推論 ヤマトタケルは雄略天皇

雄略天皇=倭王武=獲加多支鹵わかたける大王とされている。
獲加多支鹵大王の銘がある鉄剣が、埼玉県と熊本県の古墳から出土されている。
雄略天皇は、葛城に逃げ込んだ坂合黒彦皇子と眉輪王を殺害する。
同じく謀殺された市辺押磐皇子も葛城を権力基盤とする。
吉備氏の乱と星川皇子の乱を鎮圧した。
豊受大神を祀る伊勢神宮外宮を建造した。
皇居は、斯鬼宮(しきのみや)。
(*1)

ヤマトタケルは、景行天皇の子で、東国の蝦夷と九州の熊襲を征討した。
死後、白い千鳥になって、河内の志幾(しき)に留まった。
(*2)

崇神天皇の時、四方の征討に派遣された四道将軍が、北陸の大彦命、東海の武渟川別命たけぬなかわわけのみこと、西道(山陽)の吉備津彦命、丹波(山陰)の丹波道主命たにはのみちぬしのみことだ。
埼玉の鉄剣には、大彦の子孫が、ワカタケルの世に製作したと書かれてある。(*3)
大彦は孝元天皇の子で、タケヌナカワワケは大彦の子だ。
大彦・丹波道主・葛城氏の母方の先祖は、ニギハヤヒ(ホアカリ)で、ホアカリの拠点が丹波・丹後・但馬・越前の辺りだ。

ワカタケルの銘剣が出土した場所とヤマトタケルの遠征地が同じで、居住地も同じシキだから、雄略天皇=ヤマトタケルの可能性がある。

ヤマトタケルは白(白い千鳥)とされているが、実際は赤だ。
ギリシャ神話との共通点(*4)からも、丹波が白のホアカリの拠点である事からも、雄略天皇が百済を復活させた事(*1)からも、それが言える。
ただし、ホアカリの子のアメノカグヤマは、赤であり、丹波が完全な白というわけではない。
吉備は、白の新羅の影響は見られるが、盛んだった製鉄は山部(赤)である事から、どちらとも言い難い。
銘剣が出土した埼玉の稲荷山古墳から、九曜紋のある鈴杏葉も出土している。
この古墳は、5世紀後半のものだから、その頃には既に九曜紋は、存在していた事になる。
秦氏が、朝鮮半島から渡来したのが、神功皇后や応神天皇がいた4世紀頃だから、九曜紋が秦氏に由来しても不思議はない。
稲荷山古墳のような大型古墳は、秦氏の手による場合が多い。
鉄剣にわざわざワカタケルの名を入れたのは、ワカタケルが蝦夷征伐の時に秦氏も連れて来たからではないか。

葛城や息長氏の母方の先祖は、丹後の彦坐王だ。
そのため、雄略天皇は、四道将軍が遠征に向かった全ての勢力を1人で征服した事になる。

日本書記(720)では、ヤマトタケル(赤)は、近江の伊吹山の神と戦い、病気に倒れる。
伊吹山で、壬申の乱(672)があり、大海人皇子(白)が、天智天皇(赤)の子の大友皇子を倒した。
この山は、修験道の山で役行者(白)や白山信仰(白)と関係が深い。
そのため、この山で倒されたのは、ヤマトタケルではなく、その後継者の大友皇子だろう。

千葉県船橋市の意富比おおひ神社も、ヤマトタケル東征に由縁がある。
記紀では、彦や姫を比古、比女と書くことがある。
意富比神社の宮司家の千葉氏には、桓武天皇の子孫説と多氏おおうじの子孫説があり、両方と血縁があっても不思議はない。
意富比が大彦で、千葉氏の氏神だとしたら、稲荷山古墳も千葉氏の縁戚になるだろう。
すると、大彦が孝元天皇の子とする伝承は間違いになる。
その場合、大彦からワカタケルの家臣ヲワケまでの長い系譜は不自然ではなくなる。



*(ソース)
  1. 雄略天皇 - Wikipedia
  2. ヤマトタケル - Wikipedia
  3. 鉄剣・鉄刀銘文 - Wikipedia
  4. エジプト・ギリシャ・日本神話の蛇と牛、または赤と白