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◎ 2009年2月22日 (日) 内容について

僕は、以下の文章において、
実存は、実存主義、実存主義者の略として使っている。
権力は、権力、権力主義、権力主義者の略として使っている。

読みながら考えているので、結論が途中で変化する場合がある。

「〜かもしれない」「〜だろう」といった推測を根拠にして得られた結論に「〜だ」などと断定している箇所がいくつもあるが、読者を欺くつもりでしているわけではない。
僕には誰一人、説得するつもりはないからである。
長い文章だから「〜かもしれない」と書くよりは「〜だ」と書いたほうが読みやすいからである。
役に立つと思った人だけ読めばよい。

実存主義者として、30才を越えなくては実存主義者の著作は理解できない。
以下の文章は、それに加えて、キリストやキェルケゴール、三島由紀夫のように世間からの迫害を受けなくては理解できないだろう。
その経験によってのみ権力を理解する事が可能だからである。

一度、実存主義者になってしまうと権力主義者に宗旨変更できた前例は無いようである。

実存主義が理解されずに精神病院に入れられてしまっている人間がいる可能性がある。

実存主義は、実存が何か分からないにも拘らずそうなってしまっているので、主義ではないかもしれない。
権力主義も同様である。

老子を読んでも老子にはなれないし、聖書を読んでもキリストにはなれない。
それらを一切読まずに、適切だと思われる人生を探した場合にのみ実存主義者となるのだ。
実存主義者の後をたどっても実存主義者になれないように神が宇宙を創ったのだ。
荘子にも「古人の糟粕」とある。




◎ 2009年2月23日 (月) シーシュポスの神話(1) 

カミュのシーシュポスの神話を33ページまで読む。
この本は、これまでにこの辺りまでは何回か読んだことがある。
内容が分かり難いため、それ以上読めないのだ。
今回読んだときに、分かった内容を解説する。
ただし、哲学書をほとんど読んだことがないただの素人の感想である。


前書きに、『以下に記すのは不条理な感性であって不条理な哲学ではない』とある。
これは、不条理の定義はまだなく、どんなものが不条理であるかの例を並べることならできるという意味だ。

冒頭(p.11)に、『真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。』とある。
おそらく、死を前にして、生きる意義を考えるから自殺が哲学の基本ということだろう。

カミュはいろいろな不条理を列挙しているが、彼にとって最も重要な不条理は宗教的、慣習的、常識的、経験的、そういった類の見解を排して、究極的な論理、理性をもってしても現実社会が割り切れないのではないかという認識であるらしい。
割り切れないというのは、通用しないという意味である。

人間社会がそれらのもののみで成り立っているため、それらを排除してしまうと人間社会そのものが存在意義を失うのは当然のように思われる。
当然、カミュもそれに気づいているに違いないが、分かりきったことは書かない主義らしい。
分かりきったことを端折るから、分かり難い部分があるようにも思えるので、この文章はわざと端折った部分を解説することを目的としている。

p.29『精神の第一歩は真であるものを偽りであるものから区別することだ。しかし、論理的にそれらを区別することはできない。その証明はアリストテレスが行っている。』とある。

アリストテレスの証明は、今ひとつ納得できないので以下に別の証明を試みる。
論理的な真偽の判別は、結局、真偽の概念が人間によって作られたものである以上、不可能なことである。
例えば、上と下について考えてみよう。
宇宙空間に出るとどちらが上でどちらが下と言えるのか?

