりを振り回していたのは、政府の広報戦略や学校教育のせいではなく、国民一人一人の意思だったと考えるのが自然だ。深層心理では、だまされたふりをしていたのだ。
それだけに、我々もまた、戦争になれば同様の気違いじみた行動をとるに違いないのを覚悟すべきだろう。
このように、実存主義者は、反権力主義者なのである。
権力を無視すれば野垂れ死ぬ不条理。
権力には、あまり積極的に関わりたくないというのが、誰しも本音だろうが、なかなかそうは行かないのが現実である。
基本的には、実存か否かを選択することになるだろう。
実存を選べば、馬鹿にされて世間に迫害されて野垂れ死にである。
本当に独り者で良かった。とりあえず、選択の余地があって。こうなれば一生実存だ。せっかくの幸運を生かさねば。
◎ 2009年3月16日 (月) 結論(つづき)
本当は、これらの文章は、カミュのためだけに書いたのだ。
成仏できずにいたら、かわいそうなので書くことにしたのだ。
カミュが困ってるみたいだったから、解決策を提示しようと思ったのだ。
しかし、読み進めてみると、カミュは自分の解決策をちゃんと持っていたのだ。
しかも、革命の考え方が間違ってるし、無理にカミュの結論を革命に当てはめようとしているのだ。
カミュは、不条理から求めた結論が何にでもあてはまる万能策だと勘違いしているのだ。
あるいは、それほどまでにカミュは追い詰められていたのだ。
ボールペンをアイスピックの代用にするようなものだ。
カミュは、僕から見ると何もかもでたらめだった。
結局、(書きながら発見するような感じで、当てずっぽうではあるが)僕の革命観まで書く羽目になった。
不条理については、キェルケゴールもフッサールもカミュも僕と同じ結論だった。
ただし、キェルケゴールとカミュは、更に推し進めて、具体的解決策まで探そうとしていただけだ。
実存主義者は、必ず、同じ結論を持つことが分かった。
結果的には、これらの文章は意味が無いものになった。
あるとき、黒田長政が「思慮分別の要とすべきは何であろうか」とたずねた。
小早川隆景は「仁愛である。憐憫を主として可否を断ずれば当たらずといえども遠からず。仁愛無き分別は智巧といえども要領を得ず」と答えている。(歴史群像1996/12月号)
全て書き終えて思ったのだが、これらの文章はとても安直にまとまってしまっている。
カミュが言うには、きれいにまとまった論理は間違っているそうである。
僕自身、過去を振り返ると正しい論理を導き出した経験がないのだ。
後で、必ず、全面的に間違っているのが判明するのだ。
また、カミュやキェルケゴールについても分からないことが多い。
本人は、不条理における抵抗と言っているのに、逃げるための具体的解決策と勝手に解釈して良かったのか?6
というわけで、これらの全ての文章は、一応、全面的に間違っていることにしておく。
きれいにまとまった論理は間違っているという説を僕は全面的に信用しているわけではないが、安直過ぎる自説が信用できないのである。
我ながら、根拠の無い論理を展開したものだ。
カミュ向けに書いた部分はそうでもないけど、途中から世間向けにもなり始めて、その部分がどうにも嘘っぽいように感じられる。
その場で安易に考えたためだ。書くんじゃなかったと思うが、調子に乗ると止まらないものだ。口先三寸で次から次へと。
自分の人生哲学は、自分で考えるべきものだ。
他人の哲学や思想を真に受けないこと。
◎ 2009年3月16日 (月) フラニーとゾーイー
フラニーとゾーイーはグラース家の1番下とその1つ上の兄妹である。
グラース家の長男は、シーモアでおそらく実存主義者である。
シーモアは、フラニーとゾーイーにおそらく実存を教えたのだ。
しかし、フラニーとゾーイーには、中途半端な理解しか出来なかった。
そのため、この2人は、実存と権力の間のあいまいな位置に置かれ、大変悩むのだった。
結局は、フラニーとゾーイーは権力の側に落ち着いてめでたしめでたしという内容の本である。
まさに、井亀あおいにとっては、うってつけの本だったのだが、全く権力を知らなかった彼女にとっては、自分自身に置き換えることはできなかったのだ。
作者は、宗教論理が主体の物語ではないと言うのだが、フラニーとゾーイーが権力寄りであるのは間違いなく、実存教育はすべきではないと読み取る事ができる。
この2人は、実存と権力が何であるかを知ったら、最終的な選択に就職や結婚をできる方を優先するだろう。