現実では、真と偽の区別は、証拠によって行われる。
しかし、100%正確な証拠は、果たしてあるのだろうか?
疑えば、ほんのわずかでも疑える余地はあるのではないだろうか?
現実では、ほんのわずかの疑いは、切り捨てられる。
そうしなくては、社会システムが機能できないからである。
このような社会の現実的な対処は他にもあるだろう。

上下の問題も、証拠の絶対的な確実性の問題も同じ現象であると言える。
同じである理由は2つある。
1つは、どちらも人間社会にあって、それほどの不都合を感じさせないという点である。
もう1つは、どんなに努力をしても、解決のできない問題であるという点である。
何が解決できないかというと、絶対的真実(真理)である。

確かに、この文章の読者の言うとおり、半分の人間が理解できて、残りの半分が理解できなければ、半分に半分が支配されるという意見は一理あるように思われる。
しかし、その問題も絶対的な解決策など無いのだ。
普通に考えれば、この程度の内容で支配されることは無い。
しかし、チリも積もれば山となるで、10000も100000も重なれば確かにそんなこともありえるかもしれない。
文章全体のバランスを敢えて壊して続きを説明する。
カミュは、『精神の第一歩は真であるものを偽りであるものから区別することだ』と言っている。
カミュの言う精神とは、概念のことである。
つまり、人間社会を構成するほとんどは、以上に述べた性質を持っているため、間違いだらけであると結論できるのである。
あらゆる概念には、必ず、間違いが組み込まれているのだ。

察するに、人間社会とは、不完全で間違いだらけであっても不思議はない。
というより、真実らしいものはないはずである。
真実らしいものはないはずであるという結論には、カミュの嫌う飛躍(p.51)がある。
敢えて飛躍させたのは、経験則だからである。論理的に説明できない。
この経験則は、直感とは別のものである。
しかし、真に正しいのか、あるいは適用の仕方が正しいのかどうかとなると疑わしいのは確かである。

しっかりした土台としての社会は、人間には未来永劫無縁のものである。
なぜならば、人間はどんなに賢くなっても、無知であるからだ。
ギリシアの「無知の知」という考え方は、論理的にも経験的にも正しいと思う。

人間社会のありとあらゆるものが真ではない以上、あらゆる人間は何事もやり過ぎないようにするべきである。どんな行為にも致命的な欠陥が含まれる可能性があるからだ。

人間社会とは、機能的には子供の作ったおもちゃの世界みたいなものなのだ。

ギリシアの無知の知と中国思想の中庸がつながった。




◎ 2009年2月24日 (火) 自慢 

あまり自慢をしないほうが良い。
般若心経にも色即是空、空即是色とある。
価値のある物も意義のある行為も存在しないという意味らしい。
他人を羨ましがらせたり、他人から尊敬されたりするのは一瞬愉快かもしれないが災いの元である。
他人への健気なご奉仕も、大抵の場合、煙たがられてありがた迷惑である。

実のところ、説教など何の効果も期待できない。
反感を買うだけである。

死者のことを仏と呼ぶのは、肉体を失って欲の持ちようがないからかもしれない。
死者の隠語ということである。
一般的には、死後に仏と成るという浄土教の教えがあるかららしい。




◎ 2009年2月25日 (水) シーシュポスの神話(2) 

前回、精神のしっかりとした土台としての人間社会が得られない理由として人間が無知であることを挙げた。
今回は別の理由を挙げる。
それは、人間社会の構成要素のほとんどが概念だからである。
概念で成り立つ人間社会に確実性や信頼性は期待できない。
建築などの他の分野ならば、しっかりとした土台は必要である。
しかし、人間社会には、必要ではないのである。
もし、社会改善主義者が現れたならどうなるか?
人間社会は、しがらみや利害関係で雁字搦めという話である。
おそらく、血を見ないでは済まないだろう。
しかも、大きな犠牲を払っても、ろくな成果を期待できないのである。
それよりも、人間社会が当てにならないものだと認識することだ。
前回、解決策として中庸を挙げた。
今回は、人間社会に精神的に依存しないことを提案する。
人間には、どこにも依存できるものが無いのだ。
73ページのフッサールの言葉『「すでによく知っていて居心地の良い生存条件のなかで生き思考するという抜きがたい習慣」から抜け出ようとする欲求に従え』が多分同じ意味である。ということは、僕のこれまでの説明は意味なしか?先を越されてるとは思わなかった。70ページの『人間の抱く郷愁』、75ページ『不確実な郷愁』も人間社会の意味である。カミュはこのフッサールの意見は、対立の一方である人間社会を否定して逃げることだから自分には受け入れられないと言っている。お手上げだ。ついて行けない。

必要の無い事をわざわざ書いて公開して、取り越し苦労をしてしまっている。
僕は、哲学者のような研究は一切していないので、ここに書いてあるのは極めていいかげんな内容である。

ある小説に書いてあったのだが、西洋画は、正確に表現するための労力を惜しまない。水墨画は、読者や鑑賞者の想像に任せるため、労力が少ないそうである。

一瞬で癒される方法をここで紹介する。
俳句である。
俳句は、知恵比べの遊びではないらしいのだ。
情景を思い浮かべるのが本来の楽しみ方だという。
俳句を最初に読んだ時に、ゆっくり時間を掛けて風景を想像するのである。
すると、10年経っても20年経っても俳句を口にするだけで、一瞬で風景が想像できるのだ。
覚え易くて、ほのぼのしててユーモラスな俳句にすると良いだろう。




◎ 2009年2月25日 (水) シーシュポスの神話(3) 

前回、解決策の1つとして、人間社会に依存しないことだと書いたが、これは実は不可能なことなのである。
人間の定義(概念)が、人間社会に依存する生物だからである。
この解決策を実行するということは、「絶対に不可能なことだが、いつか人間社会に依存しないようになりたいと希望を持ち続けること」だけなのだ。
絶対に不可能と書いたが、具体的な方法が全く無いという意味なので、もし、正真正銘の人知に及ばない奇跡が人間とは無関係なところで発生したら、という希望は持てるのである。
もちろん、この可能性はほぼ皆無に近い。
それでも、「一念、岩をも通す」を期待するしかない。
逆にこれに期待できないなら、人間とはいえないだろう。
しかし、これでは、革命などの問題の解決にはならない。
どんな問題でも解決できる汎用的な解決策ではない。
万人の幸福(2009/3/7)にも書いたように、論理と現実との間には必ず差異があるため現実的には必ず極論となるのだ。
そして、人間社会に依存しないという論理は、現実との差異があまりにも大き過ぎるのである。
少なくとも僕には具体的なアプローチは思いつかない。
あるいは、シーシュポスの神話(5)で説明する『反抗』が人間社会に依存しないということの現実における具体的な解決策なのかもしれない。

F・ブラント「キェルケゴールの生涯と作品」55ページの『蜘蛛が一定点から必然的帰結へ身を投ずるとき、その時蜘蛛は絶えず自分の前に空虚な空間を見る、そしてそこでは蜘蛛はどんなにもがいてみても足場を見出すことは出来ない。私の場合もそうである〜』が同じ意味かもしれない。人間社会に依存しないという帰結はあっても、具体的なアプローチが無いことを指しているのかもしれないからである。だとすれば、カミュのキェルケゴールについての見解は間違っていることになる。フッサールもキェルケゴールも同意見になるからだ。だとすると、キェルケゴールの『キリスト教』は、対立の一方である理性の否定ではなく、カミュの『反抗』に相当する「現実への具体的なアプローチ」ということになるのだ。なぜならば、160ページ『放蕩者だけが彼の後について行く』やキェルケゴール自身のキリストのような人生から、キェルケゴールはキリストが実存主義者であるとみなしていたと僕には考えられるからである。おそらく、実存主義の先人から何かを学ぶつもりだったのではないかと思うのだ。違うらしい。149ページ〜152ページ『キリスト教的〜誰にも似ていないのである』におそらくキェルケゴールの不条理と宗教についての意見が書かれている。これによると、永遠(神)に苦悩(不条理)を取り除いてもらうことを望むのは、ご都合主義であり、自分の人生から逃げているのである。その人間をキェルケゴールは宗教性の詩人と呼ぶ。その苦悩を神として、へりくだらなければならないのか?しかし、自分にはそれができない。ということらしい。果たして、キェルケゴールはキリスト教への真の信仰を通して不条理から逃げることに成功したのか?僕には、不条理と宗教を結びつけるのは飛躍に思えるのだが。そうは言っても無知な僕が『キリスト教』は間違っているとは決して言えないのである。僕は神頼み派、カミュは反抗派、キェルケゴールは宗教派である。どれが正解か?少なくとも神頼みが一番不正解のようである。文学者・哲学者は口を揃えて神はいないと言い、物理学者・生物学者は口を揃えて神の存在を感じると言う。どちらが正解か?「シーシュポスの神話」38ページに不治の病が不条理に関係していると記述されている。これを元に苦悩=不条理とした。56ページ〜62ページがカミュのキェルケゴールについての解説である。