両方でできるなら実存を、権力しかできないなら権力を選択するだろう。(もちろん、現実で両方でできる可能性はない)
実存と権力の選択は、一切、他人が干渉すべきではない。
人間は、ロボットではなく、DNAを持った生物なのだから、もし、どちらかに他人が強制したら発狂もしくは自殺する事になるだろう。
グラース家は、上に行くほど実存で、下に行くほど権力というおもしろい兄弟なのである。
シーモアだけが生粋の実存で、次男のバディ以降は権力が少しずつ入って行くのだ。
シーモアの弟妹達は、口にこそ出さないが、皆、自分達が社会に馴染めないことでシーモアを多かれ少なかれ憎んでいるのだ。
『イエスの祈り』を唱えるというのは、儒教の礼だと思う。
少なくとも僕は、そんな類の事をしたことはない。
サリンジャー「フラニーとゾーイー」新潮文庫
p.172『心の平和』
心の平和は、物質的な宝や知識のように他人を支配する力にはなりえないので、別のものである。
フラニーとゾーイーは、区別をつけられないでいる。
何故、2人がこのような間違いをしてしまったかというと、キリスト教や仏教が教えるように、あらゆる苦悩の原因が人間の欲望にあると考えているからだ。
残念ながら、全ての苦悩の原因は、権力にある。
既存の全ての宗教は、インチキである。
フラニーの祈りは、人間社会の間違っている何かを知ろうとするための彼女にとっての唯一の手がかりなのである。
つまり、祈り自体は神経衰弱の問題ではないのだ。
祈りが無ければ、祈りなしで神経衰弱になるのである。
しかし、ゾーイーは、ベシーの話を真に受けて、祈りが原因だと思っているのである。
と、説明することはできるのだが、言葉による理解は、権力主義者の仮面作成の協力にしかならない。
考え方を覚えるだけだからである。
百聞は一見にしかず。
経験には、膨大な情報が詰め込まれている。
どんな経験でも良いわけではなく、思想上の経験(壁=疑問)が必要だ。
実存主義者は説明しなくても分かる。
文章を書けば書くほど、誰にとっても不利益なのだ。
人間社会の真理の探究は、何十年もかけて行うべし。
ネタは割れているけど。
考え方を覚えるのではなく、理性を身につけるのだ。
もちろん、実存の宿命を受け入れられないならば、理性を身に付けるべきではない。
覚悟の問題ではなく、実存以外の選択ができない人間のみが実存となるべきである。
フラニーやゾーイは身に付けるべきではない。
◎ 2009年3月16日 (月) ナインストーリーズ
「バナナフィッシュにうってつけの日」
結婚したシーモアと結婚をあきらめたキェルケゴールが重なる。
キェルケゴールは結婚したシーモアに結婚後の自分を見たのだ。
他にも理由はあると思われるが。
というよりは、シーモアに複数のモデルがいたとして、その一人がキェルケゴールであっても不思議は無い。
キェルケゴールが指摘するように実存は放蕩者であるため就職することも結婚することもできないのだが、シーモアは諦めずに、いろいろ試して絶望したのだ。
暴力反対と言いながら戦争し、人権尊重と言いながら金銭で人権をむしりとる。
そんな権力な人生しか選べないことがはっきり分かったのである。
誰しもそんな不条理の中で生きているのだが、シーモアにとっては建前だけの人生が馬鹿馬鹿しかった。
そのため、絶望と言っても本当の絶望ではない。
それなら仕方ない程度のものである。甘美な絶望なのだ。
僕は、日本の作家では森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治などが感覚的に合う。
彼らも、実存的傾向があるのかもしれない。
中国では、老子が実存主義者だ。
老荘思想や仙人の生き方を見れば分かる。
加島祥造「タオ 老子」
老子といえども、不条理を解決することは全く出来なかった。
解決できないから仙人になるのだ。
これは、シーモアの自殺に相当する。
即ち、人間社会からの逃避だ。
◎ 2009年3月17日 (火) 変身
カフカ「変身」は、実存主義者ザムザが、人間から虫に変身した話だ。
人間社会から逃避したら、普通に生活できなくなったということだろう。
実存を理解していないと書けない作品だと思うのだが、カフカは、実存には一切触れていない。
サリンジャーのグラースサーガも実存については、ほとんど触れていない。
どちらも、架空の実存主義者の日常生活を物語にしただけだ。
なにやら、気味の悪いことである。