ちなみに、これは、全て不条理について書いている文章であって、生きるのがつらいとか、みんなが幸せになれるとかいった問題とは一切無関係なことである。
そんなことは、カミュは書いていないし、哲学で取り扱える問題でもない。

僕は、不条理を良く分かっていない。
分かっていないうちから不安に思うのは、間抜けなことだと思うのである。

蛇足になるが、カミュの世界とは人間社会のことである。
列挙された不条理が人間社会の中の事ばかりだからである。
現在、39ページまで読む。

正直なところ、僕はあまり哲学には興味が無いのである。
若い頃の名残として、少し興味があるだけなのである。
年齢を重ねると、死ぬことに抵抗が薄れてくるのだ。
今の気分としては、楽に死ねるなら今でもかまわないくらいだ。




◎ 2009年2月28日 (土) シーシュポスの神話(4) 

僕がカミュの小説で他に読んだことがあるのは、異邦人だけである。
革命か反抗かは、ほとんど読めていない。
異邦人の主題が不条理であるならば、僕にはカミュの不条理が理解できていないだろう。
この小説が全体として何を言いたいのか、見当がつかないからである。

現在、51ページまで読む。
以前読んだときとは違い、なんとなく理解できている気がする。
何回も読むことで、理解が進むというのは本当のことのようだ。
理解できる以上は、僕の解説は全くの的外れと言うことは無いだろう。

55ページまで読む。
カミュにとっての精神とは、概念のことであると書いたが、必ずしもそうとは限らないようである。
場合により、認識、理性的な思考などの代替として使われ、統一されていないようである。

60ページまで読む。
この辺りは、哲学的考察というよりは文学のようである。
どーやら、最初の36ページまでで、この本で書きたかった一切合財を書き切ってしまったらしい。




◎ 2009年2月28日 (土) 権力(1)

僕は、老若男女を問わず、あらゆる人間にとって最も魅力的なものが権力であるように見ている。
実際、どんな人間でも必ずいくつもの権力に属しているものである。
他人を見ていると、生きるとは、その場の最大権力がどこにあるかを把握することであるかのようである。
権力とは、他人を支配する力のことである。
具体的には、集団、暴力、財産(金銭、土地)、契約、策略(知識)、法律、教育などが挙げられるだろう。
もちろん、僕自身も365日24時間これらによる攻撃に晒されている。
もし、人間が分からなくなったら、このことを念頭に入れて、死ぬだの生きるだのを考えれば良いだろう。
しかし、それらの攻撃は何十年も全く功を奏していない。
世間は、永久に馬鹿を見続けることになるのだ。




◎ 2009年3月1日 (日) 感想 

僕には、カミュは若さから来る杓子定規的な見方をしているように感じられる。
一方向からしか見ていないように思えるのだ。

そう思うのは、最近、次のように考えているからである。
生物は、怪我をすると痛みを感じる。
これは、生物が簡単に死なないようにするためのメカニズムである。
なぜ、このようなメカニズムがあるのか?
神が生物をこの世界に閉じ込めようとしているからである。
人間社会について考えると、刑務所に閉じ込められるのは罪人だけで、その他の人間は出入り自由である。
神は、この世界で、生物に前世の贖罪をさせようとしているのではないか?
そうすると、世の中に苦しみがあるのは当然である。

これは、カミュの論理とは相容れない。
しかし、どちらが真で、どちらが偽ともいえないのである。

いや、贖罪させるには、前世の記憶が必要だ。
では、なぜ、閉じ込めるのか?
神の意思は、人知では計り知れない。

こんな論理こそ、インチキで滅茶苦茶なのだろうか?
なにぶん、哲学や論理学の勉強をしたことが無いので分からないのである。
悪しからず。




◎ 2009年3月2日 (月) 悪魔との契約 

世界中どこでも、人間なら誰しも、いつかは悪魔に魂を明け渡す。
契約は死ぬまで有効である。

僕は、世間に対して言いたい事など何も無いのだが、シーシュポスの神話を読んでいるときに、急に解説を書きたくなっただけのことなのである。別に誰も読まなくても構いやしない。
しかし、悪魔がなんちゃらと聞くと、なにやら気になるだろうから、これも解説しておこう。
一般的に悪魔とは、善と悪という意味での悪の象徴である。
いわゆる、地獄や魔界の鬼や悪魔である。
しかし、この意味の悪魔では、悪魔に魂を売り渡し望みをかなえてもらう契約をする必要が無いのである。
実は、悪魔には国語辞典に載っていないもう1つの意味があるのだ。
言葉には、全く異なる複数の意味をもつ場合が多い。
悪魔と言う語にも全く異なる意味があるのだ。
それは何か?
権力である。

実際に契約して充分に経験している世間に、権力とその契約について説明するのは笑止なことではあるが、少し説明する。
実のところ、それらについて僕が最も分かっていない人間なのである。

権力が持っていて、人間に与えられるものは、人間を支配したときに手に入れられるものである。
不安、恐怖、苦痛、絶望、軽蔑、安心、快楽、尊敬、権力などだ。
契約しない者には、不安や恐怖を、契約した者には、安心や快楽が与えられるのだ。
そうは言っても、世間を見渡せば分かるように、大して良いことなど無いのである。
場合によっては、不安や恐怖から逃げ出したくて仕方なく、ということも充分考えられる。
つまり、説明したところで、解決策など全く無いのだ。
ちなみに僕は、契約したくてもできない身の上である。




◎ 2009年3月3日 (火) ホームレス狩り 

子供がホームレスを襲う事件がたまにある。
これは、権力のルールに忠実に従った行動なのである。
これまでに説明したように、権力のルールとは社会のルールのことなので、誰にでも理解のできる行動なのだ。
ホームレスは、権力を持っていない意気地なし達なのである。
そのため、ホームレスに暴行しても世間は大目に見てくれるし、仮に殺してしまったとしても酌量してくれるはずなのだ。
そして、実際、世間も警察も司法も子供の思惑通りの反応を返すのである。
彼ら自身が権力のルールに従っている以上、大目にみないわけには行かないのである。
もちろん、それによる不都合が生じないからである。
何らかの不都合が発生する場合は、子供の期待通りの反応を返すかどうかは分からない。
人間は誰しも臆病なものなのだ。

権力について長々と説明しているが、もちろん、どうにもならないことなので、考えるだけ無意味なのである。
ただ、今回は、意味不明な社会現象を権力を原因とすることで解明できる場合があることを証明しようと思っただけなのである。

権力を無視するということは、ホームレスのような人生を送ることなんだろう。
無知である僕が結論を出すことは、僕にとっても誰にとっても好ましいことではないのだが、これは確かなような気はしないか?

権力だ悪魔だと前に書いたが、契約したからといって四六時中、牙をむいているわけではない。
少し違うかもしれないが、例えるならば核兵器みたいなものである。
アメリカ人が核兵器を持っているからといって常に凶悪であるというわけではない。
権力にしても核兵器にしても、日常生活で困ることは無いのだ。
(もちろん、事件などを見ると、人によっては命に関わっているようである。権力の一部になるのが嫌で死ぬのである。)
生きる気力が沸かない僕にとっても、哲学だの権力だのは、なにやら別次元の話に思えるのである。